14話 福翁自伝 02 福翁自伝(14)
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右の外に三使節の家来両三人ずつと、賄小使六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福澤等は先ず役人のような者ではあるが、大名の家来、所謂陪臣の身分であるから、一行中の一番下席で惣人数凡そ四十人足らず、孰れも日本服に大小を横えて巴里、竜動を闊歩したも可笑しい。
旅行中用意の品々失策又失策日本出発前に外国は何でも食物が不自由だからと云うので、白米を箱に詰めて何百箱の兵糧を貯え、又旅中止宿の用意と云うので、廊下に灯す金行灯=二尺四方もある鉄網作りの行灯を何十台も作り、その外提灯、手燭、ボンボリ、蝋燭等に至るまで一切取揃えて船に積込んだその趣向は、大名が東海道を通行して宿駅の本陣に止宿する位の胸算に違いない。夫れからいよ/\巴里に着して、先方から接待員が迎いに出て来ると、一応の挨拶終りて先ず此方よりの所望は、随行員も多勢なり荷物も多いことゆえ、下宿は成るべく本陣に近い処に頼むと云うのは、万事不取締不安心だから、一行の者を使節の近処に置きたいと云う意味でしょう。スルト接待員はいさい承知して、先ず人数を聞糺し、惣勢三十何人と分て、「是ればかりの人数なれば一軒の旅館に十組や二十組は引受けますとの答に、何の事やら訳けが分らぬ。ソレカラ案内に連られて止宿した旅館は、巴里の王宮の門外にあるホテルデロウブルと云う広大な家で、五階造り六百室、婢僕五百余人、旅客は千人以上差支なしと云うので、日本の使節などは何処に居るやら分らぬ。唯旅館中の廊下の道に迷わぬように、当分はソレガ心配でした。各室には温めた空気が流通するから、ストーヴもなければ蒸気もなし、無数の瓦斯灯は室内廊下を照らして日の暮るゝを知らず、食堂には山海の珍味を並べて、如何なる西洋嫌いも口腹に攘夷の念はない、皆喜んで之を味うから、爰に手持不沙汰なるは日本から脊負て来た用意の品物で、ホテルの廊下に金行灯を点けるにも及ばず、ホテルの台所で米の飯を炊くことも出来ず、とう/\仕舞には米を始め諸道具一切の雑物を、接待掛りの下役のランベヤと云う男に進上して、唯貰て貰うたのも可笑しかった。
先ずこんな塩梅式だから、吾々一行の失策物笑いは数限りもない。シガーとシュガーを間違えて烟草を買いに遣て砂糖を持て来るもあり、医者は人参と思て買て来て生姜の粉であったこともある。又或るときに三使節中の一人が便所に行く、家来がボンボリを持て御供をして、便所の二重の戸を明放しにして、殿様が奥の方で日本流に用を達すその間、家来は袴着用、殿様の御腰の物を持て、便所の外の廊下に平き直てチャント番をして居るその廊下は旅館中の公道で、男女往来織るが如くにして、便所の内外瓦斯の光明昼よりも明なりと云うから堪らない。私は丁度其処を通り掛て、驚いたとも驚くまいとも、先ず表に立塞がって物も言わずに戸を打締めて、夫れからそろ/\その家来殿に話したことがある。
欧洲の政風人情政治上の事に就ては竜動、巴里等に在留中、色々な人に逢うて色々な事を聞たが、固よりその事柄の由来を知らぬから能く分る訳けもない。当時は仏蘭西の第三世ナポレヲンが欧洲第一の政治家と持囃されてエライ勢力であったが、隣国の普魯士も日の出の新進国で油断はならぬ。墺地利との戦争、又アルサス、ローレンスの事なども国交際の問題として、何れ後年には云々の変乱が生ずるであろうなんと云うことは朝野政通の予言する所で、私の日記覚書にもチョイ/\記してある。又竜動に居るとき、或る社中の人が社名を以て議院に建言したと云うて、その草稿を日本使節に送て来た。建言の趣意は、在日本英国の公使アールコツクが新開国たる日本に居て乱暴無状、恰も武力を以て征服したる国民に臨むが如し云々とて、種々様々の証拠を挙げて公使の罪を責るその証拠の一つに、公使アールコツクが日本国民の霊場として尊拝する芝の山内に騎馬にて乗込たるが如き言語に絶えたる無礼なりと痛論したる節もある。私はこの建言書を見て大に胸が下った。成るほど世界は鬼ばかりでない、是れまで外国政府の仕振を見れば、日本の弱身に付込み日本人の不文殺伐なるに乗じて無理難題を仕掛けて真実困て居たが、その本国に来て見れば〔自から〕公明正大、優しき人もあるものだと思て、ます/\平生の主義たる開国一偏の説を堅固にしたことがある。
土地の売買勝手次第又各国巡回中、待遇の最も濃なるは和蘭の右に出るものはない。是れは三百年来特別の関係で爾うなければならぬ。殊に私を始め同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語で云えば欧羅巴中第二の故郷に帰たような訳けで自然に居心が宜い。夫れは扨置き和蘭滞留中に奇談がある。或るとき使節がアムストルダムに行て地方の紳士紳商に面会、四方八方の話の序に、使節の問に、「このアムストルダム府の土地は売買勝手なるかと云うに、彼の人答えて、「固より自由自在。「外国人へも売るか。「値段次第、誰にでも、又何ほどにても。「左れば爰に外国人が大資本を投じて広く上地を買占め、之に城廓砲台でも築くことがあったら、夫れでも勝手次第かと云うに、彼の人も妙な顔をして、「ソンナ事は是れまで考えたことはない。如何に英仏その他の国々に金満家が多いとて、他国の地面を買て城を築くような馬鹿気た商人はありますまいと答えて、双方共に要領を得ぬ様子で、私共は之を見て実に可笑しかったが、当時日本の外交政略は凡そこの辺から割出したものであるから堪らない訳けさ。
見物自由の中又不自由夫れは扨居き、私がこの前亜米利加に行たときには、カリフルニヤ地方にマダ鉄道がなかったから、勿論鉄道を見たことがない、けれども今度は蘇士に上て始めて鉄道に乗り、ソレカラ欧羅巴各国を彼方此方と行くにも皆鉄道ばかり、到る処に歓迎せられて、海陸軍の場所を始めとして、官私の諸工場、銀行会社、寺院、学校、倶楽部等は勿論、病院に行けば解剖も見せる、外科手術も見せる、或は名ある人の家に晩餐の饗応、舞踏の見物など、誠に親切に案内せられて、却て招待の多いのに草臥れると云う程の次第であったが、唯こゝに一つ可笑しいと云うのは、日本はその時丸で鎖国の世の中で、外国に居ながら兎角外国人に遇うことを止めようとするのが可笑しい。使節は竹内、松平、京極の三使節、その中の京極は御目附と云う役目で、ソレには又相応の属官が幾人も附て居る。ソレが一切の同行人を目ッ張子で見て居るので、なか/\外国人に遇うことが六かしい。同行者は何れも幕府の役人連で、その中に先ず同志同感、互に目的を共にすると云うのは箕作秋坪と松木弘安と私と、この三人は年来の学友で互に往来して居たので、彼方に居てもこの三人だけは自然別なものにならぬ。何でも有らん限りの物を見ようと計りして居る、ソレが役人連の目に面白くないと見え、殊に三人とも陪臣で、然かも洋書を読むと云うから中々油断をしない。何か見物に出掛けようとすると、必ず御目附方の下役が附いて行かなければならぬと云う御定まりで始終附て廻る。此方は固より密売しようではなし、国の秘密を洩らす気遣いもないが、妙な役人が附て来れば只蒼蠅い。蒼蠅いのはマダ宜いが、その下役が何か外に差支があると、私共も出ることが出来ない。ソレは甚だ不自由でした。私はその時に==是れはマア何の事はない、日本の鎖国をそのまゝ担いで来て、欧羅巴各国を巡回するようなものだと云て、三人で笑たことがあります。
血を恐れるソレでも私共は見ようと思うものは見、聞こうと思う事は聞たが、序ながらこの見聞のことに就て私の身の恥を云わねばならぬ。私は少年の時から至極元気の宜い男で、時として大言壮語したことも多いが、天禀気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌い。例えば緒方の塾に居るときは刺流行の時代で、同窓生は勿論私も腕の脈に針をして血を取たことがある。所が私は自分でも他人でもその血の出るのを見て心持が善くないから、刺と云えばチャント眼を閉じて見ないようにして居る。腫物が出来ても針をすることは先ず見合せたいと云い、一寸とした怪我でも血が出ると顔色が青くなる。毎度都会の地にある行倒、首縊、変死人などは何としても見ることが出来ない。見物どころか、死人の話を聞ても逃げて廻ると云うような臆病者である。所が露西亜に滞留中、或る病院に外科手術があるから見物せよとの案内に箕作も松木も医者だから直ぐに出掛ける。私にも一処に行けと無理に勧めて連れて行かれて、外科室に這入て見れば石淋を取出す手術で、執刀の医師は合羽を着て、病人をば俎のような台の上に寝かして、コロヽホルムを臭がせて先ず之を殺して、夫れからその医師が光り燿く刀を執てグット制すと、大造な血が迸って医者の合羽は真赤になる、夫れから刀の切口に釘抜のようなものを入れて膀胱の中にある石を取出すとか云う様子であったが、その中に私は変な心持になって何だか気が遠くなった。スルト同行の山田八郎と云う男が私を助けて室外に連出し、水など呑まして呉れてヤット正気に返た。その前独逸の伯林の眼病院でも、欹目の手術とて子供の眼に刀を刺す処を半分ばかり見て、私は急いでその場を逃出してその時には無事に済んだことがある。松木も箕作も私に意気地がないと云て頻りに冷かすけれども、持て生れた性質は仕方がない、生涯これで死ぬことでしょう。
事情探索の胸算夫れは扨置き私の欧羅巴巡回中の胸算は、凡そ書籍上で調べられる事は日本に居ても原書を読で分らぬ処は字引を引て調べさえすれば分らぬ事はないが、外国の人に一番分り易い事で殆んど字引にも載せないと云うような事が此方では一番六かしい。だから原書を調べてソレで分らないと云う事だけをこの逗留中に調べて置きたいものだと思て、その方向で以て是れは相当の人だと思えばその人に就て調べると云うことに力を尽して、聞くに従て一寸々々斯う云うように(この時先生細長くして古々しき一小冊子を示す)記して置て、夫れから日本に帰てからソレを台にして尚お色々な原書を調べ又記憶する所を綴合せて西洋事情と云うものが出来ました。凡そ理化学、器械学の事に於て、或はエレキトルの事、蒸汽の事、印刷の事、諸工業製作の事などは必ずしも一々聞かなくても宜しいと云うのは、元来私が専門学者ではなし、聞た所が真実深い意味の分る訳けはない、唯一通りの話を聞くばかり、一通りの事なら自分で原書を調べて容易に分るから、コンナ事の詮索は先ず二の次にして、外に知りたいことが沢山ある。例えばコヽに病院と云うものがある、所でその入費の金はどんな塩梅にして誰が出して居るのか、又銀行と云うものがあってその金の支出入は如何して居るか、郵便法が行れて居てその法は如何云う趣向にしてあるのか、仏蘭西では徴兵令を行して居るが英吉利には徴兵令がないと云う、その徴兵令と云うのは、抑も如何云う趣向にしてあるのか、その辺の事情が頓と分らない。ソレカラ又政治上の選拳法と云うような事が皆無分らない。分らないから選拳法とは如何な法律で議院とは如何な役所かと尋ねると、彼方の人は只笑て居る、何を聞くのか分り切た事だと云う様な訳。ソレが此方では分らなくてどうにも始末が付かない。又党派には保守党と自由党と徒党のような者があって、双方負けず劣らず鎬を削て争うて居ると云う。何の事だ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をして居ると云う。サア分らない。コリャ大変なことだ、何をして居るのか知らん。少しも考の付こう筈がない。彼の人と此の人とは敵だなんと云うて、同じテーブルで酒を飲で飯を喰て居る。少しも分らない。ソレが略分るようになろうと云うまでには骨の折れた話で、その謂れ因縁が少しずつ分るようになって来て、入組んだ事柄になると五日も十日も掛てヤット胸に落ると云うような訳で、ソレが今度洋行の利益でした。
樺太の境界談判それからその逗留中に誠に情けなく感じたことがあると申すは、私共の出立前からして日本国中、次第々々に攘夷論が盛になって、外交は次第々々に不始末だらけ、今度の使節が露西亜に行た時に此方から樺太の境論を持出して、その談判の席には私も出て居たので、日本の使節がソレを云出すと先方は少しも取合わない。或は地図などを持出して、地図の色は斯う/\云う色ではないか、自から此処が境だと云うと、露西亜人の云うには、地図の色で境が極れば、この地図を皆赤くすれば世界中露西亜の領分になって仕舞うだろう、又これを青くすれば世界中日本領になるだろうと云うような調子で漫語放言、迚も寄付かれない。マア兎にも角にもお互に実地を調べたその上の事に為ようと云うので、樺太の境は極めずに宜加減にして談判は罷になりましたが、ソレを私が傍から聞て居て、是れは迚も仕様がない、一切万事便る所なし、日本の不文不明の奴等が威張りして攘夷論が盛になればなる程、日本の国力は段々弱くなる丈けの話で、仕舞には如何云うようになり果てるだろうかと思て、実に情けなくなりました。
露政府の厚遇国交際の談判は右の通りに水臭い次第であるが、使節に対する私の待遇は爾うでない。ペートルスボルグ滞在中は日本使節一行の為めに特に官舎を貸渡して、接待委員と云う者が四、五人あってその官舎に詰切りで、いろ/\饗応するその饗応の仕方と云うは頗る手厚く、何に一つ遺憾はないと云う有様。ソレで御用がない時は名所旧跡を始め諸所の工場と云うような所に案内して見せて呉れる。その中に段々接待委員の人々と懇意になって種々様々な話もしたが、その節露西亜に日本人が一人居ると云う噂を聞たその噂は、どうも間違ない事実であろうと思われる。名はヤマトフと唱えて、日本人に違いないと云う。勿論その噂は接待委員から聞たのではない。その外の人から洩れたのであるが、先ず公然の秘密と云う位な事で、チャント分て居た。そのヤマトフに遇て見たいと思うけれどもなか/\遇われない。到頭逗留中出て来ない。出て来ないがその接待中の模様に至ては動もすると日本風の事がある。例えば室内に刀掛があり、寝床には日本流の木の枕があり、湯殿には糟を入れた糟袋があり、食物も勉めて日本調理の風にして箸茶椀なども日本の物に似て居る。どうしても露西亜人の思付く物でない。シテ見ると噂の通り何処にか日本人の居るのは間違いない、明に分て居るけれども、到頭分らずに帰て仕舞いました。私の西航日記にこの事を記して、その傍に詩のようなものが一寸と書てある。
起来就食々終眠、飽食安眠過一年、
他日若遇相識問、欧天不異故郷天