3話 怪自動車
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お話変って、死美人の婚礼が行われたその同じ日の夜、麹町区内のとある大通りを、一台の大型自動車が、大小四個のヘッドライトもいかめしく、すれ違うボロタクシーを尻目にかけて、豊かに走っていた。
運転手も助手も、汗のにじまぬ背広を着て、髪も髭も綺麗に手入れが届いている。せかず慌てず、大様に構えていて、しかもいつの間にか、一台二台と外の車を抜いて行く。運転の手際まで何となく垢抜けがして見えるのだ。
車内に納まっている中老紳士は、千万長者と聞えた、布引銀行の取締役頭取、布引庄兵衛氏だ。この人にしてこの自動車、この運転手、さもあるべきことだ。
でっぷり肥えた赤ら顔に、白髪まじりのチョビ髭、厚い唇に葉巻煙草、形丈けはいつもの庄兵衛氏である。だが、よく見ると、どこやら気が抜けている。日頃の張り切った力がない。
彼は物思いに耽っていたのだ。事業上の事ではない。銀行家だって、利子のことばかり考えているとは極まらぬ。もっと人間らしい悲しみに、我を忘れていたのだ。
悲しみとは外ではない。布引庄兵衛氏は、つい数日前、最愛の一人娘の照子を失って、昨日葬儀をすませたばかりなのだ。ふとした風が元で、急性肺炎を起し、手をつくした看病も甲斐なく、淡雪の消える様に果敢なくなってしまった。
もうちゃんと、婿君も極まっていた。布引銀行の社員で、眉目秀麗、才智縦横の好青年、鳥井純一というのが頭取のお眼鏡に叶い、相互の耳にも入れて、もう吉日を選ぶばかりになっていた。
照子は、病あらたまるや、已に死を悟ったものか、父母にせがんで、鳥井純一を呼び寄せて貰い、少しも傍を離さなかった。そして、もう息を引取るという間際に、鳥井の手を握って、
「お父さまも、お母さまも、どうぞ許して下さい」
と詫びながら、鳥井に最後の接吻を求めた。
鳥井は、ポロポロと涙をこぼして、照子のもう冷たくなり始めた額に、清い接吻を与えた。
庄兵衛氏は、その光景が、今でも幻の様に目先にちらついて仕方がなかった。
「アア、可哀相に、どんなにか死にともなかったであろう。尤もだ。尤もだ」
彼は愚痴っぽく、心で死者に囁いていた。
そんな風に、なき愛嬢のことばかり考えていた時、突然車が急カーヴして、身体がグッと横倒しになったので、大銀行家は、ふと現実に立帰った。
見ると、目の前によその自動車が、大きく立ちふさがっていた。危く衝突する所を、こちらの運転手の手際で、僅かに避けることが出来たのだ。
「どうも、すみません」
向うの自動車の運転手が、窓から顔を出して、叮嚀に詫びている。
こちらの運転手は、上等自動車の手前、威厳を見せて、はしたなく怒鳴りつける様なことはせぬ。その代り、無言のまま正面を切って、相手の詫言を黙殺して、しずしずと車を出発させた。
先方の自動車も動き出す。衝突しかけた程だから、出発する双方の車は、殆ど窓と窓とがスレスレに接近して、反対の方角に、行きちがった。
庄兵衛氏は、当然、先方の車の窓を見た。目の先五寸とは隔たぬ向の窓は、見まいとしても目に写る。窓ガラスが開いていた。その中に白い花の様な顔があった。
こちらの窓も半開になっていたので、顔と顔とが、何の障害物もなく向き合った。
庄兵衛氏の頭の中で、ギラギラ光る花火の様なものが、クルクルと廻転した。余りのことに声も出なければ、息さえ止ったかと思われた。
と、聞き覚えのある、懐しい声が、「アラ、お父さま! お父さま! 助けて……」と口早やに叫んだ。イヤ、叫びかけた。「助けて」の「た」が口を出ぬ先に、何者かが照子の口を閉ぎ、スルスルと窓のブラインドをおろした。
まがう方なき我娘照子であった。
「アッ、照子、オイ、車を止めるんだ。あの車をおっかけるんだ」
庄兵衛氏は、車の中で地だんだを踏みながら、怒鳴った。
だが、こちらの運転手には、事の仔細が分らぬ。何事かとたまげて、躊躇している間に、先方の車は矢の様に走りだした。
「何でもいいから、今の車をおっかけるんだ。早く早く、何をぐずぐずしているか」
庄兵衛氏の気違いめいた命令に、運転手はやっと車の方向を転じて、走り出した。随分スピードのある車だったが、方向転換その他に手間どった。その上、相手の車が、なりは小さいけれど、滅茶苦茶な速力だ。
夜の大道を、四五丁も走る内に、どの横丁へそれたのか、忽ち相手の車を見失ってしまった。その辺をグルグル廻って見たけれど、どこにもそれらしい自動車は見当らぬ。
仕方がないので、庄兵衛氏は、捜索をあきらめ、再び自邸に向って車を走らせたが、考えて見ると、何とやら狐につままれた感じだ。
照子は数日前彼の目の前で息を引取り、ちゃんと葬式まですました。現に彼女の棺が火葬場の竈の中へ納められるのを目撃した。その死んだ照子が、今頃自動車に乗って、町を走っている筈はないのだ。
だが、さっきの娘は、確かに照子の顔を持っていた。あんなによく似た他人があろうとは思われぬ。のみならず、「お父さま」と呼びかけさえした。よその娘が、そんなことを云う訳はない。実に不思議だ。
気の迷いかしら。何か奇妙な偶然が、わしにあんな幻視と幻聴を起させたのかしら。それとも、なき娘の幽魂が、冥途をさまよい出て、夜の暗さにまぎれ、懐しい父に逢いに来たのであろうか。
庄兵衛氏は、通り魔の様に、彼の目をかすめて消え去った娘の姿を、何と解釈してよいのか、途方にくれてしまった。
余り馬鹿馬鹿しい様なことなので、自宅に帰っても、夫人の園子に打明けることを差控えた。つまらぬことを云い出して、又母を泣かせるでもないと思ったからだ。
「お父さま、助けて……」と叫んだ娘の声が耳について、ひどく気掛りではあったが、まさか、こんな夢みたいな話を警察に持込んで、捜索を願う訳にも行かぬので、庄兵衛氏はきっと幻覚であったに違いないと、強いても忘れる様にした。