2話 縷紅新草(2)
読み方を変える
その時、外套の袖にコトンと動いた、石の上の提灯の面は、またおかしい。いや、おかしくない、大空の雲を淡く透して蒼白い。
「……さて、これだが、手向けるとか、供えるとか、お米坊のいう――誰かさんは――」
「ええ、そうなの。」
と、小菊と坊さん花をちょっと囲って、お米は静に頷いた。
「その嬰児が、串戯にも、心中の仕損いなどという。――いずれ、あの、いけずな御母堂から、いつかその前後の事を聞かされて、それで知っているんだね。
不思議な、怪しい、縁だなあ。――花あかりに、消えて行った可哀相な人の墓はいかにも、この燈籠寺にあるんだよ。
若気のいたり。……」
辻町は、額をおさえて、提灯に俯向いて、
「何と思ったか、東京へ――出発間際、人目を忍んで……というと悪く色気があります。何、こそこそと、鼠あるきに、行燈形の小な切籠燈の、就中、安価なのを一枚細腕で引いて、梯子段の片暗がりを忍ぶように、この磴を隅の方から上って来た。胸も、息も、どきどきしながら。
ゆかただか、羅だか、女郎花、桔梗、萩、それとも薄か、淡彩色の燈籠より、美しく寂しかろう、白露に雫をしそうな、その女の姿に供える気です。
中段さ、ちょうど今居る。
しかるに、どうだい。お米坊は洒落にも私を、薄情だというけれど、人間の薄情より三十年の月日は情がない。この提灯でいうのじゃないが、燈台下暗しで、とぼんとして気がつかなかった。申訳より、面目がないくらいだ。
――すまして饒舌って可いか知らん、その時は、このもみじが、青葉で真黒だった下へ来て、上へ墓地を見ると、向うの峯をぼッと、霧にして、木曾のははき木だね、ここじゃ、見えない。が、有名な高燈籠が榎の梢に灯れている……葉と葉をくぐって、燈の影が露を誘って、ちらちらと樹を伝うのが、長くかかって、幻の藤の総を、すっと靡かしたように仰がれる。絵の模様は見えないが、まるで、その高燈籠の宙の袖を、その人の姿のように思って、うっかりとして立った。
――ああ、呆れた――
目の前に、白いものと思ったっけ、山門を真下りに、藍がかった浴衣に、昼夜帯の婦人が、
――身投げに逢いに来ましたね――
言う事も言う事さ、誰だと思います。御母堂さ。それなら、言いそうな事だろう。いきなり、がんと撲わされたから、おじさんの小僧、目をまるくして胆を潰した。そうだろう、当の御親類の墓地へ、といっては、ついぞ、つけとどけ、盆のお義理なんぞに出向いた事のない奴が、」
辻町は提灯を押えながら、
「酒買い狸が途惑をしたように、燈籠をぶら下げて立っているんだ。
いう事が捷早いよ、お京さん、そう、のっけにやられたんじゃ、事実、親類へ供えに来たものにした処で、そうとはいえない。
――初路さんのお墓は――
いかにも、若い、優しい、が、何だか、弱々とした、身を投げた女の名だけは、いつか聞いていた。
――お墓の場所は知っていますか――
知るもんですか。お京さんが、崖で夜露に辷る処へ、石ころ道が切立てで危いから、そんなにとぼついているんじゃ怪我をする。お寺へ預けて、昼間あらためて、お参りを、そうなさい、という。こっちはだね。日中のこのこ出られますか。何、志はそれで済むからこの石の上へ置いたなり帰ろうと、降参に及ぶとね、犬猫が踏んでも、きれいなお精霊が身震いをするだろう。――とにかく、お寺まで、と云って、お京さん、今度は片褄をきりりと端折った。
こっちもその要心から、わざと夜になって出掛けたのに、今頃まで、何をしていたろう。(遊んでいた。世の中の煩ささがなくて寺は涼しい。裏縁に引いた山清水に……西瓜は驕りだ、和尚さん、小僧には内証らしく冷して置いた、紫陽花の影の映る、青い心太をつるつる突出して、芥子を利かして、冷い涙を流しながら、見た処三百ばかりの墓燈籠と、草葉の影に九十九ばかり、お精霊の幻を見て涼んでいた、その中に初路さんの姿も。)と、お京さん、好なお転婆をいって、山門を入った勢だからね。……その勢だから……向った本堂の横式台、あの高い処に、晩出の参詣を待って、お納所が、盆礼、お返しのしるしと、紅白の麻糸を三宝に積んで、小机を控えた前へ。どうです、私が引込むもんだから、お京さん、引取った切籠燈をツイと出すと、
――この春、身を投げた、お嬢さんに。……心中を仕損った、この人の、こころざし――
私は門まで遁出したよ。あとをカタカタと追って返して、
――それ、紅い糸を持って来た。縁結びに――白いのが好かったかしら、……あいては幻……
と頬をかすられて、私はこの中段まで転げ落ちた。ちと大袈裟だがね、遠くの暗い海の上で、稲妻がしていたよ。その夜、途中からえらい降りで。」……
……………………
……………………
辻町は夕立を懐うごとく、しばらく息を沈めたが、やがて、ちょっと語調をかえて云った。
「お米坊、そんな、こんな、お母さんに聞いていたのかね。」
「ええ、お嫁に行ってから、あと……」
「そうだろうな、あの気象でも、極りどころは整然としている。嫁入前の若い娘に、余り聞かせる事じゃないから。
――さて、問題の提灯だ。成程、その人に、切籠燈のかわりに供えると、思ったのはもっともだ。が、そんな、実は、しおらしいとか、心入れ、とかいう奇特なんじゃなかったよ。懺悔をするがね、実は我ながら、とぼけていて、ひとりでおかしいくらいなんだよ。月夜に提灯が贅沢なら、真昼間ぶらで提げたのは、何だろう、余程半間さ。
というのがね、先刻お前さんは、連にはぐれた観光団が、鼻の下を伸ばして、うっかり見物している間抜けに附合う気で、黙ってついていてくれたけれど、来がけに坂下の小路中で、あの提灯屋の前へ、私がぼんやり突立ったろう。
場所も方角も、まるで違うけれども、むかし小学校の時分、学校近所の……あすこは大川近の窪地だが、寺があって、その門前に、店の暗い提灯屋があった。髯のある親仁が、紺の筒袖を、斑々の胡粉だらけ。腰衣のような幅広の前掛したのが、泥絵具だらけ、青や、紅や、そのまま転がったら、楽書の獅子になりそうで、牡丹をこってりと刷毛で彩る。緋も桃色に颯と流して、ぼかす手際が鮮彩です。それから鯉の滝登り。八橋一面の杜若は、風呂屋へ進上の祝だろう。そんな比羅絵を、のしかかって描いているのが、嬉しくて、面白くって、絵具を解き溜めた大摺鉢へ、鞠子の宿じゃないけれど、薯蕷汁となって溶込むように……学校の帰途にはその軒下へ、いつまでも立って見ていた事を思出した。時雨も霙も知っている。夏は学校が休です。桜の春、また雪の時なんぞは、その緋牡丹の燃えた事、冴えた事、葉にも苔にも、パッパッと惜気なく金銀の箔を使うのが、御殿の廊下へ日の射したように輝いた。そうした時は、家へ帰る途中の、大川の橋に、綺麗な牡丹が咲いたっけ。
先刻のあの提灯屋は、絵比羅も何にも描いてはいない。番傘の白いのを日向へ並べていたんだが、つい、その昔を思出して、あんまり店を覗いたので、ただじゃ出て来にくくなったもんだから、観光団お買上げさ。
――ご紋は――
――牡丹――
何、描かせては手間がとれる……第一実用むきの気といっては、いささかもなかったからね。これは、傘でもよかったよ。パッと拡げて、菊を持ったお米さんに、背後から差掛けて登れば可かった。」
「どうぞ。……女万歳の広告に。」
「仰せのとおり。――いや、串戯はよして。いまの並べた傘の小間隙間へ、柳を透いて日のさすのが、銀の色紙を拡げたような処へ、お前さんのその花についていたろう、蝶が二つ、あの店へ翔込んで、傘の上へ舞ったのが、雪の牡丹へ、ちらちらと箔が散浮く……
そのままに見えたと思った時も――箔――すぐこの寺に墓のある――同町内に、ぐっしょりと濡れた姿を儚く引取った――箔屋――にも気がつかなかった。薄情とは言われまいが、世帯の苦労に、朝夕は、細く刻んでも、日は遠い。年月が余り隔ると、目前の菊日和も、遠い花の霞になって、夢の朧が消えて行く。
が、あらためて、澄まない気がする。御母堂の奥津城を展じたあとで。……ずっと離れているといいんだがな。近いと、どうも、この年でも極りが悪い。きっと冷かすぜ、石塔の下から、クックッ、カラカラとまず笑う。」
「こわい、おじさん。お母さんだがいいけれど。……私がついていますから、冷かしはしませんから、よく、お拝みなさいましよね。
――(糸塚)さん。」
「糸塚……初路さんか。糸塚は姓なのかね。」
「いいえ、あら、そう……おじさんは、ご存じないわね。
――糸塚さん、糸巻塚ともいうんですって。
この谷を一つ隔てた、向うの山の中途に、鬼子母神様のお寺がありましょう。」
「ああ、柘榴寺――真成寺。」
「ちょっとごめんなさい。私も端の方へ、少し休んで。……いいえ、構うもんですか。落葉といっても錦のようで、勿体ないほどですわ。あの柘榴の花の散った中へ、鬼子母神様の雲だといって、草履を脱いで坐ったのも、つい近頃のようですもの。お母さんにつれられて。白い雲、青い雲、紫の雲は何様でしょう。鬼子母神様は紅い雲のように思われますね。」
墓所は直近いのに、面影を遥かに偲んで、母親を想うか、お米は恍惚して云った。
――聞くとともに、辻町は、その壮年を三四年、相州逗子に過ごした時、新婚の渠の妻女の、病厄のためにまさに絶えなんとした生命を、医療もそれよ。まさしく観世音の大慈の利験に生きたことを忘れない。南海霊山の岩殿寺、奥の御堂の裏山に、一処咲満ちて、春たけなわな白光に、奇しき薫の漲った紫の菫の中に、白い山兎の飛ぶのを視つつ、病中の人を念じたのを、この時まざまざと、目前の雲に視て、輝く霊巌の台に対し、さしうつむくまで、心衷に、恭礼黙拝したのである。――
お米の横顔さえ、《ろう》たけて、
「柘榴寺、ね、おじさん、あすこの寺内に、初代元祖、友禅の墓がありましょう。一頃は訪う人どころか、苔の下に土も枯れ、水も涸いていたんですが、近年他国の人たちが方々から尋ねて来て、世評が高いもんですから、記念碑が新しく建ちましてね、名所のようになりました。それでね、ここのお寺でも、新規に、初路さんの、やっぱり記念碑を建てる事になったんです。」
「ははあ、和尚さん、娑婆気だな、人寄せに、黒枠で……と身を投げた人だから、薄彩色水絵具の立看板。」
「黙って。……いいえ、お上人よりか、檀家の有志、県の観光会の表向きの仕事なんです。お寺は地所を貸すんです。」
「葬った土とは別なんだね。」
「ええ、それで、糸塚、糸巻塚、どっちにしようかっていってるところ。」
「どっちにしろ、友禅の(染)に対する(糸)なんだろう。」
「そんな、ただ思いつき、趣向ですか、そんなんじゃありません。あの方、はんけちの工場へ通って、縫取をしていらしってさ、それが原因で、あんな事になったんですもの。糸も紅糸からですわ。」
「糸も紅糸……はんけちの工場へ通って、縫取をして、それが原因?……」
「まあ、何にも、ご存じない。」
「怪我にも心中だなどという、そういっちゃ、しかし済まないけれども、何にも知らない。おなじ写真を並んで取っても、大勢の中だと、いつとなく、生別れ、死別れ、年が経つと、それっきりになる事もあるからね。」
辻町は向直っていったのである。
「蟹は甲らに似せて穴を掘る……も可訝いかな。おなじ穴の狸……飛んでもない。一升入の瓢は一升だけ、何しろ、当推量も左前だ。誰もお極りの貧のくるしみからだと思っていたよ。」
また、事実そうであった。
「まあ、そうですか、いうのもお可哀相。あの方、それは、おくらしに賃仕事をなすったでしょう。けれど、もと、千五百石のお邸の女さん。」
「おお、ざっとお姫様だ。ああ、惜しい事をした。あの晩一緒に死んでおけば、今頃はうまれかわって、小いろの一つも持った果報な男になったろう。……糸も、紅糸は聞いても床しい。」
「それどころじゃありません。その糸から起った事です。千五百石の女ですが、初路さん、お妾腹だったんですって。それでも一粒種、いい月日の下に、生れなすったんですけれど、廃藩以来、ほどなく、お邸は退転、御両親も皆あの世。お部屋方の遠縁へ引取られなさいましたのが、いま、お話のありました箔屋なのです。時節がら、箔屋さんも暮しが安易でないために、工場通いをなさいました。お邸育ちのお慰みから、縮緬細工もお上手だし、お針は利きます。すぐ第一等の女工さんでごく上等のものばかり、はんけちと云って、薄色もありましょうが、おもに白絹へ、蝶花を綺麗に刺繍をするんですが、いい品は、国産の誉れの一つで、内地より、外国へ高級品で出たんですって。」
「なるほど。」
四
あれあれ見たか
あれ見たか
…………………
「あれあれ見たか、あれ見たか、二つ蜻蛉が草の葉に、かやつり草に宿かりて……その唄を、工場で唱いましたってさ。唄が初路さんを殺したんです。
細い、かやつり草を、青く縁へとって、その片端、はんけちの雪のような地へ赤蜻蛉を二つ。」
お米の二つ折る指がしなって、内端に襟をおさえたのである。
「一ツずつ、蜻蛉が別ならよかったんでしょうし、外の人の考案で、あの方、ただ刺繍だけなら、何でもなかったと言うんです。どの道、うつくしいのと、仕事の上手なのに、嫉み猜みから起った事です。何につけ、かにつけ、ゆがみ曲りに難癖をつけないではおきません。処を図案まで、あの方がなさいました。何から思いつきなすったんだか。――その赤蜻蛉の刺繍が、大層な評判だし、分けて輸出さきの西洋の気受けが、それは、凄い勢で、どしどし註文が来ました処から、外国まで、恥を曝すんだって、羽をみんな、手足にして、紅いのを縮緬のように唄い囃して、身肌を見せたと、騒ぐんでしょう。」
(巻初に記して一粲に供した俗謡には、二三行、
…………………
…………………
脱落があるらしい、お米が口誦を憚ったからである。)
「いやですわね、おじさん、蝶々や、蜻蛉は、あれは衣服を着ているでしょうか。
――人目しのぶと思えども
羽はうすもの隠されぬ――
それも一つならまだしもだけれど、一つの尾に一つが続いて、すっと、あの、羽を八つ、静かに銀糸で縫ったんです、寝ていやしません、飛んでいるんですわね。ええ、それをですわ、
――世間、いなずま目が光る――