16話 夢の国のとりこ
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事務長のクーパーは機関長をはげましておいて、電話を、本船の上甲板のもう一段上にある操縦室につなぎかえた。
一等運転士のパイクソンがでてきた。
「おう。パイクソン。こっちはクーパーだが、本船の操縦はうまくいっているかネ」
「とうとうかぎつけたネ。じつはいま船長とふたりで、ちえをしぼっているところだ。たいへんなことが起こったよ」
「たいへんはしょうちしているよ。そっちの連中も目が見えないんだろう」
「そうだ。ほとんど目の見えない連中ばかりだ」
「ほとんどというと――」
と事務長はせきこんで聞きかえした。
「――誰か眼の見えるのがいるかネ」
「うむ、少し眼の見えるやつがいる。そいつはぼくだ。ぼくひとりなんだ」
「ええッ、パイクソン、おまえだけ眼が見えるのか。それは意外だ。どうしておまえだけ眼が見えるのか」
「それはよくわからない。ただぼくは夕食中、きゅうに気持がわるくなって、自室にひきとったんだ。そして急激な嘔吐に下痢だ。半死半生のていでベッドにもぐりこんでいたが、それから後、元気をとりかえして、いま船橋に立っているが、船中の眼が見えないさわぎのうちに、ぼくだけは少し見えるので意外に思っているわけさ」
聞けば聞くほどふしぎな話だった。その幸運な一等運転士も、やはり視力はおとろえていた。
それでも、夏の朝霧のなかに鳥がとんでいるのが見えるほどには見えるらしいのは、まったく見つけものだった。
「で、航路は――」
「その航路だが、要するにめちゃくちゃだ。前方がまったく見えない。昼夜時計によると、時刻は正に午前九時なんだが、さっぱり前方が見えない。どこを向いても、ただまっ黄いろな空間があるばかりだ。クーパー君。おどろいてはいけないよ。海面すら見えないのだ」
「ああ、海がどこかへ行ってしまったのだネ」
「海がどこかへ行ってしまった? まあ、そうかも知れない。しかし船のスクリューには、ちゃんと手ごたえがあるんだよ。船は水のようなものの上に浮いていて、そのなかを、たしかにスクリューがまわっているんだ。だから、本船はすくなくとも時速三十ノットで前進していきそうなものなんだが、メーターをしらべてみると、ジッととまっているとしか考えられない。こんなへんなことがあるだろうか」
さすがの一等運転士も、心細いことをいいだした。これでは、眼が見えても大したちがいではなさそうだ。
「――で、本船の位置は?」
「全くわからない。とまっていることはわかるが、自記航路計がくるってしまって、どの地点にいるのだかわからないのだ。やがて夜にでもなって北斗星が出てくれば、六分儀でもって測定できるだろうがネ」
「そいつはよわったなァ」
「全くよわった。ぼくはなんだか夢の中にいるような気がする。しかもクイーン・メリー号ごと夢の国に持っていかれたような気が……」
船橋にいる一等運転士パイクソンの声は、まるで地の底から聞こえてくるように、陰々たるひびきをもっていた。