30話 辻川の話 街道すじの昔
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辻川は、海岸の的形あたりを朝立ちすれば、十時ごろまでには鮮魚が届く所であるから、辻川の街道の思い出には必ず魚売りたちが想起される。魚じまの季節には鯛売り、秋の季節には若狭ガレイ売りも村を訪れた。頭に籠をのせ、その中に十枚宛のカレイを扇型に並べた若狭ガレイ売りの、「カレイ要りまへんかあ」とふれ歩いた声が、いまも耳の底によみがえってくる。子供心に、若狭という語感から、出稼ぎの女性がいかにも優しい女性であるかのように思われた。
八字髭の紳士をのせた二人引きの人力車が北の方へ走ってゆくと、北の方からは山茶売りも下ってきた。背の高いムシロで囲った容れ物を担って、その中にあの山間部で作られた粗末な茶がぎっしり入っていた。
牛の背に幾把かの薪を乗せて、薪売りも降って来た。私はそれを真似て、村の犬のクロを裏山に伴い、小型の薪を作ってその背にくくりつけ、得意になって村へと降って来た。それを可愛いとみたのであるか、近所の嫗が買いとってくれたことがあった。
猪や鹿売りも来て街道をふれ歩いた。天秤の片方に一匹の鹿を、片方には猪の片股が下げられていた。そして、途々買手の求めに応じて肉の一片を切り取り、計量器で計って売りさばいて行くのであった。
そういえば、あのころはまだ鹿や猪が村近くの山には棲んでいて、小学校の休時間の話題は、鹿を見たとか猪がとれたとかの話が中心だったように思う。亀坪などという山の方から通ってくる児童は、誇らしげにそれを語り、われわれ村の者は、まるで洋行帰りの土産話でもきくかのように目を輝かせて聞き入ったものである。冬の日だまりの中で、それらの話をする有力者が壁にもたれ、村童たちがそれと向い合せになって、いつも語っていたのはそのことだった。
物売りが、私たちに一つの世間を教えてくれた村の風物詩であったが、中でも忘れられないのは伯州の金扱き売りである。稲の穂を、昔は親指と人さし指とにはめこんだ二本の竹切れで扱き落していた。それが竹を櫛の歯のようにならべた器具に変り、一度にざっと穂を扱くことが普通になるのだが、やがて竹は金物に変ったのである。そのことは私はいつか論文にまとめたことがあるが、農作業の進歩は江戸中期から幕末までの短い間に、こんな風に変遷した。
いわゆる新井白石流の歴史であれば、政権の変遷だけで時代を区切ることが出来るが、こうした人間の歴史は、必ずしも時代の変遷を輪切りのように区切るわけにはゆかないのである。じつは初期農法の残っている部落が、最新農法の隣村に存在したりしているのである。
村に来る伯州の金扱き売りも、競争が激しくなってくると、村の中に馴染を作ろうとする。その家で弁当を使ったり、休憩して世間話に耽ったりするのであるが、私の家の前の家でも、一人の金扱き屋が馴染をつけ、よく私の家の庭に咲いている桜や桃の花などを眺めながら、私の家について色々様子をたずねたりしたらしい。
この金扱き屋が、私の家の歴史に一つの事件をひき起した。