故郷七十年

47話 辻川の話 嫁入道具の行列

1,294字 約3分 2018年7月31日 公開

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 辻川の道の上の話をもう一つしてみたい。子供のころでも非常にまれなことであったが、道がいっぱいになるくらい、通行人と見物人があふれたことがある。伊勢音頭をうたいながら、時にはそろいの衣装やハッピをきた、嫁入荷物を送る行列の通る時であった。何村のどこの嫁入りだそうな、どこの婿取りだそうなといったふうな話が次々に伝わって、その時だけは村中の人が見に出る。

 どこの家でもそうする習慣であったら、あれまで派手にはやらなかったであろうが、とくに資産を誇ったり、見栄坊だったりする理由からか、総出で見られることを意識して、歌も良い声の者を先に立てたり、少し酒気を帯びたりして行列が行きすぎた。

 もともと農村では荷物を先に送ったりする婚礼はじつはなくて、あったとすれば大名とか士族のしていたものであった。播州などでもこれが行われるようになったのは、一つの明治時代の現象ではなかったかと思っている。

 婚姻の変遷を調べてみると、荷物を後で送るのは、嫁が落着いたことが明白になってから、目立たぬように送るのが普通であったらしい。奈良から伊賀あたり、琵琶湖の西岸、高島郡付近でも、嫁の荷物はいつとはなく持って来るという話であった。五年おればこれだけ、十年おればこれだけ、婚家の姑さんが亡くなったからずっと持って来たとか、大きな婚姻でも必ずしも荷物を持って来ることを条件にしないという所が中央部にもある。それから考えると、私の見たような辻川の嫁入りは、明治の文化を区切る一つの目じるしになるのではないかと思う。

 何村の某が何村の某の所へ娘を嫁がせるということを、やはり道路を利用して報告するようなもので、ちょうど今日の披露宴の源をなすような制度であろう。もともとは村の縁組というものは、風呂敷だけでいつの間にか知らぬ間に行くというのが普通のようで、あらかじめ景気づけて荷物を送るとか、けばけばしい行列で行くのは、村の人としては新しいことであったらしい。

 問題は「嫁盗み」という、日本では非常に面白い慣習に、この嫁入支度が関係していることであった。それについて、私がいつも思い出すのは折口君のことである。私がかつて出していた『郷土研究』という雑誌の第一巻に、しばらくは無名氏という投稿で、やがて折口信夫という名前で寄稿する人があった。後にはそれが折口信夫君であることがわかったが、信夫という名前も、折口という哲学の哲という字を二つにしたような苗字も、ペンネームであろうと、ほおっておいたところ、二、三カ月もしてから、中山太郎という人が、「折口というのは国学院を出た実在の人ですよ。しかし大へん変った人です」という話であった。何とかして会ってみたいと思っていたが、そのころ私は貴族院書記官長の仕事をしていたので、折口君の方では億劫がってなかなか寄りついてくれなかった。後にはごく親しくなってしまったが、その折口君が『郷土研究』に、「三郷巷談」といって大阪の南の方、木津とか難波の報告をよせてくれた。これにはいろいろと、ハッと思うようなことがらが多かったが、とくに「ボオタ」という嫁盗みの風習は興味深いものであった。

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