薄紅梅

5話 薄紅梅(5)

7,737字 約15分 2008年11月22日 公開

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 つれづれ草の作者に音が似ているから、法師とも人が呼ぶ、弦光法師は、(さかずき)を置き息をついて、

「しかも(くだん)の艶なのが、あまつさえ大概番傘の処を、その浅黄をからめた白い手で、蛇目傘(じゃのめ)と来た。祝儀なしに借りられますか。且つまたこれを返す時の入費が可恐(おそろ)しい。ここしばらくあてなしなんだからね。」

「そこで、雪の落人(おちゅうど)となったんだね。私は見得も外聞も要らない。なぜ、この降るのに傘を借りないだろうと、途中では怨んだけれど、外套の頭巾をはずして(かぶ)せてくれたのには感謝した、烏帽子(えぼし)をつけたようで景気が直った。」

「白く群がる朝返りの中で、土手を下りた処だったな。その頭巾の紐をしめながらどこで覚えたか――一段と烏帽子が似合いて候。――と器用な息子だ。しかも節なしはありがたかった。やがて静の前に逢わせたいよ。」

「静といえば。」

「乗出すなよ。こいつ、昨夜(ゆうべ)遊女(おいらん)か。」

「そんなものは名も知らない。てんで顔を見せないんだから。」

自棄(やけ)をいうなよ、そこが息子の辛抱どころだ。その遊女(おんな)に、馴染(なじみ)をつけて、このぬし辻町様(おん箸入)に、象牙が入って、蝶足の膳につかなくっちゃ。……もっともこの箸、万客に通ずる事は、口紅と同じだがね、ははは。」

「おって教授に預ろうよ。そんな事より、私のいうのは、昨夜(ゆうべ)それ引前(ひけまえ)を茶屋へのたり込んだ時、籠洋燈(かごらんぷ)(わき)で手紙を書いていた、巻紙に筆を持添えて……」

「写実、写実。」

「目の(りん)とした、一の字眉の、瓜実顔(うりざねがお)の、(すそ)を引いたなり薄い片膝立てで黒縮緬の羽織を着ていた、芸妓島田(げいこしまだ)の。」

「うむ、それだ。それは婀娜(あだ)なり……それに似て、これは素研清楚(こうしょうせいそ)なり、というのを不忍の池で。……」

 と、半ば口で消して、

「さあ、お酌だ。重ねたり。」

「あれは、内芸者というんだろう。ために傘を遠慮した茶屋の女房なぞとは、較べものにならなかったよ。」

「よくない、よくない量見だ。」

 と、法師は大きく手を振って、

「原稿料じゃ当分のうち間に合いません。稿料不如(しかず)傘二本か。一本だと寺を退()く坊主になるし、三本目には下り松か、遣切(やりき)れない。」

 と握拳(にぎりこぶし)で、猫板ドンとやって、

「糸ちゃん! お互にちっと植上げをする工夫はないかい。」

 と、喟然(きぜん)として歎じて、こんどは、ぐたりとその板へ(ひじ)をつく。

「へい、へい、(おそな)わりましてござります。」

 爪の黒ずんだ婆さんの、皺頸(しわくび)垢手拭(あかてぬぐい)を巻いたのが、(から)びた葡萄豆(ぶどうまめ)を、小皿にして、()げた汁椀を二つ添えて、盆を、ぬい、と突出した。片手に、旦那様穿換(はきか)えの古足袋を握っている。

「ああ、これだ。」と、喟然として歎じて、こんどは、畳へ手をついた。

 この(やとい)にさえ、弦光法師は配慮した。……俥賃には足りなくても、安肉四半斤……二十匁以上、三十匁以内だけの料はある。竹の皮包を土産らしく提げて帰れば、(さと)から空腹(すきばら)だ、とは思うまい。――内証だが、ここで糸七は実は焼芋を主張した。(かて)温石(おんじゃく)と凍餓共に救う、万全の策だったのである、けれども、いやしくも文学者たるべきものの、紅玉(ルビー)緑宝玉(エメラルド)、宝玉を秘め置くべき胸から、黄色に焦げた(におい)を放って、手を懐中(ふところ)に暖めたとあっては、蕎麦屋(そばや)の、もり二杯の小婢の、ぼろ前垂(まえだれ)の下に手首を突込むのと軌を一にする、と云って(しりぞ)けた。良策の用いられざるや、古今敗亡のそれこそ、軌を一にする処である。

 が、途中まず無事に三橋まで引上げた。池の端となって見たがいい、時を得顔の梅柳が、行ったり来たり緋縮緬に、ゆうぜんに、白いものをちらちらと、人を悩す朝である。はたそれ、二階の欄干(てすり)、小窓などから、下界を(のぞ)いて――野郎めが、「ああ降ったる雪かな、あの二人のもの、(みの)を着れば景色になるのに。」――(おんな)めが、「なぜまた(しじみ)を売らないだろう。」と置炬燵(おきごたつ)で、白魚鍋(しらおなべ)でも(つつ)かれてみろ、畜生! 吹雪に倒るればといって、黒塀の描割(かきわり)の下が通れるものか。――そこで、どんどんから忍川の柵内へ、池のまわり、雪の原へ迷込んだ次第であったが。……

       二十四

「ありがたい、この、汁レルから湯気が立つ。」

 と、味噌椀の蓋を落して、かぶりついた糸七が、

「何だ、中味は芋殻(いもがら)か、下手な飜訳みたいだね。」

「そういうなよ、漂母の(さん)だよ。婆やの里から来たんだよ。」

「それだから焼芋を主張したのに、ほぐして入れると直ぐに()になる。」

「仲之町の芸者の噂のあとへ、それだけは、その、焼芋、焼芋だけはあやまるよ。」

 と、弦光が(つむり)を下げた。

 同感である。――糸七のおなじ話でも、紅玉(ルビー)緑宝玉(エメラルド)だと取次(ばえ)がするが、何分焼芋はあやまる。安っぽいばかりか、稚気が過ぎよう。近頃は作者夥間(なかま)も、ひとりぎめに偉くなって、割前の宴会(のみかい)の座敷でなく、我が家の大広間で、脇息(きょうそく)と名づくる殿様道具の(おしまずき)()って、近う……などと、若い人たちを(あご)(さしまね)剽軽者(ひょうきんもの)さえあると聞く。(ほのか)に聞くにつけても、それらの面々の面目に係ると悪い。むかし、八里半、僭称(せんしょう)して十三里、一名、書生の羊羹、ともいった、ポテト……どうも脇息向の(せん)でない。

 ついこの間の事――(ある)大書店の支配人が見えた。関東名代の、強弓(つよゆみ)の達者で、しかも苦労人だと聞いたが違いない。……話の中に、田舎から十四で上京した時は、鍛冶町辺の金物屋へ小僧で子守に使われた。泥濘(ぬかるみ)で、小銅五厘を拾った事がある。小銅五厘(なり)、交番へ届けると、このお(さば)きが面白い、「(おはん)金鍔(きんつば)を食うが()かッ。」勇んで飛込んだ菓子屋が、立派過ぎた。「余所(よそ)へ行きな、金鍔一つは売られない。」という。そこで焼芋。

 と、活機(きっかけ)に作者が、

「三つ。」

 声と共に、《あうん》の呼吸で、支配人が指を三本。……こうなると焼芋にも禅がある。

 が、何しろ、煮豆だの、芋殻だのと相並んで、婆やが持出した膳もさめるし、新聞の座がさめる。ものが清新でないのである。

 不精髯(ぶしょうひげ)も大分のびた。一つ髪でも洗って来ようと、最近人に教えられ、いくらか馴染になった、有楽町辺の大石造館十三階、地階の床屋へ行くと、お帽子お外套というも(きま)りの悪い(しろ)ものが(ぼたん)で棚へ入って、「お目金、」と四度半が手近な手函(てばこ)(すわ)る、歯科のほかでは知らなかった、椅子がぜんまいでギギイと巻上る……といった(いきおい)。しゃぼんの泡は、糸七が吉原返りに緒をしめた雪の烏帽子ほどに(かぶ)さる。冷い香水がざっと流れる。どこか場末の床店(とこみせ)が、指の(さき)で、(そっ)とクリームを()いて()で広げて息で伸ばして、ちょんぼりと髯剃あとへ塗る手際などとは格別の沙汰で、しかもその場末より高くない。

 お職人が念のために、分け目を(じっ)()ると、(やっこ)、いや、少年の助手が、肩から足の上まで刷毛(はけ)を掛ける。「お麁末様(そまつさま)。」「お世話でした。」と()い気持になって、(ドア)を出ると、大理石の床続きの隣、パール(真珠)と云うレストランに青衿菫衣(せいきんきんい)の好女子ひとりあり、緑扉(りょくひ)()りて(たたず)めり。

「番町さん。」

「…………」

「泉さん。」

 驚いて縮めた近目の(しわ)を、莞爾(にっこり)……でもって、鼻の下まで伸ばさせて、

「床屋へお入んなったのを……どうもそうらしいと思ったもんですから、お帰り時分を待っていたの、寄ってらっしゃいよ。」

「は、いや、その。」

 ああ、そうか、思い出した。この真珠(パール)の本店が築地の割烹(かっぽう)懐石で、そこに、月並に、懇意なものの会がある。客が立込んだ時ここから選抜(えりぬ)きで()けに来た、その一人である。

「どこかへいらっしゃる、ちょっと紅茶でも。」

 面喰(めんくら)った(あわただ)しい中にも、忽然として、いつぞのむかし吉原の横町の、ずるずる引摺(ひきず)った青い(すそ)と、(あか)扱帯(しごき)と、脂臭(やにくさ)い吸いつけ煙草を憶起(おもいおこ)すと、憶起す要はないのに、独りで恥しくなって、横を向いた。

「お可厭(いや)。」

「飛んでもない。」

「あら、ご挨拶。」

「飛んでもない。可厭なものかね。」

「お世辞のいいこと、熱燗(あつかん)も存じております。どうぞ――さあいらっしゃい。」

       二十五

「人が見ては(いや)なんでしょう。お()れなさらない場所ですから。――あいにく三組ばかり宴会があって、多勢お見えになっていますから。……ああと……こっちが可いわ。」

 拙者生れてより、今この年配(とし)で、人見知りはしないというのに、さらさら三方をカーテンで囲って、

(のぞ)いちゃ不可(いけ)ません。」

 何事だろうと、布目を覗く若い()をたしなめて、内の障子より清純(きれい)だというのに、卓子掛(てえぶるかけ)の上へ真新しいのをまた一枚敷いて、その上を(しな)った指で一のし伸して、

「お紅茶?」

「いや、酒です、燗を熱く。」

「分っていますわ。」

「それから、勿論食べます。」

「お無駄をなさらないでも。」

「食べますとも、空腹です。そこで、お任せ、という処だけれど、鳥を。」

「蒸焼にしましょう、よく、火を通して。」

 それまで御存じか、感謝を表して、一礼すると、もう居なくなる。

 すっと入交(いれかわ)ったのが、()の大きい、色の白い、年の若い、あれは何と云うのか、引緊(ひきしま)ったスカートで、肩が(ふわ)りと胴が細って、腰の肉置(ししおき)、しかも、その(ゆたか)なのがりんりんとしている。

「私も築地で……先日は。」

 乳のふくらみを卓子(テエブル)に近く寄せて朗かに莞爾(にっこり)した。その(よそおい)四辺(あたり)を払って、泰西の物語に聞く、少年の騎士(ナイト)(さわやか)(よろ)ったようだ。高靴の(かかと)(とが)りを見ると、そのままポンと()て、馬に()って、いきなり窓の外を、棟を飛んで、避雷針の上へ出そうに見える。

 カーネーション、フリージヤの陰へ、ひしゃげた煙管(きせる)を出して()けようとしていたが、火燧(マッチ)をパッとさし寄せられると、かかる騎士に対して、脂下(やにさが)る次第には()かない。雁首(がんくび)俯向(うつむ)けにして、内端(うちわ)に吸いつけて、

「有難う。」

 と、まず落着こうとして、ふと、さあ落着かれぬ。

「はてな、や、忘れた。」

「え。」

「下足札。」

 吃驚(びつくり)したように顔を見たが、

「そこに穿()いていらっしゃるじゃないの。」

 実は外套を預けた時、札を貰わなかったのを、うっかりと下足札。ああ、面目次第もない。

 騎士(ナイト)が悟って、おかしがって、笑う事笑う事、上身をほとんど旋廻して、(よろい)腹筋(はらすじ)()る処へ、以前のが、銚子を持参。で、入れかわるように駆出した。

「お帽子も(ステッキ)も、私が預ったじゃありませんか。安心してめしあがれ。あの方、今日は会計係、がちゃがちゃん、ごとンなの。……お酌をしますわ。」

 やがて少々、とろりとなって、「さてそこへ立っていちゃ、ああ成程――風紀上、(もっとも)です……と、従って杯は。」

「さあ。(あたりを忍び目、カーテンばかり。)ちょっと一杯(ひとつ)ぐらい……お盃洗がなくて不可(いけ)ませんわね。」

「いや、特に感謝します、結構です。」

「あの、番町さん。私あの辺を知っていますわ。――学院の出ですもの。」

「ほう、すると英学者だ、そのお酌では恐縮です、が超恐縮で、光栄です。」

 焼を念入に注意したが、もう出来たろうと、そこで運出(はこびだ)した一枚は、胸を引いて吃驚するほどな大皿に、添えものが(うずたか)く、鳥の片股(かたもも)譬喩(たとえ)はさもしいが、それ、支配人が指を三本の焼芋を一束(ひとつか)ねにしたのに、ズキリと脚がついた処は、大江山の精進日の尾頭ほどある、ピカピカと小刀(ナイフ)肉叉(フォーク)、これが見事に光るので、呆れて見ていると、あがりにくくば、取分けて、で、折返して小さめの、皿に、小形小刀の、肉叉がまたきらりと光る。

「ご念の入った事で……光栄です、ありがたい。」

「……お気にめして……おいしいこと。……まあ、嬉しい。それはね、手で持って、めしあがって、結構よ。」

「構いませんか、そいつは()い、光栄です。」

 (おおせ)に従うと、口のまわりが……

「はい、お手拭。」

       二十六

 お会計はあちらで、がちゃがちゃがちゃんの方なんですが……ここで……分っていますからと、鉛筆を軽く紙片に走らせた。

 この会計だが、この分では、物価騰昇(とうしょう)寒さの(みぎり)堅炭(かたずみ)三俵が処と観念の(ほぞ)を固めたのに、

「おうう、こんな事で。……光栄です。」

「お給仕の分もついておりますから、ご心配なく。」

「いよいよ光栄です。」

 と思わず口へ出た。床屋の分を倍額に、少し内へ引込んだのである。ここにおいて、番町さんの、泉、はじめて悠然として、下足を出口へ運ぶと、クローク(預所(あずかりしょ))とかで、青衿が、外套を受取って、着せてくれて、帽子、(ステッキ)、またどうぞ、というのが、それ覚えてか、いつのこと……。後朝(きぬぎぬ)に、冷い拳固を背中へくらったのとは(たち)が違う。

 (ああ)()、世も許し、人も許し、何よりも自分も許して、今時も河岸をぞめいているのであったら、ここでぷッつりと数珠を切る処だ!……思えば、むかし、夥間(なかま)の飲友達の、遊び(ほう)けて、多日(しばらく)寄附(よりつ)かなかった本郷の叔母さんの(もと)を訪ねたのがあった。お柏で寝る夜具より三倍ふっくらした坐蒲団(すわりぶとん)。濃いお茶が入って、お前さんの好きな藤村の焼ぎんとんだよ、おあがり、今では宗旨が違うかい。連雀(れんじゃく)の藪蕎麦が近いから、あの佳味(おいし)いので一銚子、と言われて涙を流した。親身の情……これが無銭(ただ)である。さても、どれほどの好男(いいおとこ)に生れ(かわ)って、どれほどの金子(かね)を使ったら、遊んでこれだけ好遇(もて)るだろう。――しかるにもかかわらず、迷いは、その叔母さんに俥賃を強請(ゆす)って北廓(なか)へ飛んだ。耽溺(たんでき)、痴乱、迷妄(めいもう)の余り、夢とも(うつつ)ともなく、「おれの葬礼(とむらい)はいつ出る。」と云って、無理心中かと、遊女(おいらん)を驚かし、二階中を騒がせた男がある。

 これにつけ、またそれよ、壱岐殿坂で鼠の(いん)を結んでより、雪の中を傘なしで、池の端まで、などと云うにつけても、天保銭を車に積んで切通しを飛んだ、思案入道殿の方が柄が大きい。……その意気や、仙台、紀文を凌駕(りょうが)するものである。

 と、大理石の建物にはあるまじき、ひょろひょろとした楽書(らくがき)の形になって(たたず)む処に、お(ほり)の方から、円タクが、するすると流して来て、運転手台から、仰向(あおむ)けに指を三本出した。

「これだ。」

 外套の袖を浮せて膝をたたいた。番町は、何のために、この床屋へ来たんだ。あまりそこらに焼芋の(におい)がするから、気をかえようと髪を洗いに来たのである。そうだ、焼芋の事を、ここにちなんで(真珠)としよう。

 ものは称呼(となえ)も大事である。辻町糸七が、その時もし、真珠、と云って策を立てたら、弦光も即諾して、こま(ぎれ)同然な竹の皮包は持たなかったに違いない。雪に真珠を食に()て、真珠をもって手を暖むとせんか、含玉鳳炭(がんぎょくほうたん)奢侈(しゃし)(けだ)し開元天宝の豪華である。

 即時、その三本に二貫たして、円タクで帰ったが、さて、思うに大分道草――(これも真珠としよう)――真珠を食った。

 茅町の弦光の借屋の膳の上には、芋がらの汁と、葡萄豆ぽっちり、牛鍋には糸菎蒻ばかりが、火だけは(さかん)だから炎天の蚯蚓(みみず)のようだ、焦げて残っている、と云った処で、真珠を食ったあとだから、気が(おご)って、そんなものには、構っておられん。

 本文を取急ごう。

 その主意たるや、要するに矢野弦光が、その日、今朝、(しん)もって、月村一雪、お京さんの雪の姿に惚れたのである。

 一升徳利の転がったを枕にして、投足の片膝組みの仰向けで、酒の酔を陰に沈めて、天井を睨んでいたのが、むっくり、がばと起きると、どたりと凭掛(よりかか)ったまま、窓下の机をハタと打った。崖下の雪解の音は余所(よそ)よりも。……

 いま、障子外の雨落の(しずく)がこの響きで()ねそうであった。

「糸(こう)。」

「ええ、驚いた。」

 この方は、袖よじれに横倒れで、鉄張りの煙管を持った手を投出したまま、吸殻を忘れたらしい、畳に焼焦――最も紳士の恥ずべきこと――を(こしら)えながら、うとうとしていた。

「呼んだぐらいで驚いてくれちゃ困る。よ、糸(こう)、いい名だなあ、従兄弟(いとこ)に聞えて、親身のようだ。そのつもりで聞いてくれよ。ああ私は実は酔わん、酔えなかったんだよ。生れて三十年にして、いま目が覚めた。――ついてはだ。」

       二十七

「――賛成だ、至極いいよ。私たち風来とは違って、矢野には学士の肩書がある。――御縁談は、と来ると、悪く老成(おやじ)じみるが仕方がない……として、わけなく(まとま)るだろうと思うがね、実はこのお取次は、私じゃ不可(まず)いよ。」

「そう、そう、そう来るだろうと思ったんだ。が、こうなれば刺違えても今更糸(こう)に譲って、指を(くわ)えて、引込(ひっこ)みはしない。」

 と、わざとらしいまで、膝の上で(こぶし)を握ると、糸七は()もない顔で、

「何を刺違えるんだ、間違えているんだろう。」

「だってそうじゃないか、いつか雑誌に写真が出ていたそうだが、そんなものはほとんど眼中になかった。今朝の雪は不意打さ。俥で帰ると、追分で一生の道が南北へ分れるのを、ほんとうに一呼吸という処で、不思議な縁で……どうも言う事が甘ったるいが、どうもどうも、腹の底まで汁粉に化けた。

 ――氷月の雪の枝折戸(しおりど)を、片手ざしの渋蛇目傘(しぶじゃのめ)で、()いて入るように(つま)を上げた雨衣(あまぐ)の裾の板じめだか、鹿子絞りだか、あの緋色がよ、またただ美しさじゃない、清さ、と云ったら。……ここをいうのだ、茶屋の女房の浅黄縮緬のちらちらなぞは、突っくるみものの寄切(よせぎれ)だよ、……目も覚め、(むね)()みようじゃないか。

 ……同時に、時々の出入りとまでしばしばでなくても、同門の友輩(ともだち)で知合ってる糸(こう)が、少くとも、岡惚れを。」

「その事かい、何だ。」

 と笑いもカラカラと五徳に響いて、煙管を(はた)いた。

対手(あいて)は素人だ、(はばか)りながら。」

昨夜(ゆうべ)振られてもかい。」

「勿論。」

「直言を感謝す。」

 と俯向(うつむ)いて、袖口をのばすように膝に手を長く置き、

「人(さか)んなる時は、娘に勝ち、人衰うる時は女房が欲しい。……その意気だ。が、そうすると、話に乗ってくれるのに、また何が不都合だろう。」

「月村と(しょう)が合わないんだ。先方(さき)は言うまでもなかろうが、私も虫が好かないんだ。(ぜん)にね、月村が随筆を書いた事がある。燈籠見に誘われて、はじめて(くるわ)(のぞ)いたというんだがね、雑誌の編輯でも、女というと優待するよ。――年方(としかた)の挿絵でね、編中の見物の中に月村の似顔の娘が立っている。」

「素晴しいね。早速捜そう。」

「見るんなら内にあるよ。その随筆だがね、足が土についていない。お高く中洲の中二階、いや三階あたりに。――政党出の府会議員――一雪の親だよ――その令嬢が、自分一人。女は生れさえすりゃ誰でも処女だ、純潔だのに、一人で純潔がって廓の売色を、(けが)れた、(ただ)れた、浅ましい、とその上に、余計な事を、あわれがって、慈善家がって、(おつ)う済まして、ツンと気取った。」

「おおおお念入りだ。」

「そいつが(しゃく)に障ったから。――折から、焼芋(訂正)真珠を、食過ぎたせいか、私が脚気(かっけ)になってね。」

「色気がないなあ。」

祖母(としより)に小豆を煮て貰って、三度、三度。」

()せよ、……今、酒を追加する……小豆は意気を銷沈(しょうちん)せしめる。」

「意気銷沈より脚気衝心(しょうしん)可恐(こわ)かったんだ。――そこで、その小豆を喰いながら、(わたい)らが、売女なら、どうしよってんだい、小姐(ちいねえ)さん、内々の紐が、ぶら下ったり、爪の掃除をしない方が、余程(よっぽど)汚れた、頽れた、浅ましい。……塩みがきの私らを大きにお世話だ、お茶でもあがれ、とべっかっこをして見せた。」

「そうだろう、べっかっこでなくっちゃ筋は通らない。まともに弁じて、汚れた売女を憎んだのじゃない、あわれんだに……無理はないから。」

「勿論、つけた題が『べっかっこ。』さ――」

「見たいな、糸七……本名か。」

「まさか――署名は――江戸町河岸の、紫。おなじ雑誌の翌月の雑録さ。令嬢は随。……野郎は雑。――編輯部の取扱いが違うんだ。」

「辛うじて一坂越したよ、お互に、静かに、静かに。」

 弦光は一息ふッ、日のあたる窓下の机の(ほこり)を吹き、吹いた後を絹切で(はら)った。

       二十八

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