4話 4
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有喜子の殺された淋しい往来に幽霊が出るという噂を耳にした翌日、朝のコーヒーを呑んでいる処へ女将が入って来て申しました。
『昨晩うちのお客さんが、その方は迚も臆病な質なんでございますけれど、夜更けて例のあすこを自動車でお通りになったら、すうッと白い陰が往来を横ぎって消えたそうですの。もうあんな処通るもんじゃない、胆を冷しちゃったというお話でございます。領事館にお遊びにいらしても、もうあすこはお通りにならない方がよろしゅうございます』
『まア! 怖いこと!』
その晩、私はその淋しい往来に深更まで見張っていましたが、幽霊どころか人一人にも会いませんでした。評判になったのでお化も引込んじまったのか、と軽い失望を感じながら、踵を返して帰りかけようとした時、ふらりと路傍樹の蔭から出て来た一人の男を見ました。力のないまるで、浮いたような足どりで、ふらふらと歩いて行く容子は、見る人の目には全く幽霊とも映ったかも知れません。おまけに着ている洋服の色が、うす白いのです、昼間見たら鼠色か何かなのでしょう。
私は見えがくれに後を尾けて行きました。横町を曲る時街灯の光りで男の顔を見て、私の想像していた通りだったので別に驚きもしませんでしたけれども、とにかく追いすがって声をかけました。
『白石さん、書記生さん』
吃驚して彼はハッと立ちすくみました。私の姿を見た瞬間、無意識に彼は逃げ出そうとしてまた思い返したらしく静かに立ち止まりましたが、その大きく見開いた眼からは狼狽の色がありありと読まれました。
『何か御用でしょうか?』
落ち着いている積りでしょうが、彼の声は震えて居りました。
『少しお訊きしたい事があるんですけれど往来じゃお話も出来ません。とにかく領事館へ参りましょう』
時計を見ると午前一時です。こんな時間に私のホテルへ同道するわけにもまいりませんし、話を他人に聞かれる危険を避けるためには、やはり領事の館舎内でも撰ぶより仕方がありませんでした。
私は白石書記生と相対して坐りました。肉の落ちた頬は痙攣して引きつり、両手は震え、落ち着きのない不安な眼で、絶えず四辺に気を配っている容子は、迚も痛ましくて正視するに忍びませんでした。年の若い、人の善さそうなこの男を、こうまで恐怖のどん底に突き落したのは一体誰の罪でしょう。私はそれを考えると、無責任な世間の人達に対して憤りを感ぜずにはいられません。殊に白石さんの場合は私が人知れず苦心して調査しているので、一層同情の念を深くしたわけです。
白石さんは最初ひたがくしにしていましたが、私が調査した結果を少しばかりほのめかすと彼は已に私が何もかも知りつくしているものと思い込んで、有喜子殺害事件のあった当夜、彼が見聞した事実を、私の問うままに包まず話してくれました。
『あの晩、途中まで送って行くと有喜子が頻りに辞退するので別れ、振り返ってみると後姿が二人になっていたというところまでは、総領事や同僚に話したのと同じですが、それから後の話は違っているのです。というのは、そのまま領事館に引返したのではなく、相手の男が何者だか見てやろうという好奇心に駆られて、後を尾けて行ったのです。すると言葉はよく分らないのですが、二人は何かひどく云い争いをしながら、あの暗い淋しい処まで来て立止ったので、自分も二三間ばかり離れた処で立ち止り、電柱の蔭に身を寄せてそっと覗いたのです。すると相手の男は恰度正面を向いていたのでよく分りましたが小造りで、細面の綺麗な顔が殺気を帯びて凄く見えました。日本人ではありません。確かに支那人です。有喜子には支那人の情人があるという噂を聞いていましたので、咄嗟に此奴だなと思いました。街燈の光りで見た有喜子は、もうすっかりおびえきっていて、顔の筋肉を顫わし、まるで死人の如く青褪めていました。何か云おうとしても声が咽喉にからんで云えないようでした。
長い間二人は睨み合っていましたが、そのうち二た言三言烈しく云い合ったと思ったら、
「裏切ッたな!」
鋭い男の声と同時にきらりと光ったものが眼を射りました。きゃッと怖しい叫び声、つづいて死者狂いで飛び付いてゆく女を見ました、私は恐ろしい光景を目前に見ながら、救いを求める悲しげな声を聞いても、どうすることも出来ませんでした。私の体はまるで麻痺したようにこわばっていたのです。意識も幾分ぼんやりしていたとみえて、はっと気がついた時は四辺はもうしんと静まり返って居りました。ただどこか近いところで荒い息づかいをしているのを聞きました。それが自分の直ぐ傍からであることに気がついた時には、先刻の男から恐しい命令の言葉を聞かされていたのです。男は血走った両眼を見開いて、きっと私の顔を見詰め、底力のこもった声で厳重に申し渡したのです。つまり秘密書類を私に盗み出せというのです。
有喜子の情人の支那人というのは実はスパイだったのです。彼女はその手先に使われていたもので、秘密書類を盗む目的のために、有喜子は総領事に近づき、夫人に取り入るのに苦心していたのです。そしてやっと待っていた機会が来て、オッフィスに忍び込み金庫を開けたのですが、肝心の秘密書類はどうしても見当らないというのです。それをこの男は有喜子の愛情が総領事に移ったために自分を裏切ったものと思ったのです。心が変れば彼女の口から秘密がもれないとも限らない、それを怖れて殺したのでしょう。
彼は有喜子の盗み損った書類をこんどは私に盗み出せ、その誓いをしろというのです。誓わないと云えば、その場で私も彼女と同じ運命にならなければなりません。意気地のないようですがどうしても彼の命令を拒めませんでした。私は毎夜あの淋しい、有喜子の殺された場所で彼と会わなければならないのです。秘密書類が彼の手に入るまでは。
しかしその書類は私が金庫を開けた時已にもう失かったのです。有喜子もなかったと云ったそうですから、そうすると誰か先に忍び込み、盗み去った者があったに違いありません。
已を得ない場合だったとは云え、ああいう恐しい人に係り合った以上、帰朝してもしなくっても、私の身に迫っている危険から逃がれるということは出来そうもありません。私の運命ももう定まっているような気がいたします』
白石書記生はそう云って淋しく笑いました。