8話 恐怖の口笛(8)
読み方を変える
矢走千鳥の誘拐事件は、なんの手懸りもなく、それから一日過ぎた。
雁金検事はそのことで、大江山捜査課長を検事局の一室に招いた。
「君の怠慢にますます感謝するよ。いよいよ儂たちは新聞の社会面でレコード破りの人気者となったよ。第一千鳥の神隠しはどうなったんだ。玉川ゴルフ場から十分ぐらいの半径の中なら、一軒一軒当っていっても多寡が知れているではないか。どうして分らぬのか、分らんでいる方が六ヶ敷いと思うが……」
「イヤそれが不思議にも、どうしても分らないのです。ひょっとすると、犯人は夜のうちに千鳥をもっと遠いところに移したかもしれないのです。しかし御安心下さい。あの犯人も吸血鬼も、同一人物だと睨んでいて、別途から犯人を探しています」
「別途からというと、君の覘っている犯人というのは誰だい」
「ポントス――つまりキャバレーの失踪した主人ですネ。部下は懸命に捜索に当っています。今明日中にきっと発見してみせますから」
「彼奴はもう死んでいるのじゃないか」
「死んでいてもいいのです。ポントスの持っている秘密が、恐怖の口笛にまつわる吸血鬼事件の最後の鍵なんです」
「ほほう」と検事は目を丸くして「では儂が首を縊らん前に、事件の真相を報告するようにしてくれ給え」
大江山が帰ると間もなく、覆面探偵から電話がかかって来た。
「雁金さん。いよいよ犯人を決定するときが来ましたよ」
「ほほう。イヤこれは盛んなことだ」
「まぜかえしてはいけませんよ。それで一つ、お願いがあるのですけれど……」
「犯人を国外に逃がす相談なら、今からお断りだ」
「そうではありません。実は今夜、たしかに吸血鬼と思われる怪人物から会見を申込まれているのです」
「うん、それはお誂え向きだ。では新選組を百名ばかり貸そうかネ」
「いえ、向うでは僕一人が会うという条件で申込んで来ているのです」
「そんな勝手な条件なんか、蹂躙したまえ」
「そうはいかないですよ。――で僕は独りで会うつもりなんですが、もし今夜九時までに、僕が貴下のところへお電話しなかったら、貴下の一番下のひきだしの中に入っている手紙をよんで下さい」
「なんだ、手紙が入っているんだって?」なるほど誰がいつの間に入れたか、白い四角な封筒が入っていた。「あったあった。こんなもの直ぐ明けられるじゃないか」
「明けても駄目です。或る仕掛がしてあるので、今夜九時にならないと、文字が出て来ません。今御覧になっても白紙ですよ」
チェッと雁金検事が舌打ちをした途端に、相手の受話機がガチャリと掛った。
その日の夕刻、丁度黄昏どきのこと、丸ノ内にある化物ビルといわれる廃墟になっている九階建てのビルディングの、その九階の一室で、前代未聞の奇妙な会見が行われていた。
まずその荒れはてた部屋の真中には足の曲った一脚の卓子があり、それを挿んで二人の人物が相対していた。
入口に遠い方にいる人物は紛れもなく覆面探偵の青竜王だったが、彼は椅子に腰をかけた儘、身体を椅子ごと太い麻縄でグルグルに締められていた。それに対する人物は、卓子を距てて立っていたが、その人物は頭の上から黒い布をスッポリ被っていた。そして右手には鋭い薄刃のナイフを構えて、イザといえば飛び掛ろうという勢いを示していた。――これが雁金検事に報告された青竜王と吸血鬼との会見なのであった。すると、黒い布を被った人物こそ、恐るべき殺人犯の吸血鬼なのであろう。
「案外智恵のない男だねえ――」と黒布の人物は皺枯れ声でいった。皺枯れ声だったけれども、確かに女性の声に紛れもなかった。
「……」青竜王は無言で、石のように動かない。
「そうやって椅子に縛りつけられりゃ、生かそうと殺そうと、私の自由だよ。この短刀で、心臓をグサリと突くことも出来るし、お好みなら、指一本一本切ってもいい。苦しむのが恐ろしいのなら、ここにある注射針で一本プスリとモルヒネを打ってあげてもいいよ」と憎々しげに云った。
「約束を違えるなんて、卑怯だネ、君は」と青竜王は始めて口を開いた。
「お前は莫迦だよ。――妾の正体を知っている奴は、皆殺してしまうのだ。お前を今まで助けてやったのを有難いと思え。しかし今日という今日は、気の毒ながら生きては外へ出さないよ」
と、まるで芝居がかりの妖婆のような口調でいった。そして短刀を擬してジリジリと青竜王の方へ近づいてくるのであった。
「まあ待ち給え。何時でも殺されよう。だがその前に約束だけは果させてくれ。というのは、僕は君に云いたいことがあるんだ」
「云いたいことがある。有るなら最期の贈り物に聞いてやろう。但し五分間限りだよ。早く云いな――」
「僕はこれまで、かなり君を庇ってきてやったぞ。君は知らないことはないだろう。最近に玉川で矢走千鳥を襲ったのも君だった。僕が出ていって君を離したが。そのお陰で、君は吸血の罪を一回だけ重ねないで済んだのだ。いや一回だけでない。いままでに君を邪魔して、吸血の罪を犯させなかったことが五度もある。それは君を呪いの吸血病から、何とかして救いたいためだった。……」
「なにを云う。……すると今まで、邪魔が飛びだしたのは、皆お前のせいだとおいいだネ」
と、悪鬼は拳を固めて、青竜王を丁々と擲った。探偵は歯を喰い縛って怺えた。
「君に悔い改めさせたいばかりに、パチノ墓地からも君を伴って逃がしてやった」
ああ、すると吸血鬼というのは、もしや……。
「お黙り」と悪鬼は、またもや探偵の胸を殴った。探偵はウムと呻って悶えた。
「僕には君の正体が、もっと早くから分っていたのだよ。思い出してみたまえ。君が四郎少年を殺したとき、死にもの狂いで探していたものは何だったか覚えているだろう。それが官憲に知れると、立ち所に君は殺人魔として捕縛されるところだった。僕はそれを西一郎の手を経て君の手に戻してやった」
「出鱈目をお云いでないよ。妾は知らないことだよ。――さあ、もう時間は剰すところ一分だよ」
「君に悔い改めさせたいばかりに、僕は君の自由になっているのが分らないのか」
「感傷はよせよ。みっともない」
「ああ、到頭僕の力には及ばないのか。……では僕は一切を諦めて殺されよう。だが只一つ最後に訊きたい。君はなぜ吸血の味を知ったのだ。なにが君を、そんなに恐ろしい吸血鬼にしたのだ」
「そんなことなら、あの世への土産に聞かせてあげよう。――それは先祖から伝わる遺伝なのだよ。パチノを知っているだろう。あれは九人の部下が死ぬと、一人残らず血を吸いとったのだよ。妾はそれを遺書の中から読んだ。……ああ、その遺書が手に入らなかったら、妾は吸血鬼とならずに済んだかもしれない。恐ろしい運命だ」
「そうか、パチノが先祖から承けついだ吸血病か、そうして遂に君にまで伝わったのか、パチノの曾孫にあたる吾が……」
「お黙り!――」と、悪鬼は足を揚げて、青竜王の脾腹をドンと蹴った。
「ウーム」
と彼が呻きながら、その場に悶絶した。
「ああ、それ以上の悪罵に妾が堪えられると思っているのかい。約束の五分間以上喋らせるような甘い妾ではないよ。お前さんはよくもこの妾の邪魔をしたネ」と憎々しげに拳をふりあげながら「さあこれから久し振りに、生ぬるい赤い血潮をゴクゴクと、お前さんの頸笛から吸わせて貰おうよ」
と云ったかと思うと、悪鬼の女は頭の上から被っていた黒布に手をかけるとサッと脱ぎ捨てた。すると、驚くべし、その下から現れたのは、髪も灰色の老婆かと思いの外、意外にも意外、それは金髪を美しく梳った若い洋装の女だった。その顔は――生憎横向きになっているので、見定めがたい!
毒の華のような妖女の手が動いて、黄昏の空気がキラリと閃ったのは、彼女の翳した薄刃のナイフだったであろう。いまやその鋭い刃物は、不運なる青竜王の胸に飛ぶかと見えたが、そのとき何を思ったか、妖女は空いていた左手をグッと伸べて、青竜王の覆面に手をかけた。
「そうだ。誰も知らない青竜王の覆面の下を、今際の際に、この妾が見て置いてあげるよ……」
そう独言をいって、彼女はサッと覆面を引き《むし》った。その下からは思いの外若い男の顔が現れた。両眼を力なく閉じているが、そのあまりにも端正な容貌!
「ああ、貴下は……西一郎!」
そう叫んだのは同じ妖女の声だったが、咄嗟の場合、作り声ではなく、彼女の生地の声――珠のように澄んだ若々しい美声だった。――ああ、とうとう探偵の覆面は取り去られたのだった。いま都下に絶対の信用を博している名探偵青竜王の正体は、白面の青年西一郎だったのだ。そして吸血鬼に屠られた四郎少年こそは、彼と血を分けた愛弟だったのだ!
「ああ、あたしは……」と妖女は胸を大濤のように、はげしく慄わせた。思いがけない大きな驚きに全く途方に暮れ果てたという形だった。
「やっぱり、刺し殺すのだ!」
と叫んで、妖女は再び鋭いナイフをふりあげたが、やがて力なく腕が下りた。
「どうして貴下が殺せましょう。妾の運命もこれまでだ!」
そういった妖女は、青竜王の身近くによると、戒めの縄をズタズタに引き切った。しかし青竜王は覆面をとられたことさえ気がつかない。――妖女はいつの間にか、この荒れ果てた部屋から姿を消してしまった。
かくて風前の灯のように危かった青竜王の生命は、僅かに死の一歩手前で助かった。
大団円、死の舞踊
「――検事さん! 雁金さんは何処へ行かれた?」
と、慌ただしく、検事局の宿直室に飛びこんで来たのは、大江山捜査課長だった。
「おう、どうしたかネ、大江山君」
検事は書見をやめて、大きな机の陰から顔をあげた。
「ああ、そこにおいででしたか。喜んで下さい。とうとうポントスを探しあてましたよ。そして――大団円です」
「ポントスを生捕りにしたのかネ」
「いえ仰しゃったとおりポントスは死んでいました。やはりキャバレー・エトワールの中でした。ちょっと気がつかない二重壁の中に閉じ籠められていたのです」
「ほほう、それは出かしたネ」
「ポントスは素晴らしい遺品をわれわれに残してくれました。それは壁の上一面に、折れ釘でひっかいた遺書なんです。彼は吸血鬼に襲われたが、壁の中に入れられてから、暫くは生きていたらしいですネ」
「おや、すると彼は吸血鬼じゃなかったのだネ」
「吸血鬼は外にあります。――さあ、これが壁に書いた遺書の写しです。吸血鬼の名前もちゃんと出ています」
といって大江山はあまり綺麗でない紙を拡げた。検事はそれを机の上に伸べて、静かに読み下した。
「ほほう、――」と彼は感歎の声をあげ「これでみると、吸血鬼はパチノの曾孫である赤星ジュリアだというのだネ。おお、するとあの竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアがあの恐るべき兇行の主だったのか」
と検事は悲痛な面持で、あらぬ方を見つめた。
「昨日、玉川で一緒にゴルフをしたジュリアがそうだったか。……」
そこで課長はもどかしそうに叫んだ。
「キャバレーの主人オトー・ポントスはいつかの夜のキャバレーの惨劇で、ジュリアの殺人を見たのが、運のつきだったんですネ。ジュリアは夜陰に乗じてポントスの寝室を襲い、まずナイフで一撃を加え、それからあのレコードで『赤い苺の実』を鳴らしたんです。ポントスはジュリアの独唱を聞かせられながら、頸部から彼女に血を吸われたんです。それから秘密の壁に抛り込まれたんですが、あの巨人の体にはまだ血液が相当に残っていたため、暫くは生きていた――というのですネ」
検事は黙々として肯いた。
「ではこれから、逮捕に向いたいと思いますが……」と課長はいった。
「よろしい。――が、いま時刻は……」
「もう三分で午後九時です」
「そうか。ではもう三分間待っていてくれ給え、儂が待っている電話があるのだから」
大江山課長は、後にも先にも経験しなかったような永い三分間を送った。――ボーン、ボーンと遠くの部屋から、正九時を知らせる時計が鳴りだした。
「遂に電話は来ない。――」と検事は低い声で呻くように云った。「では不幸な男の手紙を開いてもよい時刻となったのだ」
そういって彼は、机のひき出しから、白い四角な封筒をとりだし、封を破った。そして中から四つ折の書簡箋を取出すと、開いてみた。そこには淡い小豆色のインキで、
「赤星ジュリア!」
という文字が浮きだしていた。
「それは誰が書いたのですか」大江山課長は不思議に思って尋ねた。
「これは青竜王が預けていった答案なのだ。君の答案とピッタリ合った。儂は君にも青竜王にも敬意を表する者だ!」
といって検事は、大江山課長の手を強く握った。
「それで青竜王はどうしたんです」
と大江山が不審がるので、雁金検事は一伍一什を手短かに物語り、九時までに彼の電話が懸って来る筈だったのだと説明した。
「では青竜王は、吸血鬼の犠牲になったのかも知れないじゃないですか。それなら躊躇している場合ではありません。直ちに私たちに踏みこませて下さい」
「うん。……それでは儂も一緒に出かけよう」
そういって雁金検事は椅子から立ち上った。
検察官は重大な決心を固めて、奮い立った。――そして丸ノ内の竜宮劇場へ――。
一行の自動車が日比谷の角を曲ると、竜宮劇場はもう直ぐ目の前に見えた。その名のとおり、夜の幕の唯中に、燦然と輝く百光を浴びて城のように浮きあがっている歓楽の大殿堂は、どこに忌むべき吸血鬼の巣があるかと思うほどだった。その素晴らしく高く聳えている白色の円い壁体の上には、赤い垂れ幕が何本も下っていて、その上には「一代の舞姫赤星ジュリア一座」とか「堂々続演十七週間――赤き苺の実!」などと鮮かな文字で大書してあるのが見えた。ああ真に一代の妖姫ジュリア!
大江山捜査課長の指揮下に、整然たる警戒網が張りまわされた。こうなれば如何に戦慄すべき魔神なりとも、もう袋の鼠同様だった。
「赤星ジュリアは、ちゃんと居るのかい」
と、雁金検事は入口にいた銀座署長に尋ねた。
「はア、すこし元気がないようですが、ちゃんと舞台に出ています。一向逃げ出す様子もありません」
「そうかネ、フーム……」
と検事は大きな吐息をした。そして秘かに覗き穴から、舞台を注視した。なるほど、ギッシリと詰った座席の彼方に、見覚えのある「赤い苺の実」の絢爛たる舞台面が展開していた。扉の隙間を通じて、
「あたしの大好きな
真紅な苺の実
いずくにあるのでしょう
いま――
欲しいのですけれど……」
と、豊潤な酒のような歌声が響いてくるのであった。――ジュリアは確かにいた。同じような肢体をもったダンシング・チームの中央で一緒に急調なステップを踏んでいた。
「幕を締めさせましょうか。そして舞台裏から一時に飛び掛るんですか……」
「うん、――」と、雁金検事は覗き穴から目を離さなかった。
「検事さん。早くやらないと、青竜王の生命が請合いかねますよ。――」
と、大江山も日頃の競争意識を捨てて、覆面探偵の身の上を案ずるのであった。
「うん。もうそう永いことではない。エピローグまで待つことにしようじゃないか。――それから青竜王のことだが、彼奴のことなら、まあ大丈夫だよ」
と検事は先刻とは打って変って、楽観説を唱えたのだった。
それには訳があった。――いま舞台の上に、赤星ジュリアの右側の方に、軽いタップダンスを踊っている燕尾服の俳優は、紛れもなく西一郎だった。つまり覆面をしていない青竜王は何事もなかったように、たいへん楽しげに舞台に跳ねまわっているのだった。雁金検事は前からそれをよく知っていたればこそ、青竜王の肩を持ったのであった。
だが青竜王は、傍から見るほど楽しく踊っているわけではなかった。真実彼の胸の中を切り開いてみると、九つの苦悩を一つの意志の力でもって辛うじて支えているのだった。彼は既に非常警戒の網が敷かれたことも、舞台の上から見てとった。しかも舞台では、赤星ジュリアが蜉蝣の生命よりももっと果敢ない時間に対し必死の希望を賭け、救おうにも救いきれない恐ろしき罪障をなんとかして此の一瞬の舞台芸術によって浄化したいと願っている。――一つは大洪水のような司法の力、一つは硝子で作った羽毛のようにまことに脆弱な魂――その二つの間に挿まれた彼、青竜王の心境は実に辛かった。
――なんとかして、最後の舞台を力一杯に勤めさせたい!
と彼は思った。だがジュリアの舞台は、もう誰の目にもそれと分るほど光りを失っていた。
「どうも変だな。ジュリアはいまにも倒れてしまいそうじゃないか」
「あたしも先刻から、そう思っていたところよ。どうしたんでしょうネ。きっとジュリアは疲れたんでしょう」
――ジュリア、どうした!
と、三階席から無遠慮な声が飛んだ。
それが耳に入ったのか、ジュリアはハッと顔をあげたが、その頸のあたりは短時間のうちにアリアリと痩せ細ってみえた。
――ジュリア、帰って睡ってこい!
と、続いて二階から頓狂な声が響いた。
ジュリアはいつの間にか力なく下に垂れた顔を、またハッとあげた。彼女はギリギリと上下の歯を噛み合わせた。が――右手に持った真白な鴕鳥の羽毛で作った大きな扇がブルブルと顫えながら、その悲痛きわまりない顔を隠してしまった。
「別れの冬木立
遺品にちょうだいな
あなたの心臓を
ええ――
あたしは吸血鬼……」