16話 福翁自伝 02 福翁自伝(16)
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攘夷論の鋒先洋学者に向う井伊掃部頭はこの前殺されて、今度は老中の安藤対馬守が浪人に疵を付けられた。その乱暴者の一人が長州の屋敷に駈込んだとか何とか云う話を聞て、私はその時始めて心付いた、成るほど長州藩も矢張り攘夷の仲間に這入て居るのかと斯う思たことがある。兎にも角にも日本国中攘夷の真盛りでどうにも手の着けようがない。所で私の身にして見ると、是れまでは世間に攘夷論があると云う丈けの事で、自分の身に就て危いことは覚えなかった。大阪の塾に居る中に勿論暗殺などゝ云うことのあろう筈はない。又江戸に出て来たからとて怖い敵もなければ何でもないと計り思て居た所が、サア今度欧羅巴から帰て来たその上はなか/\爾うでない。段々喧しくなって、外国貿易をする商人が俄に店を片付けて仕舞うなどゝ云うような事で、浪人と名くる者が盛に出て来て、何処に居て何をして居るのか分らない。丁度今の壮士と云うようなもので、ヒョコ/\妙な処から出て来る。外国の貿易をする商人さえ店を仕舞うと云うのであるから、況して外国の書を読で欧羅巴の制度文物を夫れ是れと論ずるような者は、どうも彼輩は不埒な奴じゃ、畢竟彼奴等は虚言を吐て世の中を瞞着する売国奴だと云うような評判がソロ/\行れて来て、ソレから浪士の鋒先が洋学者の方に向いて来た。是れは誠に恐入た話で、何も私共は罪を犯した覚えはない。是れはマア何処まで小さくなれば免るゝかと云うと、幾ら小さくなっても免れない。到頭仕舞には洋書を読むことを罷めて仕舞うて攘夷論でも唱えたらば、ソレはお詫が済むだろうが、マサカそんな事も出来ない。此方が無頓着に思う事を遣ろうとすれば、浪人共は段々きつくなって来る。既に私共と同様幕府に雇われて居る飜訳方の中に手塚律蔵と云う人があって、その男が長州の屋敷に行て何か外国の話をしたら、屋敷の若者等が斬て仕舞うと云うので、手塚はドン/″\駈出す、若者等は刀を抜て追蒐る、手塚は一生懸命に逃げたけれども逃切れずに、寒い時だが日比谷外の濠の中へ飛込んで漸く助かった事もある。夫れから同じ長州の藩士で東条礼蔵と云う人も矢張り私と同僚飜訳方で、小石川の素と蜀山人の住居と云う家に住で居た。所がその家に所謂浮浪の徒が暴込んで、東条は裏口から逃出して漸と助ったと云うような訳けで、いよ/\洋学者の身が甚だ危くなって来て油断がならぬ。左ればとて自分の思う所、為す仕事は罷められるものじゃない。夫れから私は構わない、構おうと云た所が構われもせず、罷めようと云た所が罷められる訳けでない、マア/\言語挙動を柔かにして決して人に逆わないように、社会の利害と云うような事は先ず気の知れない人には云わないようにして、慎める丈け自分の身を慎んで、ソレと同時に私は専ら著書飜訳の事を始めた。その著訳の一条に就ては今コヽで別段に云う事はない、私の今年開版した福澤全集の緒言に詳に書てあるから是れは見合せるとして、その著訳事業中、即ち攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数は次第々々に殖えるからその教授法に力を尽し、又家の活計は幕府に雇われて扶持米を貰うてソレで結構暮らせるから、世間の事には頓と頓着せず、怖い半分、面白い半分に歳月を送て居る。或時可笑い事があった。私が新銭座に一寸住居の時(新銭座塾に非ず)、誰方か知らないが御目に掛りたいと云てお侍が参りましたと下女が取次するから、「ドンナ人だと聞くと、「大きな人で、眼が片眼で、長い刀を挟して居ますと云うから、コリャ物騒な奴だ、名は何と云う。「名はお尋ね申したが、お目に掛れば分ると云て被仰しゃいません==どうも気味の悪い奴だと思て、夫れから私は窃と覗いて見ると、何でもない、筑前の医学生で原田水山、緒方の塾に一緒に居た親友だ。思わず罵た。この馬鹿野郎、貴様は何だ、何ぜ名を云て呉れんか、乃公は怖くて堪らなかったと云て、奥に通して色々世間話をして、共々に大笑した事がある。爾う云う世の中で洋学者もつまらぬ事に驚かされて居ました。
英艦来る夫れから攘夷論と云うものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂公の上洛となり、続いて御親発として長州征伐に出掛けると云うような事になって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、英吉利の軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人は只懇親を以て交ろうと思うて是れまでも有らん限り柔かな手段ばかりを執て居た、然るに日本の国民が乱暴をして剰え人を殺した、如何にしてもその責は日本政府に在て免るべからざる罪であるから、この後二十日を期して決答せよと云う次第は、政府から十万磅の償金を取り、尚お二万五千磅は薩摩の大名から取り、その上罪人を召捕て眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文が来た。その時に私共が飜訳する役目に当て居るので、夜中に呼びに来て、赤坂に住で居る外国奉行松平石見守の宅に行たのが、私と杉田玄端、高畑五郎、その三人で出掛けて行て、夜の明けるまで飜訳したが、是れはマアどうなる事だろうか、大変な事だと窃に心配した所が、その翌々二十一日には将軍が危急存亡の大事を眼前に見ながら其れを棄てゝ置て上洛して仕舞うた。爾うするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、所がもう二十日待て呉れろ、ソレは待つの待たないのと捫着の末、どうやら斯うやら待て貰うことになった。所でいよ/\償金を払うか払わないかと云う幕府の評議がなか/\決しない。その時の騒動と云うものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争がある抔と云う評判、その二十日の期間も既に過去て、又十日と云うことになって、始終十日と二十日の期限を以て次第々々に返辞を延して行く。私はその時に新銭座に住で居たから、迚もこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるより外に仕様がないと、ソロ/\迯仕度をすると云うような事で、ソコで愈よ期日も差迫て、今度はもう掛値なし、一日も負からないと云う日になった、と云うのを私は政府の飜訳局に居て詳に知て居るから尚お堪らない。
仏国公使無法に威張るその飜訳をする間に、時の仏蘭西のミニストル・ベレクルと云う者が、どう云う気前だか知らないが大層な手紙を政府に出して、今度の事に就て仏蘭西は全く英吉利と同説だ、愈よ戦端を開く時には英国と共々に軍艦を以て品川沖を暴れ廻ると、乱暴な事を云うて来た。誠に謂れのない話で、丸でその趣は今の西洋諸国の政府が支那人を威すと同じ事で、政府は唯英仏人の剣幕を見て心配する計り。私には能くその事情が分る、分れば分るほど気味が悪い。
事態いよ/\迫る是れはいよ/\遣るに違いないと鑑定して、内の方の政府を見れば何時迄も説が決しない。事が喧しくなれば閣老は皆病気と称して出仕する者がないから、政府の中心は何処に在るか訳が分らず、唯役人達が思い/\に小田原評議のグヅ/\で、愈よ期日が明後日と云うような日になって、サア荷物を片付けなければならぬ。今でも私の処に疵の付た箪笥がある。愈よ荷物を片付けようと云うので箪笥を細引で縛て、青山の方へ持て行けば大丈夫だろう、何も只の人間を害する気遣はないからと云うので、青山の穏田と云う処に呉黄石と云う芸州の医者があって、その人は箕作の親類で、私は兼て知て居るから、呉の処に行てどうか暫く此処に立退場を頼むと相談も調い、愈よ青山の方と思うて荷物は一切拵えて名札を付けて担出す計りにして、そうして新銭座の海浜にある江川の調練場に行て見れば、大砲の口を海の方に向けて撃つような構えにしてある。是れは今明日の中にいよ/\事は始まると覚悟を定めた。その前に幕府から布令が出てある。愈よ兵端を開く時には浜御殿、今の延遼館で、火矢を挙げるから、ソレを相図に用意致せと云う市中に布令が出た。江戸ッ子は口の悪いもので、「瓢箪兵端の開け初めは冷火矢でやる」と川柳があったが、是れでも時の事情は分る。
米と味噌と大失策夫れから又可笑しい事がある。私の考えに、是れは何でも戦争になるに違いないから、マア米を買おうと思て、出入の米屋に申付けて米を三十俵買て米屋に預け、仙台味噌を一樽買て納屋に入れて置た。所が期日が切迫するに従て、切迫すればするほど役に立たないものは米と味噌、その三十俵の米を如何すると云うた所が、担いで行かれるものでもなければ、味噌樽を背負て駈けることも出来なかろう。是れは可笑しい、昔は戦争のとき米と味噌があれば宜いと云たが、戦争の時ぐらい米と味噌の邪魔になるものはない、是れはマア逃げる時はこの米と味噌樽は棄てゝ行くより外はないと云て、その騒動の真盛りに大笑いを催した事がある。その時にも新銭座の家に学生が幾人か居て、私はその時二分金で百両か百五十両持て居たから、この金を独りで持て居ても策でない、イザと云えば誰が何処にどう行くか分らない、金があれば先ず餒えることはないから、この金は私が一人で持て居るよりか、家内が一人で持て居るよりか、是れは銘々に分けて持つが宜かろうと云うので、その金を四つか五つに分けて、頭割にして銘々ソレを腰に巻て行こうと、用意金の分配まで出来て、明日か明後日は愈よ戦争の始まり、外に道はないと覚悟した所が、茲に幸な事があると云うのは、その時に唐津の殿様で小笠原壹岐守と云う閣老がある。夫れから横浜に浅野備前守と云う奉行がある。
小笠原壱岐守ソレ等の人が極秘密に云合せた事と見えて、五月の初旬、十日前後と思いますが、愈よ今日と云う日に、前日まで大病だと云て寝て居た小笠原壹岐守がヒョイとその朝起きて、日本の軍艦に乗て品川沖を出て行く。スルト英吉利の砲艦が壹岐守の船の尻に尾いて走ると云うのは、壹岐守は上方に行くと云て品川湾を出発したから、若し本当にその方針を取て本牧の鼻を廻れば英人は後から砲撃する筈であったと云う。所が壹岐守は本牧を廻らずに横浜の方へ這入て、自分の独断で即刻に償金を払うて仕舞た。十万磅を時の相場にすればメキシコ弗で四十万になるその正銀を、英公使セント・ジョン・ニールに渡して先ず一段落を終りました。
鹿児島湾の戦争幕府に要求した十万磅の償金は五月十日に片付て、夫れから今度はその英軍艦が鹿児島に行て、被害者遺族の手当として二万五千磅を要求し、且つその罪人を英国人の見て居る所で死刑に処せよと云う掛合の為めに、六艘の軍艦は鹿児島湾に廻て錨を卸した。スルト薩摩藩から直ちに来意訪問の使者が来る。英の旗艦の水師提督はクーパー、司令長官はウルモット、船長はジヨスリングと云う人で、書翰を薩摩の役人に渡し、応否の返答如何と待て居る。所がなか/\容易な事に返辞が出来ない。ソレコレする中に薩摩に西洋形の船、即ち西洋から薩摩藩に買取た船が二艘あるその二艘の船を談判の抵当に取ると云う趣意で、桜島の側に碇泊してあった二艘の船を英の軍艦が引張て来ると云う手詰の場合になった。スルト陸の方からこの様子を見ていよ/\発砲し始めて、陸から発砲すれば海からも発砲して、ドン/″\大合戦になった、と云うのが丁度文久三年五月下旬、何でも二十八、九日頃である。その時に英の旗艦はマダ陸からは発砲しないことゝ思て錨を挙げずに居た所が、俄に陸の方で撃始めたものだから、サア錨を上げようとすると生憎その時は大変な暴風、加うるに海が最も深いからドウも錨を上げる遑がないと云うので、錨の鎖を切て夫れから運動するようになった。是れが例の英吉利の軍艦の錨が薩摩の手に入た由来である。ソコで陸から打つ鉄砲もなか/\エライ、専ら旗艦を狙うて命中するものも多いその中に、大きな丸い破裂弾が旨く発して怪我人が出来た中に、司令長官と甲比丹と二人の将官が即死して船中の騒動、又船から陸に向ての砲撃もなか/\劇しく、海岸の建物は大抵焼払うて是れも容易ならぬ損害であったが、詰る所、勝負なしの戦争と云うのは、薩摩の方は英吉利の軍艦を撃て二人の将官まで殺したけれどもその船を如何することも出来ない、又軍艦の方でも陸を焼払うて随分荒したことは荒したけれども上陸することは出来ない、双方共に勝ちも負けもせずに、英の軍艦が横浜に帰たのは六月十日前の頃であったが、その時に面白い話がある。戦争の済んだ後で彼の旗艦に命中した破裂弾の砕片を見て、船中の英人等が頻りに語り合うに、「こんな弾丸が日本で出来る訳はない。イヤ能く見れば露西亜製のものじゃ。露西亜から日本に送ったのであろうなどゝ評議区々なりしと云う。当時クリミヤ戦争の当分ではあるし、元来英吉利と露西亜との間柄は犬と猿のようで、相互に色々な猜疑心がある。今日に至るまでも仲は好くないように見える。
松木、五代、英艦に投ずそれは扨置き茲に薩摩の船を二艘此方に引張て来ると云う時に、その船長の松木弘安(後に寺嶋陶蔵又後に宗則)、五代才助(後に五代友厚)の両人が、船奉行と云う名義で云わば船長である。ソコで英の軍艦が二艘の船を引張て来ようと云うその時に、乗込の水夫などは其処から上陸させたが、船長二人だけは英艦の方に投じた。投じたけれども自分の船から出るときに、実は松木と五代と申し談じて窃にその船の火薬車に導火を点けて置たから、間もなく船は二艘とも焼けて仕舞た。夫れは夫れとして、扨松木に五代と云うものは捕虜でもなければ御客でもない、何しろ英の軍艦に乗込んで横浜に来たに違はない。その事は横浜の新聞紙にも出て居たのであるが、ソレ切り少しも消息が分らない。私はその前年松木と欧羅巴に一緒に行たのみならず、以前から私と箕作と松木と云うものは甚だ親しい朋友の間柄で、ソコで松木が英船に乗たと云うが如何したろうかと只その噂をするばかりで尋ねる所もない。英人が若しこの両人を薩摩の方へ還せば、ソリャもう若武者共が直ぐに殺すに極て居る。然ればと云て之を幕府の方に渡せば、殺さぬまでもマア嫌疑の筋があるとか取調べる廉があるとか云て取敢えず牢には入れるだろう。所が今日まで薩摩に還したと云う沙汰もなければ、幕府に引渡したと云う様子もない。如何したろうか、如何にも不審な事じゃと唯箕作と私と始終その話をして居た。所が凡そこの事が済んで一年ばかり経てから、不意とその松木を見付け出したこそ不思議の因縁である。
薩人、英人と談判松木の話は次にして置て、横浜に英吉利の軍艦が帰て来た跡で、薩摩から談判の為めに江戸に人が出て来た。その江戸に人の出て来たと云うのは、岩下佐治右衛門、重野孝之丞(後に安繹)、その外に黒幕見たような役目を帯びて来たのが大久保市蔵(後に利通)、その三人が出て来た処で、第一番に薩摩の望む所は兎にも角にもこの戦争を暫く延引して貰いたいと云う注文なれども、その周旋を誰に頼むと云う手掛りもなく当惑の折柄、こゝに一人の人があるその一人と云うのは清水卯三郎(瑞穂屋卯三郎)と云う人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋の事に付ては至極熱心、先ず当時に於てはその身分に不似合な有志者である。初め英艦が薩摩に行こうと云うときに、若し薩摩の方から日本文の書翰を出されたときには之を読むに困る。通弁にはアレキサンドル・シーボルトがあるから差支ないけれども、日本文の書翰を颯々と読む人がない、と云うので英人から同行を頼まれた。清水は平生勇気もあり随分そんな事の好きな人で、夫れは面白い行て見ようと容易承諾し、横浜税関の免状を申受けて旗艦に乗込み、先方に着して親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度薩州の人が江戸に来て英人との談判に付き、黒幕の大久保市蔵は取敢えず清本卯三郎を頼み、兎に角にこの戦争を暫く延引して貰いたいと云う事を、在横浜の英公使ジョン・ニールに掛合うことにした。ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けてその話を申込んだ所が、取次の者の言うに、斯る重大事件を談ずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たら宜かろうと云うから、清水は之を押し返し、人に大小軽重はない、談判の委任を受けて居れば沢山だ、夫れでも拙者と話は出来ないかと少しく理屈を云た所が、そう云う訳けなら直ぐに遇うと云うので、夫れから公使に面会して戦争中止の事を話掛けると、なか/\聞きそうにも為ない。イヤもう既に印度洋から軍艦を増発して何千の兵士は唯今支度最中、然るにこの戦争の時期を延して待つなどゝは謂れのない話だ云々と、思うさま威嚇して聞きそうな顔色がない。ソコで清水はその挨拶を承って薩人に報告すると、重野が、迚もこりゃ六かしそうだ、兎に角に自分達が自から談判して見ようと云て、遂に薩英談判会を開き、種々様々問答の末、とう/\要求通りの償金を払う事になり、高は二万五千磅、時の相場にして凡そ七万両ぐらいに当り、その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守の名義では払われないと云うので、分家の島津淡路守の名を以て金を渡すことにして、且つ又リチャルドソンを殺した罪人は何分にも何処にか逃げて分らないから、若し分たらば死刑と云うことで以て事が収まった。その談判の席には大久保市蔵は出ない。岩下と重野の両人、それから幕府の外国方から鵜飼弥市、監察方から斎藤金吾と云う人が立会い、いよ/\書面を取換して事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔日か二日頃であった。
松木、五代、埼玉郡に潜む扨夫れから私の気になる松木、即ち寺島の話は斯う云う次第である。松木、五代が薩摩の船から英の軍艦に乗移た所が、清水が居たので松木も驚いた。清水と云う男は以前江戸にて英書の不審を松木に聞て居たこともある至極懇意な間柄で、その清水が英の軍艦に居るから松木の驚くも無理はない。「イヤ如何して此処に居るか。「お前さんは如何して又此処に来たと云うような訳けで、大変好都合であった。ソコで横浜に来たけれども、この儘に何時迄もこの船の中に居られるものでない。マア如何かして上陸したい、と云うその事に付ては清水卯三郎が一切引受け