福翁自伝 02 福翁自伝

16話 福翁自伝 02 福翁自伝(16)

7,346字 約15分 2017年6月15日 公開

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攘夷論の鋒先洋学者に向う井伊掃部頭(いいかもんのかみ)はこの前殺されて、今度は老中の安藤対馬守(あんどうつしまのかみ)が浪人に疵(きず)を付けられた。その乱暴者の一人が長州の屋敷に駈込(かけこ)んだとか何とか云(い)う話を聞て、私はその時始めて心付いた、成るほど長州藩も矢張(やは)り攘夷の仲間に這入(はいっ)て居るのかと斯(こ)う思たことがある。兎(と)にも角(かく)にも日本国中攘夷の真盛(まっさか)りでどうにも手の着けようがない。所で私の身にして見ると、是(こ)れまでは世間に攘夷論があると云う丈(だ)けの事で、自分の身に就(つい)て危(あやう)いことは覚えなかった。大阪の塾に居る中に勿論暗殺などゝ云うことのあろう筈はない。又江戸に出て来たからとて怖い敵もなければ何でもないと計(ばか)り思(おもっ)て居た所が、サア今度欧羅巴(ヨーロッパ)から帰(かえっ)て来たその上はなか/\爾(そ)うでない。段々喧(やかま)しくなって、外国貿易をする商人が俄(にわか)に店を片付けて仕舞(しま)うなどゝ云(い)うような事で、浪人と名(なづ)くる者が盛(さかん)に出て来て、何処(どこ)に居て何をして居るのか分らない。丁度今の壮士(そうし)と云うようなもので、ヒョコ/\妙な処から出て来る。外国の貿易をする商人さえ店を仕舞うと云うのであるから、況(ま)して外国の書を読(よん)で欧羅巴(ヨーロッパ)の制度文物を夫(そ)れ是(こ)れと論ずるような者は、どうも彼輩(あいつ)は不埒(ふらち)な奴じゃ、畢竟(ひっきょう)彼奴等(あいつら)は虚言(うそ)を吐(つい)て世の中を瞞着(まんちゃく)する売国奴(ばいこくど)だと云うような評判がソロ/\行(おこなわ)れて来て、ソレから浪士の鋒先(ほこさき)が洋学者の方に向いて来た。是れは誠に恐入(おそれいっ)た話で、何も私共は罪を犯した覚えはない。是れはマア何処まで小さくなれば免(まぬか)るゝかと云うと、幾ら小さくなっても免れない。到頭(とうとう)仕舞(しまい)には洋書を読むことを罷(や)めて仕舞うて攘夷論でも唱えたらば、ソレはお詫(わび)が済むだろうが、マサカそんな事も出来ない。此方(こっち)が無頓着(むとんじゃく)に思う事を遣(や)ろうとすれば、浪人共は段々きつくなって来る。既(すで)に私共と同様幕府に雇われて居る飜訳方(ほんやくがた)の中に手塚律蔵(てづかりつぞう)と云う人があって、その男が長州の屋敷に行(いっ)て何か外国の話をしたら、屋敷の若者等が斬(きっ)て仕舞うと云うので、手塚はドン/″\駈出す、若者等は刀を抜(ぬい)て追蒐(おっかけ)る、手塚は一生懸命に逃げたけれども逃切れずに、寒い時だが日比谷外(そと)の濠の中へ飛込んで漸(ようや)く助かった事もある。夫れから同じ長州の藩士で東条礼蔵(とうじょうれいぞう)と云う人も矢張(やは)り私と同僚飜訳方(ほんやくがた)で、小石川の素(も)と蜀山人(しょくさんじん)の住居(すまい)と云(い)う家に住(すん)で居た。所がその家に所謂(いわゆる)浮浪の徒が暴込(あばれこ)んで、東条は裏口から逃出して漸(やっ)と助(たすか)ったと云うような訳(わ)けで、いよ/\洋学者の身が甚(はなは)だ危(あやう)くなって来て油断がならぬ。左(さ)ればとて自分の思う所、為(な)す仕事は罷(や)められるものじゃない。夫(そ)れから私は構わない、構おうと云(いっ)た所が構われもせず、罷(や)めようと云た所が罷められる訳けでない、マア/\言語(げんぎょ)挙動を柔(やわら)かにして決して人に逆(さから)わないように、社会の利害と云うような事は先(ま)ず気の知れない人には云わないようにして、慎(つつし)める丈(だ)け自分の身を慎んで、ソレと同時に私は専(もっぱ)ら著書飜訳の事を始めた。その著訳の一条に就(つい)ては今コヽで別段に云う事はない、私の今年開版(かいはん)した福澤全集の緒言(ちょげん)に詳(つまびらか)に書(かい)てあるから是(こ)れは見合せるとして、その著訳事業中、即(すなわ)ち攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数は次第々々に殖(ふ)えるからその教授法に力を尽(つく)し、又家の活計(くらし)は幕府に雇われて扶持米(ふちまい)を貰(もら)うてソレで結構暮らせるから、世間の事には頓(とん)と頓着(とんじゃく)せず、怖い半分、面白い半分に歳月(としつき)を送(おくっ)て居る。或時(あるとき)可笑(おかし)い事があった。私が新銭座に一寸(ちょいと)住居(すまい)の時(新銭座塾に非(あら)ず)、誰方(どなた)か知らないが御目に掛りたいと云(いっ)てお侍(さむらい)が参りましたと下女が取次(とりつぎ)するから、「ドンナ人だと聞くと、「大きな人で、眼が片眼(かため)で、長い刀を挟(さ)して居ますと云(い)うから、コリャ物騒な奴だ、名は何と云う。「名はお尋ね申したが、お目に掛れば分ると云て被仰(おっ)しゃいません==どうも気味の悪い奴だと思(おもっ)て、夫(そ)れから私は窃(そっ)と覗いて見ると、何でもない、筑前の医学生で原田水山(はらだすいざん)、緒方の塾に一緒に居た親友だ。思わず罵(ののしっ)た。この馬鹿野郎、貴様は何だ、何(な)ぜ名を云て呉(く)れんか、乃公(おれ)は怖くて堪(たま)らなかったと云て、奥に通して色々世間話をして、共々に大笑(たいしょう)した事がある。爾(そ)う云う世の中で洋学者もつまらぬ事に驚かされて居ました。

英艦来る夫れから攘夷論と云うものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂(いえもち)公の上洛となり、続いて御親発(ごしんぱつ)として長州征伐に出掛けると云うような事になって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、英吉利(イギリス)の軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍(さむらい)が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人は只(ただ)懇親(こんしん)を以(もっ)て交ろうと思うて是(こ)れまでも有らん限り柔(やわら)かな手段ばかりを執(とっ)て居た、然(しか)るに日本の国民が乱暴をして剰(あまつさ)え人を殺した、如何(いか)にしてもその責(せめ)は日本政府に在(あっ)て免(まぬか)るべからざる罪であるから、この後(のち)二十日(はつか)を期して決答せよと云(い)う次第は、政府から十万磅(ポンド)の償金を取り、尚(な)お二万五千磅は薩摩の大名から取り、その上罪人を召捕(めしとっ)て眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文(こうぶん)が来た。その時に私共が飜訳(ほんやく)する役目に当(あたっ)て居るので、夜中に呼びに来て、赤坂に住(すん)で居る外国奉行松平石見守(まつだいらいわみのかみ)の宅に行(いっ)たのが、私と杉田玄端(すぎたげんたん)、高畑五郎(たかばたけごろう)、その三人で出掛けて行て、夜の明けるまで飜訳したが、是(こ)れはマアどうなる事だろうか、大変な事だと窃(ひそか)に心配した所が、その翌々二十一日には将軍が危急(ききゅう)存亡の大事を眼前(がんぜん)に見ながら其(そ)れを棄(す)てゝ置(おい)て上洛して仕舞(しま)うた。爾(そ)うするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、所がもう二十日待(まっ)て呉(く)れろ、ソレは待つの待たないのと捫着(もんちゃく)の末、どうやら斯(こ)うやら待て貰うことになった。所でいよ/\償金を払うか払わないかと云(い)う幕府の評議がなか/\決しない。その時の騒動と云うものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争がある抔(など)と云う評判、その二十日の期間も既(すで)に過去(すぎさっ)て、又十日と云うことになって、始終(しじゅう)十日と二十日の期限を以(もっ)て次第々々に返辞(へんじ)を延(のば)して行く。私はその時に新銭座に住(すん)で居たから、迚(とて)もこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるより外(ほか)に仕様(しよう)がないと、ソロ/\迯(にげ)仕度をすると云うような事で、ソコで愈(いよい)よ期日も差迫(さしせまっ)て、今度はもう掛値(かけね)なし、一日も負(ま)からないと云う日になった、と云うのを私は政府の飜訳局(ほんやくきょく)に居て詳(つまびらか)に知(しっ)て居るから尚(な)お堪(たま)らない。

仏国公使無法に威張るその飜訳をする間(あいだ)に、時の仏蘭西(フランス)のミニストル・ベレクルと云う者が、どう云う気前だか知らないが大層な手紙を政府に出して、今度の事に就(つい)て仏蘭西は全く英吉利(イギリス)と同説だ、愈よ戦端(せんたん)を開く時には英国と共々に軍艦を以て品川沖を暴(あ)れ廻(まわ)ると、乱暴な事を云うて来た。誠に謂(いわ)れのない話で、丸でその趣(おもむき)は今の西洋諸国の政府が支那人を威(おど)すと同じ事で、政府は唯(ただ)英仏人の剣幕を見て心配する計(ばか)り。私には能(よ)くその事情が分(わか)る、分れば分るほど気味が悪い。

事態いよ/\迫る是(こ)れはいよ/\遣(や)るに違いないと鑑定(かんてい)して、内の方の政府を見れば何時迄(いつまで)も説が決しない。事が喧(やかま)しくなれば閣老は皆病気と称して出仕する者がないから、政府の中心は何処(どこ)に在(あ)るか訳(わけ)が分らず、唯(ただ)役人達が思い/\に小田原評議のグヅ/\で、愈(いよい)よ期日が明後日と云(い)うような日になって、サア荷物を片付けなければならぬ。今でも私の処に疵(きず)の付(つい)た箪笥(たんす)がある。愈よ荷物を片付けようと云うので箪笥を細引(ほそびき)で縛(しばっ)て、青山の方へ持(もっ)て行けば大丈夫だろう、何も只(ただ)の人間を害する気遣(きづかい)はないからと云うので、青山の穏田(おんでん)と云う処に呉黄石(くれこうせき)と云う芸州(げいしゅう)の医者があって、その人は箕作の親類で、私は兼て知て居るから、呉の処に行てどうか暫(しばら)く此処(ここ)に立退場(たちのきば)を頼むと相談も調(ととの)い、愈よ青山の方と思うて荷物は一切拵(こしら)えて名札を付けて担出(かつぎだ)す計(ばか)りにして、そうして新銭座の海浜にある江川の調練場に行(いっ)て見れば、大砲の口を海の方に向けて撃(う)つような構えにしてある。是(こ)れは今明日(こんみょうにち)の中にいよ/\事は始まると覚悟を定めた。その前に幕府から布令(ふれ)が出てある。愈(いよい)よ兵端(へいたん)を開く時には浜御殿(はまごてん)、今の延遼館(えんりょうかん)で、火矢(ひや)を挙(あ)げるから、ソレを相図(あいず)に用意致せと云(い)う市中に布令が出た。江戸ッ子は口の悪いもので、「瓢箪(ひょうたん)兵端の開け初めは冷火矢でやる」と川柳があったが、是れでも時の事情は分る。

米と味噌と大失策夫(そ)れから又可笑(おか)しい事がある。私の考えに、是れは何でも戦争になるに違いないから、マア米を買おうと思(おもっ)て、出入(でいり)の米屋に申付(もうしつ)けて米を三十俵買(かっ)て米屋に預け、仙台味噌を一樽買て納屋(ものおき)に入れて置(おい)た。所が期日が切迫するに従て、切迫すればするほど役に立たないものは米と味噌、その三十俵の米を如何(どう)すると云うた所が、担(かつ)いで行かれるものでもなければ、味噌樽を背負(せおっ)て駈けることも出来なかろう。是れは可笑しい、昔は戦争のとき米と味噌があれば宜(い)いと云(いっ)たが、戦争の時ぐらい米と味噌の邪魔になるものはない、是れはマア逃げる時はこの米と味噌樽は棄(す)てゝ行くより外(ほか)はないと云て、その騒動の真盛(まっさか)りに大笑いを催(もよお)した事がある。その時にも新銭座の家に学生が幾人か居て、私はその時二分金(にぶきん)で百両か百五十両持(もっ)て居たから、この金を独(ひと)りで持て居ても策でない、イザと云(い)えば誰が何処(どこ)にどう行くか分らない、金があれば先(ま)ず餒(かつ)えることはないから、この金は私が一人で持て居るよりか、家内が一人で持(もっ)て居るよりか、是(こ)れは銘々(めいめい)に分けて持つが宜(よ)かろうと云うので、その金を四つか五つに分けて、頭割(あたまわり)にして銘々ソレを腰に巻(まい)て行こうと、用意金の分配まで出来て、明日か明後日は愈(いよい)よ戦争の始まり、外(ほか)に道はないと覚悟した所が、茲(ここ)に幸な事があると云うのは、その時に唐津の殿様で小笠原壹岐守(おがさわらいきのかみ)と云う閣老がある。夫(そ)れから横浜に浅野備前守(あさのびぜんのかみ)と云う奉行がある。

小笠原壱岐守ソレ等の人が極秘密に云合(いいあわ)せた事と見えて、五月の初旬、十日前後と思いますが、愈よ今日と云う日に、前日まで大病だと云(いっ)て寝て居た小笠原壹岐守がヒョイとその朝起きて、日本の軍艦に乗(のっ)て品川沖を出て行く。スルト英吉利(イギリス)の砲艦(ガンボート)が壹岐守の船の尻に尾(つ)いて走ると云うのは、壹岐守は上方(かみがた)に行くと云て品川湾を出発したから、若(も)し本当にその方針を取(とっ)て本牧(ほんもく)の鼻を廻(まわ)れば英人は後から砲撃する筈(はず)であったと云う。所が壹岐守は本牧を廻らずに横浜の方へ這入(はいっ)て、自分の独断で即刻(そっこく)に償金を払(はら)うて仕舞(しまっ)た。十万磅(ポンド)を時の相場にすればメキシコ弗(ドル)で四十万になるその正銀(しょうぎん)を、英公使セント・ジョン・ニールに渡して先(ま)ず一段落を終りました。

鹿児島湾の戦争幕府に要求した十万磅(ポンド)の償金は五月十日に片付(かたづけ)て、夫(そ)れから今度はその英軍艦が鹿児島に行(いっ)て、被害者遺族の手当として二万五千磅を要求し、且(か)つその罪人を英国人の見て居る所で死刑に処せよと云(い)う掛合の為(た)めに、六艘の軍艦は鹿児島湾に廻(まわっ)て錨(いかり)を卸(おろ)した。スルト薩摩藩から直(ただ)ちに来意訪問の使者が来る。英の旗艦(きかん)の水師提督はクーパー、司令長官はウルモット、船長はジヨスリングと云う人で、書翰(しょかん)を薩摩の役人に渡し、応否の返答如何(いかん)と待(まっ)て居る。所がなか/\容易な事に返辞(へんじ)が出来ない。ソレコレする中に薩摩に西洋形の船、即(すなわ)ち西洋から薩摩藩に買取(かいとっ)た船が二艘あるその二艘の船を談判(だんぱん)の抵当に取ると云う趣意(しゅい)で、桜島の側に碇泊(ていはく)してあった二艘の船を英の軍艦が引張(ひっぱっ)て来ると云う手詰(てづめ)の場合になった。スルト陸の方からこの様子を見ていよ/\発砲し始めて、陸から発砲すれば海からも発砲して、ドン/″\大合戦(おおかっせん)になった、と云うのが丁度文久三年五月下旬、何でも二十八、九日頃である。その時に英の旗艦はマダ陸からは発砲しないことゝ思(おもっ)て錨を挙(あ)げずに居た所が、俄(にわか)に陸の方で撃始(うちはじ)めたものだから、サア錨を上げようとすると生憎(あいにく)その時は大変な暴風、加(くわ)うるに海が最も深いからドウも錨を上げる遑(いとま)がないと云うので、錨の鎖(くさり)を切(きっ)て夫れから運動するようになった。是(こ)れが例の英吉利(イギリス)の軍艦の錨(いかり)が薩摩の手に入(はいっ)た由来である。ソコで陸から打つ鉄砲もなか/\エライ、専(もっぱ)ら旗艦を狙(ねら)うて命中するものも多いその中に、大きな丸い破裂弾が旨(うま)く発して怪我人が出来た中に、司令長官と甲比丹(カピテン)と二人の将官が即死して船中の騒動、又船から陸に向(むかっ)ての砲撃もなか/\劇(はげ)しく、海岸の建物は大抵焼払(やきはら)うて是れも容易ならぬ損害であったが、詰(つま)る所、勝負なしの戦争と云(い)うのは、薩摩の方は英吉利(イギリス)の軍艦を撃(うっ)て二人の将官まで殺したけれどもその船を如何(どう)することも出来ない、又軍艦の方でも陸を焼払うて随分荒したことは荒したけれども上陸することは出来ない、双方共に勝ちも負けもせずに、英の軍艦が横浜に帰(かえっ)たのは六月十日前の頃であったが、その時に面白い話がある。戦争の済んだ後で彼の旗艦に命中した破裂弾の砕片(かけ)を見て、船中の英人等が頻(しき)りに語り合うに、「こんな弾丸が日本で出来る訳(わけ)はない。イヤ能(よ)く見れば露西亜(ロシア)製のものじゃ。露西亜から日本に送ったのであろうなどゝ評議区々(まちまち)なりしと云(い)う。当時クリミヤ戦争の当分ではあるし、元来(がんらい)英吉利(イギリス)と露西亜との間柄は犬と猿のようで、相互(あいたがい)に色々な猜疑心(さいぎしん)がある。今日に至るまでも仲は好(よ)くないように見える。

松木、五代、英艦に投ずそれは扨(さて)置き茲(ここ)に薩摩の船を二艘此方(こちら)に引張(ひっぱっ)て来ると云う時に、その船長の松木弘安(まつきこうあん)(後に寺嶋陶蔵(てらじまとうぞう)又後に宗則(むねのり))、五代才助(ごだいさいすけ)(後に五代友厚(ともあつ))の両人が、船奉行と云う名義で云(い)わば船長である。ソコで英の軍艦が二艘の船を引張て来ようと云うその時に、乗込(のりこみ)の水夫などは其処(そこ)から上陸させたが、船長二人だけは英艦の方に投じた。投じたけれども自分の船から出るときに、実は松木と五代と申し談(だん)じて窃(ひそか)にその船の火薬車に導火(みちび)を点(つ)けて置(おい)たから、間もなく船は二艘とも焼けて仕舞(しまっ)た。夫(そ)れは夫れとして、扨松木に五代と云うものは捕虜(ほりょ)でもなければ御客(おきゃく)でもない、何しろ英の軍艦に乗込んで横浜に来たに違(ちがい)はない。その事は横浜の新聞紙にも出て居たのであるが、ソレ切(ぎ)り少しも消息が分らない。私はその前年松木と欧羅巴(ヨーロッパ)に一緒に行(いっ)たのみならず、以前から私と箕作(みつくり)と松木と云うものは甚(はなは)だ親しい朋友の間柄で、ソコで松木が英船に乗(のっ)たと云うが如何(どう)したろうかと只(ただ)その噂(うわさ)をするばかりで尋ねる所もない。英人が若(も)しこの両人を薩摩の方へ還(かえ)せば、ソリャもう若武者共が直(す)ぐに殺すに極(きまっ)て居る。然(さ)ればと云(いい)て之(これ)を幕府の方に渡せば、殺さぬまでもマア嫌疑(けんぎ)の筋があるとか取調べる廉(かど)があるとか云(いっ)て取敢(とりあ)えず牢には入れるだろう。所が今日まで薩摩に還(かえ)したと云う沙汰もなければ、幕府に引渡したと云う様子もない。如何(どう)したろうか、如何(いか)にも不審な事じゃと唯(ただ)箕作と私と始終(しじゅう)その話をして居た。所が凡(およ)そこの事が済んで一年ばかり経(たっ)てから、不意とその松木を見付け出したこそ不思議の因縁である。

薩人、英人と談判松木の話は次にして置(おい)て、横浜に英吉利(イギリス)の軍艦が帰(かえっ)て来た跡で、薩摩から談判の為(た)めに江戸に人が出て来た。その江戸に人の出て来たと云うのは、岩下佐治右衛門(いわしたさじうえもん)、重野孝之丞(しげのこうのじょう)(後に安繹(あんえき))、その外(ほか)に黒幕見たような役目を帯(お)びて来たのが大久保市蔵(おおくぼいちぞう)(後に利通(としみち))、その三人が出て来た処(ところ)で、第一番に薩摩の望む所は兎(と)にも角(かく)にもこの戦争を暫(しばら)く延引(えんいん)して貰(もら)いたいと云う注文なれども、その周旋を誰(たれ)に頼むと云(い)う手掛りもなく当惑の折柄(おりから)、こゝに一人の人があるその一人と云うのは清水卯三郎(しみずうさぶろう)(瑞穂屋(みずほや)卯三郎)と云う人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋の事に付(つい)ては至極(しごく)熱心、先(ま)ず当時に於(おい)てはその身分に不似合(ふにあい)な有志者である。初め英艦が薩摩に行こうと云うときに、若(も)し薩摩の方から日本文の書翰(しょかん)を出されたときには之(これ)を読むに困る。通弁(つうべん)にはアレキサンドル・シーボルトがあるから差支(さしつかえ)ないけれども、日本文の書翰を颯々(さっさつ)と読む人がない、と云うので英人から同行を頼まれた。清水は平生(へいぜい)勇気もあり随分(ずいぶん)そんな事の好きな人で、夫(そ)れは面白い行(いっ)て見ようと容易(たやすく)承諾し、横浜税関の免状を申受(もうしう)けて旗艦(きかん)に乗込み、先方に着(ちゃく)して親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度薩州の人が江戸に来て英人との談判に付き、黒幕の大久保市蔵(おおくぼいちぞう)は取敢(とりあ)えず清本卯三郎を頼み、兎(と)に角(かく)にこの戦争を暫(しばら)く延引(えんいん)して貰いたいと云う事を、在横浜の英公使ジョン・ニールに掛合うことにした。ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けてその話を申込んだ所が、取次(とりつぎ)の者の言うに、斯(かか)る重大事件を談(だん)ずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たら宜(よ)かろうと云うから、清水は之を押し返し、人に大小軽重(けいじゅう)はない、談判の委任を受けて居れば沢山(たくさん)だ、夫れでも拙者(せっしゃ)と話は出来ないかと少しく理屈を云(いっ)た所が、そう云う訳(わ)けなら直ぐに遇(あ)うと云うので、夫れから公使に面会して戦争中止の事を話掛(はなしか)けると、なか/\聞きそうにも為(し)ない。イヤもう既(すで)に印度洋から軍艦を増発して何千の兵士は唯(ただ)今支度最中、然(しか)るにこの戦争の時期を延(のば)して待つなどゝは謂(いわ)れのない話だ云々(うんぬん)と、思うさま威嚇(おど)して聞きそうな顔色(がんしょく)がない。ソコで清水はその挨拶を承(うけたまわ)って薩人に報告すると、重野が、迚(とて)もこりゃ六(むず)かしそうだ、兎(と)に角(かく)に自分達が自(みず)から談判して見ようと云(いっ)て、遂(つい)に薩英談判会を開き、種々(しゅじゅ)様々問答の末、とう/\要求通りの償金を払う事になり、高(たか)は二万五千磅(ポンド)、時の相場にして凡(およ)そ七万両ぐらいに当り、その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守(しまずさつまのかみ)の名義では払われないと云(い)うので、分家の島津淡路守(あわじのかみ)の名を以(もっ)て金を渡すことにして、且(か)つ又リチャルドソンを殺した罪人は何分にも何処(どこ)にか逃げて分らないから、若(も)し分(わかっ)たらば死刑と云うことで以(もっ)て事が収まった。その談判の席には大久保市蔵(おおくぼいちぞう)は出ない。岩下(いわした)と重野(しげの)の両人、それから幕府の外国方(がいこくがた)から鵜飼弥市(うかいやいち)、監察方(かんさつがた)から斎藤金吾(さいとうきんご)と云(い)う人が立会い、いよ/\書面を取換(とりかわ)して事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔日(ついたち)か二日頃であった。

松木、五代、埼玉郡に潜む扨(さて)夫(そ)れから私の気になる松木(まつき)、即(すなわ)ち寺島(てらしま)の話は斯(こ)う云(い)う次第である。松木、五代(ごだい)が薩摩の船から英の軍艦に乗移(のりうつっ)た所が、清水が居たので松木も驚いた。清水と云う男は以前江戸にて英書の不審を松木に聞(きい)て居たこともある至極(しごく)懇意(こんい)な間柄で、その清水が英の軍艦に居るから松木の驚くも無理はない。「イヤ如何(どう)して此処(ここ)に居るか。「お前さんは如何して又此処に来たと云うような訳(わ)けで、大変好都合であった。ソコで横浜に来たけれども、この儘(まま)に何時迄(いつまで)もこの船の中に居られるものでない。マア如何(どう)かして上陸したい、と云うその事に付(つい)ては清水卯三郎が一切(いっさい)引受け

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