2話 2
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夫人は冷えきった紅茶を一口飲んでから云った。
「どの新聞にも宮地(仮名)夫人とだけで本名は明かにされてなかったでしょう。少し差支えがありますから、残念ながら、地名も御主人の地位も本名も云うことは出来ません。従って大使館であるか公使館であるかまたは、総領事館であるかそれはすべてあなたの御想像に任せます。しかし名だけは仮に宮城野総領事夫人とでもいたしておきましょうか。某夫人では余りに漠然としてしまいますから。
私は電報を受取った夕方にはもう出発いたして居りました。かの地に着きますと宮城野夫人のお住居へ馳けつける前に、まず市内のあるホテルへ室をとりました。そのホテルは日本人経営のもので、土地の事情を知るには一番便利だからと紹介状まで貰って行ったのでございます。
私は夫人がもっと早く電報をよこすだろうと思っていたのです。というのはどういう事件が起ったかを知っていましたからです。それは十日ほど前に例の妖婦笹屋の有喜子が何者かに殺害されたのです。しかも場所が宮城野夫人の邸の附近の往来だったので、それでなくても評判の悪い矢先ですから、とんだかかりあいにでもなるといけない、困ったことが出来たと人知れず心を痛めて居りました。何故なら有喜子は夫人の夫と関係のある女でしたから。
それで私がホテルに室をとった理由もお分りになりましょう。在留民間では彼女をどういう風に見ているかを知りたかったのです。ただ評判が悪いというだけの夫人の手紙では、はっきりしたことがわかりません。何故そんなに評判が悪いのか本当の処をよく調べてみなければならないと思いました。
私は早速ホテルの女将にいろいろ訊いてみました。総領事夫人とは一面識もないような顔をして云ったのですが、
『この前の総領事さんの奥様が余りお優しい、いいお方でしたので――』
と言葉を濁してしまいました、探りを入れているのだと感づいたのかも知れません、そこで私は少し夫人の悪口を云って釣り出してみようかと思いました。
『宮城野さんは大分御評判がよくないじゃありませんか、威張ってるんですってね』
こういう女の社会で何より嫌われるのは威張ってるということなのです。私は故意と顔をしかめて、言葉に力をいれさもさも憎々しそうにいってやりました。すると女将はすぐ同意して、
『そうなんでございますよ。ほんとに威張ってらして――、御自分だけは御身分が違うんだなんて、容子をなさるものですから、皆さんに憎まれていらっしゃるんですの』
『総領事夫人を鼻にかけて、土地の古株の奥さまがたを立てないってわけなんでしょうね。お寄り合いだの会だので我儘をなさるんじゃありませんか?』
『否え、そういう処へはちっともお顔出しなさらないんでございますよ。いくら御招待してもお断りになるんでございますの、その癖、西洋人の会ならさっさと先立ちになってお出ましになりますそうですから、皆さんが気持ちを悪くなすって怒るのも無理はございませんの。日本人を馬鹿にしているんだ、生意気だ、などと蔭では皆さん悪口を仰しゃるんでございますよ。それにまたそう云われても仕方のないようなことをなさいますもんですから』
『どんなことをなさるんですの?』
『一々は覚えて居りませんが、一度なんかこんなことがございましたよ。この土地の習慣をよく御存じなかったんでございましょうが――、恰度総領事さんの奥様が当地にお着になった頃は神社のお祭礼時でしてね、それに本祭りだったものですから大変な賑かさだったんでございます。吉例によって第一番に御神輿様が総領事館に参ったんでございますよ』
『敬意を表しにですか?』
『左様なんでございます。御神輿様を総領事館へかつぎ込みますと、そこで一同へ御酒のお饗応があって後、奥様がお挨拶にお出ましになり御祝儀を下さる、それがまあ例なのでございます。そういう事を御存じなかったのでしょうが、恰度御神輿様があの坂をねりながら上って総領事館の表お玄関に着きました時、奥様がふらふらとバルコニーへ最初お姿をお出しになったそうですが、間もなく降りていらしてお玄関傍のヴェランダから黙って見物していらしたんでございます。お邸が坂の上の小高い処にあるものですから、まるでお神輿様を見下していらっしゃるような形だったので、気の立っている若い者が怒ってしまい、そのうちに誰だか奥様は寝間着じゃないかなどというものも出てまいり、神様を高い処から寝間着で見下すとは怪しからん。引きずり落しちまえってわけで、気の早い者がヴェランダへ駈け上って奥様を引きずり降し、散々な目におあわせしたんですの。遂々お怪我までなすって、書記生さんの白石さんが馳けつけて来なかったら、どんな事になったか分りませんでしたそうでございます。皆酔っぱらって居りましたことですし、誰が下手人だか分らず、奥様はお怪我のなされ損で、それがために御評判がすっかり悪くなってしまったんでございます』
『まあ珍らしい変なお話ですね。最初からそんな事があっちゃあ、宮城野さんでなくっても怖気がさしてしまいますわね』
私は在留民がいくら酒に酔っていても総領事夫人に怪我をさせるなんて馬鹿な話はないと心では思って居りました。
『それからはもう町へはふっつりとお出ましにならなくなり、日本人の会合の席へも一切お出になりません。お顔をお出しにならないからなおいけないんで、奥様も嘸ぞお気をくさらしていらっしゃることでございましょう』
『お気の毒ですわね、旦那様は笹屋の女とどうとかいうんだそうですしね』
『有喜子、殺されましたよ、あの女は』
『まだ犯人は分らないんですか?』
『犯人なんかなかなか分りゃいたしません。こういう処はいろんな人が入込んで居りますから人殺しをやっても上手に逃しちまったりしてね』
『総領事さんも相手の女が殺されたんじゃ気持が悪るいでしょうね、非道い殺され方をしたとか新聞には出ていましたね』
『あの女も逃げようと思えば逃げられたんでしょうに、気が強いから逃げなかったのでございましょう。いろんな噂をいたして居りますよ。犯人は支那人だとか、殺し方が男のようではない、嫉妬でなければあんなむごたらしい殺しようは出来ないものだ、これは必ず恨みのある女の仕業だろうなんて――』
『女ですって?』
『顔をめちゃめちゃに切られたんだそうですの、有喜子はまた特別綺麗な顔をして居りましたから――、あんな残忍な殺し方は男には出来ない。それに何のためにあんな時刻に淋しい総領事館附近まであの女が出向いたんだろうというのが、不思議がられているんでございますよ。きっと誰かにおびき出されたに違いないなんて――』
『でも――、有喜子はふだん総領事館へ出入りしていたんでしょう?』
『まア、よく御存じで、奥様は表面ではそれは優しく有喜子を可愛がっていらしたそうでございますよ。でも有喜子は奥様の事を恐い方だ、恐い方だ、と申していつか私敵を打たれるワ、なんて笹屋の女将に云っていたそうでございます』
『まさかね。不評判もいいけれど殺人嫌疑までかけられちゃかなわない』
『全くでございます。馬鹿な事を申す者があって困ります』
『新聞にはあの晩、若い支那人とあの淋しい道を歩いているのを見た人があるとかいうじゃありませんか?』
『それが支那人でなくって、書記生さんの白石さんに似ていたなんて云う人もございましてね、―――新聞に出ているのとはまるで違ったことを噂して居りますよ。只今はもうどこへ参ってもこの話で持ちきりでございます。いやでございますね、こんなお話は早くおしまいにして、もっと面白い事が聞き度うございます』