故郷七十年

31話 辻川の話 父の伯州ゆき

1,371字 約3分 2018年7月31日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 ある朝早く、突然私の家の門が激しくたたかれた。出てみると、「ご主人に伯州へ来てはいただけまいか」という依頼で、わざわざ二、三人の使いが、伯州赤碕(あかさき)の町から訪れたというのである。つまりその土地で新しい漢学の塾を開こうとしたが、適当な先生がいない。いつも辻川地方を訪れる金扱き屋の話では、この家の主人はいつも本ばかり読んでいるところから、いい学者であろうというのである。

 ちょうど父も、家計が貧しい時ではあり、その要請を容れて、赤碕へ赴くことにした。家を出るとき、父が歌一首をよんだのを、当時七、八歳だった私は憶えているのだが、このような歌であった。

いにしへは松をたのみし因幡山見つつ旅ゆく人もありけり

 恐らく「まつとし聞かばいま帰り来む」の古歌が父の脳裡にはあったのであろう。

 家族を離れて他郷の漢学塾の先生になった父は、世間に疎い人でもあって、ひどいホームシックにかかった。一年あまりで帰村することになったが、その時に送る人もなく、お伴一人だけつれて、岡山県津山の方を通って帰って来た。よほどひどい神経衰弱だったらしく、知り合いの後藤という津山の医者が、好意から父の所持金を預かって、後で送り届けるような方法がとられたそうである。赤碕から送ってきたお供はそこから返し、津山から別の人がついて来た。私の家の歴史で、父の赤碕行きは一つの事件であったのだ。帰宅した父から、いろいろな赤碕の町の話、宿の話などをきかされたので、私にとっては印象の深い土地の名として記憶に残っていた。

 そのことがあってから四十年ほど後、私は米子へ旅行したついでに、ありし日の父を偲ぼうと赤碕を訪れた。父の教えた塾を作った家は佐伯といい、代は変っていたが、やはりそのままに存続していた。父が泊っていたという宿は昔のままに残っており、村の老人で父に教わったという人もあって、懐しい父の面影を、その人の話から偲んだことである。

 街道の思い出で、出雲から但馬路を経てこの村を通過した国造(こくぞう)家(出雲大社の千家)を迎えたことがあった。生神様のお通りだというので、村民一同よそゆきの衣装を着て道傍に並んだ。若い国造様が五、六名のお伴を従えて、烏帽子に青い直垂姿で馬で過ぎていった時、子供心に、その人の着物にふれでもすれば霊験が伝わってくるかのような敬虔な気になったようである。その国造様の姿がいまもくっきりと瞼に浮んでくる。その前後、当時の新興宗教である黒住教の二、三代目に当る教祖を迎えたこともあった。黒住教はそのころ、西光寺野の入口に教会を建てて布教しておったが、体の悪い村人が訪れると、太陽の方を向いて深く息をすい込み、病人の患部に吹きつけるという動作をくり返した。そのとき人間の息とは臭いものであると感じ、その匂いと黒住教というものが伴って、私の心にやきつけられた。

 西光寺野がいまのように水利の便が出来る以前は、県当局が意識してこの道を盛んにする方法をとったようである。車屋がいつも太尾(ふとお)の立場(たてば)という話をしていたので、姫路と辻川の中間部にあるというその土地は繁華な土地であろうと、私たちは想像していた。西光寺野開発のために設けたであろうその立場を一度訪れてみたが、想像に反して田畑と林の中に一軒の茶店があるだけの寂しい所で、子供心に描いていた空想が一度で毀されたことを思い出す。

目次に戻る

目次