6話 薄紅梅(6)
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「それでも、上杉先生の、詞成堂――台町の山の屋敷の庭続き崖下にある破借家……矢野も二三度遊びに行ったね、あの塾の、小部屋小部屋に割居して、世間ものの活字にはまだ一度も文選されない、雑誌の半面、新聞の五行でも、そいつを狙って、鷹の目、梟の爪で、待機中の友達のね、墨色の薄いのと、字の拙いのばかり、先生にまだしも叱正を得て、色の恋のと、少しばかり甘たれかかると、たちまち朱筆の一棒を啖うだけで、気の吐きどころのない、嵎を負う虎、壁裏の蝙蝠、穴籠の熊か、中には瓜子という可憐なのも、気ばかり手負の荒猪だろう。
見す見す一雪女史に先を越されて、畜生め、でいる処へ、私のその『べっかっこ』だ、行った! 行った! 痛快! などと喝采だから、内々得意でいたっけが――一日、久しく御不沙汰で、台町へ機嫌伺いに出た処が、三和土に、見馴れた二足の下駄が揃えてある。先生お出掛けらしい。玄関には下の塾から交代の当番で、弁持十二が居るのさ。日曜だったし……すぐの座敷で、先生は箪笥の前で着換えの最中、博多の帯をきりりと緊った処なんだ。令夫人は藤色の手柄の高尚な円髷で袴を持って支膝という処へ、敷居越にこの面が、ヌッと出た、と思いたまえ。」
「その顔だね。」
「この面だ。――今朝なぞは特に拙いよ。「糸。」縮んだよ、先生の声が激しい。「お前、中洲のお京の悪口を書いたそうだな。」いきなりだろう、へどもどした。「は、いえ、別に。」「何、何を……悪気はない。悪気がなくって、悪口を、何だ、洒落だ。黙んな、黙んな。洒落は一廉の人間のする事、云う事だ。そのつらで洒落なんぞ、第一読者に対して無礼だよ。べっかっこが聞いて呆れる。そのべっかっこという面を俺の前へ出して見ろ。うわさに聞けば、友子づれで、吉原の河岸をせせって。格子へ飛びつくというから、だぼ沙魚のようになりやがった。――弁持……」十二のくすくす笑っているのを呼びかけて、「溝をせせって、格子へ飛びつくのは、だぼ沙魚じゃない……お前はよく、くだらない事を知っている、何だっけな。」弁持が鹿爪らしく、「は、飛沙魚です、は。」「飛沙魚だ、贅沢だ。もぐり沙魚の孑孑だ。――先方は女だ、娘だよ。可哀そうに、(口惜いか、)と俺が聞いたら、(恥かしい、)と云って、ほろりとしたんだ、袖で顔を隠したよ。孑孑め、女だって友だちだ、頼みある夥間じゃないか。黒髪を腰へ捌いた、緋縅の若い女が、敵の城へ一番乗で塀際へ着いた処を、孑孑が這上って、乳の下を擽って、同じ溝の中へ引込むんだ。」と……」
「分った、もう可い、もう可い。」
と弦光は膝も浮きそうに、火鉢の向うで、肩をわななかせて、手を振った。
「雪のごとき、玉のごとき、乳の下を……串戯にしろ、話にしろ、ものの譬喩にしろ、聞いちゃおられん。私には、今日、今朝よりの私には――ははははは。」
寂しい笑いで、
「話はおかしいが、大心配な事が出来た。糸的の先生、上杉さんは、その様子じゃ大分一雪女史が贔屓らしい。あの容色で、しんなりと肩で嬌態えて、机の傍よ。先生が二階の時なぞは、令夫人やや穏ならずというんじゃないかな。」
「串戯じゃない、片田舎の面疱だらけの心得違の教員なぞじゃあるまいし、女の弟子を。失礼だ。」
「失礼、結構、失礼で安心した。しかし、一言でそうむきになって、腰のものを振廻すなよ。だから振られるんだ、遊女持てのしない小道具だ。淀屋か何か知らないが、黒の合羽張の両提の煙草入、火皿までついてるが、何じゃ、塾じゃ揃いかい。」
「先生に貰ったんだ。弁持と二人さ、あとは巻莨だからね。」
「何しろ真田の郎党が秘し持った張抜の短銃と来て、物騒だ。」
「こんなものを物騒がって、一雪を細君に……しっかりおしよ。月村はね、駿河台へ通って、依田学海翁に学んでいるんだ。」
と居直った。
二十九
「学海翁に。」
弦光は目一番した。
「まさか剣術じゃあるまいな。それじゃ、僧正坊の術譲りと……そうか、言わずとも白氏文集。さもありなん、これぞ淑女のたしなむ処よ。」
「違う違う、稗史だそうだ。」
「まさか、金瓶梅……」
「紅楼夢かも知れないよ。」
「何だ、紅楼夢だ。清代第一の艶書、翁が得意だと聞いてはいるが、待った、待った。」
と上目づかいに、酒の呼吸を、ふっと吐いて、
「学海説一雪紅楼夢――待った、待った、第一の艶書を、あの娘に説かれては穏かでない。」
「教ゆ。授く。」
「……教ゆ。授く。気になる、気になる。」
「施す。」
「……施す、妙だ。いや、待った。待った。」
と掌で押えて留めるとともに、今度は、ぐっと深く目を瞑って、
「学海施一雪紅楼夢――や不可え。あの髯が白い頸脚へ触るようだ。女教員渚の方は閑話休題として、前刻入って行った氷月の小座敷に天狗の面でも掛っていやしないか、悪く捻って払子なぞが。大変だ、胸がどきどきして来たぞ。」
弦光はわざとらしく胸をわななかせたと思うと、その胸を反らし、畳後へ両の手をどさんと支いた。
「安心するがいい。誰が紅楼夢だときめたよ、一人で慌てているんじゃないか。一雪の習ってるのは水滸伝だとさ、白文でね。」
「何、水滸伝。はてな、妙齢の姿色、忽然として剣侠下地だ、うっかりしちゃいられない。」
と面を正しく、口元を緊めて坐り直し、
「寝ているうちに、匕首が飛んで首を攫うんだ、恐るべし……どころでない、魂魄をひょいと掴んで、血の道の薬に持って行く。それも、もう他事ではない、既に今朝の雪の朝茶の子に、肝まで抜かれて、ぐったりとしているんだ。聞けば聞得で、なお有難い。その様子じゃ――調ったとして婚礼の時は、薙刀の先払い、新夫人は錦の帯に守刀というんだね。夢にでも見たいよ、そんなのを。……
……といううちにも、糸的、糸的はひとりで目の覚めた顔をして澄ましているが、内で話した、外で逢ったという気振も見せない癖に、よく、そんな、……お京さんいい名だなあ、その娘の駿河台の研学の科目なぞを知っているね。あいつ、高慢だことの、ツンとしているのと、口でけなして何とかじゃないのかい。刺違えるならここで頼む。お互に怪我はしても、生命に別条のない決闘なら、立処にしようと云うんだ。俺はもう目が据っている、真剣だよ。」
「対手にならないが、次第は話そう。――それ、弁持の甘き、月府の酸きさ、誰某と……久須利苦生の苦きに至るまで、目下、素人堅気輩には用なしだ。誰が売女に好かれるか、それは知らないけれどもだよ。――塾の中に一人、自ら、新派の伊井蓉峰に「似てるです。」と云って、頤を撫でる色白な鼻の突出た男がいる。映山先生が洩れ聞いてね、渾名して、曰く――荷高似内――何だか勘平と伴内を捏合わせたようだけれど、おもしろかろう。ところがこれだけが素人ばりの、大の、しんし。」
「大のしんし、いい許の息子、金ありかい。」
「お互に懐中は寂しいね、一杯おつぎよ、満々と。しんしと聞いていい許の息子かは慌て過ぎる、大晦日に財布を落したようだ。簇だよ、張物に使う。……押を強く張る事経師屋以上でね。着想に、文章に、共鳴するとか何とか唱えて、この男ばかりが、ちょいちょい、中洲の月村へ出向くのさ。隅田に向いた中二階で、蒔絵の小机の前を白魚船がすぐ通る、欄干に凭れて、二人で月を視た、などと云う、これが、駿河台へ行く一雪の日取まで知っているんだ。
黙りでは相済まないと思って、「先生、私も、京子とともに無点本の水滸伝。」上杉先生が、「その隙に、すいとんか、おでんを売れ。」「ははっ。」とこそは荷高似内、口をへの字に頤の下まで結んで鼻を一すすり、無念の思入で畳をすごすごと退る処は、旧派の花道の引込みさ。」
「三枚目だな、我がお京さんを誰だと思うよ、取るに足らず。すると、まず、どこにも敵の心配はなしか。」
「……ところがある、あるんだ! 一人ある。」
弦光は猫板に握拳を、むずと出して、
「驚破、驚破、その短銃という煙草入を意気込んで持直した、いざとなると、やっぱり、辻町が敵なのか。」
「噴出さしちゃ不可いぜ。私は最初から、気にも留めていなかった、まったくだ。いまこう真剣となると、黙っちゃいられない。対手がある、美芸青雲派の、矢野も知ってる名高い絵工だ。」
三十
「――野土青麟だよ。」
「あ、野土青麟か。」
「うむ、野土青麟だ。およそ世の中に可厭な奴。」
「当代無類の気障だ。」
声を逸って、言うとともに、火鉢越に二人が思わず握手した。
(……ふと思うと、前段に述べた、作者が、真珠三枚で、書店の支配人と、ばらりの調子で声と指を合わせたと、趣を斉しゅうする。)
「絵だけ描いていれぱ、当人も世間も助かるものを、紫の太緒を胸高々と、紋緞子の袴を引摺って、他が油断をしようものなら、白襟を重ねて出やがる。歯茎が真黒だというが。」
この弦光の言、――聞くべし、特説也。
「乱杭、歯くそ隠の鉄漿をつけて、どうだい、その状で、全国の女子の服装を改良しようの、音楽を古代に回すの、美術をどうのと、鼻の尖で議論をして、舌で世間を嘗めやがる。爪垢で楽譜を汚して、万葉、古今を、あの臭い息で笛で吹くんだ。生命知らずが、誰にも解りこないから、歌を一つ一つ、異変、畜類な声を張り、高らかに唱って、続くは横笛、ひゃらひゅで、緞子袴の膝を敲くと、一座を《みまわ》し、ほほほ、と笑って、おほん、と反るんだ。堪らないと言っちゃない。あいつ、麟を改めて鱗とすればいい、青大将め。――聞けばそいつが(次第前後す、段々解る)その三崎町のお伽堂とかで蟠を巻いて黒い舌をべらべらとやるのかい。」
「横笛は、八本の調子を、もう一本上げたいほど高い処で張ってるのさ。貸本屋へしけ込むのは、道士逸人、どれも膏切った髑髏と、竹如意なんだよ――「ちとお慰みにごらん遊ばせ。」――などとお時の声色をそのまま、手や肩へ貸本ぐるみしなだれかかる。女房がまた、背筋や袖をしなり、くなり、自由に揉まれながら、どうだい頬辺と膝へ、道士、逸人の面を附着けたままで、口絵の色っぽい処を見せる、ゆうぜんが溢出るなぞは、地獄変相、極楽、いや天国変態の図だ。」
「図かい。」
「図だよ。」
「見料は高かろう。」
「高い、何、見料どころか、この図を視ながら、ちょんぼり髯の亭主が、「えへへ、ご壮な事だい。」勢の趣くところ、とうとう袴を穿いて、辻の角の(安旅籠)へ、両画伯を招待さ……「見苦しゅうはごわすが、料理店は余り露骨……」料理屋の余り露骨は可訝しいがね、腰掛同然の店だからさ、そこから、むすび針魚の椀、赤貝の酢などという代表的なやつを並べると、お時が店をしめて、台所から、これが、どうだい葛籠に秘め置いた小紋の小袖に、繻珍の帯という扮装で画伯ご所望の前垂をはずしてお取持さ。色紙、短冊、扇面、紙本、立どころに、雨となり、雲となり……いや少し慎もう……竹となり、蘭となる。……情流既に枯渇して、今はただ金慾、野を燎く髯だからね。向うの写真館の、それ「三大画伯お写真。」へは、三崎座の看板前、大道の皿廻しほどには人だかりがするんだから、考えたんだよ。
(――これ皆、中洲を伺い、三崎町を覗く、荷高似内の見聞して報ずるところさ。)
ところで、青麟――青麟と中洲の関係は、はじめ、ただ、貸本屋から本を借りるには、帳面へ、所番地を控える常規だ。きっと、馴染か、その時が初めかは分らないが、店頭で見たお嬢さんの住居も名も、すぐ分るだろう、というので、誰に見せる気だか薄化粧って。」
「白粉を?……遣るだろう!」
「すぼめ口に紅をつけて「ほほほ景気はどうかね。」とお伽堂へ一人で青麟が顕われたそうだ。この方は、女房の手にも足にも触りっこなし、傍へ寄ろうともしない澄まし方、納まり方だそうだが、見ていると、むかっとする、離れていても胸が悪い、口をきかれると、虫唾が走る、ほほほ、と笑われると、ぐ、ぐ、と我知らず、お時が胸へ嘔上げて、あとで黄色い水を吐く……」
「聞いちゃおられん、そ、そいつが我がお京さんを。」
「痛い、痛い。」
「あ、何度めだい、また握手した。糸的もよく一息に饒舌ったなあ。」
三十一
「まず握手を解こう。両方がこう意気込んでは、青麟輩に――断って置くが、意地にも我慢にも、所得は違うが――彼等に対して、いやしくも、糸七、弦光二人掛りのようで癪に障る。そこで、大切なその話はどうなったんだい。」
「……いずれ、その安料理屋へ青麟を請待さ。こいつは、あと二人より大分に値が違うそうだからね。その節は、席を改めまして、が、富士見楼どころだろう。お伽堂の亭主の策略さ。
そこへ、愛読の俥、一つ飛べば敬拝の馬車に乗せて、今を花形の女義太夫もどきで中洲の中二階から、一雪をおびき出す。」
「三崎町へ、いいえさ、地獄変相の図の中へな、ううう。」
「せき込むなよ……という事も出来るし、亭主がまた髯を捻って、「先方御親父が、府会議員とごわすれば、直接に打附って見るも手廻しが早いでごわす。久しく県庁に勤めたで、大なり、小なり議員を扱う手心も承知でごわす。」などという段取になってるそうだ。」
弦光がこの時、腕を拱いた。
「少からず煩いな、いつからだね、そんな事のはじまってるのは。」
「初冬から年末……ははは、いやに仲人染みたぜ……そち以来だそうだ。」
「……だそうじゃ不可いよ、冷淡だよ、友達効のない。」
「頼まれたのは、今日はじめてじゃないか。」
「それにしても冷淡過ぎるよ。――したたかに中洲へ魔手が伸びているのに。」
「私は中洲が煮て喰われようが、焼いて……不可い、人道の問題だ。ただし、呼出されようが、出されまいが、喰わそうが喰わすまいが、一雪の勝手だから、そんな事は構っちゃいられん。……不首尾重って途絶えているけれど、中洲より洲崎の遊女が大切なんだ。しかし、心配は要るまいと思う。荷高の偵察によれば――不思議な日、不思議な場合、得も知れない悪臭い汚い点滴が頬を汚して、一雪が、お伽堂へ駆込んだ時、あとで中洲の背後へ覆被さった三人の中にも、青麟の黒い舌の臭気が頬にかかった臭さと同じだ、というのを、荷高が、またお時から、又聞、孫引に聞いている。お時でさえ黄水を吐く。一雪は舐められると血を吐くだろう、話にはなりゃしないよ。」
弦光は案じ入って、立処に年を取ること十ばかり。
「いやいや、そうでない。すべて悲劇はそこらで起る。不思議に、そんな縁の――万々一あるまいが――結ばる事が、事実としてありかねない。予感が良くない。胸が騒ぐ。……糸ちゃん、すぐにもお伽堂とかへ行って。」
「そいつは、そいつは不可い……」
「なぜだよ、どうもお伽堂というのは、糸的の知合からはじまった事らしいのに、妙に自分を除外して、荷高ばかりを廻しているし、第一、中洲がだね、二三度、その店へ行きながら、糸的のうわさなぞをしないらしいのは、おかしいじゃないか。」
「ちっともしない、何にも言わない。またこっちも、うわさなんかして貰いたくないんだよ。」
――(様子を見ると、仔細は什、京子が『たそがれ』を借りた事など、女房は、それに一言も及ばぬらしい。)――
「ただ、いかんせん、亭主に高利の借がある。催促が厳しいんだ。亭主の催促が厳しいのに――そこを蔭になり、日向になり、「あなたア」などとその目でじろりと遣るだろう……白肉の柔い楯になって、庇ってくれようという――女房を、その上に、近い頃また痛めつけた。」
「誰だい、髑髏かい、竹如意かい。」
「また急込むよ。中洲の話になってからというものは、どうも、骨董はあせって不可い。話の続きでも知れてるじゃないか。……高利の借りぬし、かくいう牛骨、私とそれに弁持十二さ。」
「何だ二人でか、まさか、そんな竹如意、髑髏の亜流のごとき……」
「黙るよ、私は。失礼な、素人を馬鹿な、誰が失礼を。」
「はやまった、言のはずみだ、逸外った。その短銃を、すぐに引掴んで引金を捻くるから殺風景だ。」
「けれどもね。実は、その時の光景というのが、短銃と短刀同然だったよ。弁持と二人で、女房を引挟んで。」
といって、苦笑した。
三十二