薄紅梅

8話 薄紅梅(8)

6,862字 約14分 2008年11月22日 公開

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 慌てて、

唯今(ただいま)、御挨拶。」

 これには、ただ身の動作(こなし)で、返事して、

「おつかいなさいましな。」

 と、すぐに糸七が腰かけた縁端(えんばな)へ、袖摺れに、色香折敷く(かが)み腰で、手に水色の(ハンケチ)を。

「私が、あの……」

 と、その半を足へ寄せる。

 呆気(あっけ)に取られる。

「ね。」

「よして、よして下さい。罰が、罰が当る。」

「罰の当りますのは私の方です、私の方です。」

 (せま)った声して、

「――牛込の料理屋へ、跣足(はだし)で雨の中をおいでなさいました。あの時にも、おみあしを洗って上げたかったんです。」

「何の事です、あれは先生の用で駆けつけたんです。」

「でも、それだって。」

不可(いけな)い不可い、不可(いけ)ません。あなたの罰はともかくも、御両親の罰が当る――第一何の洒落(しゃれ)です。」

「洒落……」

 と引息に声が(かす)れて、志を払退(はらいの)けられたように、ひぞりもし()ねた(さま)に、身を起してお京が立った。

 そこへ、お滝が飛込んで――

「あい、雑巾。あら、あら、二人とも気取ってる。バケツが引っくり返ってるじゃないの――テン、チン、嵯峨(さが)やおむろの花ざかり、浮気な蝶も色かせぐ、(くるわ)のものにつれられて、外めずらしき嵐山、ソレ覚えてか、きみさまの、袴も春の朧染(おぼろぞめ)、おぼろげならぬ殿ぶりを、見初(みそ)めて、そめて、恥かしの、森の下露、思いは胸に、」

 と早饒舌(はやしゃべ)りの一息にやってのけ、

「わあい……光邦、妖術にかかって、宙に釣られて、ふらふらしてるよ。」

 背中にひったり、うしろ姿でお京が立ったのを、弱った糸七は沓脱(くつぬぎ)がないから、拭いた足を、成程釣られながら、(そっ)と振向いて見ると、(うれい)(まぶた)に含めて遣瀬(やるせ)なさそうに、持ち忘れたもののような(ハンケチ)が、宙に薄青く、白昼(まひる)燐火(おにび)のように見えて、寂しさの上に(すご)いのに、すぐ目を反らして首垂(うなだ)れた。

 お滝が、ひょいと、飛んで(そば)へ来て、

「きれいなお姉ちゃん、少しお動きよ。」

「はい、動きましょう。」

 と、縁をうつくしい褄捌(つまさば)き、袖の動きに半を持添えて、お滝の(てのひら)へ、ひしと当てた。

「これ、雑巾のおうつりです。」

「あら、あら、私に。」

「でも新しいんですから。」

 お滝は受けた半を、前髪に当て、額に当て、頬に当て、頬摺(ほおずり)して、肩へかけ、胸に(いだ)いた、その胸ではらりと拡げ、小腕を張って、目を輝かして身を反らし、

「さてこそさてこそ、この旗を所持なすからは、問うに及ばず、将門(まさかど)が忘れがたみ、滝夜叉姫であろうがな。」

「何だ、あべこべじゃないか、違ってら。」

「チエエ、残念や、口おしや、かくなるうえは何をかつつまん、まこと我こそ――滝夜叉なるわ。どろんどろん、」

 と、あとしざりに、

「……帯だって出来るわ、この半。嬉しい! 花嫁さん、ありがとう、お楽しみ光邦様、どろんどろん。」

 木戸も閉めないで、トンと()く。

「――何とも、かとも、言いようはありません。」

 すぐにお京を招じ入れた、というよりも、お京はひとりでに、ものあって誘うように、いま居た四畳半の縁の障子と、格子戸見通しの四畳を隔てた破襖(やれぶすま)の角柱で相合うその片隅に身を置いたし、糸七は窓下の机の、此方(こなた)へ、炉を前にすると同時に、いきなり(こうべ)を下げて、せき込んで言ったのである。

「何とも、かとも、いいようはありません、失礼しました。」

 お京は薄い桔梗色(ききょういろ)の襟を深く、俯向(うつむ)いて、片手で胸をおさえて黙っていたが、島田を(かんざし)で畳の上へ縫ったように手をついた。

「辻町さん……私を折檻(せっかん)して、折檻して下さいまし。折檻して下さいまし。」

「何、折檻。」

「ええ。」

「折檻、あなたはおよそ折檻ということを、知っていますか。あなたの身で、そのおからだで折檻という言葉をさえ知っていますか、本では読み話では聞いて、それは知っていらっしゃるかも知れませんが、何をいうんです。」

 ――一昨年(おととし)か、一昨々年(さきおととし)、この人の筆に、かくもの優しい、たおやかな娘に、蝦蟇(がま)(つら)の「べっかっこ。」、それも一つの折檻か、知らず、悪たれ小僧の(つぶて)をぶつけた――悪戯(いたずら)を。

 糸七はすくむよりも、恐れるよりも、ただ、悄然(しょうぜん)とするのであった。

       三十七

 上げた顔は、血が澄んで、色の白さも透通る……お京は片袖を膝の上に、

「何よりか、あの、何より先に、申訳がありません。あなたのお内へお許しも受けないで、お言葉も受けないで、勝手に上って来たんですもの。」

「そんな、そんな事、何、こんな内、上るにも、踏むにも、ごらんの通り、西瓜(すいか)の番小屋でもありゃしません、南瓜畑の物置です。」

「いいえ、いいえ、私だって、幾度も、お玄関で。」

「あやまります、恐入ります。お玄関は弱り果てます。」

「おうかがいはしたんですけれど、しんとして、誰方(どなた)のお声も聞えません。」

「すぐ開き()一つの内に、祖母(としより)が居ますが、耳が遠い。」

「あれ、お祖母様(ばあさま)にも失礼な、どうしたら()いでしょう。……それに、御近所の方、おかみさんたちが多勢、井戸端にも、格子外にも、勝手口にも、そうしてあの、花嫁、花嫁。……」

「今も居ます。現に居ます、ごめんなさい。談じます。談判します、(ぶん)なぐります、花嫁だなんて失礼な。」

「あれ、あなた、そんな気ではありません。(きま)りが悪くて、極りが悪くて、外へ出られないもんですから、お内へ入ってかくれました。それだし、ただ、人の口の()串戯(じょうだん)だけでも、嫁だなぞと、あなたのお耳へ入ったらどうしようと、私……私を見て、庭へ出ておしまいなさいますし、私、死にたくなりました。」

 と、片袖で顔をかくすと、姿も、消入る風情である。

「それが、それがです、それにわけがあるんです。何しろ、あなたを見てからではありません、見ない前に飛出したんです、――今申訳をします。待って下さい。どうも、何しろ、周囲(まわり)(うるさ)い。」

 軸物(かけもの)も、何もない、がらん堂の一つ道具に、机わきの柱にかけた、真田が短銃(たんづつ)両提(ふたつさげ)

 鉄の煙管(きせる)はいつも座右に、いまも持って、巻莨(まきたばこ)空缶(あきかん)の粉煙草を(ひね)りながら、余りの事に、まだ()(すき)を見出さなかった、その煙管を片手に急いで立って、机の前の肱掛窓(ひじかけまど)の障子を開けると、植木屋の竹垣つづきで、細い処を、(むぐら)くぐりに人は通う。

「――夜叉(こう)、夜叉(こう)。」

 声の下に、鼻の上まで窓の外へ、二ツ目が出た。

「光邦様、何。」

 ひやりと、また汗になりながら、

媽々(かかあ)連を追払(おっぱら)ってくれ、消してくれよ、妖術、魔術で。」

 黙って(まばたき)でうなずいた目が消えると、たちまち井戸端へ飛んだと思う、総長屋の桝形形(ますがたなり)の空地へ水輪なりにキャキャと声が響いた。

「放れ馬だよ、そら前町を、放れ馬だよ、五匹だ。放れ馬だよッ。」

 跫音(あしおと)が、ばたばたばた、そんなにも居たかと思う。表通の出入口へ、どっと潮のように(はし)退()いて、居まわりがひっそりする、と、秋空が晴れて、部屋まで青い。

 畳の埃も澄んだようで、炉の灰の急な白さ。背きがち、(うな)だれがちに差向ったより炉の灰にうつくしい面影が立って、その(うす)い桔梗の無地の半襟、お納戸縦縞(たてじま)(あわせ)の薄色なのに、黒繻珍(くろしゅちん)に朱、(あい)群青(ぐんじょう)白群(びゃくぐん)で、光琳(こうりん)模様に錦葉(もみじ)を織った。中にも真紅に燃ゆる葉は、火よりも鮮明(あざやか)に、ちらちらと、揺れつつ灰に描かるる。

 それを汚すようだから、雁首で吹溜めの吸殻を隅の方へ掻こうとすると、頑固な鉄が、脇明(わきあけ)の板じめ縮緬(ちりめん)()長襦袢(ながじゅばん)に危く触ろうとするから、吃驚(びっくり)して引込(ひっこ)める時、引っかけて灰が立った。その立つ灰にも、留南木(とめぎ)の香が(ぷん)と薫る。

 覚えず、恍惚(うっとり)する、鼻の(さき)へ、炎が立って、自分で()った燐寸(マッチ)にぎょっとした。が、しゃにむに一服まず吸って、はじめて、一息(ほつ)とした。

「月村さん、あなたを見て、花嫁、いや、待って下さい。言うのも(はばか)りますが、その花嫁のわけなんです。――実は、今更何とも面目次第もありません、跣足(はだし)で庭へ()げましたのも、(ちか)って言います。あなたのお姿を見てからではないのです。……

 ……聞いたばかり、聞いたばかりで腰も抜かさないのは、まだしもの僥倖(しあわせ)で飛出したんです。今しがた、あなたが、大方、この長屋の総木戸をお入んなすった時でしょう。その頃です、唯今のお茶っぴいが、その窓から頭を出して、「花嫁が来た。」と言ったんです。――来たらば知らしておくれよ、と不断、お茶っぴいを斥候(ものみ)同然だったものですから、聞くか聞かないに、何とも、不状(ぶざま)を演じました。……いま、そのわけを話しますが。……

 ……煙草は……それはありがたい、お(きらい)でも、お友だちがいに、すぱすぱ。」

 と妙に砕けて、変に(きお)って、しょげて、笑って、すぱすぱ。

       三十八

「……また何も、ここへ友達を引張(ひっぱ)り出して、それに(かず)けるのは卑怯(ひきょう)ですが、二月ばかり前でした。あなたなぞの前では、お話もいかがわしい悪場所の、それも獣の巣のような処へ引掛(ひっかか)ったんです。泥々に酔って二階へ押上って、つい蹌踉(よろ)けなりに梯子段(はしごだん)の欄干へつかまると、ぐらぐらします。屋台根こそぎ波を打って、下土間へ真逆(まっさか)に落ちようとしました……と云った(うち)で。……障子の小間(こま)は残らず穴ばかり。――その一つ一つから化ものが覗いて、蛞蝓(なめくじ)の舌を出しそうな様子ですが、ふるえるほど寒くはありませんから、まず()いとして、その隅っ子の柱に凭掛(よりかか)って、遣手(やりて)という三途河(さんずがわ)の婆さんが、蒼黒(あおぐろ)い、()せた脚を突出してましてね。」

 ……(ふんどし)というのを……控えたらしい。

()めちゃ取り、舐めちゃ取り、(のみ)だか、(しらみ)だか(ひね)っています。――あなたも、こんな、私のようなものの処へおいで下すった因果に、何事も忘れてお聞き下さい。

 その蚤だか虱だかを捻る片手間に、部屋から下ったという蕎麦の残り、伸びて、蚯蚓(みみず)のようにのたくるのを(つま)んじゃ食い、撮んじゃ食う。そこをまた、牙と舌を剥出(むきだ)して、犬ですね、(ちん)(つら)の長い洋犬などならまだしも、尻尾を捲上(まきあ)げて、耳の押立(おった)った、痩せて赤剥(あかはげ)だらけなのが(あえ)ぎながら掻食(かっくら)う、と云っただけでも浅ましさが――ああ、そうだ。」

 糸七は煙管を落した。

「あなたの吉原の随筆は、たしか、題は『あさましきもの。』でしたね。私が飛んだ『べッかッこ』をした。」

「もう、どうぞ。」

 お京は膝に袖を千鳥に掛けたまま、雌浪(めなみ)(やわらか)に肩に打たせた。

「大目玉を頂きましたよ、先生に。」

「もうどうぞ、ご堪忍。」

「いや、お詫びは私こそ、いわばやっぱりあなたの罰です。その「浅ましい」一つの穴で……部屋は真暗(まっくら)、がたがた廊下の曲角に、洋鉄(ブリキ)洋燈(ランプ)一つ。余り(なさけ)ない、「あかりが(ほし)い。」……「蝋燭代を別に出せ。」で、奈落に落ちて一夜あける、と勘定は一度済ましたんですが、茶を一杯にも附足しの再勘定、その勘定書を、その勘定を催促しても、わざと待たして持って来ません。これが、ぼると言います。阿漕(あこぎ)(やつ)です。はめられたんです。といううちに、朝直し……遊蕩(あそび)が二度(ぶり)になって、また、前勘定、このつけを出されると、金が足りない、足りないどころですか、まるで始末が出来ないのです。

 ――「あさましきもの」が引受けてくれました、暑いのに、破屏風(やぶれびょうぶ)にすくんで、かびた蒲団に縮まったありさまは、人間に、そのまま草が生えそうです。無面目(むめんぼく)で廊下へ顔も出せません。お(けら)の兄さん、ちと、ご運動とか云って、「あさましきもの」に廊下へ連出されると、トトトン、トトトンと太鼓の音。それを、欄干(てすり)から(のぞ)きますとね、漬物(おけ)、炭俵と並んで、小さな堂があって、子供が四五人――(うま)の日でした。お稲荷講、万年講、お稲荷さんのお初穂(はつ)。「お初穂よ、」といって、女がお(ひねり)を下へ投げると、揃って上を向いた。青いんだの、黄色いんだの、子供の狐の面を五つ見た時は、欄干越(てすりごし)(ひさし)へ下った女の扱帯(しごき)が、真赤(まっか)な尻尾に見えたんです。

 その女が、これも化けた一つの()で、(くるま)まで(こしら)えて、無事に帰してくれたんです。が、こちらが身震(みぶるい)をするにつけて、立替(たてかえ)の催促が(はげ)しく来ます。金子(かね)為替(かわせ)で無理算段で返しましたが、はじめての客に帰りの俥まで達引(たてひ)いた以上、情夫(まぶ)――情夫(苦い顔して)が一度きり(いたち)の道では、帳場はじめ、朋輩へ顔が立たぬ、今日来い、明日来い、それこそ日ぶみ、矢ぶみで。――もうこの頃では、押掛ける、引摺りに行く、連れて帰る、と決闘状(はたしじょう)。それが可恐(おそろし)さに、「女が来たら、俥が見えたら、」と、お滝といいます……あのお茶っぴいに、見張を頼んで、まさか、女郎、とはいえませんから、そこは附景気に、「嫁が来るんだ。遠くからでも見えたら頼むよ。」合点ものです。そいつが、今です、前刻(さっき)ですよ。そこから覗いて、「来たよ、花嫁。」……

 一言で面くらって、あなたのお顔も、姿も見ないで、跣足(はだし)で庭へ逃出した始末です。断じて、決して、あなたと知って逃げたのではありません。」

 しまった! 大家が家賃の催促でも済んだものを、馬鹿の智慧は後からで、お京のとりなしの純真さに、つい、事実をあからさまに、達引だの、いや矢ぶみだの、あさましく聞きはしないか、と、舌がたちまち縮んで咽喉(のど)へ声の詰る処へ。

「光邦様。」

 日ぶみ矢ぶみの色男の汗を流した顔を見よ。いまうわさしたその窓から、お滝の蝶々髷が、こん度は羽目板の壊れを踏んで上ったらしい。口まで出た。

「お客様の、ご馳走は。……つかいに行って上げるわよ。」

 また、冷汗だ、銭がない。

       三十九

「これは、これは、おうようこそや。……今の、(あが)(ばな)を覗いたら、見事な駒下駄(かっこ)があったでの。」

 ちと以前より、ごそごそと、台所で、土瓶、炭、火箸、七輪。もの音がしていたが、すぐその一枚の(ひらき)から、七十八の祖母が、茶盆に何か載せて出た。

 これにお京のお諸礼式は、長屋に過ぎて、瞠目(どうもく)価値(あたい)した。

「あの、お祖母様(ばあさま)……お祖母様。」

 二声目に、やっと聞えて、

「はい、はい。」

「辻町さんに……」

「…………」

「糸七さんに……」

 肩身を狭く、ちょっと留めて、

「そんな事いったって、分りませんよ。」

「……お孫さんに。……」

「はい。」

「いろいろとお世話になります。」

「……孫めは幸福(しあわせ)、お綺麗なお客様で、ばばが目にも枯樹に花じゃ。ほんにこの()の母親、わしには嫁ごじゃ。江戸から持ってござっての、大事にさしゃった錦絵にそのままじゃ。後の節句にも、お雛様(ひなさま)に進ぜさした、振出しの、有平(あるへい)、金米糖でさえ、その可愛らしいお口よごしじゃろうに、山家(やまが)在所の(しい)の実一つ、こんなもの。」

 と、へぎ盆も有合さず、菜漬づかいの、小皿をそこへ、二人分。糸七は俯向(うつむ)いた。一雪(きみ)よ、聞け。山果庭ニ落チテ、朝三(チョウサン)ノ食秋風(シュウフウ)ニ《ア》クとは申せども、この椎の実とやがて栗は、その椎の木も、栗の木も、背戸の奥深く真暗(まっくら)大藪(おおやぶ)の多数の(くちなわ)と、南瓜畑の夥多(おびただ)しい蝦蟇(がま)と、相戦う(しょう)に当る、地境の悪所にあって、お滝の夜叉さえ辟易(へきえき)する。……小雀(こがら)頬白(ほおじろ)も手にとまる、仏づくった、祖母でなくては拾われぬ。

「それからの、青紫蘇(あおじそ)を粉にしたのじゃがの、毒にはならぬで、まいれ。」

 と湯気の立つ茶椀。――南無三宝、茶が切れた。

「ほんにの、これが春で、餅草があると、私が手に、すぐに団子なと拵えて進じょうもの。孫が、ほっておきで、南瓜の葉ばかり何にもないがの。」

 と寂しい笑いの、口には歯がない。

 お京がいとしげに打傾き、

「お祖母様、いまに可愛い嫁菜が咲きます。」

「嫁菜がの、嬉しやの、あなたのような、のう。」

 糸七は仰天した、人参のごとく(しん)まで(そま)って、

「お祖母さん、お祖母さん、お祖母さん、そんな事より、仏間へ行って、この、きれいな、珍らしいお客様の見えた事を、父、母に話して下さい。」

「おいの、そうじゃの。」

 何と思ったか、お京が急いで、さも、遠慮のないように椎の実を取った。

「お祖母様。」

「……おお、食べてくださるかの。」

「おいしい……」

 と、長いまつ毛をふるわせて、

「三度、三度、ここに居まして、ご飯のかわりに頂いたら、どんなにか嬉しいでしょう……」

 と、息をふくんだ頬を削って、ツと()く涙に袖を当てると、いう事も、する事も、訳は知らず誘われて、糸七も身を絞ってほろほろと出る涙を、引振(ひっぷる)うように炉に目を()らした。

「喧嘩せまい、喧嘩せまい。何じゃ、この、孫めがまた……」

「――お祖母さん、芝居の話をしていたんです、それが悲しいもんですから。」

「それは、それは……嫁ごもの、芝居が何より好きでござったよ。たんと、ゆっくり話さっしゃい。……ほんにの、お蒲団もない。道中にも、寝床にも(かぶ)るのなれど、よう払うてなと進ぜましょう。」

 祖母の立ったのを見ると(ひと)しく、糸七はぴったり手をついた。

祖母(としより)の失言をあやまります。」

「勿体ない。私は嬉しゅう存じました。」

 と膝を退(しさ)って、礼を返して、

「辻町さん、では、失礼をいたします。」

 何しに来たこの女、何を泣いたこの女、なぜ泣かせたこの女、椎と青紫蘇の葉に懲りて、破毛布(やぶれげっと)辟易(へきえき)したろう。

 黙って、糸七が挨拶すると、悄然(しょんぼり)と立った、が(きっ)と胸を()めた。その姿に似ず、ゆるく、色めかしく、柔かな、背負(しょい)あげの紗綾形絞(さやがたしぼ)りの淡紅色(ときいろ)が、ものの打解けたようで可懐(なつか)しい。

 (かまち)の障子を、膝をついて開けると、板に置いた、つつみものを手に引きつけて、居直る時、心()いた(さま)に前褄が浅く揺れて、帯の模様の緋葉(もみじ)が散った。

「お恥しいもんです。小さな盃は、内に久しくありました。それに、お酒をお一口。」

       四十

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