一房の葡萄

3話

1,777字 約4分 1999年2月13日 公開

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 一時(いちじ)がやがやとやかましかった生徒達はみんな教場(きょうじょう)這入(はい)って、急にしんとするほどあたりが静かになりました。僕は(さび)しくって淋しくってしようがない(ほど)悲しくなりました。あの位好きな先生を苦しめたかと思うと僕は本当に悪いことをしてしまったと思いました。葡萄(ぶどう)などは(とて)()べる気になれないでいつまでも泣いていました。

 ふと僕は肩を軽くゆすぶられて眼をさましました。僕は先生の部屋(へや)でいつの間にか泣寝入りをしていたと見えます。少し()せて身長(せい)の高い先生は笑顔(えがお)を見せて僕を見おろしていられました。僕は眠ったために気分がよくなって今まであったことは忘れてしまって、少し恥しそうに笑いかえしながら、(あわ)てて膝の上から(すべ)り落ちそうになっていた葡萄の房をつまみ上げましたが、すぐ悲しいことを思い出して笑いも何も引込んでしまいました。

「そんなに悲しい顔をしないでもよろしい。もうみんなは帰ってしまいましたから、あなたはお帰りなさい。そして明日(あす)はどんなことがあっても学校に来なければいけませんよ。あなたの顔を見ないと(わたくし)は悲しく思いますよ。屹度(きっと)ですよ。」

 そういって先生は僕のカバンの中にそっと葡萄の房を入れて下さいました。僕はいつものように海岸通りを、海を(なが)めたり船を眺めたりしながらつまらなく(いえ)に帰りました。そして葡萄をおいしく喰べてしまいました。

 けれども次の日が来ると僕は中々学校に行く気にはなれませんでした。お(なか)が痛くなればいいと思ったり、頭痛がすればいいと思ったりしたけれども、その日に限って虫歯一本痛みもしないのです。仕方なしにいやいやながら(いえ)は出ましたが、ぶらぶらと考えながら歩きました。どうしても学校の門を這入ることは出来ないように思われたのです。けれども先生の別れの時の言葉を思い出すと、僕は先生の顔だけはなんといっても見たくてしかたがありませんでした。僕が行かなかったら先生は屹度悲しく思われるに違いない。もう一度先生のやさしい眼で見られたい。ただその一事(ひとこと)があるばかりで僕は学校の門をくぐりました。

 そうしたらどうでしょう、()ず第一に待ち切っていたようにジムが飛んで来て、僕の手を握ってくれました。そして昨日(きのう)のことなんか忘れてしまったように、親切に僕の手をひいてどぎまぎしている僕を先生の部屋に連れて行くのです。僕はなんだか訳がわかりませんでした。学校に行ったらみんなが遠くの方から僕を見て「見ろ泥棒の《うそ》つきの日本人が来た」とでも悪口をいうだろうと思っていたのにこんな風にされると気味が悪い(ほど)でした。

 二人の足音を聞きつけてか、先生はジムがノックしない前に、戸を開けて下さいました。二人は部屋の中に這入りました。

「ジム、あなたはいい子、よく(わたくし)の言ったことがわかってくれましたね。ジムはもうあなたからあやまって(もら)わなくってもいいと言っています。二人は今からいいお友達になればそれでいいんです。二人とも上手(じょうず)に握手をなさい。」と先生はにこにこしながら僕達を向い合せました。僕はでもあんまり勝手過ぎるようでもじもじしていますと、ジムはいそいそとぶら下げている僕の手を引張り出して堅く握ってくれました。僕はもうなんといってこの(うれ)しさを表せばいいのか分らないで、(ただ)恥しく笑う(ほか)ありませんでした。ジムも気持よさそうに、笑顔をしていました。先生はにこにこしながら僕に、

昨日(きのう)葡萄(ぶどう)はおいしかったの。」と問われました。僕は顔を真赤(まっか)にして「ええ」と白状するより仕方がありませんでした。

「そんなら又あげましょうね。」

 そういって、先生は真白(まっしろ)なリンネルの着物につつまれた(からだ)を窓からのび出させて、葡萄の一房をもぎ取って、真白(まっしろ)い左の手の上に粉のふいた紫色の房を乗せて、細長い銀色の(はさみ)真中(まんなか)からぷつりと二つに切って、ジムと僕とに下さいました。真白い()(ひら)に紫色の葡萄の粒が重って乗っていたその美しさを僕は今でもはっきりと思い出すことが出来ます。

 僕はその時から前より少しいい子になり、少しはにかみ屋でなくなったようです。

 それにしても僕の大好きなあのいい先生はどこに行かれたでしょう。もう二度とは()えないと知りながら、僕は今でもあの先生がいたらなあと思います。秋になるといつでも葡萄の房は紫色に色づいて美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません。

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