縷紅新草

1話 縷紅新草(1)

7,772字 約16分 2003年9月13日 公開

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       一

あれあれ見たか、

  あれ見たか。

二つ蜻蛉(とんぼ)が草の葉に、

かやつり草に宿をかり、

人目しのぶと思えども、

羽はうすものかくされぬ、

すきや明石(あかし)()ぢりめん、

肌のしろさも浅ましや、

白い絹地の赤蜻蛉。

雪にもみじとあざむけど、

世間稲妻、目が光る。

  あれあれ見たか、

    あれ見たか。

「おじさん――その提灯(ちょうちん)……」

「ああ、提灯……」

 唯今(ただいま)、午後二時半ごろ。

「私が持ちましょう、(いしだん)打撞(ぶつか)りますわ。」

 一肩上に立った、その肩も(すそ)も、(しなやか)な三十ばかりの女房が、白い手を差向けた。

 お米といって、これはそのおじさん、辻町糸七――の従姉(いとこ)で、一昨年(おととし)世を去ったお京の娘で、土地に老鋪(しにせ)塗師屋(ぬしや)なにがしの妻女である。

 ()でつけの水々しく利いた、おとなしい、(しずか)円髷(まるまげ)で、頸脚(えりあし)がすっきりしている。雪国の冬だけれども、天気は()し、小春日和だから、コオトも着ないで、着衣(きもの)のお(めし)で包むも惜しい、色の清く白いのが、片手に、お京――その母の墓へ手向ける、小菊の黄菊と白菊と、あれは(わび)しくて、こちこちと寂しいが、土地がら、今時はお(さだま)りの俗に(とな)うる坊さん花、(あざみ)(やわらか)いような樺紫(かばむらさき)小鶏頭(こげいとう)を、一束にして添えたのと、ちょっと色紙の二本たばねの線香、一銭蝋燭(いちもんろうそく)を添えて持った、片手を伸べて、「その提灯を」といったのである。

 山門を仰いで見る、処々、()え崩れて、草も尾花もむら生えの高い磴を登りかかった、お米の実家の檀那寺(だんなでら)――仙晶寺というのである。が、燈籠寺(とうろうでら)といった方がこの大城下によく通る。

 (さん)ぬる……いやいや、いつの年も、盂蘭盆(うらぼん)に墓地へ燈籠を供えて、心ばかり小さな(あかり)(とも)すのは、このあたりすべてかわりなく、親類一門、それぞれ知己(ちかづき)の新仏へ志のやりとりをするから、十三日、迎火を()()からは、寺々の卵塔は申すまでもない、野に山に、標石(しめいし)奥津城(おくつき)のある処、昔を今に思い出したような無縁墓、古塚までも、かすかなしめっぽい(こけ)の花が、ちらちらと切燈籠(きりこ)に咲いて、(つち)の下の、仄白(ほのじろ)い寂しい亡霊(もうれい)の道が、草がくれ()の葉がくれに、暗夜(やみ)には(しる)く、月には(かす)けく、冥々(めいめい)として(あら)われる。中でも裏山の峰に近い、この寺の墓場の丘の頂に、一樹、(えのき)の大木が(そび)えて、その(こずえ)に掛ける高燈籠が、市街の広場、辻、小路。池、沼のほとり、大川(べり)。一里西に遠い荒海の上からも、望めば、仰げば、(たたず)めば、みな空に、面影に立って見えるので、名に呼んで知られている。

 この燈籠寺に対して、辻町糸七の外套(がいとう)の袖から半間(はんま)(つら)を出した昼間の提灯は、松風に(さっ)と誘われて、いま二葉三葉散りかかる、折からの緋葉(もみじ)(とも)れず、ぽかぽかと暖い磴の小草(こぐさ)の日だまりに、あだ白けて、のびれば欠伸(あくび)、縮むと、(くしゃみ)をしそうで可笑(おか)しい。

 辻町は、欠伸と嚔を()えたような掛声で、

「ああ、提灯。いや、どっこい。」

 と一段踏む。

「いや、どっこい。」

 お米が莞爾(にっこり)

「ほほほ、そんな掛声が出るようでは、おじさん。」

「何、くたびれやしない。くたびれたといったって、こんな、提灯の一つぐらい。……もっとも持重りがしたり、邪魔になるようなら、ちょっと、ここいらの(すすき)の穂へ引掛(ひっか)けて置いても差支えはないんだがね。」

「それはね、誰も居ない、人通りの少い処だし、お寺ですもの。そこに置いといたって、人がどうもしはしませんけれど。……持ちましょうというのに持たさないで、おじさん、自分の手で…」

「自分の手で。」

「あんな、知らない顔をして、自分の手からお手向けなさりたいのでしょう。ここへ置いて行っては、お志が通らないではありませんか、悪いわ。」

「お叱言(こごと)で恐入るがね、自分から手向けるって、一体誰だい。」

「それは誰方(どなた)だか、ほほほ。」

 また莞爾(にっこり)

「せいせい、そんな息をして……ここがいい、ちょっとお休みなさいよ、さあ。」

 ちょうど段々中継(なかつぎ)の一土間、向桟敷(むこうさじき)と云った処、さかりに緋葉した樹の根に寄った方で、うつむき(なり)に片袖をさしむけたのは、(すが)れ、手を取ろう身構えで、腰を靡娜(なよやか)に振向いた。踏掛けて塗下駄に、模様の雪輪が冷くかかって、淡紅(とき)長襦袢(ながじゅばん)がはらりとこぼれる。

 (なまめか)しさ、というといえども、お米はおじさんの介添のみ、心にも留めなそうだが、人妻なれば(はばか)られる。そこで、(くだん)の昼提灯を持直すと、柄の方を向うへ出した。黒塗の柄を引取ったお米の手は、なお白くて優しい。

 憚られもしようもの。磴たるや、山賊の構えた(いわお)(とりで)火見(ひのみ)階子(はしご)と云ってもいい、縦横町条(たてよこまちすじ)()ごとの屋根、辻の柳、遠近(おちこち)の森に隠顕しても、十町三方、城下を往来の人々が目を(そばだつ)れば皆見える、見たその容子(ようす)は、中空の手摺(てすり)にかけた色小袖に外套の熊蝉が留ったにそのままだろう。

 蝉はひとりでジジと笑って、緋葉(もみじ)の影へ飜然(ひらり)と飛移った。

 いや、飜然となんぞ、そんな器用に()くものか。

「ありがとう……提灯の柄のお力添に、片手を縋って、一方に洋杖(ステッキ)だ。こいつがまた素人が拾った(かい)のようで、うまく調子が取れないで、だらしなく袖へ掻込(かいこ)んだ処は(なさけ)ない、まるで両杖(りょうづえ)の形だな。」

「いやですよ。」

「意気地はない、が、止むを得ない。お言葉に従って一休みして行こうか。ちょうどお(あつら)え、苔滑(こけなめらか)……というと冷いが、日当りで暖い所がある。さてと、ご苦労を掛けた提灯を、これへ置くか。樹下石上というと豪勢だが、こうした処は、地蔵盆に(むしろ)を敷いて(かね)をカンカンと(たた)く、はっち坊主そのままだね。」

「そんなに、せっかちに腰を掛けてさ、泥がつきますよ。」

「構わない。()れ麻だよ。たかが墨染にて候だよ。」

「墨染でも、喜撰でも、所作舞台ではありません、よごれますわ。」

「どうも、これは。きれいなその手巾(ハンケチ)で。」

「散っているもみじの方が、きれいです、払っては澄まないような、こんな手巾。」

「何色というんだい。お志で、石へ月影まで()して来た。ああ、いい景色だ。いつもここは、といううちにも、今日はまた格別です。あいかわらず、海も見える、城も見える。」

 といった。

 就中(なかんずく)公孫樹(いちょう)は黄なり、紅樹、青林、見渡す森は、みな錦葉(もみじ)を含み、散残った柳の緑を、うすく(しゃ)綾取(あやど)った中に、層々たる城の天守が、遠山の雪の(いただき)()いて(そび)える。そこから(ななめ)に濃い(あい)の一線を()いて、青い空と一刷(ひとはけ)に同じ色を連ねたのは、いう迄もなく田野と市街と城下を巻いた海である。荒海ながら、日和の穏かさに、(なぎさ)の浪は白菊の花を敷流す……この友禅をうちかけて、雪国の町は薄霧を(とお)して青白い。その袖と思う一端に、周囲三里ときく湖は、昼の月の、半円なるかと(なが)められる。

「お米坊。」

 おじさんは、目を移して、

「景色もいいが、容子(ようす)がいいな。――提灯屋の親仁(おやじ)見惚(みと)れたのを知ってるかい。

(その提灯を一つ、いくらです。)といったら、

(どうぞ早や、お持ちなされまして……お代はおついでの時、)……はどうだい。そのかわり、遠国他郷のおじさんに、売りものを新聞づつみ、紙づつみにしようともしないんだぜ。(あに)それ見惚れたりと言わざるを得んやだ、親仁。」

「おっしゃい。」

 と銚子(ちょうし)のかわりをたしなめるような口振で、

「旅の人だか何だか、草鞋(わらじ)穿()かないで、今時そんな、見たばかりで分りますか。それだし、この土地では、まだ半季勘定がございます。……でなくってもさ、当寺(おてら)へお参りをする時、ゆきかえり通るんですもの。あの提灯屋さん、母に手を()かれた時分から馴染(なじみ)です。……いやね、そんな(から)お世辞をいって、沢山。……おじさんお参りをするのに(きま)りが悪いもんだから、おだてごかしに、はぐらかして。」

「待った、待った。――お京さん――お米坊、お前さんのお(っか)さんの名だ。」

「はじめまして伺います、ほほほ。」

「ご挨拶、恐入った。が、何々院――信女でなく、ごめんを被ろう。その、お母さんの墓へお参りをするのに、何だって、私がきまりが悪いんだろう。第一そのために来たんじゃないか。」

「……それはご遠慮は申しませんの。母の(とこ)へお参りをして下さいますのは分っていますけれどもね、そのさきに――誰かさん――」

「誰かさん、誰かさん……分らない。米ちゃん、一体その誰かさんは?」

「母が、いつもそういっていましたわ。おじさんは、(極りわるがり屋)という(長い屋)さんだから。」

「どうせ、長屋住居(ずまい)だよ。」

「ごめんなさい、そんなんじゃありません。だからっても、何も私に――それとも、思い出さない、忘れたのなら、それはひどいわ、あんまりだわ。誰かさんに、悪いわ、済まないわ、薄情よ。」

「しばらく、しばらく、まあ、待っておくれ。これは思いも寄らない。唐突の儀を承る。弱ったな、何だろう、といっちゃなお悪いかな、誰だろう。」

「ほんとに忘れたんですか。それで()いんですか。嘘でしょう。それだとあんまりじゃありませんか。いっそちゃんと言いますよ、私から。――そういっても釣出しにかかって私の方が極りが悪いかも知れませんけれども。……おじさん、おじさんが、むかし心中をしようとした、婦人(おんな)のかた。」

「…………」

 (やぶ)から棒をくらって膨らんだ外套の、黒い胸を、辻町は手で(おさ)える真似して、目を《みは》ると、

「もう堪忍してあげましょう。あんまり知らないふりをなさるからちょっと(おど)かしてあげたんだけれど、それでも、もうお分りになったでしょう。――いつかの、その時、花の(さかり)の真夜中に。――あの、お城の門のまわり、暗い堀の上を行ったり、来たり……」

 お米の指が、行ったり来たり、ちらちらと細く動くと、その動くのが、魔法を使ったように、向う(はる)かな城の森の下くぐりに、小さな男が、とぼんと出て、羽織も着ない、しょぼけた形を(あら)わすとともに、手を(こまぬ)き、(こうべ)を垂れて、とぼとぼと歩行(ある)くのが(おぼろ)に見える。それ、糧に飢えて死のうとした。それがその夜の辻町である。

 同時に、もう一つ。寂しい、美しい女が、花の雲から下りたように、すっと(かげ)って、おなじ堀を垂々(だらだら)()りに、町へ続く長い坂を、胸を(やわらか)に袖を合せ、肩を(ほっそ)りと(すそ)を浮かせて、宙に(ただよ)うばかり。さし俯向(うつむ)いた(えり)のほんのり白い後姿で、(さば)(つま)(ゆら)ぐと見えない、もの静かな品の()さで、夜はただ黒し、花明り、土の(いかだ)に流るるように、満開の桜の咲蔽(さきおお)うその長坂を下りる姿が目に映った。

 ――指を包め、袖を引け、お米坊。頸の白さ、肩のしなやかさ、余りその姿に似てならない。――

 今、()のあたり、坂を()(ひと)は、あれは、二十(はたち)ばかりにして、その夜、(烏をいう)千羽ヶ淵(ふち)で自殺してしまったのである。身を投げたのは潔い。

 卑怯(ひきょう)な、未練な、おなじ処をとぼついた男の影は、のめのめと活きて、ここに仙晶寺の(いしだん)の中途に、腰を掛けているのであった。

       二

「ああ、まるで魔法にかかったようだ。」

 頬にあてて打傾いた()を、辻町は冷く感じた。時に短く吸込んだ煙草(たばこ)の火が、チリリと耳を(かす)めて、爪先(つまさき)の小石へ落ちた。

「またまったく夢がさめたようだ。――その時、夜あけ頃まで、堀の上をうろついて、いつ(うち)へ帰ったか、草へもぐったのか、蒲団(ふとん)引被(ひきかぶ)ったのか分らない。()ち《の》めされたようになって寝た耳へ、

 ――兄さん……兄さん――

 と、聞こえたのは、……お京さん。」

「返事をしましょうか。」

「願おうかね。」

「はい、おほほ。」

「申すまでもない、威勢のいい若い声だ。そうだろう、お互に二十(はたち)の歳です。――死んだ人は、たしか一つ上だったように後で聞いて覚えている。前の晩は、雨気(あまけ)を含んで、花あかりも朦朧(もうろう)と、霞に綿を敷いたようだった。格子戸外(そと)のその元気のいい声に、むっくり起きると、おっと来たりで、目は(くぼ)んでいる……(おでこ)をさきへ、門口(かどぐち)へ突出すと、顔色の青さを《あぶ》られそうな、からりとした春(たけなわ)な朝景色さ。お京さんは、結いたての銀杏返(いちょうがえし)で、半襟の浅黄の冴えも、黒繻子(くろじゅす)の帯の(つや)も、霞を払ってきっぱりと立っていて、(兄さん身投げですよ、お城の堀で。)(嘘だよ、ここに活きてるよ。)と、うっかり私が言ったんだから、お察しものです。すぐ背後(うしろ)の土間じゃ七十を越した祖母(ばあ)さんが、お(ひつ)の底の、こそげ粒で、茶粥(ちゃがゆ)とは行きません、みぞれ雑炊を煮てござる。前々年、(うち)が焼けて、次の年、父親がなくなって、まるで、掘立小屋だろう。住むにも、食うにも――昨夜(ゆうべ)は城のここかしこで、早い蛙がもう鳴いた、歌を唄ってる虫けらが、およそ(うらやま)しい、と云った場合。……祖母さんは耳が遠いから()かったものの、(活きてるよ。)は何事です。(何を寝惚(ねぼ)けているんです。しっかりするんです。)その頃の様子を察しているから、お京さん――ままならない思遣りのじれったさの疳癪筋(かんしゃくすじ)で、ご存じの通り、(いち)うちの眉を(ひそ)めながら、(……町内ですよ、ここの。いま私、前を通って来たんだけれど、角の箔屋(はくや)。――うちの人じゃあない、世話になって、はんけちの工場(こうば)へ勤めている娘さんですとさ。ちゃんと目をあいて……あれ、あんなに人が立っている。)うららかな朝だけれど、路が一条(ひとすじ)胡粉(ごふん)泥塗(だみ)たように、ずっと白く、寂然(しん)として、()ならび、三町ばかり、手前どもとおなじ(かわ)です、けれども、何だか遠く離れた海際まで、突抜けになったようで、そこに立っている人だかりが――身を投げたのは(ふち)だというのに――打って来る波を避けるように、むらむらと動いて、(つち)がそこばかり、ぐっしょり(しお)に濡れているように見えた。

 花はちらちらと目の前へ散って来る。

 私の小屋と真向(まむかい)の……金持は焼けないね……しもた屋の後妻(うわなり)で、町中の意地悪が――今時はもう影もないが、――それその時飛んで来た、燕の羽の形に(うしろ)()ねた、橋髷(はしまげ)とかいうのを小さくのっけたのが、(かど)の敷石に出て来て立って、おなじように箔屋の前を(じっ)とすかして()ていた。その継娘(ままむすめ)は、優しい、うつくしい、上品な人だったが、二十(はたち)にもならない先に、雪の消えるように白梅と一所に水で散った。いじめ殺したんだ、あの継母がと、町内で沙汰(さた)をした。その色の浅黒い後妻(うわなり)の眉と鼻が、箔屋を見込んだ横顔で、お米さんの前髪にくッつき合った、と私の目に見えた時さ。(いとしや。)とその後妻が、(のう、ご親類の、ご新姐(しんぞ)さん。)――(くわ)しくはなくても、向う前だから、様子は知ってる、行来(ゆきき)、出入りに、顔見知りだから、声を掛けて、(いつ見ても、好容色(ごきりょう)なや、ははは。)と(そら)笑いをやったとお思い、(非業の死とはいうけれど、根は身の行いでござりますのう。)とじろりと二人を見ると、お京さん、御母堂だよ、いいかい。怪我にも真似なんかなさんなよ。即時、好容色(ごきりょう)(あご)()つけるようにしゃくって、(はい、さようでござります、のう。)と云うが(はや)いか、背中の子。」

 辻町は、時に、まつげの深いお米と顔を見合せた。

「その日は、当寺(こちら)へお参りに来がけだったのでね、……お京さん、(いしだん)が高いから半纏(はんてん)おんぶでなしに、浅黄鹿の子の紐でおぶっていた。背中へ、べっかっこで、(ばあ。)というと、カタカタと薄歯の音を立てて(うち)ン中へ入ったろう。私が後妻(うわなり)に赤くなった。

 (おぶ)っていたのが、何を隠そう、ここに好容色で立っている、さて、久しぶりでお目にかかります。お前さんだ、お米坊――二歳(ふたつ)、いや、三つだったか。かぞえ年。」

「かぞえ年……」

「ああ、そうか。」

「おじさんの家の焼けた年、お産間近に、お(っか)さんが、あの、火事場へ飛出したもんですから、そのせいですって……私には(あざ)が。」

 睫毛(まつげ)がふるえる。辻町は、ハッとしたように、ふと肩をすくめた。

「あら、うっかり、おじさんだと思って、つい。……真紅(まっか)でしたわ、おとなになって今じゃ(うっす)りとただ青いだけですの。」

 おじさんは目を()せながら、わざと見まもったようにこういった。

「見えやしない、なにもないじゃないか、どこなのだね。」

「知らない。」

「まあさ。」

「乳の少し(わき)のところ。」

「きれいだな、眉毛を一つ()った(あと)か、雪間の若菜……とでも言っていないと――父がなくなって帰ったけれど、私が一度無理に東京へ出ていた留守です。私の(うち)のために、お京さんに火事場を踏ませて申訳がないよ。――ところで、その嬰児(あかんぼ)が、今お見受け申すお姿となったから、もうかれこれ三十年。……だもの、記憶(おぼえ)も何も朧々(おぼろおぼろ)とした中に、その悲しいうつくしい人の姿に薄明りがさして見える。遠くなったり、近くなったり、途中で消えたり、目先へ出たり――こっちも、とぼとぼと死場所を探していたんだから、どうも人目が邪魔になる。さきでも目障りになったろう。やがて夜中の三時過ぎ、天守下の坂は長いからね、坂の途中で見失ったが、見失った時の後姿を一番はっきりと覚えている。だから、その人が淵で死んだとすると、一旦(いったん)町へ下りて、もう一度、坂を引返(ひっかえ)した事になるんだね。

 ただし、そういった処で、あくる朝、町内の箔屋へ引取った身投げの娘が、果して昨夜(ゆうべ)私が見た人と同じだかどうだか、実の処は分りません……それは今でも分りはしない。堀端では、前後一度だって、横顔の鼻筋だって、見えないばかりか、解りもしない。が、朝、お京さんに聞いたばかりで、すぐ、ああ、それだと思ったのも、おなじ死ぬ気の、気で感じたのであろうと思う……

 と、お京さんが、むこうの後妻(うわなり)の目をそらして、格子を入った。おぶさったお前さんが、それ、今のべっかっこで、妙な顔……」

「ええ、ほほほ。」

 とお米は軽く咲容(えまい)して、片袖を胸へあてる。

「お京さん、いきなり内の祖母(ばあ)さんの背中を一つトンと(たた)いたと思うと、鉄鍋(てつなべ)(ふた)を取って(のぞ)いたっけ、(いきおい)のよくない湯気が上る。」

 お米は軽く(びん)()でた。

「ちょろちょろと燃えてる、(かまど)薪木(たきぎ)、その火だがね、何だか身を投げた(ひと)をあぶって暖めているような気がして、消えぎえにそこへ、袖褄(そでづま)(もつ)れて倒れた、ぐっしょり濡れた髪と、真白な顔が見えて、まるでそれがね、向う(かど)に立っている後妻(うわなり)に、はかない恋をせかれて、五年前に、おなじ淵に身を投げた、優しい姉さんのようにも思われた。余程どうかしていたんだね。

 半壊れの車井戸が、すぐ(そば)で、底の方に、ばたん、と寂しい(しずく)の音。

 ざらざらと水が響くと、

――身投げだ――

――別嬪(べっぴん)だ――

――身投げだ――

 と戸外(おもて)(わめ)いて人が駆けた。

 この騒ぎは――さあ、それから多日(しばらく)、四方、隣国、八方へ、大波を打ったろうが、

――三年の間、かたい慎み――

 だッてね、お京さんが、その(ひと)の事については、当分、口へ出してうわささえしなければ、また私にも、話さえさせなかったよ。

――おなじ桜に風だもの、兄さんを誘いに来ると悪いから――

 その晩、おなじ千羽ヶ淵へ、ずぶずぶの夥間(なかま)だったのに、なまじ死にはぐれると、今さら気味が悪くなって、町をうろつくにも、山の手の辻へ廻って、箔屋の前は通らなかった。……

 この土地の新聞一種(ひといろ)、買っては読めない境遇だったし、新聞社の掲示板の前へ立つにも、土地は狭い、人目に立つ、死出三途(さんず)ともいう処を、一所に《さまよ》った身体(からだ)だけに、自分から気が()けて、()けるように、避けるように、世間のうわさに遠ざかったから、花の散ったのは、雨か、嵐か、人に(つぶて)を打たれたか、邪慳(じゃけん)に枝を折られたか。今もって、取留めた、(くわ)しい事は知らないんだが、それも、もう三十年。

 ……お米さん、私は、おなじその年の八月――ここいらはまだ、月おくれだね、盂蘭盆が過ぎてから、いつも大好きな赤蜻蛉の飛ぶ時分、道があいて、東京へ立てたんだが。――

 ――ああ、そうか。」

 辻町は、息を入れると、石に腰をずらして、ハタと軽く膝をたたいた。

       三

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