12話 大隅学士の哲学
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「こいつは風向きが悪いぞ。ナムケンゲンコーリ、ナムケンゲンコーリ。あーらカンツーム、ヴィスヴィス。……うーむ、そこで覚めちゃっては困るよオ。なんとか持ち直してくれイ……」
催眠術の達人と称する東京通信新聞の佐々記者は、目を瞑じたまま苦悶している村の助役古花甚平に向って、なおも一生懸命に呪文を浴せかけたけれど、どうにも風向きはよい方に転じなかった。古花甚平はとうとう後頭部をしたたか壁にぶっつけた途端に、悪夢から覚めたかのように、パッチリ眼を明いてしまった。
「……あああーッ。これァどうしたちゅう訳じゃろう?……」
甚平はキョロキョロあたりを見廻した。
「南無三、覚めな覚めな。カンツーム、ヴィスヴィス。あーら、あーらア……」
だがもう呪文の効き目はなかった。甚平は完全に催眠術から覚めてしまった。こうなっては万事休すだった。遉の佐々砲弾も諦めて退散するより外なかった。
大隅学士は、下宿で、佐々の帰りを待ち侘びていた。
「いやあ、よくやって呉れたネ。君のお蔭で辻川博士の行状が大分明かになってきたよ」
「どうも惜しいところで催眠術が利かなくなっちゃったよ。そのうちに何とかして、もう一度やってみせるよ」
そこへ下宿のお内儀さんが、井戸の中に漬けて冷やしてあったビールを搬んできた。それは大隅学士の心尽しだった。
「やあ、俺の大好物が出てきたな。これはすまん」と佐々はゴクリと喉を鳴らした。
「ビールの満を引いて、大いに作戦を練るとするか」
二人は泡立つ洋盃を上げてカチンと打ちあわせ、不思議な縁で結ばれた共同戦線のため万歳を叫んだ。
「佐々君。この村にはどの点から見ても吾人の想像を許さぬ一大秘密が隠されていると確信する」
「一大秘密? ようよう、それだそれだ。そう来なくちゃ面白くない」
「まず失踪した武夫君が見たという亀のように大きな甲虫のこと、それから森の中に武夫君の声だけがあって姿を見せないこと、一年前突如として沖に碇泊した外国船のこと、辻川博士の怪行動のこと、蜻蛉の発生がたいへん遅れている上にいつも真西より三十度ほど北にふれた方角にばかり向いて飛んでいること、それから、お美代ちゃんの妹の失踪のこと……」
「まだある。佐々砲弾が忙しい東京の職場を離れてわざわざこんな土地に飛んで来たこと、それから大隅学士が暑中休暇の勉強地をわざわざこんな田舎に選んだこと、……」
「いや実を云えば、僕はどういうわけか、この矢追村の地形が気に入ったというか、気になるというか、とにかく非常に僕の心を惹きつけるところがあるのでネ、それでフラフラとやって来たのだ」
「第六感というところだネ」
「そうかも知れない。まあそんなわけで、この村には興味ふかい謎がウンと落ちているのだ。まるで多元連立方程式の、その要素をなす一つ一つの方程式があっちこっちにバラバラ落ちているといったような形だ。それを適当に組合わせてそれぞれの答を得るのも面白いことだが、その答の奥の奥にまた一つの大きい答があるような気がする。それは一つの世界を誘導することになる。たとえば個々の未知数を解いてみたらば、これが悉く無理数であって、それでわれわれはその無理数の形づくる無理世界を想像することを強いられるかもしれん。その無理世界を確認した暁には、われわれは逆に今日われわれが唯一無二だと信じているこの実在世界の絶対性を否定して、今まで実在世界だと思っていたのは或るホンの一例題の世界に過ぎなかったのだと、自殺的結論を建てなければならなくなるかもしれない。ああ何という遥けき真理、ああ何という恐ろしき疑惑……」
「おお先生。……」と佐々記者はイキナリ立ってビールの泡だった洋盃を大隅学士の頭の上に載せていった。
「そんな珍糞漢糞の寝言は後廻しにして、われわれはいま、冷静且つ果断に事件の心臓部を突破せにゃならないんだッ。それは辻川博士の邸内に忍び入って、博士の秘密を発いてしまうことだ。さあそれに賛成して立ち上れッ。それだけ云っても、まだムニャムニャ寝言の続きを云うようだったら、この冷たいビールを襟首へぶちまけるがどうだ!」