5話 5
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ホテルに帰るには余り時間が遅いので、私はそのまま宮城野夫人の邸で泊りました。私にあてがわれている部屋に行くと、直ぐ、ベッドの中に入って眠ってしまいました。
何時間位眠ったでしょうか、ふと人の気配で眼を覚しました。厚い絨氈の上を静かに誰か歩いているらしいのです。絹のすれ合う音がしました。私は羽根蒲団を胸の上までずらせて、息を凝らして様子を覗っていました。目が覚めたと云っても半分眠ってでもいたのでしょう。最初盗賊でも忍び込んだのか知らと思ったのですが、よく見ると何のことはない宮城野夫人ではありませんか。恐しく背が高いように思ったのも、夫人が寝間着の裾をずるずる引きずっていたからでした。夫人は私の方へ気を配りながら、音がしないようにそろりそろりと室の隅の方へ行くのです。そこには大きな洋服戸棚があって中が広いので納戸代りに用いているとのことでした。夫人はその扉に手をかけながら、薄暗がりに立って、また暫時私の寝息を覗っている風でした。
窓硝子から差込む月の光が蒼白いためか、夫人の顔は幽霊みたいに蒼く見えるのです。そしてまるで夢遊病者のように、ふらふらと扉を開けて中に吸い込まれてしまいました。
私は急いでベッドを飛び降り、そうと扉に近づき、カーテンの隙間からのぞいてみました。すると夫人は懐中電灯を照らして頻りにトランクの中を見ていましたが、軈てさも安心したようにそのまま蓋をし鍵をかけるのでした。私は夫人のこうした挙動を訝しく思わずにはいられませんでした。何のためにこの真夜中にトランクの中を覗くのだろう。そんな大切なものが納ってあるのだろうか、と思うと同時に、私の頭にある事が閃めきました。私はカーテンのかげに立って夫人の出て来るのを待っていました。そんな事とは知らない彼女はまた忍び足で静かに出て来ましたが、そこにいる私の姿を見ると非常に狼狽した容子で、
『あなた、まア起きていらしたんですか?』
と咎めるような調子で云うのでした。
『トランクの中に納っているものを頂戴したいと思って――。先刻からここでお待ちいたして居りました』
二人の間には緊張した長い沈黙がつづきました。夫人は私を見詰めながら苦しそうな呼吸づかいをしていましたが、低いうめくような声で云いました。
『じゃ何もかも御存じなんですね、あなたから云われない前にもっと早く私の方からお話したかったんです、でも――。どうしても云えなかったの。あなたにいらして頂いた最初の日、白状してしまう積りでいろいろ云い出してみたんですけれど云えなかったんです。どうしても、私には云うだけの勇気がなかったのです――』
と云いながら夫人は急いで戸棚へ行きましたが、引返して来た時には一束の書類を手にして居りました。それを私に渡しながら、
『S夫人。あなたは嘸ぞ私を見下げ果てた女だとお蔑みになっていらっしゃるでしょうね、でもそうするより仕方がなかったんですのよ』
『あなたは御自分が金庫から持ち出して秘しておいて、それを探し出させ、私の手で御主人に返させようとお思いになって、私をここにお呼び寄せになったのですね』
『すみません。本当に申訳ありません、そうでもしなけりゃ返す方法がなかったんです』
『御主人にお話して、お詫びなすったらいいじゃありませんか』
『主人に話して? まあ恐しい、そんな事がどうして出来るもんですか、謝罪って許してくれるような人だったら、私はこんなにも心配はいたしませんわ、たとえ事情がどんなであろうとあの人は断じて宥しません。主人に知れたら、ああ、あの人の耳に入ったら、私はもうお終いです。どうぞ助けて下さい、S夫人、私を救って下さい、ねえ、お願いです』
夫人は泣きながら、哀れみを乞うように私を見上げていうのです。私は黙って考えて居りました。
『あなたが最初いらして下すった時、本当の事をお打ち開けして御相談もし、お願いもする積りでいたのでしたけれど、それだのに、あの時どうにも申上げられなかったんです。あなたに叱られるだろうと思って――。でもあなたにお縋りするより助かる道はありません、どうぞ助けて下さいませ』
そう云われても、おいそれと安受合いに承知するわけにも参らないので、どうしたらいいかと思って居りました。というのはどうも私には腑に落ちないことだらけだったからです。とにかく分らないことを訊きただしてみる必要はあろうかと思いましたので、
『まず第一に不思議に思うのは、何故秘密書類をお盗みになったんですか?』と云いました。
『今になって、冷静に考えるとあの頃私は少しどうかしていたんじゃないかとも思うんですけれど、どうも主人と有喜子が私を邪魔にするように思えてならなかったのです。その中に機会を狙って離婚しようと計画していることが分ったので、私は命がけで戦っても主人を彼女から奪い返そうと決心したのです、それには並大抵のことではいけないので、非常手段をとらなければならないと思ってまず大切な書類を盗み出しました。秘密書類が紛失したとなれば責任上主人も職を辞さなければなりません。そうすれば当然この地を引揚げることになります。しかし実際には紛失していないのですから、そこは情実で何とかなるだろうと思いましたの、ならないとしても有喜子を引離す目的は達し得られるだろうと思って――。あの時には離婚を覚悟でやったのですけれども――』
『相手の女が死んじまったから、あなたの目的は自然に達せられたことになったじゃありませんか、それだのに何故早く御主人に書類をお返しにならなかったのです? こんなに館員達が騒がない内に何とか始末をなさればよかった』
『有喜子が殺された翌朝は、もう書類の紛失したことが白石さんに発見されて、皆は有喜子が盗んだものと思って憤慨しているんです、彼女の悪口を聞くのは決して厭な心持ちではありません、私は内心痛快だったんです。ですから私は黙って見ていました。が、自分が盗み出したので、また誰かに盗み出されはしないかと心配で、心配でなりませんでした。私はなるべくこの部屋から離れないようにして、心の中で番をしていたのですが、それでも心配で毎夜人が寝静まるのを待って一応トランクの中を調べてみなければ眠れなかったのでございます。それをあなたにみつかったのです』
『死んだ有喜子に罪をなすりつけて喜んでいらしたあなたが、どうして今度はまた私まで招いて、書類を探し出させようとなすったの?』
『最初のうちは有喜子一人に疑いがかかっていましたから、見ても居られたんですの。あんな悪い女にはこの位の罰があたるのが当然だと思っていましたから、処が日が経つにつれ、あの夜の挙動に不審の点があったというので、遂々白石さんにまで疑いがかかってきましたのです。そして、あんなおとなしい善良な人に嫌疑がかかってはすまないと思う一方、見ていると白石さんは日に日に瘻れて、心の苦悶が顔にあらわれ、極度の神経衰弱に陥ってゆく様子にもう黙ってはいられなくなりました。彼の嫌疑を晴らす途はただひとつ、書類を発見することよりありません。それで決心してあなたにおすがりしようと考えたのですの。最初の考えのままであったら自分で始末がつきましたけれども、相手の女がいなくなったとなると、私は離婚するのがいやになりました。私独りならともかくも、私には子供がありますもの、その子供の事を考えますとどうしても主人と別れる気がなくなりました。こんな悪いことをした私を助けるのでなく、子供を助けると思召して、どうぞ救って下さいませ』
旧い友達というものは不思議なものでございますね。いつもの私なら、そんな不都合な事を仕出かして私を利用しようとするその心を憎みこそすれ、同情の念など微塵も起さないではねつけてしまいますのに、私は宮城野夫人の頼みをすっかり引き受けてしまったのです。
総領事館内には久し振りで朗らかな笑声がもれ、館員達の顔からは憂鬱な影が消えてしまいました。宮城野夫人は私の手を握っては、ひそかに感謝して居りました。長い間の心労で疲れきってしまい、健康を害している夫人は私という道づれが出来たのを幸いに、一緒に帰京して少時保養することになりました。その準備に忙しい時でした、白石書記生が帰京の途中、国府津駅附近で列車から飛び降り自殺の報を得たのは。
嫌疑が晴れて帰京したのでしたのに、気の毒な事をいたしました。彼の死はまた宮城野夫人を憂鬱にさせました。
神戸まで一緒に行ってそこで別れた宮城野夫人は親類へ立ち寄り、私は直ちに東京へ向いました。帰京した翌日私は夫人がやはり国府津駅の附近で自殺されたことを知ったのでございます」