故郷七十年

38話 辻川の話 母の兄妹

3,269字 約7分 2018年7月31日 公開

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 私の母は天保十一年の生れで、北条の尾芝という家から嫁入ってきた。古い色々の話題のある家だが、もう他に記憶する人も無く、私も小さいころ耳にした話だから、まちがいだらけだろうと思う。何か古い書きものでも伝わってはいないだろうか。少なくとも自分の今おぼえているところでは、この町には尾芝という家が五、六軒あって、それが二派に分れ、一方は商家でなかなか繁昌し、こちらはたった一戸で、前には医者であったが、私の祖父の代になって零落してしまい、かなり悲しい状態で消滅に帰した。その血筋は私たち兄弟の他にたった一人だけ従妹があって、それも最近に世を去った。

 祖父は壮年のころは相応にやかましい人だったらしいが、私の覚えたころにはもう老耄していた。北条から二里に近い辻川への路を、おみやげの八橋の煎餅を懐に十枚ばかり紙に包んで入れて、その一枚をしゃぶりながら孫にあいに来る。いつでも九枚半だなどと笑ったことがあるから、もう歯がなかったのだろう。或時はクニヲがおらんなどといって、涙声で門のあたりをうろついておられたこともある。あのきついおじいさまがこうまでなりはったかと、母が歎いていたことを今でも思い出す。

 母の同胞は男女各二人、長男の徳太郎は働き者で、飾磨の港に出て商いに携わっていたが、悪質の花柳病にかかって、そのまま四国巡礼に出てしまい、永久に還ってこなかった。これは世間の思わくを気にする家々の、あのころ普通の処理法だったらしい。或時母が夢にこの兄を見て、悲しみの余りについ私だけに話をしたが、本当は隠しとおすつもりだったらしい。その次の兄の俊次郎とかいったのは好青年であったらしく、家に留まって親によく仕えていたが、やはり永くは生きておれなかった。祖母が引続いて世を去ったのもその介抱の疲れらしく、取集めて大きな歎きだった。

 この際に一つの力であったろうと思うのは、祖父にはたった一人の妹があって、つい近い町の商家に縁づいていた。それが兄を慰め二人の娘の相談相手になって、小さな妹の方を父の世話に残し、姉を高須という姫路藩の家老の家へ奉公に出した。書いたものとては何一つ残っていないが、母の雑談のようなものを総合すると、それは安政四年、即ち西暦一八五七年のことで、そこに二年足らずいて一旦親元に帰り、それから縁に付いて辻川の松岡氏の嫁になったのが同六年のことだった。一生貧乏だったから良縁とまではいえぬか知らぬが、ともかくも二十年の間に男の子ばかり八人生んで、末の子が十三になるまで達者でいた。少なくとも四人の兄妹の中では最も仕合せがよかった。

 始めから愚痴なことばかりをいうつもりだったから、これも付け加えた方がさっぱりしていてよい。関東へ出て来てから始めて知ったことは、自分の親たちと同じ年輩の老人にも、稀には種痘をした人があるということであった。私は付近のヤブ医者にひどい目にあわされているので、種痘は自分などの頃が始めのように思っていた。現に五人の兄のうち一人が疱瘡で死に、一人はかからぬ前に亡くなって、他の三人はすべてやられている。その中でも井上の兄は殊に痕跡が著しく、気をつけていると一ぺんは人がその事を問題にする。それを自分では他に点の打ちどころがないからだなどといっていた。両親の中では父は軽かったということで、左右の眼のまわりに気をつけてみるといくつかある。疱瘡の見舞に貰ったという五色墨で自分で絵をかいたという唐詩選の画集が、私たちの頃までは残っていたので、改めて父の顔を見直したことがある。これと比べると母の方は少し気の毒なほど顕著であり、尾芝の叔母さんの方はそれがもう少しひどく、子供でも気の毒で口にしないほどだった。もう近頃の人は想像できまいが、この人のような心のやさしく遠慮がちな女性は、以前は殊に寂しい生活をしたかと思う。それを詳しく話そうかどうか、さすがの遠慮なしも今はまだ考え込んでいるところである。

「ええじゃないか」の話

 この連載が始まってから五日目の夕刻のことである。一通の訃報が神戸から届いた。私にとって故郷に残っているたった一人の骨肉で、私の従妹にあたる藤原キク女の死亡通知であった。彼女の霊を葬いかつ生前を偲びつつ、ここで少し私の母方の家の変遷について話しておこう。

 私がはじめて上京した明治二十年の九月、次兄の下宿先で毎朝目を覚ますたびに、「ゴトウマツゾウ、ゴトウマツゾウ」と呼びながら歩く男の声が聞えて、何故東京では私の親戚の、それも故人を捜し歩くのであろうかといぶかったものであるが、後藤松蔵という北条の人は、私の母の妹(「おもと」といった)の夫であった。何でも一時相場か何かで産を成し、五十歳ほどで、私の叔母を娶り、祖父も呼び寄せて雑貨商を営んでいたが、祖父も亡くなった後で、ふとしたことから事業に失敗し、単身神戸へ出てつぶさに辛酸を舐めたらしかった。残された叔母は円顔で、じつに温和な女性であったが、私達兄弟よりそれぞれ一つずつ年下の女の子が四人あり、いつも母の許に来ては苦衷を訴えていたことを私も憶えている。やがて松蔵氏も再起して家族を神戸に呼び寄せたのであるが、間もなくコレラで世を去り、ついで叔母と三人の女も亡くなり、長女のおキクだけが北条に帰って来た。この話を父から聞いて、人生の悲哀が私の子供心に沁みたものである。その時の印象から「納豆、納豆」の呼び声が「後藤松蔵」に聞えたというわけであった。私がおキクに会ったのは、彼女が北条に帰って来て、やがて小野市の近在に養女に貰われてゆくまでの間しばらく同居した一時だけで、その後婿をとり、一度は子を、二度目は孫をつれて、下総の布佐や、東京の次兄宅にも訪ねて来たことはあったらしいが、私はとうとう一度も会う機会がなかった。

 たまたま、一人の骨肉の訃報に接して、私は心を動かしつつ、往時の思い出に触れたわけである。

 北条の肉親の回想に触れたついでに、母が語ってくれた祖父の思い出話を語っておこう。慶応の末年のことであるが、北条に「お札(ふだ)が降った」ことがある。これは群集心理を研究する人々が好主題としているものであるが、お札が降ると、町じゅうが「ええじゃないか踊」を踊るのである。これは近世になって間歇的に起った「お蔭詣り」という集団伊勢参宮の現象が後年になって遊戯化したもので、一説には、政治的意図があって高山から凧にのせたお札を降らせて人民を興奮させるのだというのもあるが、じつは興奮しそうな地域や家に「降る」ので、極端な例では、家の床の間にお札が置かれていたという話もある。すると何処からともなく多くの人々が集まって来て祝詞をのべ、家の人は酒樽の鏡を抜いて祝わざるをえなくなるという仕組みなのである。降るのはお札ばかりでなく、姫路でも小豆が降ったまではよかったが、裸の娘が降ったという馬鹿げた例もある(つまり捏造である)。この「ええじゃないか」の研究は今後にまつべきものが多い問題である。

 さて、母が北条に祖父を訪ねたのは、ちょうど「ええじゃないか」が北条じゅうに踊られている夜だったが、祖父はせっかく訪れた娘に、「今夜は用件で行く所がある」と、手拭をもってそわそわと姿を消したというのである。母は「あれほどしっかりしたおじいさんが“ええじゃないか”を踊りに行った」と、淋しい笑いを洩らしていたものである。若いころは人に敬遠されるほどのしっかり者だった祖父であるだけに、理性的でそうした群集心理に惑わなかった母は、祖父の態度が可笑しくもあり淋しくもあったのであろう。

 なお大正四年の御大典のさい、私が京都に大礼使事務官として赴いた折に、やや小型の「ええじゃないか」踊りが市内に始まったことがあった。当時の警察部長で淡路出身の永田青嵐も、その警備のため市内にお忍び姿で出たのだが、私が彼の肩をいからせた姿を認めたと同時に、踊っている群集も彼を認め、「部長さんもええじゃないか」と、歌の文句が変ったので、思わず苦笑したという思い出もある。

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