14話 浴槽の怪
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再び警察官の来邸を乞い、前同様捜索が行われたけれど、何の甲斐もなく、騒ぎが静まって、主客が又以前の食堂に対座した時は、もう夜の九時を過ぎていた。
「ほんとうに有難うございました。先生がいて下さらなければ、わたくし、今頃はこうしてお話なんかしていられなかったと思いますわ」
夏子は、食卓をかたづけさせ、蘭堂にお茶を勧めながら、やっと落ついた様に話し出した。
「イヤ、僕こそ。あの時あなたがピストルを撃って下さらなかったら、命がない所でした。それにしても、あなたの思い切った所置には敬服しました。一寸出来ない芸当ですよ」
蘭堂は心から命の恩を感じて、夏子を褒めたたえた。
「マア、どうしましょう。わたくし、あんな恥かしい様子をお目にかけて。……でも、ああでもしなければ、先生が危なかったのですもの」
「そうですとも、危なかったのです。あいつ本気で僕を殺そうとしていたのです」
「お互っこですわね。先生はあたしを助けて下さるし、あたしは先生をお救い申上げた訳ですわね。あたし何だか偶然でない様な気が致しますわ。こんな事がいつかあるのだという妙な予感を持って居りましたわ」
このうら若い未亡人は、互に救い救われしたことが、ひどく嬉し相である。
「アノ、本当にご迷惑でしょうけど、アノ、今夜お泊り下さる訳には行きません? 書生もまだ帰りませんし、若し先生でもいて下さらなければ、あたし、この家で眠る気が致しませんわ。ね、お願いですわ。それに、今からでは東京にお帰りになるのも大変なんですから」
夏子は甘える様に云って、蘭堂を見上た。
「エエ、僕は泊めて頂ければ有難いですけれど、ご婦人お一人のうちへ、あまり不躾ですから。じゃ、書生さんが帰り次第お暇することにしましょう。汽車がなくなったっていいですよ。鎌倉には友達もあるんですから」
蘭堂は本当に迷惑相に云う。
「マア、お堅いんですのね。恥をかかせるもんじゃございませんわ」
夏子は小声になって、目を細めて、ニッコリと怨じて見せた。アア、その艶かしさ! 蘭堂は段々自信を失って行く様な気がした。
しっかりしろ、誘惑に陥ってはならぬぞ。お前には心に誓った恋人があるではないか。仮令一瞬間にもしろ、花園京子のことを忘れてよいのか。あの可憐で純潔な処女と、このみだりがましき年増女とを、心の天秤にかけるとは、お前は何という見下げ果てた堕落男なのだ。
「では仕方がございませんわ。せめて書生が帰りますまで……先生お疲れでございましょう。それに汗になりましたでしょうから、一風呂あびていらっしゃいません? さい前いいつけて置きましたから、もう沸いている時分ですわ」
夏子は又品を変えて、艶かしく迫った。
「イヤ僕は帰ってからでいいんです。どうかあなたご遠慮なく」
蘭堂は我と我心と戦いながら、愈々固くなって云った。
「じゃ、あたし、一寸失礼しようかしら。先生に番兵をお願いしてお湯に這入るなんて、本当になんですけど、あたしすっかり汚れてしまって、先生と顔を合わしているのも恥しい位ですから、顔丈け洗わせて頂きますわ。ホンのちょっとですから、済みませんがお待ち下さいませね」
夏子は娼婦の様なことを云って、蘭堂が肯くのを見ると、そそくさと湯殿へ立去った。
そして暫くすると、アア、今日は何という魔日だろう。又しても、湯殿と覚しき方角から、けたたましい悲鳴が聞えて来た。今度はゴリラ奴湯殿に待伏せしていたのかしら。と思うと、蘭堂はウンザリしてしまった。
悲鳴はいつまでも続いている。女中達はおびえてしまって、主人を助けに行くどころか、却て湯殿の前から逃げ出しながら、「大変です。奥様が、奥様が」と口々に叫ぶばかりだ。
うち捨てて置く訳には行かぬ。湯殿の中とは実に迷惑な場所だけれど、そんなことを云って、躊躇している場合でない。それに、ゴリラ男には重なる恨みがあるのだ。
蘭堂は女中に湯殿のありかを尋ねて、駈けつけると、いきなりその扉を開いた。
だが、扉を開いて一目浴室を見た時、彼はハッと目まいを感じて立ちすくんでしまった。
そこには、ゴチャゴチャと無数の肉塊が蠢いていた。人肉の万華鏡みたいなものが、眼界一杯に、あやしくも美しく開いていたのだ。
余りの怪しさに、ギョッとして、暫くは夢とも現とも判じ兼ねたが、やがて、気を取直してよく見ると、この浴室の不思議な構造が分って来た。
浴室は八角形の鏡の部屋になっていたのだ。境目もなく、厚ガラスの鏡ばかりで、浴槽を八角形にとり囲み、天井までも同じ鏡で出来ている、謂わば巨大な万華鏡であったのだ。恐らくは夏子の亡夫の奇を好む贅沢な思いつきから、入浴の為ばかりではなく、一種の観楽境として建てられたものであろう。
八方の鏡に反射し合って、数十数百の裸女の像を映し、それが身動きをする度毎に、万華鏡を廻した時と同じ様に、種々様々の肉塊の花を咲かせるのだ。
浴槽の中に立上って、悲鳴を上げていた夏子は、蘭堂の顔を見ると、流石に恥らって、急いで身体を湯の中に隠し、首丈け出して、叫ぶのだ。
「先生、これ、これですの。こんな恐ろしいものが、お湯の中にブカブカ浮いていましたの」
では、今度はゴリラ男ではなかったのか。
「失礼。女中さん達が怖がって、よりつかないものですから。……何が浮いていたのです」
蘭堂は、少し照れて、詫びごとをしながら、聞返した。
「これ、これ」
夏子は気味悪そうに、浴槽の片隅の一物を指さしていたが、それと同じ湯につかっているのに耐えられなくなったのか、思い切った様に、そのものを掴んで、浴槽の外へ放り出した。
その刹那、夏子の手が三本になった。五つに分れた指が、都合十五本、それが八つの鏡に反射して、無数の手首となって躍った。
流し場に放り出されたものは、正しく人間の手首であった。肘の所から切断した、見るも恐ろしい生腕であった。それが、白いタイルの上で、蒟蒻の様にいつまでもブルブル震えていた。
ただ事ではない。生腕が降る訳もなく、水道の蛇口から湧き出す筈もない。何者かがソッと投げ込んで置いたのだ。何者ではない。あのゴリラ男に極っている。彼奴が逃出す時、置土産に残して行ったのだ。
だが、ここに片腕が落ているからには、それを切られた人がなければならぬ。では、彼等は又しても、どこかで恐ろしい殺人罪を犯したのであろうか。
「オヤ、この腕には何か字が書いてある。入墨の様ですね」
蘭堂は思わず浴室に踏み行って、不思議な生腕を覗き込んだ。
「恐……怖……王。アアやっぱりそうだ。あいつらの仕業だ。この腕には恐怖王と入墨がしてありますよ」
又しても悪魔の宣伝文字である。
「マア、……どこに?」
夏子は、これも我を忘れて、浴槽を飛び出して来た。八つの鏡に、全裸の美女のあらゆる向きの像が、艶かしく、イヤ寧ろ恐ろしく、クネクネと蠢いた。
実に驚くべきことが起ったのだ。うら若き未亡人の、豊かにも悩ましき全裸身が、今蘭堂の目の前にあった。湯に暖められて艶々と上気した肌、産毛の一本一本に光る、目にも見えぬ露の玉、全身を隈どる深い陰影の線、それが鏡の面に、或はうしろ向き、或は横向き、或は真正面の百千の像となって、ゆらめき動くのだ。
若しこれが通常の場合であったなら、夏子は恥しさに消えも入ったであろうし、蘭堂はいきなり眼を覆って逃げ出しもしたであろうが、今は常の時ではない。二人の目の前に生々しい人間の腕が転がっているのだ。恥しさも、気拙さも、はては情慾さえもが、どこかへ消し飛んでしまって、彼等の心は、不気味さと恐ろしさに、全く占領されていたのである。
蘭堂は、そうしていても果しがないと思ったのか、生腕の上にかがみ込んで、気味悪いのを我慢しながら、二本の指でそれをつまみ上げた。
電燈にかざしてよく見ると、確に女の、しかもまだ若い女の腕だ。
「マア、可哀相に、誰かが殺されたのでしょうね」
夏子が声をかけても、蘭堂は生腕の指先を見つめたまま、身動きもしなかった。
やがて、徐々に徐々に、彼の顔色が変って行った。両眼は飛出す程見開かれ、口はポッカリ開いて、呼吸が烈しくなって行った。
「アラ、どうなさいましたの? 先生、先生」
夏子は相手のただならぬ様子に、我が裸身を忘れて、近々と蘭堂に寄り添いながら叫んだ。
「僕はこの指に見覚えがあるのです」
「エ、なんでございますって?」
「アア、恐ろしい。僕はこの腕の持主を知っているのです。思違いであってくれればいい。だが、よもや……」
蘭堂は云いさして、フラフラと倒れ相になった。
アア、彼程の男を、かくも悩乱せしめた、この生腕の主とは、抑々何人であったか。そして又、彼の恐ろしい推察は、果して適中していたのであろうか。