4話 恐怖の口笛(4)
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何のためか十日間あまり、事務所を留守にしていた青竜王は、キャバレー・エトワール事件の次の日の昼ごろ、ブラリと探偵事務所に姿を現わしたのだった。覆面探偵の帰還!
その気配を知って、奥から飛ぶように出て来たのは勇敢な少年探偵勇だった。
「ああ。青竜王。――僕は今日きっと青竜王が帰って来ると思ったんです」
といって、相も変らず頭部にはピッタリ合った黒い頭巾を被り、眼から下を三角帛で隠した覆面探偵を迎えたのだった。探偵は少年の肩を両手で優しく叩いた。
「昨夜は青竜王、素敵でしたネ。だけど、もう僕たちを呼んで下さるかと思っていたのに、ちっとも呼んで下さらないので、ガッカリしちゃった」
「勇君も大辻も来ていたのは知っていたが、昨夜の事件は危くて、手伝わせたくなかったのだよ」
「その代り僕は、いろいろな土産話を青竜王にあげるつもりですよ。昨夜舞台下で殺された男ネ、あれは竜宮劇場に毎日のように通っていた小室静也という伊達男ですよ。いつも舞台に一番近いところにいて、ジュリアが出ると誰よりも先にパチパチ拍手を送るイヤナ奴ですよ。あの男のことは、竜宮劇場のファンなら誰でも知っていますよ」
「ああ、そうだったのか。それはいいことを聞いた」
「あの伊達男小室の咽喉にあった凄い切傷も、この前、日比谷公園で殺された学生の咽喉の傷も、どっちも同じことですね。つまりどっちも吸血鬼がやったんですよ」
「うむ」と青竜王はちょっと眼を輝やかせたが、すぐ元の温和しい彼に帰った。「そうだ、その日比谷公園の話を詳しく君にして貰おうかな」
そこで勇少年は、前日黄昏の日比谷公園でみた惨劇について知っていることをすべて語った。青龍王は曲ったパイプで刻み煙草をうまそうに吸いながらじっとそれに耳を傾けていた。
「すると勇君の説によると、はじめ五月躑躅の陰で恋人の少女と楽しく語っていた。その話半ばに、少女は何か用事ができて、学生を残したまま出ていった。吸血鬼は学生が独りになったところを見澄まして、背後から咽喉を絞め、つづいて咽喉笛をザクリとやって血を吸ったというのだネ」
「その通りですよ、青竜王」
「それから、その恋人の少女は現場へ帰って来たかネ」
「いいえ」勇少年は頭を振って「僕はそれを考えて、長いこと待っていたんだけれど、とうとう帰って来なかったんです」
「それは可笑しいネ。今の話なら、必ず帰って来る筈だと思うがネ。外に恋人らしい女は誰も通らなかったのかい」
「ええ、そうですよ」と勇は応えたが、そのとき急に気がついた様子で「アッ、そういえば赤星ジュリアが近よってきたことは来たんです。でもあの人は、自動車で通りかかったんだといっていましたよ。それから自動車の中から出て来なかったけれど、ジュリアの友達の矢走千鳥も傍まできました。でもいくらなんでもこの二人が……」
「でもこの二人の外に誰も少女は帰って来なかったんだろう。一応そこを考えてみなくちゃいけない。それに先刻の話では、四郎――イヤその学生の日記帳の数十頁が、いつの間にか破られていたというし……」
「そのことは大辻さんがたいへん怒っていますよ。どうしても二人に尋ねるんだといって、今日出かけていったんです」
「ジュリアの耳飾右の方のはチャンとしていたけれど、左のは石が見えなくて金環だけが耳朶についていたというのは面白い発見だネ」
「僕は耳飾から落ちた石が、もしや吸血鬼の潜んでいた草叢に落ちていないかと思って探したんだけれど、見付からなかった。それからジュリアの歩いたと思う場所をすっかり探してみたんだけれど、やはり見付からなかった。それでジュリアの耳飾の青い石は、あの辺で落したものじゃないということが分ったんですよ。青竜王」
少年はそういって、眼をパチパチ瞬いた。青竜王はパイプから盛んに紫煙を吸いつけていたが、やがて少年の方に向き直り、
「君は少年の屍体の辺もよく探してみたかネ」
「もちろん懐中電灯で探したんだけれど、何遍やってみても見つからなかったんです」
「ほう、そうかネ」
少年は青竜王の顔をしげしげ見ていたが「まさか青竜王は赤星ジュリアたちを怪しんでいるのじゃないでしょうネ」
青竜王はそれに応えようともせず、いつまでも黙ってパイプを吸いつづけていた。
そのとき卓上電話のベルがリリリンと喧しく鳴り響いた。勇少年が受話器をとりあげて出てみると、向うは赤星ジュリアを尋ねていった筈の大辻の声だった。
「ナニ丸ノ内で大騒ぎが始まったって? 青竜王が帰っていられるから、いま代るから待っているんだよ」
といって、受話器を譲った。
青竜王はうむうむと聴いていたが、やがて電話を切った。
「どうしたんです、青竜王」
「なアに、痣蟹が竜宮劇場の裏口を通っていたのを発見して、また警官隊と銃火を交えたのだそうだ。痣蟹はとうとう逃げてしまったので、疲れ儲けだ。しかし痣蟹は竜宮劇場の外を歩いていたのか、それとも中から出て来たのか分らないそうだ」
竜宮劇場というと、誰でもすぐジュリアを思いうかべる、やはりジュリアは事件に関係があるのだろうか。
「でも変ですね。痣蟹はあの恐ろしい横顔を知られずに、どうして昼日中歩いていられたのでしょう」
「ウン痣蟹は田舎者のような恰好をして、トランクを肩にかついで、たくみに痣をかくしていたそうだ」
「なるほど、うまいことを考えたなア。はははは」
「大辻はジュリアに会って日記帳のことを聞いたが、あたしは知りませんといわれたそうだ、まずいネ」
青竜王は自室に入ると、それから夕方までグッスリと睡った。
夕飯ができた頃、勇少年がベルを押すと、青竜王は起き出してきた。依然たる覆面のため、顔色は窺うよしもないが、動作は明かに元気づいてみえた。そして大辻も加わって久し振りで三人が揃って食卓についた。しかし探偵談は一切ぬきであった。それが青竜王の日頃のお達しであったから。――夕飯が済むと、青竜王は行先も云わずブラリと事務所を出ていった。
痣蟹はどこへ逃げてしまったろう。いま何処に隠れているのだろう。覆面探偵青竜王は戦慄すべき吸血鬼事件に対しいまや本格的に立ち向う気色をみせている。彼の行方はいずれこの事件に関係のある方面であろうということは改めて謂うまでもあるまい。だがその行先は暫く秘中の秘として預ることとし、その夜更、大学の法医学教室に起った怪事件について述べるのが順序であろう。
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宏大な大学の構内は、森林に囲まれて静寂そのものであった。殊にこれは夜更の十二時のことであった。梟がときどきホウホウと梢に鳴いて、まるで墓場のように無気味であった。木造の背の高い古ぼけた各教室は、納骨堂が化けているようであった。そしてどの窓も真暗であった。ただ一つ、消し忘れたかのように、また魔物の眼玉のように、黄色い光が窓から洩れている建物があった。それは法医学教室の解剖室から洩れてくる光だった。
近づいてみても、カーテンが深く下ろしてあるので窓の中にはなにがあるのやら、様子が分らなかった。ただ森閑とした夜の幕を破ってときどきガチャリという金属の触れあう音が聞えた。その怪しい物音が、室内に今起りつつある光景をハッキリ物語っているのだった。
そこは馬蹄形の急な階段式机が何重にも高く聳えている教室であった。中央の大きな黒板に向いあって、真白な解剖台がポツンと置かれてあった。その傍にはもう一つ小さい台があって、キラキラ光る大小さまざまのメスが並んでいた。解剖台の上には白蝋のような屍体が横たわっているが、身長から云ってどうやら少年のものらしい。それを囲んで二人の人物が、熱心に頭と頭とをつきあわさんばかりにしていた。一人は白い手術着を着て、メスだの鋏だのを取りあげ、屍体の咽喉部を切開していた。もう一人は白面の青年で、形のよい背広に身を包んでいた。この手術者は法医学教室の蝋山教授、白面の青年は西一郎と名乗る男だった。そこまで云えば、台の上に載った屍体が、吸血鬼に苛まれた第一の犠牲者である西四郎のものだということが分るであろう。
「どうも素人は功を急いでいかんネ」と蝋山教授がいった。「やはりこうして咽喉から胸部を切開して食道から気管までを取出し、端の方から充分注意して調べてゆかなけりゃ間違いが起る虞れがあるのだ。急がば廻れの諺どおりだて」
「時間のことは覚悟をしてきました。今夜は徹夜しても拝見します」
「うん。時刻はこれから午前二時ごろまでが一番油の乗るときだ。君の時刻の選択はよかったよ。しかしいくら弟の屍体かは知らぬが、君は熱心だねえ。もしここから上にあるものならば、必ず君の目的のものを発見してあげるから安心するがいい。イヤどうも皮下脂肪が発達しているので、メスを使うのに骨が折れる。こんなことなら電気メスを持ってくるんだった……」
といっているとき、ジジジーンと、壁にかけてある大きなベルが鳴りひびいた。それはあまりに突然のことだったので、教授は、
「ややッ――」
とその場に飛び上ったほどだった。
「何でしょう、いまごろ?」
「ハテナ誰か来たのかな。この夜更に変だなア」と教授は頭を傾げた。
そのとき、またベルがジジジーンと、喧しく鳴った。
「ちょっと見て来よう」
と教授はメスを下に置くと、扉をあけて廊下へ出ていった。廊下は長かった。漸く入口のところへ出て、パッと電灯をつけた。
「誰だな。――」
と叫んだが、何の声もしない。
「誰だな。――」
そういって硝子越しに、暗い外を透してみていた教授は、何に駭いたか、
「呀ッ、これはいかん」といってその場に尻餅をつくと、大声に西一郎を呼んだ。
その声はたしかに解剖室に聞えた筈だったけれど、西はどうしたのか、なかなか出て来なかった。蝋山教授は俄かに恐怖のドン底に落ちて、急に口が出なくなって、手足をバタバタするだけだった。
「どうしたんです、先生!」
元気な声が奥から聞えると、やっと西一郎が駈けつけた。西にやっと聞えたらしい。
「いま怪しい奴が、その硝子のところからこっちを睨んだ。ピストルらしいものがキラリと光った、と思ったら腰がぬけたようだ。どうも極りがわるいけれど……」
「ナニ怪しい奴ですって?」
一郎は勇敢にも扉のところへ出て、暗い戸外を窺った。しかし彼には別に何の怪しい者の姿も映らなかった。教授はきっと何かの幻影をみたのだろうということにして、彼は教授を抱き起して、肩に支えた。
「あッ、冷たい。君の手は濡れているじゃないかい。向うで手を洗ったのかネ」
「いえなに……」
「なぜ手を洗ったんだ。一体何をしていたんだ。法医学教室の神聖を犯すと承知しないよ」
一郎は口だけは達者な教授をしっかり担いで廊下を元の解剖室の方へ歩いていった。
「おや、変だぞ」と一郎は叫んだ。
「なにが変だ」と教授は一郎の胸倉をとったが「うん、これは可笑しい。教室の灯が消えている。君が消したのか」
「いえ、僕じゃありません。僕は消しません。これは変なことだらけだから、静かに行ってみましょう。声を出さんで下さい。いいですか」
二人は静かに戸口に近づいた。そしてじっと真黒な室内を覗きこんだ。二人はもうすこしで、呀ッと声をたてるところだった。誰か分らぬが、解剖台の上を懐中電灯で照らしている者があった。が、それはすぐ消えて、室内はまた暗澹の中に沈んだ。その代り、なにか重いものを引擦るようにゴソリゴソリという気味のわるい音がした。
一郎は教授に耳うちして、室内の電灯のスイッチの在所を訊いた。それは室を入ったすぐの壁にとりつけてあるということだった。彼は教授の留めるのも聞かず、勇躍飛んで出ると、スイッチを真暗の中に探ってパッと灯をつけた。たちまち室内は昼を欺くように煌々たる光にみちた。
「呀ッ、怪しい奴がッ!」
見ると黒板の左手にあたる窓が開いて、そこに一人の男が片足かけて逃げだそうとしていた。
「待てッ!」
と声をかけると、かの怪漢はクルリと室内に向き直った。ああ、その恐ろしい顔! 左の頬の上にアリアリと大痣のような形の物が現れていた。
「ああ、彼奴だッ」
一郎はそう叫ぶと、なおも逸って怪漢に飛びつこうとする蝋山教授の腰を圧さえて、教壇の陰にひきずりこんだ。
ダダーン。
轟然たる銃声が聞えたと思うよりも早く、ピューッと銃丸が二人の耳許を掠めて、廊下の奥の硝子窓をガチャーンと破壊した。一郎の措置がもう一秒遅かったとしたら、教授の額には孔があいていたかもしれない。
それから五分間――二人は鮑のように固くなって、教壇の陰に潜んでいた。もうよかろうというので恐る恐る頭をあげて窓の方をみると、窓は明け放しになったままで、もう怪漢の姿がなかった。ホッと息をついた蝋山教授は、このとき眼を解剖台の上に移して愕然とした。
「やられたッ。――屍体がなくなっている!」
なるほど、解剖台の上には屍体の覆布があるばかりで、さっきまで有った筈の屍体が影も形もなくなっていた。
「彼奴が盗んでいったんですよ、ホラ御覧なさい」と一郎は床の上を指しながら「屍体を曳擦っていった跡が窓のところまでついていますよ。屍体を窓から抛りだして置いて、それから彼奴が窓を乗越えて逃げたんです」
「うん、違いない。早く追い駆けてくれたまえ」
「もう駄目ですよ。逃げてしまって……」
「何を云っているんだ。君の弟の屍体なんじゃないか」
「追いついても、ピストルで撃たれるのが落ちですよ。それよりも警視庁へ電話をかけましょう」
「君のような弱虫の若者には始めて会ったよ。駄目な奴だ」
教授はいつまでもブツブツ怒っていた。
昼間丸ノ内を徘徊していた痣蟹が、深更になってなぜ屍体を盗んでいったのだろう。一郎はなぜ弟の屍体を追わなかったのだろう。果して彼は弱虫だったろうか。
麗わしき歌姫