9話 薄紅梅(9)
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「…………」
「私……しばらくお別れに来たんです。」
「……旅行――遠方へ。」
「いいえ。」
糸七は釈然として、胸で解けた。
「ああ、極りましたか、矢野とお約束。」
眉が一文字に、屹と視て、
「あの方、お断りしてしまいました、他所へ嫁に参ります。」
「他所へ。……おきき申すのも変ですが。」
お京は引結んだ口元をやっと解いたように見えて、
「野土青麟の許へです。」
糸七は聞くより思わず戦いた。あの青大将が、横笛を、臭を浴びても頬が腐る、黒い舌に――この帯を、背負揚を、襟を、島田を、緋の張襦袢を、肌を。
「あなたが、あなたが、私を――矢野さんにお媒妁なすった事を聞きました口惜しさに――女は、何をするか私にも分りません――あなたが世の中で一番お嫌いだという青麟に、結納を済ませたんです。」
「…………」
「辻町さん、よく存じております、知っていたんです。お嫌いなさいますのも、お憎しみも分っています。いますけれど、思う方、慕う方が、その女を余所へ媒妁なさると聞いた時の、その女の心は、気が違うよりほかありません。」
と蒼い顔で、また熟と視て、はっと泣きつつ、背けた背を、そのまま、土間へ早や片褄。その褄を圧えても、帯をひしと掴んでも、搦まる緋が炎でも、その中の雪の手首を衝と取っても、世にげに一度は許されよう、引戻そうと、我を忘れて衝と進んだ。
「危え、危え、ええ危えというに、やい、小阿魔女め。」
「何を小癪な……チンツン」
と、目をぱっちり、ちょっと、一見得。
黒鴨の俥夫が、後から、横から、飛廻って、喚くを構わず、
「チンツン、さすがの勇者もたじたじたじ、チチレ、トツツル、ツンツ、ツンツ、こずえ木の葉のさらさらさら、チャン、チャン、チャンチャンラン、チャンラン、魔風とともに光邦が、襟がみつかんで……おほほ、ははは、ちゃっちゃっ、ちゃっ。」
お京の姿を、框に覗くと、帰る、と見た、おしゃまの、お先走りのお茶っぴいが、木戸傍で待った俥の楫棒を自分で上げて右左へ振りながら駆込んで来たのである。
「わかれに、……その気でいたかも知れない。」
小杯は朱塗のちょっと受口で、香炉形とも言いそうな、内側に銀の梅の蒔絵が薫る。……薫るのなんぞ何のその、酒の冷の気を浴びて、正宗を、壜の口の切味や、錵も匂も金色に、梅を、朧に湛えつつ、ぐいと飲み、ぐいと煽った――立続けた。
吻と吹く酒の香を、横状に反らしたのは、目前に歴々とするお京の向合った面影に、心遣いをしたのである。
杯を持直して、
「別れだといいました。糸七も潔く受けました。あなたも、一つ。」
弱い酒を、一時に、頭上った酔に、何をいうやら。しかもひたりと坐直って、杯を、目ざすお京の姿に献そうとして置くのが、畳も縁も、炉縁も外れて、ずか、と灰の中へ突込もうとして、衝と手を引いて、ぎょっとしたように四辺を視た。
「どうかしている。」
第一に南瓜畠が暗かった。数千の葉が庭ぐるみ皆戦いだ。颶風落来と目がくらみ、頭髪が乱れた。
その時、遣場に失した杯は思わず頭の真中へ載せたそうである。
一よろけ、ひょろりとして、
「――一段と烏帽子が似合いて候――」
とすっくり立った。
が、これは雪の朝、吉原を落武者の困惑を繰返したものではない。一人の友達の、かつて、深山越の峠の茶屋で、凄じき迅雷猛雨に逢って、遁げも、引きも、ほとんど詮術のなさに、飲みかけていた硝子盃を電力遮断の悲哀なる焦慮で、天窓に被ったというのを、改めて思出すともなく、無意識か、はた、意識してか、知らず、しかくあらしめたものである。
青麟に嫁く一言や、直ちに霹靂であった。あたかもこの時の糸七に、屋の内八方、耳も目も、さながら大雷大風であった。
四十一
と、突立ったまま、苦い顔、渋い顔、切ない顔、甘い顔、酔って呆けた青い顔をしていた。が、頬へたらたらと垂れかかった酒の雫を、横舐めに、舌打して、
「鳴るは滝の水、と来るか、来たと……何だ、日は照るとも絶えずとうたりか、絶えずとうたりと、絶えずとうたり、とくとく立てや手束弓の。」
真似を動いて、くるくる舞ったが、打傾いて耳を聳て、
「や、囃子が聞える。ええ、横笛が。笛は止せ、笛は止せ、止せ、止さないか、畜生。」
と、いうとともに、胆略も武勇もない、判官ならぬ足弱の下強力の、ただその金剛杖の一棒をくらったごとく、ぐたりとなって、畳にのめった。
がんがんがんと、胸は早鐘、幽にチチと耳が鳴る。
仏間にては、祖母が、さっきの言を真に受けて、りんなど打っていられはしないか。この秋の取ッつきに、雷雨おびただしかりし中に、ピシャン、と物凄く響いたのを、昼寝の目を柔かに孫を視て、「軒近に桶屋が来ているかの、竹の箍が弾いたようじゃ。」と、またうとうとと寝ったほど、仏になってござるから、お京が今し帰った時の俥の音など、沙汰なしで、ご存じないが。
「祖母さん……」
なき父、なき母。
「私は決してお京さんに。……ただただ、青大将の女房にはしたくないんです。」
と、きちんと両手をついたかと思えば、すぐに引りそうな手を、そのまま宙に振って、また飛上って、河童に被った杯をたたいた。
「でんでん虫、虫。雨も風も吹かンのんに、でんでん虫、虫……」
と、狂言舞に、無性矢鱈に刎歩行く。
のそのそ、のそのそ、一面の南瓜の蔭から這出したものは蝦蟇である。とにかく、地借の輩だし、妻なしが、友だち附合の義理もあり、かたがた、埴生の小屋の貧旦那が、今の若さに気が違ったのじゃあるまいか。狂い方も、蛞蝓だとペロリと呑みたくなって危いが、蝸牛なら仔細あるまい、見舞おうと、おのおの鹿爪らしく憂慮気に、中には――時々の事――縁へ這上ったのもあって、まじまじと見て面を並べている。
ここに不思議な事は、結びも、留めもしない、朱塗の梅の杯が気狂舞に跳ねても飛んでも、辷らず、転らず、頭から落ちようとしないので。……ふと心附いて、蟇のごとく跼んで、手もて取って引く、女の黒髪が一筋、糸底を巻いて、耳から額へ細りと、頬にさえ掛っている。
猛然として、藍染川、忍川、不忍の池の雪を思出すと、思わず震える指で、毛筋を引けば、手繰れば、扱けば、するすると伸び、伸びつつ、長く美しく、黒く艶やかに、芬と薫って、手繰り集めた杯の裡が、光るばかりに漆を刷く。と見ると、毛先がおのずから動いて、杯の縁を刎ね、灰に染めじ、と思う糸七の袖に弛く掛りながら、すらすらと濡縁へ靡いたのである。
この瞬間、誰が、その藍染川、忍川、不忍の池を眺めた雪の糸桜を憶起さずにいられよう。
見る見る、黒髪に散る雪が、輝く膚を露呈して、再び、あの淡紅色の紗綾形の、品よく和やかに、情ありげな背負揚が解け、襟が開け緋が乱れて、石鹸の香を聞いてさえ、身に沁みた雪を欺く肩を、胸を、腕を……青大将の黒い歯が、黒い唾が、黒い舌が。――
糸七は拳を固めて宙を打った――「この狂人」――「悪魔が憑いたか、狂わすか、しまったり」……と叫びつつ、蝦蟇を驚かしつつ、敷きわがね、伸び靡いた、一条の黒髪の上を、光琳の錦を敷いた木の葉ぢらしの帯の上のごとく、転々として転げ倒れた。
「光邦様、光邦様。」
ぎょっとすると、お滝夜叉。
「あい、お手紙。ほら、さっき来たんだけれどね、ね、花嫁が妬くと悪いから預っといたのよ、えらいでしょう。……女の人の手紙なんですもの。」
――お伽堂、時より――で、都合で帰郷する事になり、それにつけ、いつぞや、『たそがれ』など、あなたを大のご贔屓の、中坂下のお娘ごのお達引で、金子、珊瑚の釵の、ご心配はもうなくなりましたと申したのは、実は中洲、月村様のお厚情。京子様、その事堅くお口どめゆえ、秘してはおりましたが、このたび帰国の上は、かれこれ、打明けます折もつい伸々と心苦しく、お京様とは幾久しきおつきあい、何かにつけ、お胸にそのお含み、なによりと存じ…………
――もう可い。――(完)
作者自から評して云う、この(結び)には拵えた作意がある。誰方にもよく解る。……お滝が手紙を渡す条である。纏りがいいようにと思ったが、見えすいた筋立らしい、こんな事はしないが好い。――実は、お伽堂の女房の手紙が糸七に届いたのは、過ぐること二月ばかり、お京さんと、野土青鱗(あおだいしょうめ)画伯と、結婚式の済んだ後だったのだそうである。
昭和十四(一九三九)年三月