15話 令嬢消失
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大江蘭堂は、その生腕の小指にある、小さな傷痕に見覚えがあったのだ。
彼は真青になって叫んだ。
「僕はこの腕の主を知っている。非常に親しくしている人です。奥さん、僕はこうしてはいられません。失礼させて頂きます」
蘭堂はそのまま慌しく浴室を飛出そうとした。
「待って、待って下さい。あなたに行かれては、あたし怖くって、迚もこの家にいられませんわ。ちょっと待って、あたしも一緒につれて行って」
夏子は、湯に濡れてツルツルした全裸のまま、恥しさも忘れて青年に追縋り、その腕を掴んだ。
「その方、どなたですの? あなたの親しい女の方って」
「花園伯爵のお嬢さんです。僕はそれを確めて見なければ安心が出来ないのです」
蘭堂は夏子の手をふり放して又一歩ドアに近づいた。
「あなたの恋人? エ、そうなの?」
夏子は、ねばっこい女の力で、蘭堂の肩を持って、グルッと彼女の方へ向き返らせた。そして、顔と、むき出しの五体とで、何とも云えぬ嬌態を示した。蘭堂はそれをマザマザと見た。うら若き女性の余りにも大胆なる肉体的表情をマザマザと見た。そして、恐ろしさに震え上った。
そこには、しびれる様に甘い匂と、ツルツル滑っこい触感と、全身で笑みくずれている巨大なる桃色の花があったのだ。
「ごめんなさい。僕はこうしてはいられないのです。一刻も早く東京に帰って、それを確めて見なければならないのです」
譫言の様に云いながら、蘭堂はキョロキョロとあたりを見廻した。すると、部屋の一方に掛けてある湯上りの大タオルが、救いの神の様に目についた。彼はいきなりそれを掴み取って、パッと拡げ、目の前に咲いているみだらな花を、クルクルと包んでしまった。
「奥さん、では失礼します。書生さんが帰るまで女中さん達を集めて、お話でもしていらっしゃい。それに電話さえかければ、すぐお巡りさんも来てくれます。大丈夫ですよ。大丈夫ですよ」
一言一言あとじさりをして、彼は遂にドアを開いた。そして、夏子のうらみの声をあとにして、アタフタと玄関へ出て行った。夜更けの町を停車場に向って走っていると、都合よく空タクシーが通りかかったので、東京麹町までの値を極めて飛乗った。
闇の大道を飛ばしに飛ばして、麹町の伯爵邸についたのは、もう夜の十一時頃であったが、夜更けを遠慮している場合ではないので、車を降りると、慌しく門の電鈴を押した。
待ち構えてでもいた様に、書生が飛出して来て、応接間に案内した。そこには、まだあかあかと電燈が点じてある。程なく主人夫妻が揃って立現われた。
「京子さんは御無事ですか。若しや……」
蘭堂は伯爵を見ると、挨拶は抜きにして、先ずそれを尋ねた。
「ア、もうあんたもご存知ですか。よく来て下さった。わしも途方に暮ているのです」
伯爵の返事だ。伯爵はまだ大江と京子との親し過ぎる関係については何も気づいていなかったけれど、京子の崇拝する小説家としてお茶の会などには招いたこともあるので、蘭堂が犯罪捜査などには仲々腕のあることもよく知っていたのだ。
「それではやっぱり、……で、御容態はどんなですか」
京子は負傷をして奥に寝ているか、入院でもしたのかと、尋ねると、伯爵はけげん顔で、
「エ、容態ですって? あなた何かお聞込みになったことでもあるんですか。わしの方では容態どころか、全く行衛が分らんのです。しかも、家中のものが、あれの外出するのを誰も知らないでいる間に、消える様にいなくなってしまったのです」
その日の午前十時頃、京子の所へ一人の客があった。大きなロイド眼鏡をかけた、髭武者の変な男であったが、一通の手紙を持参して、京子に渡してくれということで、書生がそれを取次ぐと、京子は手紙を読んで、こちらへお通しせよと、彼女の居間へ案内させた。
十五分程話をして、その妙な男は帰って行ったが、その時彼を送り出した書生の話では、別に変った様子も見えなかった。
それから一時間程して、女中が京子の居間へ中食を知らせに行くと、そこにいる筈の京子の姿が見えないので、それから騒ぎになって、邸中を隅から隅まで探し廻ったが、まるで蒸発してしまった様に、どこにも彼女の影さえなかった。
調べて見ると、外出着もちゃんと揃っているし、履物も一足も紛失してはいない。まさか若い女がはだしで外出したとは思われぬ。どうもさっきの客が怪しいというので、彼の持参した手紙を探して見たが、その手紙さえ消えてなくなった様に、どこにも見当らぬのだ。
京子の友達や親戚などへ電話で問合せたがどこへも行っていない。警察へも頼んであるけれど、まだ何の吉報もない。もう外に手の尽し様もなく、ただ家中のものが青い顔を見合せて溜息をつくばかりであった。
そこへ探偵作家大江蘭堂が飛込んで来たのだ。伯爵夫妻が待構えていた様に、彼を招じ入れたのも道理である。
「で、その妙な男が帰る時、京子さんは居間に残っていらしったのですね。その時何か変った様子は見えませんでしたか」
蘭堂は令嬢消失の次第を聞き終ると、その場に居合せた書生に尋ねた。
「別にこれといって……」書生が答える。「私、お嬢さんの顔を見た訳ではないものですから。呼鈴が鳴ったので、行って見ますと、ドアの中から、お嬢さんが『この方をお送りしておくれ』とおっしゃって、それからあの男が一人でドアを開けて出て来たものですから、私はそのまま先に立って玄関へ送り出したのです」
「それから、君はもう一度お嬢さんの部屋へ行かなかったのですか」
「エエ、そのまま玄関わきの書生部屋に這入って本を読んでいました」
「すると、女中さんが中食を知らせに行って、お嬢さんの部屋が空っぽになっていることが分るまで、君はずっと書生部屋にいたのですか」
「そうです。書生部屋からは玄関は勿論、門の所までが見通しになっているのに、お嬢さんは一度もそこを通られなかったのです。僕は読書しながらも、絶えず門を通る人は注意していたのですからね」
「間違いはないでしょうね」
「エエ、決して。お嬢さんが庭から塀でものり越して外出されない以上、お嬢さんの姿が見えないというのは、全く考えられない事です。実に不思議です」
恐怖王の事件に「不思議」はつきものだ。今更驚くことはない。
「それじゃ、一度僕に、お嬢さんの居間を見せて頂けませんか」
蘭堂はまるで玄人の刑事探偵みたいなことを云って、椅子から立上った。