8話 薄紅梅(8)
読み方を変える
慌てて、
「唯今、御挨拶。」
これには、ただ身の動作で、返事して、
「おつかいなさいましな。」
と、すぐに糸七が腰かけた縁端へ、袖摺れに、色香折敷く屈み腰で、手に水色の半を。
「私が、あの……」
と、その半を足へ寄せる。
呆気に取られる。
「ね。」
「よして、よして下さい。罰が、罰が当る。」
「罰の当りますのは私の方です、私の方です。」
切った声して、
「――牛込の料理屋へ、跣足で雨の中をおいでなさいました。あの時にも、おみあしを洗って上げたかったんです。」
「何の事です、あれは先生の用で駆けつけたんです。」
「でも、それだって。」
「不可い不可い、不可ません。あなたの罰はともかくも、御両親の罰が当る――第一何の洒落です。」
「洒落……」
と引息に声が掠れて、志を払退けられたように、ひぞりもし拗ねた状に、身を起してお京が立った。
そこへ、お滝が飛込んで――
「あい、雑巾。あら、あら、二人とも気取ってる。バケツが引っくり返ってるじゃないの――テン、チン、嵯峨やおむろの花ざかり、浮気な蝶も色かせぐ、廓のものにつれられて、外めずらしき嵐山、ソレ覚えてか、きみさまの、袴も春の朧染、おぼろげならぬ殿ぶりを、見初めて、そめて、恥かしの、森の下露、思いは胸に、」
と早饒舌りの一息にやってのけ、
「わあい……光邦、妖術にかかって、宙に釣られて、ふらふらしてるよ。」
背中にひったり、うしろ姿でお京が立ったのを、弱った糸七は沓脱がないから、拭いた足を、成程釣られながら、密と振向いて見ると、愁を瞼に含めて遣瀬なさそうに、持ち忘れたもののような半が、宙に薄青く、白昼の燐火のように見えて、寂しさの上に凄いのに、すぐ目を反らして首垂れた。
お滝が、ひょいと、飛んで傍へ来て、
「きれいなお姉ちゃん、少しお動きよ。」
「はい、動きましょう。」
と、縁をうつくしい褄捌き、袖の動きに半を持添えて、お滝の掌へ、ひしと当てた。
「これ、雑巾のおうつりです。」
「あら、あら、私に。」
「でも新しいんですから。」
お滝は受けた半を、前髪に当て、額に当て、頬に当て、頬摺して、肩へかけ、胸に抱いた、その胸ではらりと拡げ、小腕を張って、目を輝かして身を反らし、
「さてこそさてこそ、この旗を所持なすからは、問うに及ばず、将門が忘れがたみ、滝夜叉姫であろうがな。」
「何だ、あべこべじゃないか、違ってら。」
「チエエ、残念や、口おしや、かくなるうえは何をかつつまん、まこと我こそ――滝夜叉なるわ。どろんどろん、」
と、あとしざりに、
「……帯だって出来るわ、この半。嬉しい! 花嫁さん、ありがとう、お楽しみ光邦様、どろんどろん。」
木戸も閉めないで、トンと行く。
「――何とも、かとも、言いようはありません。」
すぐにお京を招じ入れた、というよりも、お京はひとりでに、ものあって誘うように、いま居た四畳半の縁の障子と、格子戸見通しの四畳を隔てた破襖の角柱で相合うその片隅に身を置いたし、糸七は窓下の机の、此方へ、炉を前にすると同時に、いきなり頭を下げて、せき込んで言ったのである。
「何とも、かとも、いいようはありません、失礼しました。」
お京は薄い桔梗色の襟を深く、俯向いて、片手で胸をおさえて黙っていたが、島田を簪で畳の上へ縫ったように手をついた。
「辻町さん……私を折檻して、折檻して下さいまし。折檻して下さいまし。」
「何、折檻。」
「ええ。」
「折檻、あなたはおよそ折檻ということを、知っていますか。あなたの身で、そのおからだで折檻という言葉をさえ知っていますか、本では読み話では聞いて、それは知っていらっしゃるかも知れませんが、何をいうんです。」
――一昨年か、一昨々年、この人の筆に、かくもの優しい、たおやかな娘に、蝦蟇の面の「べっかっこ。」、それも一つの折檻か、知らず、悪たれ小僧の礫をぶつけた――悪戯を。
糸七はすくむよりも、恐れるよりも、ただ、悄然とするのであった。
三十七
上げた顔は、血が澄んで、色の白さも透通る……お京は片袖を膝の上に、
「何よりか、あの、何より先に、申訳がありません。あなたのお内へお許しも受けないで、お言葉も受けないで、勝手に上って来たんですもの。」
「そんな、そんな事、何、こんな内、上るにも、踏むにも、ごらんの通り、西瓜の番小屋でもありゃしません、南瓜畑の物置です。」
「いいえ、いいえ、私だって、幾度も、お玄関で。」
「あやまります、恐入ります。お玄関は弱り果てます。」
「おうかがいはしたんですけれど、しんとして、誰方のお声も聞えません。」
「すぐ開き扉一つの内に、祖母が居ますが、耳が遠い。」
「あれ、お祖母様にも失礼な、どうしたら可いでしょう。……それに、御近所の方、おかみさんたちが多勢、井戸端にも、格子外にも、勝手口にも、そうしてあの、花嫁、花嫁。……」
「今も居ます。現に居ます、ごめんなさい。談じます。談判します、打なぐります、花嫁だなんて失礼な。」
「あれ、あなた、そんな気ではありません。極りが悪くて、極りが悪くて、外へ出られないもんですから、お内へ入ってかくれました。それだし、ただ、人の口の端の串戯だけでも、嫁だなぞと、あなたのお耳へ入ったらどうしようと、私……私を見て、庭へ出ておしまいなさいますし、私、死にたくなりました。」
と、片袖で顔をかくすと、姿も、消入る風情である。
「それが、それがです、それにわけがあるんです。何しろ、あなたを見てからではありません、見ない前に飛出したんです、――今申訳をします。待って下さい。どうも、何しろ、周囲が煩い。」
軸物も、何もない、がらん堂の一つ道具に、机わきの柱にかけた、真田が短銃の両提。
鉄の煙管はいつも座右に、いまも持って、巻莨の空缶の粉煙草を捻りながら、余りの事に、まだ喫む隙を見出さなかった、その煙管を片手に急いで立って、机の前の肱掛窓の障子を開けると、植木屋の竹垣つづきで、細い処を、葎くぐりに人は通う。
「――夜叉的、夜叉的。」
声の下に、鼻の上まで窓の外へ、二ツ目が出た。
「光邦様、何。」
ひやりと、また汗になりながら、
「媽々連を追払ってくれ、消してくれよ、妖術、魔術で。」
黙って瞬でうなずいた目が消えると、たちまち井戸端へ飛んだと思う、総長屋の桝形形の空地へ水輪なりにキャキャと声が響いた。
「放れ馬だよ、そら前町を、放れ馬だよ、五匹だ。放れ馬だよッ。」
跫音が、ばたばたばた、そんなにも居たかと思う。表通の出入口へ、どっと潮のように馳り退いて、居まわりがひっそりする、と、秋空が晴れて、部屋まで青い。
畳の埃も澄んだようで、炉の灰の急な白さ。背きがち、首だれがちに差向ったより炉の灰にうつくしい面影が立って、その淡い桔梗の無地の半襟、お納戸縦縞の袷の薄色なのに、黒繻珍に朱、藍、群青、白群で、光琳模様に錦葉を織った。中にも真紅に燃ゆる葉は、火よりも鮮明に、ちらちらと、揺れつつ灰に描かるる。
それを汚すようだから、雁首で吹溜めの吸殻を隅の方へ掻こうとすると、頑固な鉄が、脇明の板じめ縮緬、緋の長襦袢に危く触ろうとするから、吃驚して引込める時、引っかけて灰が立った。その立つ灰にも、留南木の香が芬と薫る。
覚えず、恍惚する、鼻の尖へ、炎が立って、自分で摺った燐寸にぎょっとした。が、しゃにむに一服まず吸って、はじめて、一息吻とした。
「月村さん、あなたを見て、花嫁、いや、待って下さい。言うのも憚りますが、その花嫁のわけなんです。――実は、今更何とも面目次第もありません、跣足で庭へ遁げましたのも、盟って言います。あなたのお姿を見てからではないのです。……
……聞いたばかり、聞いたばかりで腰も抜かさないのは、まだしもの僥倖で飛出したんです。今しがた、あなたが、大方、この長屋の総木戸をお入んなすった時でしょう。その頃です、唯今のお茶っぴいが、その窓から頭を出して、「花嫁が来た。」と言ったんです。――来たらば知らしておくれよ、と不断、お茶っぴいを斥候同然だったものですから、聞くか聞かないに、何とも、不状を演じました。……いま、そのわけを話しますが。……
……煙草は……それはありがたい、お嫌でも、お友だちがいに、すぱすぱ。」
と妙に砕けて、変に勢って、しょげて、笑って、すぱすぱ。
三十八
「……また何も、ここへ友達を引張り出して、それに託けるのは卑怯ですが、二月ばかり前でした。あなたなぞの前では、お話もいかがわしい悪場所の、それも獣の巣のような処へ引掛ったんです。泥々に酔って二階へ押上って、つい蹌踉けなりに梯子段の欄干へつかまると、ぐらぐらします。屋台根こそぎ波を打って、下土間へ真逆に落ちようとしました……と云った楼で。……障子の小間は残らず穴ばかり。――その一つ一つから化ものが覗いて、蛞蝓の舌を出しそうな様子ですが、ふるえるほど寒くはありませんから、まず可いとして、その隅っ子の柱に凭掛って、遣手という三途河の婆さんが、蒼黒い、痩せた脚を突出してましてね。」
……褌というのを……控えたらしい。
「舐めちゃ取り、舐めちゃ取り、蚤だか、虱だか捻っています。――あなたも、こんな、私のようなものの処へおいで下すった因果に、何事も忘れてお聞き下さい。
その蚤だか虱だかを捻る片手間に、部屋から下ったという蕎麦の残り、伸びて、蚯蚓のようにのたくるのを撮んじゃ食い、撮んじゃ食う。そこをまた、牙と舌を剥出して、犬ですね、狆か面の長い洋犬などならまだしも、尻尾を捲上げて、耳の押立った、痩せて赤剥だらけなのが喘ぎながら掻食う、と云っただけでも浅ましさが――ああ、そうだ。」
糸七は煙管を落した。
「あなたの吉原の随筆は、たしか、題は『あさましきもの。』でしたね。私が飛んだ『べッかッこ』をした。」
「もう、どうぞ。」
お京は膝に袖を千鳥に掛けたまま、雌浪を柔に肩に打たせた。
「大目玉を頂きましたよ、先生に。」
「もうどうぞ、ご堪忍。」
「いや、お詫びは私こそ、いわばやっぱりあなたの罰です。その「浅ましい」一つの穴で……部屋は真暗、がたがた廊下の曲角に、洋鉄の洋燈一つ。余り情ない、「あかりが欲い。」……「蝋燭代を別に出せ。」で、奈落に落ちて一夜あける、と勘定は一度済ましたんですが、茶を一杯にも附足しの再勘定、その勘定書を、その勘定を催促しても、わざと待たして持って来ません。これが、ぼると言います。阿漕な術です。はめられたんです。といううちに、朝直し……遊蕩が二度振になって、また、前勘定、このつけを出されると、金が足りない、足りないどころですか、まるで始末が出来ないのです。
――「あさましきもの」が引受けてくれました、暑いのに、破屏風にすくんで、かびた蒲団に縮まったありさまは、人間に、そのまま草が生えそうです。無面目で廊下へ顔も出せません。お螻の兄さん、ちと、ご運動とか云って、「あさましきもの」に廊下へ連出されると、トトトン、トトトンと太鼓の音。それを、欄干から覗きますとね、漬物桶、炭俵と並んで、小さな堂があって、子供が四五人――午の日でした。お稲荷講、万年講、お稲荷さんのお初穂。「お初穂よ、」といって、女がお捻を下へ投げると、揃って上を向いた。青いんだの、黄色いんだの、子供の狐の面を五つ見た時は、欄干越に廂へ下った女の扱帯が、真赤な尻尾に見えたんです。
その女が、これも化けた一つの欺で、俥まで拵えて、無事に帰してくれたんです。が、こちらが身震をするにつけて、立替の催促が烈しく来ます。金子は為替で無理算段で返しましたが、はじめての客に帰りの俥まで達引いた以上、情夫――情夫(苦い顔して)が一度きり鼬の道では、帳場はじめ、朋輩へ顔が立たぬ、今日来い、明日来い、それこそ日ぶみ、矢ぶみで。――もうこの頃では、押掛ける、引摺りに行く、連れて帰る、と決闘状。それが可恐さに、「女が来たら、俥が見えたら、」と、お滝といいます……あのお茶っぴいに、見張を頼んで、まさか、女郎、とはいえませんから、そこは附景気に、「嫁が来るんだ。遠くからでも見えたら頼むよ。」合点ものです。そいつが、今です、前刻ですよ。そこから覗いて、「来たよ、花嫁。」……
一言で面くらって、あなたのお顔も、姿も見ないで、跣足で庭へ逃出した始末です。断じて、決して、あなたと知って逃げたのではありません。」
しまった! 大家が家賃の催促でも済んだものを、馬鹿の智慧は後からで、お京のとりなしの純真さに、つい、事実をあからさまに、達引だの、いや矢ぶみだの、あさましく聞きはしないか、と、舌がたちまち縮んで咽喉へ声の詰る処へ。
「光邦様。」
日ぶみ矢ぶみの色男の汗を流した顔を見よ。いまうわさしたその窓から、お滝の蝶々髷が、こん度は羽目板の壊れを踏んで上ったらしい。口まで出た。
「お客様の、ご馳走は。……つかいに行って上げるわよ。」
また、冷汗だ、銭がない。
三十九
「これは、これは、おうようこそや。……今の、上り端を覗いたら、見事な駒下駄があったでの。」
ちと以前より、ごそごそと、台所で、土瓶、炭、火箸、七輪。もの音がしていたが、すぐその一枚の扉から、七十八の祖母が、茶盆に何か載せて出た。
これにお京のお諸礼式は、長屋に過ぎて、瞠目に価値した。
「あの、お祖母様……お祖母様。」
二声目に、やっと聞えて、
「はい、はい。」
「辻町さんに……」
「…………」
「糸七さんに……」
肩身を狭く、ちょっと留めて、
「そんな事いったって、分りませんよ。」
「……お孫さんに。……」
「はい。」
「いろいろとお世話になります。」
「……孫めは幸福、お綺麗なお客様で、ばばが目にも枯樹に花じゃ。ほんにこの孫の母親、わしには嫁ごじゃ。江戸から持ってござっての、大事にさしゃった錦絵にそのままじゃ。後の節句にも、お雛様に進ぜさした、振出しの、有平、金米糖でさえ、その可愛らしいお口よごしじゃろうに、山家在所の椎の実一つ、こんなもの。」
と、へぎ盆も有合さず、菜漬づかいの、小皿をそこへ、二人分。糸七は俯向いた。一雪よ、聞け。山果庭ニ落チテ、朝三ノ食秋風ニ《ア》クとは申せども、この椎の実とやがて栗は、その椎の木も、栗の木も、背戸の奥深く真暗な大藪の多数の蛇と、南瓜畑の夥多しい蝦蟇と、相戦う衝に当る、地境の悪所にあって、お滝の夜叉さえ辟易する。……小雀頬白も手にとまる、仏づくった、祖母でなくては拾われぬ。
「それからの、青紫蘇を粉にしたのじゃがの、毒にはならぬで、まいれ。」
と湯気の立つ茶椀。――南無三宝、茶が切れた。
「ほんにの、これが春で、餅草があると、私が手に、すぐに団子なと拵えて進じょうもの。孫が、ほっておきで、南瓜の葉ばかり何にもないがの。」
と寂しい笑いの、口には歯がない。
お京がいとしげに打傾き、
「お祖母様、いまに可愛い嫁菜が咲きます。」
「嫁菜がの、嬉しやの、あなたのような、のう。」
糸七は仰天した、人参のごとく真まで染って、
「お祖母さん、お祖母さん、お祖母さん、そんな事より、仏間へ行って、この、きれいな、珍らしいお客様の見えた事を、父、母に話して下さい。」
「おいの、そうじゃの。」
何と思ったか、お京が急いで、さも、遠慮のないように椎の実を取った。
「お祖母様。」
「……おお、食べてくださるかの。」
「おいしい……」
と、長いまつ毛をふるわせて、
「三度、三度、ここに居まして、ご飯のかわりに頂いたら、どんなにか嬉しいでしょう……」
と、息をふくんだ頬を削って、ツと湧く涙に袖を当てると、いう事も、する事も、訳は知らず誘われて、糸七も身を絞ってほろほろと出る涙を、引振うように炉に目を外らした。
「喧嘩せまい、喧嘩せまい。何じゃ、この、孫めがまた……」
「――お祖母さん、芝居の話をしていたんです、それが悲しいもんですから。」
「それは、それは……嫁ごもの、芝居が何より好きでござったよ。たんと、ゆっくり話さっしゃい。……ほんにの、お蒲団もない。道中にも、寝床にも被るのなれど、よう払うてなと進ぜましょう。」
祖母の立ったのを見ると斉しく、糸七はぴったり手をついた。
「祖母の失言をあやまります。」
「勿体ない。私は嬉しゅう存じました。」
と膝を退って、礼を返して、
「辻町さん、では、失礼をいたします。」
何しに来たこの女、何を泣いたこの女、なぜ泣かせたこの女、椎と青紫蘇の葉に懲りて、破毛布に辟易したろう。
黙って、糸七が挨拶すると、悄然と立った、が屹と胸を緊めた。その姿に似ず、ゆるく、色めかしく、柔かな、背負あげの紗綾形絞りの淡紅色が、ものの打解けたようで可懐しい。
框の障子を、膝をついて開けると、板に置いた、つつみものを手に引きつけて、居直る時、心急いた状に前褄が浅く揺れて、帯の模様の緋葉が散った。
「お恥しいもんです。小さな盃は、内に久しくありました。それに、お酒をお一口。」
四十