36話 辻川の話 母の長所
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辻川の家の向いに「えびす屋」という宿屋があった。主人は在井忠次、女房をおこうといった。たぶん在井堂からとった姓だったのかもしれない。何でも家がもとは番太をしていたとかいうので、村では番忠と呼んでいた。女中が四、五人もいたが、泊り客のないときには、私どもをサラ湯に迎えてくれたりした。
そのおこうと夫が喧嘩をすると、いつも家を飛び出して私の母のところへ泣く泣く訴えに来た。月に一ぺんぐらいはあったと思うが、子供の私の見ている前で、泣いたりわめいたりして母に訴えた。母は一応それを聞いてやりながら、普段からとっときのなだめ言葉を並べて、相手の気持を鎮めてやるように努める。
そのうちにいつの間にか、おこうは泣き止んで夫への不満をひっこめ、ニコニコして帰って行くのであった。
番忠の女房だけでなく、もう少し高級な村のインテリ婦人までが、何人も母のところへ泣きながら訴えて来たのを、子供心によく覚えている。なかには私の祖母の寺子屋で、唐詩選を書いたカルタを取ったりした婦人までが、なまじっか亭主より少し余計に漢字を知っていたばかりに、亭主に屈しないで夫婦喧嘩をする。そして私の母のところへ訴えて来たのを、母は巧みに裁いて、笑顔で帰すようにしていた。その婦人たちの中には私を可愛がってくれた人もいたので、私はことにはっきりその人のことを憶えている。
長屋の夫婦喧嘩というものが一つの年中行事になって、三馬の小説などには絵入りのまであった。女房がすりこ木でぶん殴ろうとするのを、亭主が反り返って受け止めようとしている絵などもあった。芝居などでは、どこか一種のユーモア気味に取扱った夫婦喧嘩が多かった。それが今ではすっかりなくなって、夫婦喧嘩はみな陰性のものになり、二人とも三日も五日もものもいわず、亭主は夜遅く帰って来るような形になって残っている。
皆の見ている前で、女房が弱者として世論に訴え、その支援を得るというような形は、今日ではほとんど見られないようになってしまった。私は今も憶えているが、明治の末ごろ、友だちと九州へ行った時、門司で有名な和布刈神社か早鞆神社か、とにかく式内社に行った。その途中、一人の女が長屋からとび出して来て、夫婦喧嘩の正邪を長屋の人々に訴えている。もう世間では夫婦喧嘩が目立たなくなったのにと思いながらよく見ると、それは半島人であった。私が最後に見た殺伐な夫婦喧嘩は、幸か不幸か朝鮮人のそれだったのである。
夫婦喧嘩を仲裁する時の、私の母のもののいい方、豊富な語彙、態度はまったく政治的であった。それが下総に移ってからは、近所隣とも交際が浅く、言葉もよく通じないので、したくともできない。その上、母は晩年には夜癪を起したりして、少しずつ弱っていった。東京に出てからも、昔私の腰巾着時代に、あれほど多くのいきり立っている女を、ほろりとさせる技術をもっていた人が、もうそれを使えなくなって、如何にも気の毒だと思うようになった。それが今でも私の母に対する同情になって残っている。
母は大学とか中庸とかいう四書でも、みなの読む三部経の類でも、眼では覚えずに何べんも聞いて耳から覚え、頭で覚えていた。そしてこちらの部屋で私が素読しているのを聞いて、間違いを直してくれるのが常であった。私としてはこんな機会にしか、母の長所を伝えることができないので、いろいろと話したわけである。