23話 辻川の話 辻川の変化
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僅か八十戸か百戸足らずの部落であった辻川でも、時代の影響をうけて、私らの目前で変って行くのがよく判った。いちばん大きな力となったのは郡役所である。郡書記が首席と次席と二人いて、百姓より収入が多く、豊な生活をしていた。郡長の倉本さんは、淡路の三原郡出身であった。酒ばかり飲んでいたが、詩がうまくて、私の父なども交際しており、息子たちにも他につき合う者がなかったので、私が招ばれてよくつき合った。姉さんが二人いて、私より年上であったが、綺麗な人だったことを覚えている。
辻川は、前から、東の方が文化的に少し高尚のように見られていたが、郡役所が西に出来たりした関係で、急激に東の文化が西へ進んで来た。お菓子屋が一軒出来て菓子を拵えるのを見せるので、子供たちが涎を垂らしながら眺めるとか、鍛冶屋ができるとか、いろいろ商売がふえてきた。そのうち一つの大きな勢力となったのが、私が『先祖の話』という本の中に書いた伊藤の一族である。あの一族が後から辻川に入って来て、農業をせず、みな商いをして、どんどん大きくなって行った。
村に帰っても、私には伯父も伯母もないので、すぐにお宮へ詣って、山の上から自分たちの昔住んでいた家の、だんだん変形して心から遠くはなれてゆくのを寂しく思い、行く所といえばやはり三木の家であった。ゆっくり村の路を歩いて、誰か声をかけてくれるかと期待しても、向うが遠慮して声をかけてくれない。私にとっては、山水と友だちになるとか、村人全体と友だちになるような気持で故郷に帰るのであったが、湖処子の『帰省』の気持とだんだんちがったものになってきた。
故郷という言葉に二通りの意味がある。一つはフルサトという、昔栄えていまは衰えている都ということ。『古今和歌集』の「故里となりにし奈良の都にも……」などという、衰えた都を意味する文学語としてのフルサト。もう一つは生れ故郷、子供のころ育った場所である。私にとっては、今の田原村のように、良かれ悪しかれだんだん栄えて行く所でも、生れ故郷であってフルサトとはいわないのである。
辻川の私の家は、今は他に移されてすっかり変ってしまったが、間口五間半の小さな家であった。この間口五間半というのが昔は普通だったらしく、播州だけに限らず、私が調べた埼玉県川越在の旧い部落でも、やはり同じく五間半であった。五間半では馬一匹飼うのには少し狭いが、人夫を一人出すのには、それでよかったらしい。私の家など人夫はいなかったが、もとは人夫一人という負担で町割りをし、その代りに宅地税みたいなものは取らないことになっていた。五間半の間口がずっと軒並に続いて、今日は五人出せといわれると、順番にそれを出した。例外として三軒分とか四軒分とか広く間口をとったのが、大名主の三木家であったと思う。私の家は庭も表に十間か十二、三間しかなく、もとあった裏の藪の部分が、どういうわけか隣の鈴木という金持の醤油屋兼酒屋に分譲せられてしまったので、隣家の建て増しで塞がれたような形になってしまっていた。それから後は、私どもが裏のお宮への道に通じる上坂に出るのには、表通りから大回りするのでなければ、その鈴木の邸内を通らせてもらうよりほかなくなったわけである。
鈴木の家は後に拡張して引越したが、今も辻川に住んでいるとか。この鈴木という苗字についてはいろいろ調べたことがある。