17話 福翁自伝 02 福翁自伝(17)
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る。それは松木と五代は極々日蔭者で、青天白日の身と云うのは清水一人、そこで清水が先ず横浜に上て、夫れから亜米利加人のヴエンリートと云う人にその話をした所が、如何でも周旋しよう、兎に角に艀船に乗て神奈川の方に上る趣向に為よう、その船も何も世話をして遣ろうと云うことになった。所でアドミラルが如何云うかソレに聞て見なければならぬので、アドミラルにその事を話すと至極寛大で、上陸差支なしと云うので、ソレカラ一切万事、清水とヴエンリートと諜し合せて、落人両人の者は夜分窃にその艀船に乗り移り、神奈川以東の海岸から上る積りに用意した所が、その時には横浜から江戸に来る街道一町か二町目毎に今の巡査交番所見たようなものがずっと建て居て、一人でも径しいものは通行を咎めると云うことになって居るから、なか/\大小などを挟して行かれるものでない。ソコで大小も陣笠も一切の物はヴエンリートの家に預けて、丸で船頭か百姓のような風をして、小舟に乗込み、舟は段々東に下てとう/\羽根田の浜から上陸して、ソレカラ道中は忍び忍んで江戸に這入るとした所で、マダ幕府の探偵が甚だ恐ろしい。只の宿屋には泊られないから、江戸に這入たらば堀留の鈴木と云う船宿に清水が先へ行て待て居るから其処へ来いと云う約束がしてある。ソコで両人は夜中勝手も知れぬ海浜に上陸して、探り/″\に江戸の方に向て足を進める中に夜が明けて仕舞い、コリャ大変と夫れから駕籠に乗て面を隠して堀留の船宿に来たのがその翌日の昼であった。清水は昨夜から待て居るので万事の都合宜く、その船宿に二晩窃に泊て、夫れから清水の故郷武州埼玉郡羽生村まで二人を連れて来て、其処も何だか気味が悪いと云うので、又その清水の親類で奈良村に吉田一右衛門と云う人がある、その別荘に移して、此処は極淋しい処で見付かるような気遣いはないと安心して二人とも収め込んで仕舞い、五代はその後五、六ヶ月して窃に長崎の方に行き、松木は凡そ一年ばかりも其処に居る中に、本藩の方でも松木の事を心頭に掛けてその所在を探索し、大久保、岩下、重野を始めとして、江戸の薩州屋敷には肥後七左衛門、南部弥八など云う人が様々周旋の末、これは清水卯三郎が知て居はしないかと思い付て、清水の処に尋ねに来た。所が清水はドウも怖くて云われない、不意と捕まえられて首を斬られるのではなかろうかと思て真実が吐かれない。一応は唯知らぬと答えたれども、薩摩の方では中々疑て居る様子。爾うかと思うと時としては幕府の方からも清水の家に尋ねに来る。ソコで清水も当惑して、如何しようとも考えが付かない。殺さないなら早く出して遣りたいが、殺すような事なら今まで助けて置たものだから出したくないと、自分の思案に余て、夫れから江戸の洋学の大家川本幸民先生は松木の恩師であるから、この大先生の意見に任せようと思て相談に行た所が、先生の説に、「ソリャ出すが宜かろう、薩藩人が爾う云うなら有のまゝに明して渡して遣るが宜かろう、マサカ殺しもしなかろうと云うので、ソコで始めて決断して清水の方から薩人に通知して、実は初めから何も斯も自分が世話をした事で一切知て居る、早速御引渡し申すが、只約束は決して本人を殺さぬようにと念を押して、ソコデ松木が始めて薩人に面会して、この時から松木弘安を改めて寺島陶蔵と化けたのです。右の一条は薩州の方でも甚だ秘密にして、事実を知て居る者は藩中に唯七人しかないと清水が聞たそうだが、その七人とは多分大久保、岩下なぞでしょう。
始めて松木に逢うその時は既に文久四年となり、四年の何月かドウモ覚えない、寒い時ではなかった、夏か秋だと思いますが、或日肥後七左衛門が不意と私方に来て、松木が居るが、お前の処に来ても差支はないかと云う。私は実に驚いた。去年からモウ気になって居て、箕作と遇いさえすればその噂をして居たが、生きて居たか。「確かに生きて居る。「何処に居るか。「江戸に居る、兎に角に此処に来て宜いか。「宜いとも、大宜しだ。何も憚ることはない、少しも構わない、直ぐに逢いたいと云うと、その翌日松木が出て来た。誠に冥土の人に遭たような気がして、ソレカラいろ/\な話を聞て、清水と一緒になったと云うことも分れば何も箇も分て仕舞た。その時、私は新銭座に居ましたが、マア久振りで飲食を共にして、何処に居るかと聞けば、白銀台町に曹某と云う医者がある、その家は寺島の内君の里なので、その縁で曹の家に潜んで居ると云う。その日は先ずその儘分れて、夫れから私は直ぐに箕作の処に事の次第を云て遣て、箕作も直ぐその翌日出て来て両人同道して白銀の曹の家に行き、三友団座昼から晩までいろ/\な事を話すその中に、例の麑島戦争の話などもあって、その戦争の事に就てはマダ/″\いろ/\面白い事があるけれども、長くなるから此処で之を略し、扨寺島の身の上は如何だと云うに、薩摩の方は大抵是れで宜しいがマダ幕府の意向が分らない、けれども是れとても別段に幕府の罪人でもないから爾う恐れる事もない訳け。ソコで寺島は何をして喰て居るかと聞けば、今は本藩の飜訳などして居ると云う。それこれの話の中に寺島が云うには、モウ/\鉄砲は嫌だ/\、今でも乃公は鉄砲の音がドーンと鳴ると頭の中がズーンとして来る、モウ嫌だぜ/\、乃公は思い出しても身がブル/\ッとする、夫れから又その船の火薬庫に導火を点けるときは随分気味の悪い話だった、だが命拾いをしたその時、懐中に金が二十五両あったからその金を持て上陸したと云う。いろ/\の話の中に英人が薩摩湾に碇泊中菓物が欲しいと云うと、薩摩人が之を進上する風をしてその機に乗じて斬込もうとして出来なかったと云うような種々様々な話がありますが、それはマア止めにして錨の話。
夢中で錨を還すその錨を切たと云うことは清水卯三郎が船に乗て見て居たばかりで薩摩の人は多分知らない。ソレカラ清水が薩摩の人に遇て、那の時に英艦の方では錨を切たのだから拾い挙げて置たら宜かろうと云た所が、薩摩でも余り気に留めなかったと見えて、その錨は何でも漁夫が挙げたと云う話だ。ソレで錨は薩摩の手に這入たが、二万五千磅の金を渡して和睦をしたその時に、英人が手軽に錨を還して貰いたいと云うと、易い事だと云て何とも思わずに古鉄でも渡す積りで返して仕舞た様子だが、前にも云う通り戦争の負勝は分らなかったのでしょう、何方が勝たでもない、錨を切て将官が二人死んで水兵は上陸も出来ずに帰たと云えばマア負師、夫れから又薩摩の方も陸を荒されて居ながら帰て行く船を追蒐けて行くこともせず打遣って置たのみならず、戦争の翌朝英艦から陸に向て発砲しても陸から応砲もせぬと云えばこりゃ薩摩の負師のように当る、勝たと云えば何方も勝た、負けたと云えば何方も負けた、詰り勝負なしとした所で、何でも錨と云うものは大事な物である、ソレを浮か/\と還して仕舞たと云うのは誠に馬鹿げた話だけれども、当時の日本人が国際法と云うことを知らないのはマアこの位なもので、加之ならず本来今度の生麦事件で英国が一私人殺害の為めに大層な事を日本政府に云掛けて、到頭十二万五千磅取たと云うのは理か非か、甚だ疑わしい。三十余年前の時節柄とは云え、吾々日本人は今日に至るまでも不平である。夫れから薩摩から戦の日延べを云出したその時に、英公使の云振りが威嚇したにも威嚇さぬにもマア大変な剣幕で、悪く云えば日本人はその威嚇を喰たようなもので、必竟何も知らずに夢中でこの事が終て仕舞た。今ならばこんな馬鹿げた事は勿論なかろうが、既にその時にも亜米利加人などは日本政府で払わなければ宜いがと云て居たことがある。英公使は威嚇し抜て、その上に仏蘭西のミニストルなどが横合から出て威張るなんと云うのは、丸で狂気の沙汰で訳けが分らない。ソレで事が済んだのは今更ら何とも評論のしようがない。
緒方先生の急病村田蔵六の変態所で京都の方では愈よ五月十日(文久三年)が攘夷の期限だと云う。ソレで和蘭の商船が下ノ関を通ると、下ノ関から鉄砲を打掛けた。けれども幸に和蘭船は沈みもせずに通たが、ソレがなか/\大騒ぎになって、世の中は益々恐ろしい事になって来た。所でその歳の六月十日に緒方洪庵先生の不幸。その前から江戸に出て来て下谷に居た緒方先生が、急病で大層吐血したと云う急使に、私は実に胆を潰した。その二、三日前に先生の処へ行てチャント様子を知て居るのに、急病とは何事であろうと、取るものも取敢えず即刻宅を駈出して、その時分には人力車も何もありはしないから、新銭座から下谷まで駈詰で緒方の内に飛込んだ所が、もう縡切れて仕舞た跡。是れはマア如何したら宜かろうかと丸で夢を見たような訳け。道の近い門人共は疾く先に来て、後から来る者も多い。三十人も五十人も詰掛けて、外に用事もなし、今夜は先ずお通夜として皆起きて居る。所が狭い家だから大勢坐る処もないような次第で、その時は恐ろしい暑い時節で、坐敷から玄関から台所まで一杯人が詰て、私は夜半玄関の敷台の処に腰を掛けて居たら、その時に村田蔵六(後に大村益次郎)が私の隣に来て居たから、「オイ村田君――君は何時長州から帰て来たか。「この間帰た。「ドウダエ馬関では大変な事を遣たじゃないか。何をするのか気狂共が、呆返た話じゃないかと云うと、村田が眼に角を立て、「何だと、遣たら如何だ。「如何だッて、この世の中に攘夷なんて丸で気狂いの沙汰じゃないか。「気狂いとは何だ、怪しからん事を云うな。長州ではチャント国是が極まってある。あんな奴原に我儘をされて堪るものか。殊に和蘭の奴が何だ、小さい癖に横風な面して居る。之を打攘うのは当然だ。モウ防長の士民は悉く死尽しても許しはせぬ、何処までも遣るのだと云うその剣幕は以前の村田ではない。実に思掛けもない事で、是れは変なことだ、妙なことだと思うたから、私は宜加減に話を結んで、夫れから箕作の処に来て、大変だ/\、村田の剣幕は是れ/\の話だ、実に驚いた、と云うのはその前から村田が長州に行たと云うことを聞て、朋友は皆心配して、あの攘夷の真盛りに村田がその中に呼込まれては身が危い、どうか径我のないようにしたいものだと、寄ると触ると噂をして居る其処に、本人の村田の話を聞て見れば今の次第、実に訳けが分らぬ。一体村田は長州に行て如何にも怖いと云うことを知て、そうして攘夷の仮面を冠て態とりきんで居るのだろうか、本心からあんな馬鹿を云う気遣はあるまい、どうも彼の気が知れない。「そうだ、実に分らない事だ。兎にも角にも一切彼の男の相手になるな。下手な事を云うとどんな間違いになるか知れぬから、暫く別ものにして置くが宜いと、箕作と私と二人云合して、夫れから外の朋友にも、村田は変だ、滅多な事を云うな、何をするか知れないからと気を付けた。是れがその時の実事談で、今でも不審が晴れぬ。当時村田は自身防禦の為めに攘夷の仮面を冠て居たのか、又は長州に行て、どうせ毒を舐めれば皿までと云うような訳けで、本当に攘夷主義になったのか分りませぬが、何しろ私を始め箕作秋坪その外の者は、一時彼に驚かされてその儘ソーッと棄置たことがあります。
外交機密を写取る文久三年癸亥の歳は一番喧しい歳で、日本では攘夷をすると云い、又英の軍艦は生麦一件に就て大造な償金を申出して幕府に迫ると云う、外交の難局と云うたらば、恐ろしい怖い事であった。その時に私は幕府の外務省の飜訳局に居たから、その外国との往復書翰は皆見て悉く知て居る。即ち英仏その他の国々から斯う云う書翰が来た、ソレに対して幕府から斯う返辞を遣た。又此方から斯う云う事を諸外国の公使に掛合付けると、彼方から斯う返答して来たと云う次第、即ち外交秘密が明に分て居なければならぬ筈。勿論その外交秘密の書翰を宅に持て帰ることは出来ない、けれども役所に出て飜訳するか或は又外国奉行の宅に行て飜訳するときに、私はちゃんとソレを諳記して置て、宅に帰てからその大意を書て置く。例えば生麦の一件に就て英の公使から来たその書翰の大意は斯様々々、ソレに向て此方から斯う返辞を遣わしたと云うその大意、一切外交上往復した書翰の大意を、宅に帰ては薄葉の罫紙に書記して置た。ソレは勿論ザラに人に見せられるものでない。唯親友間の話の種にする位の事にして置たが、随分面白いものである。所が私はその書付を一日不意と焼て仕舞た。
脇屋卯三郎の切腹焼て仕舞たと云うことに就て話がある。その時に何とも云われぬ恐ろしい事が起た、と云うのは神奈川奉行組頭、今で云えば次官と云うような役で、脇屋卯三郎と云う人があった。その人は次官であるから随分身分のある人で、その人の親類が長州に在て、之に手紙を遣た所が、その手紙を不意と探偵に取られた。その手紙は普通の親類に遣る手紙であるから何でもない事で、その文句の中に、誠に穏かならぬ御時節柄で心配の事だ、どうか明君賢相が出て来て何とか始末をしなければならぬ云々と書てあった。ソコで幕府の役人がこの手紙を見て、何々、天下が騒々敷い、ドウカ明君が出て始末を付けて貰うようにしたいと云えば、是れは公方様を蔑ろにしたものだ、即ち公方様を無きものにして明君を欲すると云う所謂謀反人だと云う説になって、直ぐに脇屋を幕府の城中で捕縛して仕舞た。丁度私が城中の外務省に出て居た日で、大変だ、今脇屋が捕縛されたと云う中に、縛られては居ないが同心を見たような者が付て脇屋が廊下を通て行た。何れも皆驚いて、神奈川の組頭が捕まえられたと云うは何事だと云て、その翌日になって聞た所が、今の手紙の一件で斯う/\云う嫌疑だそうだと云う。夫れから脇屋を捕まえると同時に家捜しをして、そうしてその儘当人は伝馬町に入牢を申付けられ、何かタワイもない吟味の末、牢中で切腹を申付られた。その時に検視に行た高松彦三郎と云う人は御小人目付で私の知人だ。伝馬町へ検視には行たが誠に気の毒であったと、後で彦三郎が私に話しました。ソコで私も脇屋卯三郎がいよ/\殺されたと云うことを聞て酷く恐れた、その恐れたと云うのは外ではない、明君云々と云た丈けの話で彼が伝馬町の牢に入れられて殺されて仕舞た、爾うすると私の書記して置たものは外交の機密に係る恐ろしいものである、若しこれが分りでもすれば直ぐに牢に打込まれて首を斬られて仕舞うに違いないと斯う思たから、その時は私は鉄砲洲に居たが、早々その書付を焼て仕舞たけれども、何分気になって堪らぬと云うのは、私がその書付の写しか何かを親類の者に遣たことがある、夫れから又肥後の細川藩の人にソレを貸したことがある、貸したその時にアレを写しはしなかったろうかと如何も気になって堪らない、と云て今頃からソレを荒立てゝ聞きに遣れば又その手紙が邪魔になる、既に原本は焼て仕舞たがその写しなどが出て呉れなければ宜いが、出て来られた日には大変な事になると思て誠に気懸りであった。所が幸に何事もなく王政維新になったので、大きに安堵して、今では颯々とそんな事を人に話したりこの通りに速記することも出来るようになったけれども、幕府の末年には決して爾うでない、自分から作た災で、文久三年亥歳から明治元年まで五、六年の間と云うものは、時の政府に対して恰も首の負債を背負ながら、他人に言われず家内にも語らず、自分で自分の身を窘めて居たのは随分悪い心持でした。脇屋の罪に較べて五十歩百歩でない、外交機密を漏した奴の方が余程の重罪なるに、その罪の重い方は旨く免かれて、何でもない親類に文通した者は首を取られたこそ気の毒ではないか、無惨ではないか。人間の幸不幸は何処に在るか分らない、所謂因縁でしょう。この一事でも王政維新は私の身の為めに難有い。夫れは扨置き、今日でも彼の書たものを見れば、文久三年の事情はよく分て、外交歴史の材料にもなり、頗る面白いものであるが、何分にも首には易えられず焼て仕舞たが、若しも今の世の中に誰か持て居る人があるなら見たいものと思います。
下ノ関の攘夷夫れから世の中はもう引続いて攘夷論ばかり、長州の下ノ関では只和蘭船を撃つばかりでなく、その後亜米利加の軍艦にも発砲すれば、英吉利の軍艦にも発砲すると云うような訳けで、到頭その尻と云うものは英仏蘭米四ヶ国から幕府に捩込んで、三百万円の償金を出せと云うことになって、捫着の末、遂にその償金を払うことになった。けれども国内の攘夷論はなか/\収まりが付かないで、到頭仕舞には鎖国攘夷と云うことを云わずに新に鎖港と云う名を案じ出して、ソレで幕府から態々池田播磨守と云う外国奉行を使節として仏蘭西まで鎖港の談判に遣わすと云うような騒ぎで、一切滅茶苦茶、暗殺は殆んど毎日の如く、実に恐ろしい世の中になって仕舞た。爾う云う時勢であるから、私は唯一身を慎んでドウでもして災を《のが》れさえすれば宜いと云うことに心掛けて居ました。
剣術の全盛兎に角に癸亥の前後と云うものは、世の中は唯無闇に武張るばかり。その武張ると云うのも自から由来がある。徳川政府は行政外交の局に当て居るから拠ろなく開港説――開国論を云わなければならぬ、又行わなければならぬ、けれどもその幕臣全体の有様はドウだと云うと、ソリャ鎖国家の巣窟と云ても宜い有様で、四面八方ドッチを見ても洋学者などの頭を擡げる時代でない。当時少しく世間に向くような人間は悉く長大小を横える。夫れから江戸市中の剣術家は幕府に召出されて巾を利かせて、剣術大流行の世の中になると、その風は八方に伝染して坊主までも体度を改めて来た。元来その坊主と云うものは城内に出仕して大名旗本の給仕役を勤める所謂茶道坊主であるから、平生は短い脇差を挟して大名に貰た縮緬の羽織を着てチョコ/\歩くと云うのが是れが坊主の本分であるのに、世間が武張るとこの茶道坊主までが妙な風になって、長い脇差を挟して坊主頭を振り立てゝ居る奴がある。又当時流行の羽織はどうだと云うと、御家人旗本の間には黄平の羽織に漆紋、それは昔し/\家康公が関ヶ原合戦の時に着て夫れから水戸の老公が始終ソレを召して居たとかと云うような云伝えで、ソレが武家社会一面の大流行。ソレカラ江戸市中七夕の飾りには、笹に短冊を付けて西瓜の切とか瓜の張子とか団扇とか云うものを吊すのが江戸の風である。所が武道一偏、攘夷の世の中であるから、張子の太刀とか兜とか云うようなものを吊すようになって、全体の人気がすっかり昔の武士風になって仕舞た。迚も是れでは寄付きようがない。
刀剣を売払うソコで私は只独りの身を慎むと同時に、是れはドウしたって刀は要らない、馬鹿々々しい、刀は売て仕舞えと決断して、私の処にはそんなに大小などは大層もありはしないが、ソレでも五本や十本はあったと思う、神明前の田中重兵衛と云う刀屋を呼で、悉く売払て仕舞た。けれどもその時分はマダ双刀を挟さなければならぬ時であるから、私の父の挟して居た小刀、即ち《かみしも》を着るとき挟す脇差の鞘を少し長くして刀に仕立て、夫れから神明前の金物屋で小刀を買て短刀作りに拵えて、唯印し丈けの脇差に挟すことにして、アトは残らず売払て、その代金は何でも二度に六、七十両請取たことは今でも覚えて居る。即ち家に伝わる長い脇差の刀に化けたのが一本、小刀で拵えた短い脇差が一本、それ切で外には何もない。そうして小さくなって居るばかり。私は少年の時から大阪の緒方の塾に居るときも、戯に居合を抜て、随分好きであったけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合刀はすっかり奥に仕舞い込んで、刀なんぞは生れてから挟すばかりで抜たこともなければ抜く法も知らぬと云うような風をして、唯用心に用心して夜分は決して外に出ず、凡そ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間と云うものは、夜分外出したことはない。その間の仕事は何だと云うと、唯著書飜訳にのみ屈託して歳月を送て居ました。