3話 3
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宮城野夫人は想像していた以上に憔悴していて、まるで病人のように青い顔をしていました。私を見ると一言も云わないうちにもう涙ぐんでしまいました。
『よくいらして下さいました。ほんとによく来て下すったのねえ』
私は夫人の心中を察して何だか胸が一杯になりました。
『貴女のお部屋も定めておきましたから、どうぞしばらく御滞在なすって頂戴な。お力になって下さる方もないし、私独りぼっちでほんとにどうしていいか分らないんですの』
すっかり意気地なくなっている夫人を私は励ますように云いました。
『あなたらしくもない、もっと元気をお出しなさいよ』
『まあ少時御逗留下すって、私の日常生活を見て下すったら、何もかも分りますわ。さあお部屋へ御案内いたしましょうか、お荷物は?』
『あの――、町のホテルに部屋だけは取っておきましたの』
『あら、ホテルに? 日本人のでしょう?』
と直ぐ夫人は厭な顔をして、
『じゃもういろんな話を聞いていらしたんでしょう? 私の評判、随分悪かったでしょうね、でも、もう仕方がないんですの、取り返しがつきませんもの。私つくづく厭になってしまったから、東京へ帰って静かに暮らしたいと思ってましたけれど、またこんないやな事件が突発したんで、帰るにも帰れなくなってしまいました』
『だって御自分に疾ましい事がなければ構わないじゃありませんか、人の思惑なんか気にする事はないわ』
私は慰める積りで云ったんです。するとそれをどう聞いたのか、夫人は唇の色まで変えて険しい眼をして申しました。
『また何か私の事を云ってるんですか、きっとそんなこったろうと思ってました。じゃあ何んでしょう? 有喜子を私が殺したと云ってるのね、悪い事は何でも皆私におっかぶせてしまうんだから非道いわ』
『否え、別に誰もあなただとは云っちゃいませんよ』
『いいえ云ってるんですわ、きっとそうです、そうに違いないんです』
夫人はヒステリックな声で云いながら暗い顔をしているのです。私は何だか気の毒になって、
『一体あなたにはこういう土地は不向きだったのね』
と申しますと彼女は苦笑してうなずいて居りました。
『そうなんですのよ。でも有喜子がいなかったら、こんなことにもならなかったと思うんですの、有喜子は私を追い出して、総領事夫人になろうという野心があったんだそうですから、あの女の計画では私の評判を悪るくして土地に居たたまれないようにさせ、この家を乗っ取る積りだったんだそうですよ』
『でも、まさか総領事さんともあろう人が、素性も分らない女を令夫人にはなさるまいじゃありませんか』
『否え、主人は私が退けば必ずあの女を妻に迎えたろうと思いますわ』
『仮にそうだったとしても、あの女は死んじまったから、もうその問題は消えたわけじゃありません?』
『その問題は消えても、他の事で私を苦しめているじゃありませんか。殺人嫌疑をかけさせるなんて、死んでからまでまだ私に仇をしようとしているんですわ。しかしその事は何と疑われたって私は平気ですが――』
宮城野夫人は急に眉を深く寄せ、声をひそめて云うのでした。
『そんな事はどうだって構わない。今、実はもっと重大な問題に悩まされているんですの、あなたにいらして頂いたのもそのためなんですわ』
『殺人事件よりも重大?』
『大変な事なんですの。私達にとってはね』
夫人は他聞を憚るからと云って、寝室に続いた彼女の居間に私を案内いたしました。そこは小じんまりとしていて畳が敷いてあり、日本風に飾りつけてありましたが、聞けばその部屋は私のために空けておいてくれたのだそうです。
ふっくらした紫縮緬の坐蒲団の上に座ると急に寛いだようないい気分になって、落ついて話が出来るように思いました。薄暗い大きな応接室で見た時よりも、夫人の顔もいくらか明るく見えました。わざと召使達を退けて、夫人自身で紅茶を入れたり、お菓子を取ってくれたりしました。
私はそこで夫人から重大な話というのを聞きました。
『今から恰度十日ばかり前になります。有喜子が殺されたと同じ晩に、総領事館では大宴会があったのでございます。その時、白石という若い書記生がすっかり忘れていたある急な用件を思い出し、宴会の席をこっそり脱け出して、オッフィスに入り急いで用事だけすませ、慌てて外へ出ようと扉を開けますと、すうっとまるで風のような早さで出て行った黒い影みたいなものがあったんです。自分の傍をすりぬけた時、ぷうんといい香水の香が四辺に漂ったそうですが、とにかく白石が呆気に取られて彳んで居る間に、その黒い影は忽ち門衛に捕まってしまいました。
何者だろう? オッフィスの中に忍び込んでいたものに違いない、どうも女らしい気がする。白石さんは好奇心にひかされて門衛の傍へ近づくと、黒いヴェールに包まれて、顔はよく見えなかったそうですが、背の高い女で、
「白石さん、私よ、何とかして頂戴な」と哀願するような調子で云ったそうです。白石さんは、好い気持にはなっていたし、女から自分の名を呼ばれたのでふらふらと助けてやろうという気になったそうです。
「何んだ、君か、そこまで僕が送って行ってやろう」と云ったので門衛は大変に恐縮し、自分の粗忽を詫びて二人を門の外へ出してくれました。するとその女は立ち止って彼の耳もとへ口を寄せながら、
「お約束だったから来たのですが、遂々お目にかかれませんでしたの。でも、内緒よ。でないと総領事さんに、叱られますから」
白石さんはその時始めてその女が有喜子だったことを知りました。
門を出て少しばかり一緒に歩いたそうですが、女がしきりに、一人で帰るから送ってくれなくともいいと辞退するので、そこで別れることにして握手を求めたのだそうです。すると黙って左の手を出したので、少しお酒に酔っていた彼はその手を払い退け、ポケットの中の右手を無理に引張り出して握ったら、有喜子が小さな声であッと云って手を引込めようとするのを、ぐっと握って、そのまま別れたのだそうです。
その時に何か変にねばっこいものが手についたが、暗くてよく分らないので、そのまま自分のポケットの中でハンケチを握りしめて拭いてしまったと申します。それから五六歩も歩いて、ふと振り返ってみると、いつの間にどこから飛び出したか、誰か男と肩を並べて歩いていたそうですが、ああした女の事故、いろんな友達を持っているだろうし、ちょっと嫉ましい気持ちになって、後姿を見送っていましたが、軈て二人は暗い横道へ曲って行ってしまったそうです。
さて宴会が済んで、自分の寝室へ退いてから、白石さんは握手した時、彼女の手が変にねばねばしていたことをふと思い出して、何心なく自分の掌を見ますと、処々に赤いものがついているというのです。
オヤと思って見ると何だか血のような色をしているので、いつどこで怪我をしたのだろうとよく改めてみましたが、どこも怪我はして居りません。
怪しいなと思いながら拭こうと思ってハンケチを出しますと、皺くちゃになったその白いハンケチにも処々血がこびりついているのです。変なこともあるものだと思いながら、夜も更けていたし、そのまま眠ってしまったと申します。
翌朝オッフィスに出た時は、もう昨夜の事など殆ど忘れて居りましたが、総領事の命で書類を金庫に出しに行った時、金庫の扉の前に一滴ぽたりと血がたれているのを見て、はっと思い同時に昨夜のことが頭に浮んでまいりました。すると何ということなしに不安な気持ちに襲われて、前後の考えもなく血を拭おうといたしましたが、血はもう乾いて床にこびりついていて拭きとるのに骨が折れたそうです。それから金庫の扉を開けようとすると、扉のところによれよれになった護謨のようなものがはさまっていて、開ける拍子にぽろりと落ちたので、それも拾って、ハンケチと一緒にポケットの中に入れてしまいました。
それから間もなく白石さんは確かに自分が総領事から預って、金庫の中へ納っておいたはずの秘密書類が全部紛失しているのを発見したのです。そのためいま大騒ぎをしているのですが、世間へ知れると面倒なので極秘裡に取り調べているのでございます。もしこれがいよいよ公になりますと主人もこのままではすまされませんし、一大事件だというので皆青くなって居ります。
その中でも白石さんは一層煩悶していて見るも気の毒なほど弱って居ります。時間から考えますと彼と別れてほどなく有喜子は殺されたことになるのです。それだけでもいい加減気持ちの悪い処へ、金庫の扉にはさまっていた護謨のようなものをよくよく見ると、どうやら人間の指の皮らしいのです。調べた結果、有喜子の食指の内側がそげていたということなども分ってまいりました。
しかし有喜子が何のためにオッフィスに入り込み、金庫の扉に指の皮まで残して去ったのかは分りませんでした。秘密書類が紛失している処を見ると彼女が盗んだものとしか思われませんが、そんなら何故盗む必要があったのでしょう、まるで見当がつかないのです。
白石さんが怪しいじゃないか、などと云い出すものが出て、段々彼の身辺に疑惑の眼をそそがれるようになりました。実際あの晩の彼は疑いを受けるに充分な過失ばかりをやって居ります。大切な用件を忘れていたからとはいえ、宴会中にぬけ出してオッフィスへ入っていたというのも考えようによっては少し変です。おまけに扉をよく閉めておかなかった、だから有喜子に入られたというのですが、それも故意に扉を閉めなかったとも考えられましょう。それから白石さんにとってもう一つ最も不利なことは、有喜子を門衛が咎めたのに彼が口を利いて外へ連れ出したという点です。それ等の点から白石さんに変な疑惑がかけられているわけです。
処で本人はどうかと云うと、あの事件以来極度の神経衰弱にかかって半病人のようになっています。しかも絶えず何かに怯かされてでもいるようで、少しも落ちつきがなく、命じられた用事も忘れたり、間違えたりして、仕事がちっとも手につかないんです。オッフィスへ出ても面白くないのでしょう。それで毎日憂鬱な顔をして誰とも口を利かず、随分無茶なお酒など飲んでいるようですが、傍の者からみると、心配だし気味も悪いし、万一間違いでもあってはならないというので、近々帰朝させる手筈になって居ります。私は白石さんが有喜子に利用されたのだとは考えられますが、彼が手引きをして盗ませたとは考えられないのです。いずれにしても書類は紛失しているのですから、何人かの手にあるには違いない。それを発見して白石さんにかかる疑惑の雲をはらい退けて上げたいと思うのでございます』