13話 福翁自伝 02 福翁自伝(13)
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欧羅巴各国に行く
私が亜米利加から帰たのは万延元年、その年に華英通語と云うものを飜訳して出版したことがある。是れが抑も私が出版の始まり、先ずこの両三年間と云うものは、人に教うると云うよりも自分で以て英語研究が専業であった。所が文久二年の冬、日本から欧羅巴諸国に使節派遣と云うことがあって、その時に又私はその使節に附て行かれる機会を得ました。この前亜米利加に行く時には私に木村摂津守に懇願して、その従僕と云うことにして連れて行て貰たが、今度は幕府に雇われて居て欧羅巴行を命ぜられたのであるから、自から一人前の役人のような者になって、金も四百両ばかり貰たかと思う。旅中は一切官費で、只手当として四百両の金を貰たから、誠に世話なし。ソコで私は平生頓と金の要らない男で、徒に金を費すと云うことは決してない。四百両貰たその中で百両だけ国に居る母に送てやった。如何にも母に対して気の毒だと云うのは、亜米利加から帰てマダ国へ親の機嫌を聞きに行きもせずに、重ねて欧羅巴に行くと云うのだから、如何にも済まない。而已ならず私が亜米利加旅行中にも、郷里中津の者共が色々様々な風聞を立てゝ、亜米利加に行て彼の地で死んだと云い、甚だしきに至れば現在の親類の中の一人が私共の母に向て、誠に気の毒な事じゃ、諭吉さんもとう/\亜米利加で死んで、身体は醢けにして江戸に持て帰たそうだなんと、威すのか冷すのかソンな事まで云て母を嬲て居たと云うような事で、是れも時節柄で我慢して黙て居るより外に仕方がないとして居ながら、母に対しては如何にも気が済まない。金をやったからと云てソレで償える訳けのものではないけれども、マア/\百両だの二百両だのと云う金は生れてから見たこともない金だから、ソレでも送て遣ろうと思て、幕府から請取た金を分けて送りました。
それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。この度の船は日本の使節が行くと云う為めに、英吉利から迎船のようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦に乗て香港、新嘉堡と云うような印度洋の港々に立寄り、紅海に這入て、蘇士から上陸して蒸気車に乗て、埃及のカイロ府に着て二晩ばかり泊り、それから地中海に出て、其処から又船に乗て仏蘭西の馬塞耳、ソコデ蒸汽車に乗て里昂に一泊、巴里に着て滞在凡そ二十日、使節の事を終り、巴里を去て英吉利に渡り、英吉利から和蘭、和蘭から普魯西の都の伯林に行き、伯林から露西亜のペートルスボルグ、夫れから再び巴里に帰て来て、仏蘭西から船に乗て、葡萄牙に行き、ソレカラ地中海に這入て、元の通りの順路を経て帰て来たその間の年月は凡そ一箇年、即ち文久二年一杯、推詰てから日本に帰て来ました。
扨今度の旅行に就て申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語ると云うことが徐々出来て、夫れから前に申す通りに金も聊か持て居るその金は何も遣い所はないから、只日本を出る時に尋常一様の旅装をした丈けで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金の要る訳けがない、その余た金は皆携えて行て竜動に逗留中、外に買物もない、唯英書ばかりを買て来た。是れが抑も日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったと云うのも是れからの事である。
夫れから彼の国の巡回中色々観察見聞したことも多いが、是れは後の話にして、先ず使節一行の有様を申さんに、その人員は、
竹内下野守正使松平石見守副使京極能登守御目付柴田貞太郎組頭日高圭三郎御勘定福田作太郎御徒士目付水品楽太郎調役岡綺藤左衛門同高嶋祐啓御医師但し漢方医なり川崎道民雇医益頭駿次郎御普請役上田友助定役元締森鉢太郎定役福地源一郎通弁立広作同太田源三郎同斎藤大之進同心高松彦三郎御小人目付山田八郎同松木弘安反訳方箕作秋坪同福澤諭吉同