福翁自伝 02 福翁自伝

14話 福翁自伝 02 福翁自伝(14)

5,928字 約12分 2017年6月15日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 右の外(ほか)に三使節の家来両三人ずつと、賄(まかない)小使(こづかい)六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福澤等は先(ま)ず役人のような者ではあるが、大名の家来、所謂(いわゆる)陪臣(ばいしん)の身分であるから、一行中の一番下席(かせき)で惣人数(そうにんず)凡そ四十人足らず、孰(いず)れも日本服に大小を横(よこた)えて巴里(パリ)、竜動(ロンドン)を闊歩(かっぽ)したも可笑(おか)しい。

旅行中用意の品々失策又失策日本出発前(ぜん)に外国は何でも食物が不自由だからと云(い)うので、白米を箱に詰めて何百箱の兵糧(ひょうろう)を貯え、又旅中止宿(ししゅく)の用意と云うので、廊下に灯(とも)す金行灯(かなあんどん)=二尺(にしゃく)四方もある鉄網(てつあみ)作りの行灯を何十台も作り、その外(ほか)提灯(ちょうちん)、手燭(てしょく)、ボンボリ、蝋燭(ろうそく)等に至るまで一切取揃(とりそろ)えて船に積込(つみこ)んだその趣向は、大名が東海道を通行して宿駅(しゅくえき)の本陣に止宿する位(くらい)の胸算(きょうさん)に違いない。夫(そ)れからいよ/\巴里に着して、先方から接待員が迎いに出て来ると、一応の挨拶終りて先(ま)ず此方(こっち)よりの所望(しょもう)は、随行員も多勢(たぜい)なり荷物も多いことゆえ、下宿は成るべく本陣に近い処に頼むと云(い)うのは、万事不取締(ふとりしまり)不安心だから、一行の者を使節の近処(きんじょ)に置きたいと云う意味でしょう。スルト接待員はいさい承知して、先(ま)ず人数を聞糺(ききただ)し、惣勢(そうぜい)三十何人と分(わかっ)て、「是(こ)ればかりの人数なれば一軒の旅館に十組(とくみ)や二十組は引受けますとの答に、何の事やら訳(わ)けが分(わか)らぬ。ソレカラ案内に連(つれ)られて止宿した旅館は、巴里(パリ)の王宮の門外にあるホテルデロウブルと云う広大な家で、五階造り六百室、婢僕(ひぼく)五百余人、旅客は千人以上差支(さしつかえ)なしと云うので、日本の使節などは何処(どこ)に居るやら分らぬ。唯(ただ)旅館中の廊下の道に迷わぬように、当分はソレガ心配でした。各室には温(あたた)めた空気が流通するから、ストーヴもなければ蒸気もなし、無数の瓦斯灯(ガスとう)は室内廊下を照らして日の暮るゝを知らず、食堂には山海の珍味を並べて、如何(いか)なる西洋嫌いも口腹(こうふく)に攘夷の念はない、皆喜んで之(これ)を味(あじわ)うから、爰(ここ)に手持不沙汰(てもちぶさた)なるは日本から脊負(しょっ)て来た用意の品物で、ホテルの廊下に金行灯(かなあんどん)を点(つ)けるにも及ばず、ホテルの台所で米の飯(めし)を炊(た)くことも出来ず、とう/\仕舞(しまい)には米を始め諸道具一切の雑物(ぞうぶつ)を、接待掛(がか)りの下役(したやく)のランベヤと云う男に進上して、唯(ただ)貰(もらっ)て貰(もら)うたのも可笑(おか)しかった。

 先(ま)ずこんな塩梅式(あんばいしき)だから、吾々(われわれ)一行の失策物笑(ものわら)いは数(かず)限りもない。シガーとシュガーを間違えて烟草(タバコ)を買いに遣(やっ)て砂糖を持(もっ)て来るもあり、医者は人参(にんじん)と思(おもっ)て買(かっ)て来て生姜(しょうが)の粉(こ)であったこともある。又或(あ)るときに三使節中の一人が便所に行く、家来がボンボリを持(もっ)て御供(おとも)をして、便所の二重の戸を明放(あけはな)しにして、殿様が奥の方で日本流に用を達すその間、家来は袴(はかま)着用(ちゃくよう)、殿様の御腰(おこし)の物を持て、便所の外の廊下に平(ひら)き直(なおっ)てチャント番をして居るその廊下は旅館中の公道で、男女往来織(お)るが如(ごと)くにして、便所の内外瓦斯(ガス)の光明(こうめい)昼よりも明(あきらか)なりと云(い)うから堪(たま)らない。私は丁度(ちょうど)其処(そこ)を通り掛(かかっ)て、驚いたとも驚くまいとも、先(ま)ず表に立塞(たちふさ)がって物も言わずに戸を打締(ぶちし)めて、夫(そ)れからそろ/\その家来殿に話したことがある。

欧洲の政風人情政治上の事に就(つい)ては竜動(ロンドン)、巴里(パリ)等(とう)に在留中、色々な人に逢うて色々な事を聞(きい)たが、固(もと)よりその事柄の由来を知らぬから能(よ)く分(わか)る訳(わ)けもない。当時は仏蘭西(フランス)の第三世ナポレヲンが欧洲第一の政治家と持囃(もてはや)されてエライ勢力であったが、隣国の普魯士(プロス)も日の出の新進国で油断はならぬ。墺地利(オーストリア)との戦争、又アルサス、ローレンスの事なども国交際(こっこうさい)の問題として、何(いず)れ後年には云々の変乱が生ずるであろうなんと云(い)うことは朝野(ちょうや)政通(せいつう)の予言する所で、私の日記覚書(おぼえがき)にもチョイ/\記してある。又竜動に居るとき、或(あ)る社中の人が社名を以(もっ)て議院に建言したと云(い)うて、その草稿を日本使節に送(おくっ)て来た。建言の趣意は、在日本英国の公使アールコツクが新開国たる日本に居て乱暴無状、恰(あたか)も武力を以(もっ)て征服したる国民に臨むが如(ごと)し云々とて、種々(しゅじゅ)様々の証拠を挙げて公使の罪を責るその証拠の一つに、公使アールコツクが日本国民の霊場として尊拝(そんぱい)する芝の山内(さんない)に騎馬にて乗込(のりこみ)たるが如き言語(ごんご)に絶えたる無礼なりと痛論したる節(ふし)もある。私はこの建言書を見て大(おおい)に胸が下(さが)った。成(な)るほど世界は鬼ばかりでない、是(こ)れまで外国政府の仕振(しぶり)を見れば、日本の弱身に付込み日本人の不文(ふぶん)殺伐なるに乗じて無理難題を仕掛(しか)けて真実困(こまっ)て居たが、その本国に来て見れば〔自(おのず)から〕公明正大、優しき人もあるものだと思て、ます/\平生(へいぜい)の主義たる開国一偏の説を堅固(けんご)にしたことがある。

土地の売買勝手次第又各国巡回中、待遇の最も濃(こまやか)なるは和蘭(オランダ)の右に出(いず)るものはない。是れは三百年来特別の関係で爾(そ)うなければならぬ。殊(こと)に私を始め同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語で云えば欧羅巴(ヨーロッパ)中第二の故郷に帰(かえっ)たような訳(わ)けで自然に居心(いごころ)が宜(い)い。夫(そ)れは扨置(さてお)き和蘭滞留中に奇談がある。或(あ)るとき使節がアムストルダムに行(いっ)て地方の紳士紳商に面会、四方八方(よもやま)の話の序(ついで)に、使節の問(とい)に、「このアムストルダム府の土地は売買勝手なるかと云(い)うに、彼(か)の人答えて、「固(もと)より自由自在。「外国人へも売るか。「値段(ねだん)次第、誰にでも、又何ほどにても。「左(さ)れば爰(ここ)に外国人が大資本を投じて広く上地を買占(かいし)め、之(これ)に城廓砲台でも築くことがあったら、夫(そ)れでも勝手次第かと云うに、彼の人も妙な顔をして、「ソンナ事は是(こ)れまで考えたことはない。如何(いか)に英仏その他の国々に金満家(きんまんか)が多いとて、他国の地面を買(かっ)て城を築くような馬鹿気(ばかげ)た商人はありますまいと答えて、双方共に要領を得ぬ様子で、私共は之を見て実に可笑(おか)しかったが、当時日本の外交政略は凡(およ)そこの辺から割出したものであるから堪(たま)らない訳(わ)けさ。

見物自由の中又不自由夫れは扨居(さてお)き、私がこの前亜米利加(アメリカ)に行(いっ)たときには、カリフルニヤ地方にマダ鉄道がなかったから、勿論(もちろん)鉄道を見たことがない、けれども今度は蘇士(スエズ)に上(あがっ)て始めて鉄道に乗り、ソレカラ欧羅巴(ヨーロッパ)各国を彼方此方(あちこち)と行くにも皆鉄道ばかり、到る処に歓迎せられて、海陸軍の場所を始めとして、官私の諸工場、銀行会社、寺院、学校、倶楽部(クラブ)等は勿論、病院に行けば解剖も見せる、外科手術も見せる、或(あるい)は名ある人の家に晩餐(ばんさん)の饗応(きょうおう)、舞踏の見物など、誠に親切に案内せられて、却(かえっ)て招待の多いのに草臥(くたび)れると云う程の次第であったが、唯(ただ)こゝに一つ可笑(おか)しいと云うのは、日本はその時丸で鎖国の世の中で、外国に居ながら兎角(とかく)外国人に遇(あ)うことを止(と)めようとするのが可笑(おか)しい。使節は竹内(たけのうち)、松平(まつだいら)、京極(きょうごく)の三使節、その中の京極は御目附(おめつけ)と云(い)う役目で、ソレには又相応の属官が幾人も附て居る。ソレが一切の同行人を目(め)ッ張子(ぱりこ)で見て居るので、なか/\外国人に遇うことが六(むず)かしい。同行者は何(いず)れも幕府の役人連で、その中に先(ま)ず同志同感、互に目的を共にすると云(い)うのは箕作秋坪(みつくりしゅうへい)と松木弘安(まつきこうあん)と私と、この三人は年来の学友で互に往来して居たので、彼方(あちら)に居てもこの三人だけは自然別なものにならぬ。何でも有らん限りの物を見ようと計(ばか)りして居る、ソレが役人連の目に面白くないと見え、殊(こと)に三人とも陪臣(ばいしん)で、然(し)かも洋書を読むと云うから中々油断をしない。何か見物に出掛けようとすると、必ず御目附方(おめつけがた)の下役(したやく)が附いて行かなければならぬと云う御定(おさだ)まりで始終附(つい)て廻(まわ)る。此方(こっち)は固(もと)より密売しようではなし、国の秘密を洩(も)らす気遣(きづか)いもないが、妙な役人が附て来れば只(ただ)蒼蠅(うるさ)い。蒼蠅いのはマダ宜(よ)いが、その下役が何か外(ほか)に差支(さしつかえ)があると、私共も出ることが出来ない。ソレは甚(はなは)だ不自由でした。私はその時に==是(こ)れはマア何の事はない、日本の鎖国をそのまゝ担(かつ)いで来て、欧羅巴(ヨーロッパ)各国を巡回するようなものだと云(いっ)て、三人で笑(わらっ)たことがあります。

血を恐れるソレでも私共は見ようと思うものは見、聞こうと思う事は聞(きい)たが、序(ついで)ながらこの見聞(けんもん)のことに就(つい)て私の身の恥を云(い)わねばならぬ。私は少年の時から至極(しごく)元気の宜(い)い男で、時として大言壮語(たいげんそうご)したことも多いが、天禀(うまれつき)気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌い。例えば緒方の塾に居るときは刺(しらく)流行の時代で、同窓生は勿論(もちろん)私も腕の脈に針をして血を取(とっ)たことがある。所が私は自分でも他人でもその血の出るのを見て心持(こころもち)が善(よ)くないから、刺と云えばチャント眼(め)を閉じて見ないようにして居る。腫物(しゅもつ)が出来ても針をすることは先(ま)ず見合せたいと云(い)い、一寸(ちょっ)とした怪我でも血が出ると顔色(がんしょく)が青くなる。毎度都会の地にある行倒(ゆきだおれ)、首縊(くびくくり)、変死人などは何としても見ることが出来ない。見物どころか、死人の話を聞ても逃げて廻ると云うような臆病者である。所が露西亜(ロシア)に滞留中、或(あ)る病院に外科手術があるから見物せよとの案内に箕作(みつくり)も松木(まつき)も医者だから直(す)ぐに出掛ける。私にも一処に行けと無理に勧めて連れて行かれて、外科室に這入(はいっ)て見れば石淋(せきりん)を取出す手術で、執刀の医師は合羽(かっぱ)を着て、病人をば俎(まないた)のような台の上に寝かして、コロヽホルムを臭(か)がせて先(ま)ず之(これ)を殺して、夫(そ)れからその医師が光り燿(かがや)く刀(とう)を執(とっ)てグット制すと、大造(たいそう)な血が迸(ほとばし)って医者の合羽は真赤になる、夫れから刀の切口(きりぐち)に釘抜(くぎぬき)のようなものを入れて膀胱(ぼうこう)の中にある石を取出すとか云(い)う様子であったが、その中に私は変な心持になって何だか気が遠くなった。スルト同行の山田八郎(やまだはちろう)と云(い)う男が私を助けて室外に連出(つれだ)し、水など呑(の)まして呉(く)れてヤット正気に返(かえっ)た。その前独逸(ドイツ)の伯林(ベルリン)の眼(がん)病院でも、欹目(やぶにらみ)の手術とて子供の眼(め)に刀(とう)を刺す処を半分ばかり見て、私は急いでその場を逃出してその時には無事に済んだことがある。松木(まつき)も箕作(みつくり)も私に意気地(いくじ)がないと云(いっ)て頻(しき)りに冷(ひや)かすけれども、持(もっ)て生れた性質は仕方がない、生涯これで死ぬことでしょう。

事情探索の胸算夫(そ)れは扨置(さてお)き私の欧羅巴(ヨーロッパ)巡回中の胸算(きょうさん)は、凡(およ)そ書籍(しょじゃく)上で調べられる事は日本に居ても原書を読(よん)で分(わか)らぬ処は字引(じびき)を引て調べさえすれば分らぬ事はないが、外国の人に一番分り易(やす)い事で殆(ほと)んど字引にも載(の)せないと云(い)うような事が此方(こっち)では一番六(むず)かしい。だから原書を調べてソレで分らないと云う事だけをこの逗留中に調べて置きたいものだと思(おもっ)て、その方向で以(もっ)て是(こ)れは相当の人だと思えばその人に就(つい)て調べると云うことに力を尽して、聞くに従て一寸々々(ちょいちょい)斯(こ)う云うように(この時先生細長(ほそなが)くして古々(ふるぶる)しき一小冊子を示す)記して置(おい)て、夫れから日本に帰(かえっ)てからソレを台にして尚(な)お色々な原書を調べ又記憶する所を綴合(つづりあわ)せて西洋事情と云うものが出来ました。凡(およ)そ理化学、器械学の事に於(おい)て、或(あるい)はエレキトルの事、蒸汽の事、印刷の事、諸工業製作の事などは必ずしも一々聞かなくても宜(よろ)しいと云(い)うのは、元来私が専門学者ではなし、聞(きい)た所が真実深い意味の分る訳(わ)けはない、唯(ただ)一通(ひととお)りの話を聞くばかり、一通りの事なら自分で原書を調べて容易に分(わか)るから、コンナ事の詮索(せんさく)は先(ま)ず二の次にして、外(ほか)に知りたいことが沢山(たくさん)ある。例えばコヽに病院と云うものがある、所でその入費(にゅうひ)の金はどんな塩梅(あんばい)にして誰が出して居るのか、又銀行(バンク)と云うものがあってその金の支出入は如何(どう)して居(い)るか、郵便法が行(おこなわ)れて居てその法は如何(どう)云う趣向にしてあるのか、仏蘭西(フランス)では徴兵令を行(れいこう)して居るが英吉利(イギリス)には徴兵令がないと云う、その徴兵令と云うのは、抑(そ)も如何(どう)云う趣向にしてあるのか、その辺の事情が頓(とん)と分らない。ソレカラ又政治上の選拳法と云うような事が皆無(かいむ)分らない。分らないから選拳法とは如何(どん)な法律で議院とは如何(どん)な役所かと尋ねると、彼方(あっち)の人は只(ただ)笑(わらっ)て居る、何を聞くのか分り切(きっ)た事だと云う様な訳(わけ)。ソレが此方(こっち)では分らなくてどうにも始末が付かない。又党派には保守党と自由党と徒党のような者があって、双方負けず劣らず鎬(しのぎ)を削(けずっ)て争うて居ると云う。何の事だ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をして居ると云う。サア分らない。コリャ大変なことだ、何をして居るのか知らん。少しも考(かんがえ)の付こう筈(はず)がない。彼(あ)の人と此(こ)の人とは敵だなんと云うて、同じテーブルで酒を飲(のん)で飯を喰(くっ)て居る。少しも分らない。ソレが略(ほぼ)分るようになろうと云うまでには骨の折れた話で、その謂(いわ)れ因縁が少しずつ分るようになって来て、入組(いりく)んだ事柄になると五日も十日も掛(かかっ)てヤット胸に落ると云(い)うような訳(わけ)で、ソレが今度洋行の利益でした。

樺太の境界談判それからその逗留中に誠に情けなく感じたことがあると申すは、私共の出立前からして日本国中、次第々々に攘夷論が盛(さかん)になって、外交は次第々々に不始末だらけ、今度の使節が露西亜(ロシア)に行(いっ)た時に此方(こっち)から樺太(カラフト)の境論(さかいろん)を持出(もちだ)して、その談判の席には私も出て居たので、日本の使節がソレを云出(いいだ)すと先方は少しも取合わない。或(あるい)は地図などを持出して、地図の色は斯(こ)う/\云う色ではないか、自(おのず)から此処(ここ)が境だと云うと、露西亜人の云うには、地図の色で境が極(きま)れば、この地図を皆赤くすれば世界中露西亜の領分になって仕舞(しま)うだろう、又これを青くすれば世界中日本領になるだろうと云うような調子で漫語放言(まんごほうげん)、迚(とて)も寄付(よりつ)かれない。マア兎(と)にも角(かく)にもお互に実地を調べたその上の事に為(し)ようと云うので、樺太の境は極(き)めずに宜加減(いいかげん)にして談判は罷(やめ)になりましたが、ソレを私が傍(そば)から聞て居て、是(こ)れは迚も仕様(しよう)がない、一切万事便(たよ)る所なし、日本の不文不明の奴等(やつら)が威張(からいば)りして攘夷論が盛(さかん)になればなる程、日本の国力は段々弱くなる丈(だ)けの話で、仕舞(しまい)には如何(どう)云うようになり果てるだろうかと思(おもっ)て、実に情けなくなりました。

露政府の厚遇国交際(こっこうさい)の談判は右の通りに水臭(みずくさ)い次第であるが、使節に対する私(わたくし)の待遇は爾(そ)うでない。ペートルスボルグ滞在中は日本使節一行の為(た)めに特に官舎を貸渡(かしわた)して、接待委員と云(い)う者が四、五人あってその官舎に詰切(つめき)りで、いろ/\饗応(きょうおう)するその饗応の仕方(しかた)と云うは頗(すこぶ)る手厚く、何(な)に一つ遺憾はないと云う有様。ソレで御用がない時は名所旧跡を始め諸所の工場と云うような所に案内して見せて呉(く)れる。その中に段々接待委員の人々と懇意になって種々(しゅじゅ)様々な話もしたが、その節(せつ)露西亜(ロシア)に日本人が一人居(お)ると云う噂(うわさ)を聞(きい)たその噂は、どうも間違ない事実であろうと思われる。名はヤマトフと唱えて、日本人に違いないと云う。勿論(もちろん)その噂は接待委員から聞(きい)たのではない。その外(ほか)の人から洩(も)れたのであるが、先(ま)ず公然の秘密と云う位(くらい)な事で、チャント分(わかっ)て居た。そのヤマトフに遇(あっ)て見たいと思うけれどもなか/\遇(あ)われない。到頭(とうとう)逗留中出て来(こ)ない。出て来ないがその接待中の模様に至(いたっ)ては動(やや)もすると日本風の事がある。例えば室内に刀掛(かたなかけ)があり、寝床(ベッド)には日本流の木の枕があり、湯殿(ゆどの)には糟(ぬか)を入れた糟袋があり、食物も勉(つと)めて日本調理の風(ふう)にして箸(はし)茶椀なども日本の物に似て居る。どうしても露西亜人の思付(おもいつ)く物でない。シテ見ると噂の通り何処(どこ)にか日本人の居るのは間違いない、明(あきらか)に分(わかっ)て居るけれども、到頭分らずに帰(かえっ)て仕舞(しま)いました。私の西航日記にこの事を記して、その傍(かたわら)に詩のようなものが一寸(ちょい)と書てある。

起来就食々終眠、飽食安眠過一年、

他日若遇相識問、欧天不異故郷天

目次に戻る

目次