故郷七十年

24話 辻川の話 鈴木一族

1,160字 約2分 2018年7月31日 公開

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 全国を通じて、鈴木の姓は非常に多い。もとはみな熊野の出だが、どういうものか、鈴木姓のものの行く所はみな栄えている。紋所はみな稲の丸である。

 熊野の出とはいっても、和歌山の方に近い藤代という、熊野王子の一つであった所からおこったといわれ、かの『義経記』以来鈴木一族が世に現われてきたのである。熊野詣りの道を、泉州堺を起点として九十九王子にわけて祀っているが、その何番目かに藤代がある。今の海南市から少し先へ行くと、藤代という坂があり、それを越えると藤代になる。

 義経に従って平泉へ行き、衣川で討死した鈴木三郎も、その弟の亀井六郎も、みなこの藤代の出身ということになっている。熊野路では、鈴木、榎本、宇井の三軒の名家があり、この三軒の者でなければ人間でないとまでいわれたほどである。宇井は早く衰え、榎本は後に神と別れて、鈴木の一族のみが結合力が強く、各地で著しい繁栄をしたのである。

 私は一時鈴木を調べるのに夢中になったことがあるが、都会のあまりはげしい所にはいない。東北にははなやかに鈴木一族を語り伝えている所があるという、妙な家柄であるということがわかった。

 菅江真澄(本名白井英二)なども、東北を歩いて旅行するたびに、一の関の少し北で、有名な中尊寺のお祭りなどにも出て来る大名主の鈴木常雄という旧家に、終始厄介になっていた。この鈴木という家は今もあり、私も出かけて行ってみたが、その家の古い日記に、「白井英二来て泊る」などと、ちゃんと書いてあった。家から下を流れる北上川の岸に降りてみると、一の関の方へ出る街道が見えるというような場所であった。応対してくれた主人はもう老体で、六尺近い人であった。そのお父さんも六尺ぐらいあったそうだし、子供もやはり六尺あり、娘さんが一人、この人もやはり背の高い人であった。「珍しい家もあるものだ」というと、「旧い家だから、縁組に大変気をつけてもらったから」などといっていた。私が訪れてからもう二十年以上も経つが、その後はどうなったか。

 あの辺一帯には鈴木姓が多い。『義経記』の後半分に鈴木一族の喜ぶことばかり多いのも、あの付近では、座頭が少しでも鈴木を悪くいったら聞く人がなくなるほど、鈴木一族の社会上の地位が高いため、彼等のほまれとなる部分だけが強く語られてきたのであった。

 鈴木という家のない地方を探すのには骨が折れるほど、全国に広く分布しているが、たいてい、いわゆる第二期植民地と呼ばれる所へ入植している。一通り目につく定住がすんだ後、もう一ぺんというような所を探し求めて入って来るのが、鈴木一族の特徴であった。

 辻川などでも、鈴木姓はおそく入って来たものらしい。松岡の先祖がここに来て、すでにある程度開拓をした後に、鈴木が入ったのかと思うが、家数はあまりふえなかったらしい。

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