恐怖の口笛

8話 恐怖の口笛(8)

6,998字 約14分 2004年11月4日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 矢走千鳥(やばせちどり)誘拐事件(ゆうかいじけん)は、なんの手懸(てがか)りもなく、それから一日過ぎた。

 雁金検事はそのことで、大江山捜査課長を検事局の一室に招いた。

「君の怠慢にますます感謝するよ。いよいよ(わし)たちは新聞の社会面でレコード破りの人気者となったよ。第一千鳥の神隠(かみがく)しはどうなったんだ。玉川ゴルフ場から十分ぐらいの半径(はんけい)の中なら、一軒一軒当っていっても多寡(たか)が知れているではないか。どうして分らぬのか、分らんでいる方が(むつ)()いと思うが……」

「イヤそれが不思議にも、どうしても分らないのです。ひょっとすると、犯人は夜のうちに千鳥をもっと遠いところに移したかもしれないのです。しかし御安心下さい。あの犯人も吸血鬼も、同一人物だと(にら)んでいて、別途(べっと)から犯人を探しています」

「別途からというと、君の(ねら)っている犯人というのは誰だい」

「ポントス――つまりキャバレーの失踪(しっそう)した主人ですネ。部下は懸命に捜索に当っています。今明日中(こんみょうにちじゅう)にきっと発見してみせますから」

彼奴(きゃつ)はもう死んでいるのじゃないか」

「死んでいてもいいのです。ポントスの持っている秘密が、恐怖の口笛にまつわる吸血鬼事件の最後の鍵なんです」

「ほほう」と検事は目を丸くして「では儂が首を(くく)らん前に、事件の真相を報告するようにしてくれ(たま)え」

 大江山が帰ると間もなく、覆面探偵から電話がかかって来た。

「雁金さん。いよいよ犯人を決定するときが来ましたよ」

「ほほう。イヤこれは(さか)んなことだ」

「まぜかえしてはいけませんよ。それで一つ、お願いがあるのですけれど……」

「犯人を国外に逃がす相談なら、今からお(ことわ)りだ」

「そうではありません。実は今夜、たしかに吸血鬼と思われる怪人物から会見を申込まれているのです」

「うん、それはお(あつら)()きだ。では新選組(しんせんぐみ)を百名ばかり貸そうかネ」

「いえ、向うでは僕一人が会うという条件で申込んで来ているのです」

「そんな勝手な条件なんか、蹂躙(じゅうりん)したまえ」

「そうはいかないですよ。――で僕は(ひと)りで会うつもりなんですが、もし今夜九時までに、僕が貴下(あなた)のところへお電話しなかったら、貴下の一番下のひきだしの中に入っている手紙をよんで下さい」

「なんだ、手紙が入っているんだって?」なるほど誰がいつの間に入れたか、白い四角な封筒が入っていた。「あったあった。こんなもの()ぐ明けられるじゃないか」

「明けても駄目です。或る仕掛がしてあるので、今夜九時にならないと、文字が出て来ません。今御覧(ごらん)になっても白紙(はくし)ですよ」

 チェッと雁金検事が舌打ちをした途端(とたん)に、相手の受話機がガチャリと掛った。

 その日の夕刻、丁度黄昏(たそがれ)どきのこと、丸ノ内にある化物ビルといわれる廃墟(はいきょ)になっている九階建てのビルディングの、その九階の一室で、前代未聞(ぜんだいみもん)の奇妙な会見が行われていた。

 まずその荒れはてた部屋の真中には足の曲った一脚の卓子(テーブル)があり、それを(はさ)んで二人の人物が相対(あいたい)していた。

 入口に遠い方にいる人物は(まぎ)れもなく覆面探偵の青竜王だったが、彼は椅子に腰をかけた(まま)、身体を椅子ごと太い麻縄(あさなわ)でグルグルに締められていた。それに対する人物は、卓子を(へだ)てて立っていたが、その人物は頭の上から黒い(きれ)をスッポリ(かぶ)っていた。そして右手には鋭い薄刃(うすば)のナイフを(かま)えて、イザといえば飛び掛ろうという(いきお)いを示していた。――これが雁金検事に報告された青竜王と吸血鬼との会見なのであった。すると、黒い布を被った人物こそ、恐るべき殺人犯の吸血鬼なのであろう。

「案外智恵のない男だねえ――」と黒布の人物は皺枯(しわが)れ声でいった。皺枯れ声だったけれども、確かに女性の声に紛れもなかった。

「……」青竜王は無言で、石のように動かない。

「そうやって椅子に縛りつけられりゃ、生かそうと殺そうと、私の自由だよ。この短刀で、心臓をグサリと突くことも出来るし、お(この)みなら、指一本一本切ってもいい。苦しむのが恐ろしいのなら、ここにある注射針で一本プスリとモルヒネを打ってあげてもいいよ」と憎々(にくにく)しげに云った。

「約束を(たが)えるなんて、卑怯(ひきょう)だネ、君は」と青竜王は始めて口を開いた。

「お前は莫迦(ばか)だよ。――(わたし)の正体を知っている奴は、皆殺してしまうのだ。お前を今まで助けてやったのを有難いと思え。しかし今日という今日は、気の毒ながら生きては外へ出さないよ」

 と、まるで芝居がかりの妖婆(ようば)のような口調でいった。そして短刀を()してジリジリと青竜王の方へ近づいてくるのであった。

「まあ待ち給え。何時でも殺されよう。だがその前に約束だけは果させてくれ。というのは、僕は君に云いたいことがあるんだ」

「云いたいことがある。有るなら最期の贈り物に聞いてやろう。但し五分間限りだよ。早く云いな――」

「僕はこれまで、かなり君を(かば)ってきてやったぞ。君は知らないことはないだろう。最近に玉川で矢走千鳥を襲ったのも君だった。僕が出ていって君を離したが。そのお陰で、君は吸血の罪を一回だけ重ねないで()んだのだ。いや一回だけでない。いままでに君を邪魔(じゃま)して、吸血の罪を犯させなかったことが五度もある。それは君を呪いの吸血病から、何とかして救いたいためだった。……」

「なにを云う。……すると今まで、邪魔が飛びだしたのは、皆お前のせいだとおいいだネ」

 と、悪鬼(あっき)(こぶし)を固めて、青竜王を丁々(ちょうちょう)(なぐ)った。探偵は歯を喰い縛って(こら)えた。

「君に悔い改めさせたいばかりに、パチノ墓地からも君を伴って逃がしてやった」

 ああ、すると吸血鬼というのは、もしや……。

「お黙り」と悪鬼は、またもや探偵の胸を(なぐ)った。探偵はウムと(うな)って(もだ)えた。

「僕には君の正体が、もっと早くから分っていたのだよ。思い出してみたまえ。君が四郎少年を殺したとき、死にもの狂いで探していたものは何だったか覚えているだろう。それが官憲(かんけん)に知れると、立ち(どころ)に君は殺人魔として捕縛(ほばく)されるところだった。僕はそれを西一郎の手を()て君の手に戻してやった」

出鱈目(でたらめ)をお云いでないよ。妾は知らないことだよ。――さあ、もう時間は(あま)すところ一分だよ」

「君に()(あらた)めさせたいばかりに、僕は君の自由になっているのが分らないのか」

感傷(かんしょう)はよせよ。みっともない」

「ああ、到頭(とうとう)僕の力には及ばないのか。……では僕は一切を(あきら)めて殺されよう。だが只一つ最後に()きたい。君はなぜ吸血の味を知ったのだ。なにが君を、そんなに恐ろしい吸血鬼にしたのだ」

「そんなことなら、あの世への土産(みやげ)に聞かせてあげよう。――それは先祖から伝わる遺伝なのだよ。パチノを知っているだろう。あれは九人の部下が死ぬと、一人残らず血を吸いとったのだよ。妾はそれを遺書の中から読んだ。……ああ、その遺書が手に入らなかったら、妾は吸血鬼とならずに済んだかもしれない。恐ろしい運命だ」

「そうか、パチノが先祖から()けついだ吸血病か、そうして(つい)に君にまで伝わったのか、パチノの曾孫(そうそん)にあたる()が……」

「お黙り!――」と、悪鬼は足を()げて、青竜王の脾腹(ひばら)をドンと蹴った。

「ウーム」

 と彼が呻きながら、その場に悶絶(もんぜつ)した。

「ああ、それ以上の悪罵(あくば)に妾が堪えられると思っているのかい。約束の五分間以上(しゃべ)らせるような甘い妾ではないよ。お前さんはよくもこの妾の邪魔をしたネ」と憎々しげに拳をふりあげながら「さあこれから久し振りに、生ぬるい赤い血潮をゴクゴクと、お前さんの頸笛(くびぶえ)から吸わせて貰おうよ」

 と云ったかと思うと、悪鬼の女は頭の上から被っていた黒布(こくふ)に手をかけるとサッと脱ぎ捨てた。すると、驚くべし、その下から現れたのは、髪も灰色の老婆かと思いの(ほか)、意外にも意外、それは金髪を美しく(くしけず)った若い洋装の女だった。その顔は――生憎(あいにく)横向きになっているので、見定(みさだ)めがたい!

 毒の(はな)のような妖女(ようじょ)の手が動いて、黄昏の空気がキラリと(ひか)ったのは、彼女の(かざ)した薄刃のナイフだったであろう。いまやその鋭い刃物は、不運なる青竜王の胸に飛ぶかと見えたが、そのとき何を思ったか、妖女は空いていた左手をグッと伸べて、青竜王の覆面に手をかけた。

「そうだ。誰も知らない青竜王の覆面の下を、今際(いまわ)の際に、この妾が見て置いてあげるよ……」

 そう独言(ひとりごと)をいって、彼女はサッと覆面を引き《むし》った。その下からは思いの外若い男の顔が現れた。両眼を力なく閉じているが、そのあまりにも端正(たんせい)な容貌!

「ああ、貴下は……西一郎!」

 そう叫んだのは同じ妖女の声だったが、咄嗟(とっさ)の場合、作り声ではなく、彼女の生地(きじ)の声――(たま)のように澄んだ若々しい美声(びせい)だった。――ああ、とうとう探偵の覆面は取り去られたのだった。いま都下に絶対の信用を(はく)している名探偵青竜王の正体は、白面(はくめん)の青年西一郎だったのだ。そして吸血鬼に(ほふ)られた四郎少年こそは、彼と血を分けた愛弟(あいてい)だったのだ!

「ああ、あたしは……」と妖女は胸を大濤(おおなみ)のように、はげしく(ふる)わせた。思いがけない大きな驚きに全く途方(とほう)に暮れ果てたという形だった。

「やっぱり、刺し殺すのだ!」

 と叫んで、妖女は再び鋭いナイフをふりあげたが、やがて力なく腕が下りた。

「どうして貴下が殺せましょう。妾の運命もこれまでだ!」

 そういった妖女は、青竜王の身近くによると、(いまし)めの縄をズタズタに引き切った。しかし青竜王は覆面をとられたことさえ気がつかない。――妖女はいつの間にか、この荒れ果てた部屋から姿を消してしまった。

 かくて風前(ふうぜん)(ともしび)のように(あやう)かった青竜王の生命は、僅かに死の一歩手前で助かった。

   大団円(だいだんえん)、死の舞踊(ぶよう)

「――検事さん! 雁金さんは何処へ行かれた?」

 と、(あわ)ただしく、検事局の宿直室に飛びこんで来たのは、大江山捜査課長だった。

「おう、どうしたかネ、大江山君」

 検事は書見(しょけん)をやめて、大きな机の陰から顔をあげた。

「ああ、そこにおいででしたか。喜んで下さい。とうとうポントスを探しあてましたよ。そして――大団円です」

「ポントスを生捕りにしたのかネ」

「いえ(おっ)しゃったとおりポントスは死んでいました。やはりキャバレー・エトワールの中でした。ちょっと気がつかない二重壁の中に閉じ籠められていたのです」

「ほほう、それは出かしたネ」

「ポントスは素晴らしい遺品をわれわれに残してくれました。それは壁の上一面に、()(くぎ)でひっかいた遺書なんです。彼は吸血鬼に襲われたが、壁の中に入れられてから、(しばら)くは生きていたらしいですネ」

「おや、すると彼は吸血鬼じゃなかったのだネ」

「吸血鬼は外にあります。――さあ、これが壁に書いた遺書の写しです。吸血鬼の名前もちゃんと出ています」

 といって大江山はあまり綺麗でない紙を拡げた。検事はそれを机の上に()べて、静かに読み(くだ)した。

「ほほう、――」と彼は感歎(かんたん)の声をあげ「これでみると、吸血鬼はパチノの曾孫である赤星ジュリアだというのだネ。おお、するとあの竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアがあの恐るべき兇行の主だったのか」

 と検事は悲痛(ひつう)面持(おももち)で、あらぬ方を見つめた。

「昨日、玉川で一緒にゴルフをしたジュリアがそうだったか。……」

 そこで課長はもどかしそうに叫んだ。

「キャバレーの主人オトー・ポントスはいつかの夜のキャバレーの惨劇(さんげき)で、ジュリアの殺人を見たのが、運のつきだったんですネ。ジュリアは夜陰(やいん)(じょう)じてポントスの寝室を襲い、まずナイフで一撃を加え、それからあのレコードで『赤い苺の実』を鳴らしたんです。ポントスはジュリアの独唱(どくしょう)を聞かせられながら、頸部(けいぶ)から彼女に血を吸われたんです。それから秘密の壁に(ほう)り込まれたんですが、あの巨人の体にはまだ血液が相当に残っていたため、暫くは生きていた――というのですネ」

 検事は黙々(もくもく)として(うなず)いた。

「ではこれから、逮捕に向いたいと思いますが……」と課長はいった。

「よろしい。――が、いま時刻は……」

「もう三分で午後九時です」

「そうか。ではもう三分間待っていてくれ給え、(わし)が待っている電話があるのだから」

 大江山課長は、後にも先にも経験しなかったような永い三分間を送った。――ボーン、ボーンと遠くの部屋から、(しょう)九時を知らせる時計が鳴りだした。

(つい)に電話は来ない。――」と検事は低い声で(うめ)くように云った。「では不幸な男の手紙を開いてもよい時刻となったのだ」

 そういって彼は、机のひき出しから、白い四角な封筒をとりだし、封を破った。そして中から四つ折の書簡箋(しょかんせん)を取出すと、開いてみた。そこには淡い小豆色(あずきいろ)のインキで、

「赤星ジュリア!」

 という文字が浮きだしていた。

「それは誰が書いたのですか」大江山課長は不思議に思って(たず)ねた。

「これは青竜王が預けていった答案なのだ。君の答案とピッタリ合った。儂は君にも青竜王にも敬意を(ひょう)する者だ!」

 といって検事は、大江山課長の手を強く握った。

「それで青竜王はどうしたんです」

 と大江山が不審がるので、雁金検事は一伍一什(いちぶしじゅう)を手短かに物語り、九時までに彼の電話が(かか)って来る筈だったのだと説明した。

「では青竜王は、吸血鬼の犠牲になったのかも知れないじゃないですか。それなら躊躇(ちゅうちょ)している場合ではありません。(ただ)ちに私たちに踏みこませて下さい」

「うん。……それでは儂も一緒に出かけよう」

 そういって雁金検事は椅子から立ち上った。

 検察官は重大な決心を固めて、(ふる)い立った。――そして丸ノ内の竜宮劇場へ――。

 一行の自動車が日比谷の(かど)を曲ると、竜宮劇場はもう直ぐ目の前に見えた。その名のとおり、夜の幕の唯中(ただなか)に、燦然(さんぜん)(かがや)く百光を浴びて城のように浮きあがっている歓楽の大殿堂(だいでんどう)は、どこに()むべき吸血鬼の巣があるかと思うほどだった。その素晴らしく高く(そび)えている白色の円い壁体(へきたい)の上には、赤い垂れ幕が何本も下っていて、その上には「一代の舞姫(まいひめ)赤星ジュリア一座」とか「堂々続演(ぞくえん)十七週間――赤き苺の実!」などと(あざや)かな文字で大書(たいしょ)してあるのが見えた。ああ真に一代の妖姫(ようき)ジュリア!

 大江山捜査課長の指揮下に、整然たる警戒網が張りまわされた。こうなれば如何に戦慄(せんりつ)すべき魔神(まじん)なりとも、もう袋の鼠同様だった。

「赤星ジュリアは、ちゃんと居るのかい」

 と、雁金検事は入口にいた銀座署長に尋ねた。

「はア、すこし元気がないようですが、ちゃんと舞台に出ています。一向逃げ出す様子もありません」

「そうかネ、フーム……」

 と検事は大きな吐息(といき)をした。そして(ひそ)かに(のぞ)き穴から、舞台を注視した。なるほど、ギッシリと(つま)った座席の彼方(かなた)に、見覚えのある「赤い苺の実」の絢爛(けんらん)たる舞台面が展開していた。(ドア)の隙間を通じて、

「あたしの大好きな

 真紅(まっか)な苺の実

 いずくにあるのでしょう

 いま――

 欲しいのですけれど……」

 と、豊潤(ほうじゅん)な酒のような歌声が響いてくるのであった。――ジュリアは確かにいた。同じような肢体をもったダンシング・チームの中央で一緒に急調(きゅうちょう)なステップを踏んでいた。

「幕を締めさせましょうか。そして舞台裏から一時に飛び(かか)るんですか……」

「うん、――」と、雁金検事は覗き穴から目を離さなかった。

「検事さん。早くやらないと、青竜王の生命が請合(うけあ)いかねますよ。――」

 と、大江山も日頃の競争意識を捨てて、覆面探偵の身の上を案ずるのであった。

「うん。もうそう永いことではない。エピローグまで待つことにしようじゃないか。――それから青竜王のことだが、彼奴(きゃつ)のことなら、まあ大丈夫だよ」

 と検事は先刻(せんこく)とは打って変って、楽観説を唱えたのだった。

 それには訳があった。――いま舞台の上に、赤星ジュリアの右側の方に、軽いタップダンスを踊っている燕尾服(えんびふく)の俳優は、(まぎ)れもなく西一郎だった。つまり覆面をしていない青竜王は何事もなかったように、たいへん楽しげに舞台に跳ねまわっているのだった。雁金検事は前からそれをよく知っていたればこそ、青竜王の肩を持ったのであった。

 だが青竜王は、(はた)から見るほど楽しく踊っているわけではなかった。真実彼の胸の中を切り開いてみると、九つの苦悩を一つの意志の力でもって(かろ)うじて支えているのだった。彼は既に非常警戒の網が敷かれたことも、舞台の上から見てとった。しかも舞台では、赤星ジュリアが蜉蝣(かげろう)の生命よりももっと果敢(はか)ない時間に対し必死の希望を賭け、救おうにも救いきれない恐ろしき罪障(ざいしょう)をなんとかして此の一瞬の舞台芸術によって浄化(じょうか)したいと願っている。――一つは大洪水(だいこうずい)のような司法の力、一つは硝子(ガラス)で作った羽毛(うもう)のようにまことに脆弱(ぜいじゃく)な魂――その二つの間に(はさ)まれた彼、青竜王の心境は実に(つら)かった。

 ――なんとかして、最後の舞台を力一杯に(つと)めさせたい!

 と彼は思った。だがジュリアの舞台は、もう誰の目にもそれと分るほど光りを失っていた。

「どうも変だな。ジュリアはいまにも倒れてしまいそうじゃないか」

「あたしも先刻(さっき)から、そう思っていたところよ。どうしたんでしょうネ。きっとジュリアは疲れたんでしょう」

 ――ジュリア、どうした!

 と、三階席から無遠慮(ぶえんりょ)な声が飛んだ。

 それが耳に入ったのか、ジュリアはハッと顔をあげたが、その(くび)のあたりは短時間のうちにアリアリと痩せ細ってみえた。

 ――ジュリア、帰って(ねむ)ってこい!

 と、続いて二階から頓狂(とんきょう)な声が響いた。

 ジュリアはいつの間にか力なく下に垂れた顔を、またハッとあげた。彼女はギリギリと上下の歯を噛み合わせた。が――右手に持った真白な鴕鳥(だちょう)羽毛(はね)で作った大きな(おうぎ)がブルブルと(ふる)えながら、その悲痛きわまりない顔を隠してしまった。

「別れの冬木立(ふゆこだち)

 遺品(かたみ)にちょうだいな

 あなたの心臓を

 ええ――

 あたしは吸血鬼……」

目次に戻る

目次