4話 縷紅新草(4)
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「――おばけの蜻蛉、おじさん。」
「――何そんなものの居よう筈はない。」
胸傍の小さな痣、この青い蘚、そのお米の乳のあたりへ鋏が響きそうだったからである。辻町は一礼し、墓に向って、屹といった。
「お嬢さん、私の仕業が悪かったら、手を、怪我をおさせなさい。」
鋏は爽な音を立てた、ちちろも声せず、松風を切ったのである。
「やあ、塗師屋様、――ご新姐。」
木戸から、寺男の皺面が、墓地下で口をあけて、もう喚き、冷めし草履の馴れたもので、これは磽たる径は踏まない。草土手を踏んで横ざまに、傍へ来た。
続いて日傭取が、おなじく木戸口へ、肩を組合って低く出た。
「ごめんなせえましよ、お客様。……ご機嫌よくこうやってござらっしゃる処を見ると、間違えごともなかったの、何も、別条はなかっただね。」
「ところが、おっさん、少々別条があるんですよ。きみたちの仕事を、ちょっと無駄にしたぜ。一杯買おう、これです、ぶつぶつに縄を切払った。」
「はい、これは、はあ、いい事をさっせえて下さりました。」
「何だか、あべこべのような挨拶だな。」
「いんね、全くいい事をなさせえました。」
「いい事をなさいましたじゃないわ、おいたわしいじゃないの、女さんがさ。」
「ご新姐、それがね、いや、この、からげ縄、畜生。」
そこで、踞んで、毛虫を踏潰したような爪さきへ近く、切れて落ちた、むすびめの節立った荒縄を手繰棄てに背後へ刎出しながら、きょろきょろと樹の空を見廻した。
妙なもので、下木戸の日傭取たちも、申合せたように、揃って、踞んで、空を見る目が、皆動く。
「いい塩梅に、幽霊蜻蛉、消えただかな。」
「一体何だね、それは。」
「もの、それがでござりますよ、お客様、この、はい、石塔を動かすにつきましてだ。」
「いずれ、あの糸塚とかいうのについての事だろうが、何かね、掘返してお骨でも。」
「いや、それはなりましねえ。記念碑発起押っぽだての、帽子、靴、洋服、袴、髯の生えた、ご連中さ、そのつもりであったれど、寺の和尚様、承知さっしゃりましねえだ。ものこれ、三十年経ったとこそいえ、若い女が埋ってるだ。それに、久しい無縁墓だで、ことわりいう檀家もなしの、立合ってくれる人の見分もないで、と一論判あった上で、土には触らねえ事になったでがす。」
「そうあるべき処だよ。」
「ところで、はい、あのさ、石彫の大え糸枠の上へ、がっしりと、立派なお堂を据えて戸をあけたてしますだね、その中へこの……」
お米は着流しのお太鼓で、まことに優に立っている。
「おお、成仏をさっしゃるずら、しおらしい、嫁菜の花のお羽織きて、霧は紫の雲のようだ、しなしなとしてや。」
と、苔の生えたような手で撫でた。
「ああ、擽ったい。」
「何でがすい。」
と、何も知らず、久助は墓の羽織を、もう一撫で。
「この石塔を斎き込むもくろみだ。その堂がもう出来て、切組みも済ましたで、持込んで寸法をきっちり合わす段が、はい、ここはこの通り足場が悪いと、山門内まで運ぶについて、今日さ、この運び手間だよ。肩がわりの念入りで、丸太棒で担ぎ出しますに。――丸太棒めら、丸太棒を押立てて、ごろうじませい、あすこにとぐろを巻いていますだ。あのさきへ矢羽根をつけると、掘立普請の斎が出るだね。へい、墓場の入口だ、地獄の門番……はて、飛んでもねえ、肉親のご新姐ござらっしゃる。」
と、泥でまぶしそうに、口の端を拳でおさえて、
「――そのさ、担ぎ出しますに、石の直肌に縄を掛けるで、藁なり蓆なりの、花ものの草木を雪囲いにしますだね、あの骨法でなくば悪かんべいと、お客様の前だけんど、わし一応はいうたれども、丸太棒めら。あに、はい、墓さ苞入に及ぶもんか、手間障だ。また誰も見ていねえで、構いごとねえだ、と吐いての。
和尚様は今日は留守なり、お納所、小僧も、総斎に出さしった。まず大事ねえでの。はい、ぐるぐるまきのがんじがらみ、や、このしょで、転がし出した。それさ、その形でがすよ。わしさ屈腰で、膝はだかって、面を突出す。奴等三方からかぶさりかかって、棒を突挿そうとしたと思わっせえまし。何と、この鼻の先、奴等の目の前へ、縄目へ浮いて、羽さ弾いて、赤蜻蛉が二つ出た。
たった今や、それまでというものは、四人八ツの、団栗目に、糠虫一疋入らなんだに、かけた縄さ下から潜って石から湧いて出たはどうしたもんだね。やあやあ、しっしっ、吹くやら、払いますやら、静として赤蜻蛉が動かねえとなると、はい、時代違いで、何の気もねえ若い徒も、さてこの働きに掛ってみれば、記念碑糸塚の因縁さ、よく聞いて知ってるもんだで。
ほれ、のろのろとこっちさ寄って来るだ。あの、さきへ立って、丸太棒をついた、その手拭をだらりと首へかけた、逞い男でがす。奴が、女の幽霊でねえか。出たッと、また髯どのが叫ぶと、蜻蛉がひらりと動くと、かっと二つ、灸のような炎が立つ。冷い火を汗に浴びると、うら山おろしの風さ真黒に、どっと来た、煙の中を、目が眩んで遁げたでござえますでの。………
それでがすもの、ご新姐、お客様。」
「それじゃ、私たち差出た事は、叱言なしに済むんだね。」
「ほってもねえ、いい人扶けして下せえましたよ。時に、はい、和尚様帰って、逢わっせえても、万々沙汰なしに頼みますだ。」
そこへ、丸太棒が、のっそり来た。
「おじい、もういいか、大丈夫かよ。」
「うむ、見せえ、大智識さ五十年の香染の袈裟より利益があっての、その、嫁菜の縮緬の裡で、幽霊はもう消滅だ。」
「幽霊も大袈裟だがよ、悪く、蜻蛉に祟られると、瘧を病むというから可恐えです。縄をかけたら、また祟って出やしねえかな。」
と不精髯の布子が、ぶつぶついった。
「そういう口で、何で包むもの持って来ねえ。糸塚さ、女様、素で括ったお祟りだ、これ、敷松葉の数寄屋の庭の牡丹に雪囲いをすると思えさ。」
「よし、おれが行く。」
と、冬の麦稈帽が出ようとする。
「ああ、ちょっと。」
袖を開いて、お米が留めて、
「そのまま、その上からお結えなさいな。」
不精髯が――どこか昔の提灯屋に似ていたが、
「このままでかね、勿体至極もねえ。」
「かまいませんわ。」
「構わねえたって、これ、縛るとなると。」
「うつくしいお方が、見てる前で、むざとなあ。」
麦藁と、不精髯が目を見合って、半ば呟くがごとくにいう。
「いいんですよ、構いませんから。」
この時、丸太棒が鉄のように見えた。ぶるぶると腕に力の漲った逞しいのが、
「よし、石も婉軟だろう。きれいなご新姐を抱くと思え。」
というままに、頸の手拭が真額でピンと反ると、棒をハタと投げ、ずかと諸手を墓にかけた。袖の撓うを胸へ取った、前抱きにぬっと立ち、腰を張って土手を下りた。この方が掛り勝手がいいらしい。巌路へ踏みはだかるように足を拡げ、タタと総身に動揺を加れて、大きな蟹が竜宮の女房を胸に抱いて逆落しの滝に乗るように、ずずずずずと下りて行く。
「えらいぞ、権太、怪我をするな。」
と、髯が小走りに、土手の方から後へ下りる。
「俺だって、出来ねえ事はなかったい、遠慮をした、えい、誰に。」
と、お米を見返って、ニヤリとして、麦藁が後に続いた。
「頓生菩提。……小川へ流すか、燃しますべい。」
そういって久助が、掻き集めた縄の屑を、一束ねに握って腰を擡げた時は、三人はもう木戸を出て見えなかったのである。
「久……爺や、爺やさん、羽織はね。式台へほうり込んで置いて可いんですよ。」
この羽織が、黒塗の華頭窓に掛っていて、その窓際の机に向って、お米は細りと坐っていた。冬の日は釣瓶おとしというより、梢の熟柿を礫に打って、もう暮れて、客殿の広い畳が皆暗い。
こんなにも、清らかなものかと思う、お米の頸を差覗くようにしながら、盆に渋茶は出したが、火を置かぬ火鉢越しにかの机の上の提灯を視た。
(――この、提灯が出ないと、ご迷惑でも話が済まない――)
信仰に頒布する、当山、本尊のお札を捧げた三宝を傍に、硯箱を控えて、硯の朱の方に筆を染めつつ、お米は提灯に瞳を凝らして、眉を描くように染めている。
「――きっと思いついた、初路さんの糸塚に手向けて帰ろう。赤蜻蛉――尾を銜えたのを是非頼む。塗師屋さんの内儀でも、女学校の出じゃないか。絵というと面倒だから図画で行くのさ。紅を引いて、二つならべれば、羽子の羽でもいい。胡蘿蔔を繊に松葉をさしても、形は似ます。指で挟んだ唐辛子でも構わない。――」
と、たそがれの立籠めて一際漆のような板敷を、お米の白い足袋の伝う時、唆かして口説いた。北辰妙見菩薩を拝んで、客殿へ退く間であったが。
水をたっぷりと注して、ちょっと口で吸って、莟の唇をぽッつり黒く、八枚の羽を薄墨で、しかし丹念にあしらった。瀬戸の水入が渋のついた鯉だったのは、誂えたようである。
「出来た、見事々々。お米坊、机にそうやった処は、赤絵の紫式部だね。」
「知らない、おっかさんにいいつけて叱らせてあげるから。」
「失礼。」
と、茶碗が、また、赤絵だったので、思わず失言を詫びつつ、準藤原女史に介添してお掛け申す……羽織を取入れたが、窓あかりに、
「これは、大分うらに青苔がついた。悪いなあ。たたんで持つか。」
と、持ったのに、それにお米が手を添えて、
「着ますわ。」
「きられるかい、墓のを、そのまま。」
「おかわいそうな方のですもの、これ、荵摺ですよ。」
その優しさに、思わず胸がときめいて。
「肩をこっちへ。」
「まあ、おじさん。」
「おっかさんの名代だ、娘に着せるのに仔細ない。」
「はい、……どうぞ。」
くるりと向きかわると、思いがけず、辻町の胸にヒヤリと髪をつけたのである。
「私、こいしい、おっかさん。」
前刻から――辻町は、演芸、映画、そんなものの楽屋に縁がある――ほんの少々だけれども、これは筋にして稼げると、潜に悪心の萌したのが、この時、色も、慾も何にもない、しみじみと、いとしくて涙ぐんだ。
「へい。お待遠でござりました。」
片手に蝋燭を、ちらちら、片手に少しばかり火を入れた十能を持って、婆さんが庫裏から出た。
「糸塚さんへ置いて行きます、あとで気をつけて下さいましよ、烏が火を銜えるといいますから。」
お米も、式台へもうかかった。
「へい、もう、刻限で、危気はござりましねえ、嘴太烏も、嘴細烏も、千羽ヶ淵の森へ行んで寝ました。」
大城下は、目の下に、町の燈は、柳にともれ、川に流るる。磴を下へ、谷の暗いように下りた。場末の五燈はまだ来ない。
あきない帰りの豆府屋が、ぶつかるように、ハタと留った時、
「あれ、蜻蛉が。」
お米が膝をついて、手を合せた。
あの墓石を寄せかけた、塚の糸枠の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風一通り、赤蜻蛉が静と動いて、女の影が……二人見えた。
昭和十四(一九三九)年七月