2話 蠅男(2)
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「これ見い。こんなところに、妙な色をした脂みたよなもんが溜っとるわ」
と大川部長は、火かきの先で、火床の前の煉瓦敷きの上に溜っている赤黒いペンキのようなものを突いた。
「何でっしゃろな」
「さあ――こいつが臭うのやぜ」
と云っているとき、巡査部長のうしろから帆村が突然声をかけた。
「これア大変なものが見える。大川さん。火床の中に、人骨らしいものが散らばっていますぜ?」
「ええッ、人骨が――。どこに?」
「ホラ、今燃えている一等大きい石炭の向う側に――。見えるでしょう」
「おお、あれか。なるほど肋骨みたいや。これはえらいこっちゃ。いま出して見まっさ」
さすがは場数を踏んだ巡査部長だけあって、口では愕いても、態度はしっかりしたものだ。腰をかがめると、火掻き棒で、その肋骨らしいものを火のなかから手前へ掻きだした。
「フーン。これはどう見たって、大人の肋骨や。どうも右の第二真肋骨らしいナ」
「こんなものがあるようでは、もっとその辺に落ちてやしませんか」
「そうやな。こら、えらいこっちゃ。――おお鎖骨があった。まだあるぜ。――」
大川は灰の中から、人骨をいくつも掘りだした。その数は皆で、五つ六つとなった。
「――もう有りまへんな。こうっと、胸の辺の骨ばかりやが、わりあいに数が少いなア」
と、彼は不審の面持で、なにごとかを考えている様子だった。
それにしても人骨である限り、主人の留守になった建物の中のストーブに、こんなものが入っているとは、なんという愕くべきことだろう。一体この骨の主は、何者だろう。
「あのひどい臭気から推して考えると、もっと骨が見つかるはずですね」と帆村が云った。彼は跼んで、しばらくストーブの中をいろいろな角度から覗きこんでいたが、ややあって、ひどく愕いたような声をだした。
「呀ッ。ありましたありました。肋骨が一本、ストーブの煙道のところからブラ下っていますよ。煙道の中が怪しい」
「ナニ煙道の中が……」と、顔色をサッと変えた大川巡査部長は、火掻き棒を右手にグッと握ると、燃えさかる石炭をすこし横に除け、それから下から上に向って火掻き棒をズーッと挿しこみ、力まかせにそこらを掻きまわした。それはすこし乱暴すぎる行いではあったが、たしかに手応えはあった。
ガラガラガラという大きな音とともに、煙道の中からドッと下に落ちてきた大きなものがあった。それは、同時に下に吹きだした黒い煤や白い灰に距てられて、しばらくは何物とも見分けがたかったけれど、その灰燼がやや鎮まり、思わずストーブの前から飛びのいた警官たちがソロソロ元のように近づいたころには、もう疑いもなく、煙道の中から落ちてきた物件が何物であるかが明瞭になった。
半焼けの屍体!
それはずいぶん奇妙な恰好をしていた。半ば骨になった二本の脚が、火床の上にピーンと天井を向いて突立っていた。
それは逆さになって、この煙道の中に入っていたものらしく、胸部や腹部は、もう完全に焼けて、骨と灰とになり、ずっと上の方にあった脚部が、半焼けの状態で、そのまま上から摺り落ちてきたのだった。
男か女か、老人か若者か。――そんなことは、ちょっと見たくらいで判別がつくものではなかった。
「コラ失敗うた。検事さんから、大きなお眼玉ものやがな。下から突きあげんと、あのまま抛っといたらよかったのになア」
と、巡査部長は火掻き棒を握ったまま、大きな溜息をついた。
「もうこうなったら、仕方がありませんよ。それより、今燃えかかっている石炭の火を消して、あの脚をなるべく今のままで保存することにしては如何ですか」
帆村は慰め半分、いいところを注意した。
「そうだすなア」と大川は膝を叩いて、後をふりかえり、
「オイ、お前ちょっと水を汲んできて、柄杓でしずかにこの火を消してんか。大急ぎやぜ」
それから彼は、もう一人の警官に命じて、電話を見つけ、本署に急報するようにいいつけた。
帆村は、そのときソッと其の場を外した。部屋を出るとき、ふりかえってみると、大川巡査部長は長椅子の上にドッカと腰うちかけ、帽子を脱いていたが、毬栗頭からはポッポッポッと、さかんに湯気が上っているのが見えた。
不意打ち
いかに帆村といえども、内心この恐ろしい惨劇について、愕きの目をみはらないではいられなかった。主人鴨下ドクトルの留守中に、ストーブの中で焼かれた半焼屍体? 一体どうした筋道から、こうした怪事件が起ったかは分らないけれど、とにかくこの家のうちには、もっともっと秘密が伏在しているのであろう。彼はこの際、できるだけの捜査材料を見つけだして置きたいと思った。
「ほう、これは廊下だ。――向うに化粧室らしいものが見える。よし、あの中を調べてみよう」
彼は勇躍して、化粧室の扉を押した。
「この家のうちに、主人鴨下ドクトルのほかに、誰か居たかが分ると面白いんだが――」
彼の狙いは、さすがに賢明だった。
化粧室を入ったところの正面に、大きな鏡が一枚掲げてあった。彼はその鏡の前に立って、台の上を注意ぶかく観察した。果てには台の上に、指一本たてて、スーッと引いてみた。すると台の上に、黒い筋がついた。その指を鼻の先にソッともっていって、彼はクンクンと鼻を犬のように鳴らした。
「フーン。これはフランス製の白粉の匂いだ。すると、この家の中には、若い女がいたことになる。しかも余り前のことではない」
彼はそこで、なおも奥の方の扉を開いて、中に入った。しばらくすると、彼の姿が再び現われた。その顔の上には微笑が浮んでいた。
「いよいよ若い女がいたことになる。きょうは十二月一日だ。すると十一月二十九日ぐらいと見ていいなア。主人公が留守にした日の前後だ。これは面白い」
廊下を出ると、そこに階段があった。それを上ろうとすると、一人の警官が横合から現われ、彼の後について、その階段をのぼってゆくのであった。
(先生、僕を監視するつもりかしら?)
階段を上ると、そこにまた廊下があった。二階はたいへん薄暗い。いつもは電灯がついていたに違いないのだが、スイッチが手近に見あたらない。
右のとっつきに、扉が半びらきになった部屋があった。それを押して入ると、スイッチがすぐ目に映った。ピーンと上にあげてみると、パッと明りがついて、室内の様子がハッキリした。ここはどうやら食堂兼喫煙室らしく、それと思わせるような什器や家具が並んでいた。なんにせよ、どうも豪勢なものである。――若い警官は、相変らず彼の後について、室内へ入ってきた。
(いよいよ監視するつもりと分った!)
彼はちょっと不愉快な気持に襲われた。だが次の瞬間、帆村探偵は不愉快もなにも忘れてしまうような物を発見した。それは安楽椅子の上に放りだされてあった紙装の小函だった。
「おおこれはどうだ。赤バラ印の弾薬函だッ。これを使う銃は、僕の探していたアメリカのギャングが好んで使う軽機関銃じゃないか。これは物騒だぞオ――」と帆村は身ぶるいして、戸口の方をふりかえった。警官は怪訝な顔をして、傍によってきた。このとき廊下を距てた向いの暗い室の扉が、音もなく細目に開いて、その中から一挺の太い銃口がヌッと顔を出した。
「呀ッ、あぶないッ!」と叫んだが、既に遅かった。ダダダーン、ヒューッと、発射された銃弾は帆村たちのいる室内に撃ちこまれた。
「うわーッ、ウーム」
苦しい呻き声とともに、監視の警官が、ドサリと床上に人形のように転がった。
「ウウン、やられたッ」
と、こんどは帆村が絶叫した。素早く安楽椅子のかげに身をかわした彼だったが、途端に一弾飛びきたって左肩に錐を突きこんだ疼痛を感じた。彼は床の上に自分の身体が崩れてゆくのを意識した。そして階下から湧き起る警官隊の大声と階段を荒々しく駈けあがってくる靴音とを、夢心地に聞いた。
空虚のベッド
青年探偵の帆村荘六は恐ろしい夢からハッと覚めた。
気がついて四囲を見まわすと、自分は白い清浄な夜具のなかにうずまって、ベッドの上に寝ていた。
(呀ッ、そうだ。僕は肩先を機関銃で撃たれて、この病院に担ぎこまれたんだったな)
彼は大阪住吉区岸姫町の鴨下ドクトルの館で、不意に何者かのために、こんな目にあわされ、そして意気地なくもこんなことになって、附近の病院に担ぎこまれたのだった。
電灯が室内をうすぼんやり照らしていた。もう夜らしいが、何時だろうかと、腕時計を見ようとしたが、とたんに彼は、飛びあがるような疼痛を肩に感じた。
「呀ッ、痛ッ」
その叫びに応えるように人の気配がした。手紙でも書くのに夢中になっていたらしい若い看護婦が、愕いて彼の枕頭に馳せよった。
「お目覚めですの。お痛みですか」
彼は軽く肯いて、看護婦に時刻を訊いた。
「――そうですね。いま夜の九時ですわ」
と、東京弁で彼女は応えた。
「どうでしょう、僕の傷の具合は――」
「たいして御心配も要らないと、先生が仰有っていましたわ。でも暫く我慢して、安静にしていらっしゃるようにとのことですわ」
「暫くというと――」
「一週間ほどでございましょう」
「え、一週間? 一週間もこんなところに寝ていたんじゃ、脳味噌に黴が生えちまう」と憂鬱そうに呟いたが、間もなくニヤリと笑みを浮べると、「看護婦さん、すまないが大急ぎで、電報を一つ打ってきて下さい」
痛そうに帆村は唸りながら、東京の事務所宛に、簡単な電報を発するよう頼んだ。
看護婦が頼信紙を手にして廊下を歩いていると、立派な紳士を案内してくる受付の同僚に会った。
「あら。君岡さん、丁度いいわ。あなたのとこの患者さんへ、この方が御面会よ」
上から下まで、黒ずくめの洋服に、ワイシャツと硬いカラーとだけが真白であるという四十がらみの顔色の青白い髭のある紳士が、ジロリと眼で挨拶した。
そこで看護婦の君岡は、電報の用事を受付の看護婦に頼み、自分はその黒ずくめの紳士を伴って、再び室の方にひっかえした。
「さあ、こっちでございますわ」
といって、病室の扉を開いたが、そのとき二人はベッドの上が乱雑になって居り、寝ているはずの帆村荘六の姿が見えないのを発見して愕いた。
「オヤ、帆村さんはどうなすったのでしょう。ウンウン唸っていらっして、起きあがれそうもなかったのに……」
「ウン、これは変だな」
黒ずくめの紳士は、室内に飛びこんできた。
「もし看護婦さん、この窓は、さっきから開いていたのかね?」
「ええ、なんでございますって。窓、ああこの窓ですか。さあ――変でございますわネ。たしかに閉まっていた筈なんですが」
ベッドの頭の方にある中庭に面した窓が、上に押しあげられていたのである。誰がこの窓を開けたのだろう。そして誰が患者の身体を攫っていったのだろう。
紳士は窓ぎわへ急いで近づくと、首を出して外を見た。地上までは一丈ほどもあり、真暗な植込みが、窓から洩れる淡い光にボンヤリ照らし出されていた。しかし地上に帆村の姿を見出すことはできなかった。
「どうも困ったネ」
「あたし、どうしましょう。婦長さんに叱られ、それから院長さんに叱られ、そして馘になりますわ」
看護婦は、蒼い顔をして崩れるように、椅子の上に身体を抛げかけた。
そのときであった。開いた窓枠に、横合から裸の細長い脚が一本ニューッと現われた。
「アラッ、――」
と看護婦は椅子から飛びあがった。
つづいてまた一本の脚が、すこしブルブル慄えながら現われた。それから黄八丈まがいの丹前が――。
「どうせそんなことだろうと思った。おい帆村君、相変らず、無茶をするねえ」
と、紳士は呆れながらも、まあ安心したという調子でいった。
そのうちに、窓の外から帆村の全身が現われて、ヨロヨロと室内へ滑りおちてきた。
「まあ、帆村さん、貴郎ってかたは……」
と、看護婦が泪を払いつつ、泣き笑いの態で帆村の身体を抱き起した。
「いや大したことはない」と帆村は青い顔に苦笑を浮べていった。「ナニ脳髄に黴が生えてはたまらんと思ったからネ。ちょっと外へ出て、冷していたんだよ。しかしこの病院の外壁と来たら、手懸りになるところがなくて、下りるのに非常に不便にできている。――やあ、これは村松検事どの。貴方がもっと早く来て下されば、なにもこんな瀕死のサーカスをごらんに入れないですんだのですよ」
看護婦の君岡に抱えられ再びベッドの上に移されながら、傷つける帆村は息切れの入った減らず口を叩いていた。
焼屍体の素性
「機関銃に撃たれた警官はどうしました」
帆村はベッドの中に、病人らしく神妙に横たわって、側の椅子に腰をかけている村松検事に尋ねた。
「うん、――」検事は愛用のマドロスパイプに火を点けるのに急がしかった。「気の毒な最期だったよ。――」
「そうですか。そうでしょうネ、まともに受けちゃたまらない」
生命びろいをした帆村は溜息をついた。
「それで犯人はどうしました」
検事はパイプを咥えたまま、浮かぬ顔をして、
「――勿論逃げちゃったよ。なにしろこっちの連中は今まで機関銃にお近付きがなかったものだからネ。あれを喰らって、志田(死んだ警官)は即死し、勇敢をもって鳴る帆村荘六はだらしなく目を廻すしサ。それが向うの思う壺で、いい脅しになった。だから追い駈けた連中も残念ながらタジタジだ。――そんな風に犯人をいい気持にしてやって、一同お見送りしたという次第だ」
検事は、いつもの帆村の毒唇を真似て、こう説明したものだから、帆村は苦笑いをするばかりだった。もちろんそれは、村松検事が病人の気を引立ててやろうという篤い友情から出発していることであった。
「あの犯人は、一体何者です」
「皆目わかっていない。――君には見当がついているかネ」
「さあ、――」と帆村は天井を見上げ、「とにかくわが国の殺人事件に機関銃をぶっぱなしたという例は、極めて稀ですからネ。これは全然新しい事件です。ともかくも兇器をとこから手に入れたということが分れば、犯人の素性ももっとハッキリすると思いますがネ」
「うん、これはこっちでも考えている。両三日うちに兇器の出所は分るだろう」
看護婦の君岡が、紅茶をはこんできた。検事は、病院の中で紅茶がのめるなんて思わなかったと、恐悦の態であった。
「――それから検事さん」と帆村は紅茶を一口啜らせてもらっていった。「あの大暖炉のなかから出てきた屍体のことは分りましたか」
「うん、大体わかった――」
「それはいい。あの焼屍体の性別や年齢はどうでした」
「ああ性別は男子さ。身長が五尺七寸ある。――というから、つまり帆村荘六が屍体になったのだと思えばいい」
「検事さんも、このごろ大分修業して、テキセツな言葉を使いますね」
「いやこれでもまだ迚も君には敵わないと思っている。――年齢は不明だ」
「歯から区別がつかなかったんですか」
「自分の歯があれば分るんだが、総入歯なんだ。総入歯の人間だから老人と決めてもよさそうだが、この頃は三十ぐらいで総入歯の人間もあるからネ。現にアメリカでは二十歳になるかならずの映画女優で、歯列びをよく見せるため総入歯にしているのが沢山ある」
「その入歯を作った歯医者を調べてみれば、焼死者の身許が分るでしょうに」
「ところが生憎と、入歯は暖炉のなかで焼け壊れてバラバラになっているのだ」
「頭蓋骨の縫合とか、肋軟骨化骨の有無とか、焼け残りの皮膚の皺などから、年齢が推定できませんか」
「左様、頭蓋骨も肋骨も焼けすぎている上に、硬いものに当ってバラバラに砕けているので、全体についてハッキリ見わけがつかないが、まあ三十歳から五十歳の間の人間であることだけは分る」
「まあ、それだけでも、何かの材料になりますね。――外に、何か屍体に特徴はないのですか」
「それはやっと一つ見つかった」
「ほう、それはどんなものですか」
「それは半焼けになった右足なんだ。その右足は骨の上に、僅かに肉の焼けこげがついているだけで、まるで骨つきの痩せた、鶏の股を炮り焼きにしたようなものだが、それに二つの特徴がついている」
「ほほう、――」
「一つは右足の拇指がすこし短いのだ。よく見ると、それは破傷風かなんかを患って、それで指を半分ほど切断した痕だと思う」
「なるほど、それはどの位の古さの傷ですか」
「そうだネ、裁判医の鑑定によると、まず二十年は経っているということだ」
「はあ、約二十年前の古傷ですか。なるほど」と帆村は病人であることを忘れたように、ひきしまった語調で呟いた。
「――で、もう一つの傷は?」
「もう一つの傷が、また妙なんだ。そいつは同じ右足の甲の上にある。非常に深い傷で、足の骨に切りこんでいる。もし足の甲の上にたいへんよく切れる鉞を落としたとしたら、あんな傷が出来やしないかと思う。傷跡は癒着しているが、たいへん手当がよかったと見えて、実に見事に癒っている。一旦切れた骨が接合しているところを解剖で発見しなかったら、こうも大変な傷だとは思わなかったろう」
「その第二の傷は、いつ頃できたんでしょう」
「それはずっと近頃できたものらしいんだがハッキリしない。ハッキリしないわけは、手術があまりにうまく行っているからだ。そんなに見事な手術の腕を持っているのは、一体何処の誰だろうというので、問題になっておる」
検事村松と傷つける青年探偵帆村壮六とが、事件の話に華を咲かせているその最中に、慌ただしく受付の看護婦がとびこんできた。
「モシ、地方裁判所の村松さんと仰有るのは貴方さまですか」
「ああ、そうですよ。何ですか」
「いま住吉警察署からお電話でございます」
検事はそのまま席を立って、室外へ出ていった。
それから五分ほど経って、村松検事は帰ってきた。彼は帆村の顔を見ると、いきなり今の電話の話をした。
「いまネ、鴨下ドクトルの邸に、若い男女が訪ねてきたそうだ。ドクトルの身内のものだといっているが怪しい節があるので、保護を加えてあるといっている。ちょっと行って見てくるからネ。いずれ又来るよ」
そういい置いて、扉の向うに消えてゆく検事の後姿を、帆村は羨ましそうに見送っていた。
蠅男
時間は、それより一時間ほど前の九時ごろのことだった。
同じ住吉区の天下茶屋三丁目に、ちかごろ近所の人の眼を奪っている分離派風の明るい洋館があった。
太い御影石の門柱には、「玉屋」とただ二字だけ彫ったブロンズの標札が埋めこんであったが、これぞいまラジオ受信機の製造で巨万の富を作ったといわれる玉屋総一郎の住宅だった。
丁度その九時ごろ、一台の大型の自動車が門内に滑りこんでいった。乗っていたのは、年のころ五十に近い相撲取のように巨大な体躯の持ち主――それこそこの邸の主人、玉屋総一郎その人だった。
車が玄関に横づけになると、彼はインバネスの襟をだらしなく開けたまま、えっと懸け声をして下りたった。
「あ、お父つぁん」
家の中からは、若い女の声がした。しかしこの声は、どうも少し慄えているらしい。
「糸子か。すこし気を落ちつけたら、ええやないか」
「落ちつけいうたかて、これが落ちついていられますかいな。とにかく早よどないかしてやないと、うち気が変になってしまいますがな」
「なにを云うとるんや。嬰児みたよに、そないにギャアつきなや」
総一郎はドンドン奥に入っていった。そして二階の自分の書斎の扉を鍵でガチャリと開けて、中へ入っていった。、そこは十五坪ほどある洋風の広間であり、この主人の好みらしい頗る金の懸った、それでいて一向垢ぬけのしない家具調度で飾りたて、床には剥製の虎の皮が三枚も敷いてあり、長椅子にも、熊だの豹だのの皮が、まるで毛皮屋に行ったように並べてあった。
玉屋総一郎は、大きな机の前にある別製の廻転椅子の上にドッカと腰を下ろした。そして彼は子供のように、その廻転椅子をギイギイいわせて、左右に身体をゆすぶった。それは彼の癖だったのである。
「さあ、その――その手紙、ここへ持っといで」
彼は呶鳴るようにいうと、娘の糸子は細い袂の中から一通の黄色い封筒を取りだして、父親の前にさしだした。
「なんや、こんなもんか。――」
総一郎は、封の切ってある封筒から、折り畳んだ新聞紙をひっぱり出し、それを拡げた。それは新聞紙を半分に切ったものだった。
「なんや、こんなもの。屑新聞やないか」
彼は新聞をザッと見て、娘の方につきだした。
「新聞は分ってるけど、只の新聞と違うといいましたやろ。よう御覧。赤鉛筆で丸を入れてある文字を拾うてお読みやす」
「なに、この赤鉛筆で丸をつけたある字を拾い読みするのんか」
総一郎は娘にいわれたとおり、上の方から順序を追って、下の方へだんだんと読んでいった。初めは馬鹿にしたような顔をしていたが、読んでいくにつれてだんだん六ヶ敷い顔になって、顔がカーッと赤くなったと思うと、そのうちに反対にサッと顔面から血が引いて蒼くなっていった。
「そら、どうや。お父つぁんかて、やっぱり愕いてでっしゃろ」
「うむ、こら脅迫状や。二十四時間以ないニ、ナんじの生命ヲ取ル。ユイ言状を用意シテ置け。蠅男。――へえ、蠅男?」
「蠅男いうたら、お父つぁん、一体誰のことをいうとりまんの」
「そ、そんなこと、俺が知っとるもんか。全然知らんわ」
「お父つぁん。その新聞の中に、蠅の死骸が一匹入っとるの見やはった?」
「うえッ、蠅の死骸――そ、そんなもの見やへんがナ」
「そんなら封筒の中を見てちょうだい。はじめはなア、その『蠅男』とサインの下に、その蠅の死骸が貼りつけてあったんやしイ」
総一郎は封筒を逆さにふってみた。すると娘の云ったとおり、机の上にポトンと蠅の死骸が一匹、落ちてきた。それはぺちゃんこになった乾枯びた家蠅の死骸だった。そして不思議なことに、翅も六本の足も《むし》りとられ、そればかりか下腹部が鋭利な刃物でグサリと斜めに切り取られている変な蠅の死骸だった。よくよく見れば、蠅の死骸と分るような、変った蠅の木乃伊めいたものであった。
この奇怪な蠅の死骸は、果して何を語るのであろうか。
籠城準備