3話 三(1)
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京子はその後、毎日午後になると玄関傍の格子戸をそっと開けては誰かの来るのを待った。――先日来た制服の大学生の来るのを待つのだった。昨日も、一昨日も、今日も明日も来よう筈がなかった。それでも京子は来るものと定めて居た。とうとう来なかった。一週間目の夕方から京子はひどく不機嫌に憂鬱になった。脇目にもはっきりとそれが判った。加奈子はお民と一緒に京子の部屋へ詰め切りで、何かと京子の気に向く事をしてやった。が、京子は蓄音機も加奈子の三味線も、カルタ遊びも、本を読んで貰うことも気に入らなかった。京子はむっつりとして菓子も果物も食べなかった。
――早く寝たい。
それがいっそ好かろうと、京子の言うなりに寝床へ入れてやることにした。加奈子は昼着よりも尚好い着物を京子の寝巻きに着せてやるのが好きだった。京子もそれが好きだった。今夜はお民が縫い上げたばかりの緑絞りの錦紗の袷を京子に着せた。京子は黙ってそれを着は着たが、今夜は嬉しそうな顔もしない。
――うるさい。早くみんな、あっちへ行って。京子は一旦は眠りについたが、遣り場のない不満な焦慮怨恨の衝撃にせき立てられて直きに眼が醒めた。睡眠中、疲労の恢復につれて再びそれらの雑多な感情が蘇って来た。それらは周囲の静寂につれて京子の脳裡に劇しく擦れ合うのであった。
静かな夜である。近隣の家々は、よどんだ空気の中に靄に包まれてぼやけて居た。二三丁距てた表の電車通りからも些の響も聞えて来なかった。ぼやけて底光りのする月光が地上のものを抑え和めていた。
京子の頭上の電燈は、先刻加奈子が部屋を出る時かぶせて行った暗紫色の覆いを透して、ほの暗い光をにじみ出している。
京子は突然起き上った。蒲団の上に坐ってじっと何かに聴き入った。戸外からか、若しくは自分の内心からか、高くなり低くなる口笛が聞えて来る。一心を口笛の音に集中した京子の外界に向く眼は、空洞のように表庭に面した窓に直面した。するとその眼の底の網膜には、外界との境の壁や窓ガラスを除外して直接表庭の敷石の上に此方を向いて佇立する大学生服の男の姿がはっきり映った。が、詰襟と帽子との間に挟まれる学生の容貌は、殆ど省略されたようにぼやけて居る。
――とうとう来たのね。今行く、待って居て。力を籠めて言った京子の声が竹筒を吹いた息のようにしゃがれて一本調子に口から筒抜けて出た。京子は葡萄葉形の絹絞りの寝巻の上に茶博多の伊達巻を素早く捲き、座敷のうちを三足四足歩くと窓縁の壁に劇しく顔を打ちつけた。
――あ、痛っ。
と京子は叫んだが、其の痛みは彼女の意慾を更に鞭打った。京子は直ぐさま窓に襲いかかり矢鱈にそこらを手探りした。盲目のように窓を撫で廻した。気はあせり、瞳は男の影像を見逃すまいと空を見つめて居るので、中々錠のありかが判らない。漸く二枚の硝子戸の中央で重なる梓の真中のねじを探し当てた。それからひどくがたがた言わせながら、玄関に近い一方の戸を開けた。庭の表面にただよう月光の照り返えしが、不意に室内に銀扇を展げた形に反映した。窓の閾に左足をかけた京子は、急に寒けを催すような月光の反射を受けて足蹠が麻痺したように無力に浮いた。京子は一たん飛躍を見合せ、思い返して障子窓を開け放したまま玄関へ履物を取りに行った。京子は黒塗りの駒下駄を持って座敷へ引き返して来た。そして畳の上でそれを履き、今度は思い切って窓の閾へ下駄の歯を当てると、体の重味に反比例した軽い反動で訳もなく表庭の芝笹の上へ降り立った。
京子は月光を浴びると乱れた髪の毛が銀髪に変色し忽ち奇怪な老婆のように変形した。京子はその奇怪な無表情の顔を前へ突き出し、両手を延して探ろうとしたが、先刻の影像らしい黒い靄のたたずまいが、以前の位置からすっと動いて表の潜戸の方へ消えて行った。京子は走って潜戸まで行く。幻影はまた逃げる。潜戸を出て左へ走り、鉤の手に右に曲った。京子は口惜しさに立ち止まった。自分を迎えに来て呉れたと思った男が、誰に気兼ねの要らない真夜中に何故あちらこちらへ遁げ歩くのか。それとも男に別な考えがあるのか。京子はもう猶予して居られなかった。勢いを倍加して一散に当所もなく走り出した。
真夜中、半死人のようにぐったりと疲れた京子が、中年の巡査に抱えられて戻って来た。加奈子は驚き呆れるお民を叱るようになだめて、京子を床に入れた。そして足がひどく冷えているので小さな湯たんぽを入れて温めると、京子は何も言わずに眼をつむって居た。巡査の言うところでは、この真夜中裾も髪も振り乱して、電車通りまで何者かを追って走って行った京子が、巡回の巡査に捕えられたのだ。初めは強硬に反抗した京子が、とうとう疲れて連れて来られた。都合よく京子の精神病者であることも、加奈子の家に居る者だということも巡査は知って居た。
すっかり疲れ切って寝床に横わる京子を頻りにいたわろうとするお民を、加奈子は無理に引きさがらしたあと、京子の開け放して出た窓の戸をしめて、また京子の枕元に一人坐った。平常、少し赫味を帯びて柔く額に振りかかっている京子の髪の毛が、今夜の電燈の下では薄青く幽なものに見える。
京子に対する不憫と困惑が加奈子の胸に一時にこみ上げる。巡査が帰りがけにそれとなく厳しく注意していった通り、京子はもっと今後厳重に保護しなければならない。お民と加奈子が交代して、夜、京子の寝室に居なければなるまい。今夜のような京子の行為も、いつぞや京子の医者が言ったように、狂者の一種の変態性慾の現われではあるまいか。この症状が執拗に進展して行ったら、京子はしまいにはどんな行為をするようになるだろう。
――ははあ、親戚の方でもなし、ただ、昔の友達さんというだけの縁で、此の病人を引き取って居られるんですね。
と巡査は帰りがけに加奈子に、それは如何にも酔興だと言うような、また如何にも感服したというようにもとれる口の利き方をして行った。加奈子は、巡査の言葉をその時おせっかいな無駄口のようにも聞いたけれど、落着いて考えると、他人から冷静に見れば、自分が京子を引き取っていろいろな難儀を生活に纏わされるのが、不思議なのも無理はない。京子を引き取った理由が今更、加奈子に顧みられる。
京子は加奈子の若き日の美貌の友だった。加奈子は京子にとってこころの友であった。加奈子は京子の上品な超現実的な性質も好きではあったが、結局、京子は加奈子の美貌だけの友だちだと断定出来る。京子は自分のどんな心境や身辺の変遷でも隠すところなく打ち明けて、加奈子のこころをたよって来たのに、加奈子は自分自身の運命や、こころを京子に談した事はなかった。何も意地悪や、薄情や、トリックでそうしたわけではなかった。京子よりしっかりした自分のこころなんか、デリケートな京子に打ちつける気もしなかった。加奈子は京子の美貌や好みの宜さなどを美術的に鑑賞して居るだけで、京子との交際から十分なものを貰って居ると想って満足して居たのだった。京子の若い日の癖の無い長身、ミルク色にくくれた頤。白百合のような頬、額。星ばかり映して居る深山の湖のような眼。夏など茶絣の白上布に、クリーム地に麻の葉の単衣帯。それへプラチナ鎖に七宝が菊を刻んだメタルのかかった首飾りをして紫水晶の小粒の耳飾りを京子はして居た。その京子は内気で何か言おうとしても中々声が出ないのだ。(気違いになってから京子は却ってよく話し出した)出る声は慄え勝ちで、よくぱっと顔が赫くなった。めったに人と口を利かない割合に気位が高かった癖に、よくも三度も結婚する程、男ばかりには乗ぜられたものだ。加奈子は黙ってそれを看過して居たのだ。「美しい花は動き易い」と、つまりは観賞一方だった。京子が親も財産も男も失くして気違いになってから、俄かに加奈子の心がむき出しに京子に向った。寒い、喰べもののまずい病院から引き取って世話をしたと言ったまででは、極々当りまえの世話人根性のようだけれど、その実、気違いの京子と暮す事は何という気遣いな心の痛む事業だろう。それに此頃のように、恥も外聞もなく異性憧憬症にかかった京子にかかわることは、自分の恥しさに触れられるようで、たとえばお民とか、良人とか、今の巡査とかの限られた人達でなく、おおげさに言えば、何か天地の間の非常な恥しいことに触れて居る自分を、天地の間の誰にでも見られて居るようで、非常に辛くて堪らない。
斯うして京子を庇って暮すことは物質的にも精神的にも、加奈子の負担は容易ではない。それにも拘らず加奈子の心のどん底では、これが当然自分の負うべき責任だと考えて居る。
自然な負担だという処に考えが落着いて居る。
義務とか、道徳とか名付けられない心の方向が、確かに此の世の中の人達の行為を支配して居る。加奈子はそれを疑うまいと結局の考えに落着くのであった。
加奈子は立ち上って、跳ね飛ばされていた電燈のカヴァーを掛けた。空寝か、本寝か、京子は眼を瞑って動かない。京子は気違いになってから、いたずら小僧かとぼけ婆さんのように、ばつの悪い時、よく空寝をやるようになった。
(二) 狂病院の桜
気の違っている京子の頭が、四五日前からまた少し好くないようだ。眼のなかに大きな星が出来たと騒ぎ始めた。朝起きると直ぐから、家の者に行き当り次第、眼を持って行く。
――私の眼に、大きな白い星が出てるでしょう。私、どうしても出てると思うよ。
そんなことはない、あなたの眼は、いつもの通り、はっきりと開いている。眸が却っていつもより綺麗だ。覗いて視ると、庭の木の芽が本当の木の芽よりずっと光って冴え冴えと映っている。と言っても京子は納得し切らない。
――そうかしら。
京子は一応おとなしく聴き入る。で却って不憫になり、あとから捉まってまた訊かれる者も、素気なく振り切れない。
鏡を持って行って見せてやる。丸い手鏡の縁に嵌まって、よく研ぎ澄ました鏡面が、京子の淋しいきちがいの美貌へ近づく。春の早朝の匂いのような空気が、明けたばかりの硝子戸から沁み込む。細い手で受け取った鏡を、京子は朝日にかざしてきらりと光らせ、傍の者を眩しがらせてから、も一度、朝陽の在所を見極める。鏡と朝陽の照り合いを検べる。そして、自分も鏡のなかへ映る自分の眸に星があるか無いか検べるから、傍からもよく鏡の中の自分の眸と本当の自分の眸を見較べて欲しいと言うのである。
――無いね。星なんか無いね。
京子は涼しい歯を出して、傍の者を振り返って嬉しそうに笑う。笑ったかと思うと、今度は態とのように暗い障子の方を向き、最も不利な光線を、鏡の背後に廻して、苦々しく眼のなかを覗き込む。
――星。有るわよ。有るわよ。
京子は、頓狂に言って鏡を持たないあいている方の手の指で、眼瞼を弾く。自分の手で自分の瞼を弾くのだから、いくらか加減して居るに違いないと思って見ても、可なり痛かろうとはらはらさせられる程きつく弾く。
洗顔を済ませて口紅をさしただけの加奈子が其処へ現われると、京子は鏡をばたりと縁側へ落して鼻をすんすん鳴らすのである。
――今朝も眼に星が出たの。
――嘘。
加奈子は優しく京子を叱った。加奈子より一つ年上で、加奈子よりずっと背の高い京子が気違いのためか、心も体も年齢の推移を忘れ、病的な若さを保って居る。京子は、長く一緒に棲むうち、いつか加奈子を姉のように慕い馴れた。気の違って居る者に人生の順序や常道を言った処で始まらない。加奈子は二年程前から子の無い善良な夫との二人暮しへ、女学校時代からの美貌の友、足立京子の生きた屍を引き取って、ちぐはぐな、労苦の多い生活を送って居るのである。ただ、時々この生活を都合よく考える時、京子が気違い乍ら昔の俤をとどめてまだ美貌であることと、加奈子の詩人気質が、何か非常にロマンチックな幻想を自分の哀れな生活に仮想すること。それに依って加奈子の病人を背負った惨めな生活の現実的労苦が、いくらか救われる。
――嘘。
加奈子は、今一度京子を叱って自分の態度へバウンドを付けた。京子が、目星を執拗に気にする偏執性を退散させるには、加奈子はやや強い態度が必要だった。
――あなたはあんまり此頃わからずやよ。出もしない目星ばっかり気にし続けて……。
強く張ろうとした加奈子の語尾は、しん底弱って落ちて行った。
――あら、御免よ。じゃ、もう星の事なんか言いませんよ。ねえ、御免よ。御免よってば。
これが、四十近くの女のしなであろうか。気違いなればこそ京子が、少女のようなしなをしても、それが少しも不自然ではない。
昨夜、早く寝た京子の顔は、青白い狂女の顔ながら、健康らしく薄く脂が浮いている。だが、この三四日、目星ばかり気にし続けて居た京子の偏執が、今朝もまだ、眉や顎に痛々しい隈を曳いている。加奈子は、京子の青い絹絞り寝巻の肩に手を置いて言った。
――お京さん、今日は好いお天気ね。何処かお花の沢山咲いている方へ散歩に行こうね。序にお医者様へも。
――ううん。お医者へなんかもう行かないよ。もう何処も悪くないもの。
――だけど、ちょっと行って見ない。散歩の序に。
――………。
京子は発病当時暫く居た脳病院の記憶が非常に嫌なものであるらしい。でも、加奈子に引きとられてから、加奈子が京子を絶対に病院に入れることはしないと信じて居る。で、時々、加奈子が連れて行く病院へ、診察だけに行くには行った。ただ、いつも気が進まない様子をまざまざ見せる。
京子は、病気の好くない時はいつも喰べものを喰べない癖がある。この三四日また京子の喰べない日が続いた。
――今日は喰べるのよ。ね、お京さん。オムレツとトーストパン、ね、バナナも焼いて上げるわ。喰べるのよ。
――いや。
京子は解けかかる寝巻帯をかぼそい指で締め直しながら首を振った。
――何故、じゃ、お豆腐のおみおつけに、青海苔。
――いや。だって喰べると、またもっと星が眼に出るもの。
――まだ、あんな事言ってる。
加奈子はそっと涙ぐんだ。京子はこうなると消化不良になり、食慾をまるで無くしながら、目星だの、まだ時々途方もない架空の妄想を追いかけて一週間も十日間も、殆ど呑まず喰ずだ。それでも割合に痩せも窶れもしないのが矢張り気違いの生理状態なのかと呆れる。呆れながら加奈子は却ってそれが余計不憫になる。
京子がひょっとして或る病的妄想に捉われ出すと、加奈子の生活はまるで憑きものにでも纏われたように暗い陰を曳き始める。京子は幻覚や妄想に付き纏われる脅迫観念のために、加奈子の身辺を離れようとしない。加奈子は、悲しみ、恐れ、甘え纏わる京子と一緒に、自分も亦引き入れられるような不安と憂鬱に陥る。でも、長い月日のうちに、加奈子はいつかそれにも馴らされて行った。そして、その時々の局面を打開して行く術さえ覚えた。加奈子は、飽き安いこの病症の者に新しい感触を与えるように、京子を時々違った医者や病院へ連れて行った。京子の病症が不治のものにしても、この上重らない用心のため、時々変った医者にも診て貰って置き度かった。
加奈子は近頃或人から聞いた、東京での名精神病院へ京子を連れて行くため家を出た。山の手電車を降りると自動車を雇ったが、京子は絶えず眼を気にして往来を視ない。外光を厭って黒眼鏡を掛け、眼を伏せて膝の上の手ばかり見つめて居る。京子の片手は何かに怖え慄えて加奈子の膝の上に置かれた。加奈子はその手を見詰めて居るうちに、二十年前の二人の少女時代の或る場面を想い出した。京子が此の手の指で、薄ら埃の掛っている黒塗りのピアノの蓋を明けたことを想い出した。
――ベートーベンの曲は、私、自分で弾いて居ても圧迫を感じるのよ。
京子には、より情緒的なショパンの曲が適していた。鋭いリストの曲も、京子は時々は好んで弾いた。京子のピアノは余り達者ではないが、非常に魅力があった。その時、加奈子は、何故か疲れて京子のピアノを聴いて居た。ピアノの上の花瓶に、真紅の小薔薇が一束挿してあった。時折この薔薇が真黒な薔薇に見えると京子は怖えた様子で話した。あの頃から、京子の心身には、今日の病源が潜んでいたものらしい。それから或る年の暮、青山墓地通りの満開の桜の下を二人は歩いて居た。すると前方から一列の兵士が進んで来た。近づいて来ると兵士達は、靴音をざくざくさせながら、二人にからかい始めた。二少女は慌てて道を避けようとした。その時、列の中の一人の兵士が、かちゃりと剣を鳴らして二人にわざとらしい挙手の礼をした。と、京子は狂奔する女鹿のように矢庭に墓地を目掛けて馳け込んだ。その時、京子の手が鞭のように弾んで、加奈子の片手を引き攫った。一丁ばかり墓地の奥まった処に少し開けた空地があった。腰かけられる石台が三つ四つ、青楓の大樹が地に届くまで繁った枝を振り冠っていた。京子は茲へ来て佇ち止ると、片手で息せく加奈子の手を持ち、片手で繁る楓の枝を掴んだ。道の兵士達はタンクのように固り乍ら行き過ぎようとして居た。京子は楓の枝の間からぎらぎら光る眼で兵士達を見据えた。その時の京子の上気した頬と光る眼、真青な楓の葉ごと枝を握った真白な細い指が、今、加奈子の膝に置かれた京子の指の聯想から、加奈子の眼に浮ぶ。あのようにも怖え、興奮した京子には、後年気違いになる前兆が、まだまだいくらもあった筈だ。
病院の門内に敷き詰めた多摩川砂利が、不揃いな粒と粒との間に、桜の花片をいっぱい噛んでいる。
――何処かに、とても大きな桜の樹があるのよ。ね。
加奈子は、俯向き加減に加奈子の肩に手を掛けて居る京子を元気づかせようとして言った。
――うむ。
京子は黒眼鏡を金輪のように振って四方を見た。桜は病院のうしろの方に在るらしい。四方一帯、春昼の埃臭さのなかに、季節に後れた沈丁花がどんよりと槙の樹の根に咲き匂っている。
古ぼけた玄関。老い呆けた下足爺。履き更えさせられた摺り切れ草履。薄暗い応接間。この古ぼけた埃臭さが、精神病患者と何の関係を持つべきものなのかと、加奈子は誰かに訊き度いくらいに不愉快だった。疲れ切った椅子テーブル、破れた衛生雑誌が卓上に散ばっており、精神修養の古本が一冊、白昼の儚い夢のように、しらじらしく載っている。
――いやな病院!
京子が遂々言ってしまった。京子の声は低くて透る。加奈子は、あとを言わせまいとしたが、傍の患者に附き添って居た四十男が聞いてしまった。男は、加奈子の気兼ねを受け取るように愛想よく言った。
――院長さんが、まったく体裁をかまわないんでしてな。その代り此処の博士の診察は確なもんですよ。は、は、は、は。
この元気な附添人とは反対に、固くなって黙りこくって居る患者の若い男は、盲人のように黒くうずくまって居る。
廊下に面した応接間の扉は、開け放してある。廊下を絶えず往来する看護手たちの姿が見える。年齢は大方四十前後位。屈強な男子達で、狂暴な男性狂者の監禁室の看守ででもあるらしい。白い上被も着た人相骨格の嶮岨に見える者ばかりだ。無制限な狂暴患者に対する不断の用心や、間断無しの警戒、そしてあらゆる異端のなかで、時には圧迫的にも洞察的にも彼等の眼は光り続けていなければならないためか、自然底冷く意地悪そうに落ち窪んでしまうのであろう。一人、二人ずつ彼等はときどき応接室へ何かの用事で出入する。それを京子はちらちら視て、如何にもうんざりしたように加奈子の肩へ首を載せ、眼を避らしてしまった。京子はもう疲れ切り、眼星の幻像にこだわるのも倦いて、すっかり無気力に成り果てたようだ。黒眼鏡もいつか外して居る。
一組の男女が応接間へ入って来た。まだ席も定めないのに、そのなかの粋な内儀風の女がせき込み、涙ぐみながら言い出した。
――何しろ当人は、自分の間違って居ることが判らないんだからね。何故俺を斯んな処へ入れたんだ。他に男でもこしらえ…………。
女は傍目を憚ってあとは言えない。
――それが病人のあたりまえの言い分なんだから仕方がねいわさ。
――でも、あんまりだわ。おじさん。
――だから、あんまり酷けりゃ院長先生に納得させて貰うんだな。
おじさんは五十前後の商家の主人らしい温厚そうな男。
――あれっ。
京子が頓狂な声を挙げた。
――火の玉! あれっ。
それは応接間の窓際の紅椿だ。
――駄目。驚いちゃあ。花。椿の花。
加奈子が少しきつくなだめると、京子は、ぽかんとして椿の花を見直して居た。すこし経つと、恐怖の引いたあとの青ざめた顔を妙に皺ませ、てれ隠しに室内の人々の顔をおどけたような眼で見廻した。が、京子は皆が自分を注目して居たと知ると、極度の羞恥心で機嫌が悪くなり、加奈子の手を荒々しく把って室から出ようとした。其処へ看護婦が京子の名札を持って呼びに来た。