2話 二
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加奈子の家の矩形の前庭の真中に、表門から玄関へかけて四角な敷石が敷きつめてある。その一方には芝笹の所々に、つつじや榊を這わせた植込みがあり、他方は少し高くなり、庭隅の一本の頑丈な巨松の周りに嵩ばった八ツ手の株が蟠踞している。それにいくらか押し出されて深紅の花にまみれた椿が、敷石の通路へ重たく枝を傾けている。
京子は玄関の硝子戸を開けて顔を出した。敷石をことこと駒下駄で踏んで椿の傍に来た。三月末頃から咲き出した紅椿の上枝の花は、少し萎れかかって花弁の縁が褐色に褪せているが、中部の枝には満開の生き生きした花が群がり、四月下旬の午後になったばかりの精悍な太陽の光線が、斜めにその花の群りの一部を截ち切っている。
京子は椿の枝の突端に出ている一つの花を睨んだ。右の人差指で突いて放した。花は枝もろ共に上下に揺れる。揺れる花は気違いの眼の感覚に弾動を与える。それがだんだん小動物のように京子の眼に見えて来る……。突然、表門の傍戸のくぐりが、がらっと開いた。勢いよく靴音を響かせて、制服の学生が投げ込まれたように入って来た。京子はぎょっとして学生を見たが、突発的な衝動めいた羞恥心が、一種の苦悶症となって京子を襲った。倉皇としてそむけた京子の横顔から血の気が退いて、顔面筋の痙攣が微かに現われた。椿を突いた京子の右の手は其の儘前方に差し出たなり、左手はぶらんと下って、どちらも小刻みに顫え出した。そして両足は不意に判断力を失った脳の無支配下で、顫える京子の体躯を今迄通りにやっと支え、遁げ込んで来た血の処置に困って無軌道にあがく心臓は、殆ど京子を卒倒させるばかりにした。どんな雑沓の中でも平気で京子は歩くかと思えば、たまにたった一人に逢って斯んな大げさな驚きをすることもある。
誰が居るとも思わなかった門内に異常な女の姿を見て学生はちょっとたじろいだが、足は惰性で無遠慮に女の近くまで行ってしまった。そして女の妙なたたずまいから発散する一種の陰性な気配に打たれた。だが学生は直ぐに単純な明朗らしい気持に帰って、京子をこの家の者か親戚の者かと解釈して、
――御免下さい。奥様はいらっしゃいますか。
学生の丁寧に落着いた言葉が、初め鼓膜まで硬直した京子の耳底に微かに聞えて、だんだんはっきりと聞えて来た。それにつれて京子の張り切った神経もゆるんで来た。京子は正気に返って、「はい」と返事をする代りに、はっ、と息を吐いたが、そのはずみに足が動いて、開け放しになっていた玄関の中へするすると動物的なすばしこさで遁げ込んでしまった。
女中部屋へ駆け込んだ京子は、針仕事をして居たお民に、
――人、人が来た、お民。
京子が、せかせか言う「人」という発音が、お民には何か怪物めいて聞えた。
――人? 何処へ。
お民は縫物を下へ置いて京子の方へ向き直った。
――玄関へ、さ。
――へえ、どんな人が。
――金ボタンの制服。大学生だわ。
――何ですかお京様。その方さっき電話でお約束の方。奥様に講演を頼みにいらっしゃるとか仰言った方ですよ、きっと。
お民は、さっさと立って玄関の方へ行ってしまった。
京子はお民に愚弄されたような不服な気持で其処へべたりと坐ってしまった。が、暫く膝に落して居た顔を上げた時、京子の瞳は活き活きと輝やき出した。
加奈子に取次いだ客がじき帰って、お民は女中部屋へ戻って来た。すると京子はさも待ち構えたようにお民を抱く手つきで訊いた。
――あの方、私の事、何て仰言った?
――何とも別に仰言いませんでしたが……。
――だって……
――もうお帰りになりましたよ。
――まあ。
京子は眼をきらきらさせてお民に問い寄った。
――あの方、私の事、何とも仰言らないで帰った? そんな筈ない。あの方、本当は私の処へ来た方なのよ。恥しいから奥様なんてかこつけたのよ。
――じゃお京様、遁げ込んでなんかいらっしゃらなければよござんしたのに。
――でも私恥しかったのよ。
お民は、取り合って居てもきりがないと思った。で、また縫いかけの仕事を始めた。京子も黙ってしまった。黙って横坐りのまま障子を見つめて居た。息は昂奮を詰めて居た。やがて京子は何かを見つけた。珍しく暖かい日の、春早く出た一匹の小さな蠅だった。蠅は孤独の児のように障子の桟を臆病らしくのろのろ這って居た。京子はお民の針差から細い一本の絹針を抜いた。蠅の背中へ京子は針をしゅっと刺した。小さな蠅は花粉のような頭をしばらく振って死んでしまった。京子はしげしげそれを見つめて居た。そしてまた一方の手にそれを持ち代えて見つめて居たが、涙をほろほろとこぼして独言に言った。
――可哀そうに――死んで、親のところへ行くがいいのよ。