福翁自伝 02 福翁自伝

17話 福翁自伝 02 福翁自伝(17)

8,093字 約16分 2017年6月15日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

る。それは松木と五代は極々日蔭者(ひかげもの)で、青天白日の身と云うのは清水一人、そこで清水が先(ま)ず横浜に上(あがっ)て、夫れから亜米利加(アメリカ)人のヴエンリートと云う人にその話をした所が、如何(どう)でも周旋しよう、兎(と)に角(かく)に艀船(はしけぶね)に乗(のっ)て神奈川の方に上る趣向に為(し)よう、その船も何も世話をして遣(や)ろうと云うことになった。所でアドミラルが如何(どう)云うかソレに聞(きい)て見なければならぬので、アドミラルにその事を話すと至極寛大で、上陸差支(さしつかえ)なしと云うので、ソレカラ一切万事、清水とヴエンリートと諜(しめ)し合せて、落人(おちうど)両人の者は夜分窃(ひそか)にその艀船(はしけ)に乗り移り、神奈川以東の海岸から上(のぼ)る積りに用意した所が、その時には横浜から江戸に来る街道一町か二町目毎(ごと)に今の巡査(じゅんさ)交番所見たようなものがずっと建(たっ)て居て、一人でも径しいものは通行を咎(とが)めると云(い)うことになって居るから、なか/\大小などを挟(さ)して行かれるものでない。ソコで大小も陣笠(じんがさ)も一切(いっさい)の物はヴエンリートの家に預(あず)けて、丸で船頭か百姓のような風をして、小舟に乗込み、舟は段々東に下(くだっ)てとう/\羽根田(はねだ)の浜から上陸して、ソレカラ道中は忍び忍んで江戸に這入(はい)るとした所で、マダ幕府の探偵が甚(はなは)だ恐ろしい。只(ただ)の宿屋には泊られないから、江戸に這入(はいっ)たらば堀留(ほりどめ)の鈴木(すずき)と云う船宿に清水が先へ行(いっ)て待(まっ)て居るから其処(そこ)へ来いと云う約束がしてある。ソコで両人は夜中(やちゅう)勝手も知れぬ海浜に上陸して、探り/″\に江戸の方に向(むかっ)て足を進める中に夜が明けて仕舞(しま)い、コリャ大変と夫(そ)れから駕籠に乗(のっ)て面(かお)を隠して堀留の船宿に来たのがその翌日の昼であった。清水は昨夜から待て居るので万事の都合宜(よろし)く、その船宿に二晩窃(ひそか)に泊(とまっ)て、夫(そ)れから清水の故郷武州(ぶしゅう)埼玉郡(ごおり)羽生村(はにゅうむら)まで二人を連れて来て、其処(そこ)も何だか気味が悪いと云(い)うので、又その清水(しみず)の親類で奈良村に吉田一右衛門(よしだいちえもん)と云(い)う人がある、その別荘に移して、此処(ここ)は極(ごく)淋しい処(ところ)で見付かるような気遣(きづか)いはないと安心して二人とも収め込んで仕舞(しま)い、五代(ごだい)はその後五、六ヶ月して窃(ひそか)に長崎の方に行き、松木(まつき)は凡(およ)そ一年ばかりも其処(そこ)に居る中に、本藩の方でも松木の事を心頭(しんとう)に掛けてその所在を探索し、大久保(おおくぼ)、岩下(いわした)、重野(しげの)を始めとして、江戸の薩州屋敷には肥後七左衛門(ひごしちざえもん)、南部弥八(なんぶやはち)など云う人が様々周旋の末、これは清水卯三郎(うさぶろう)が知(しっ)て居(い)はしないかと思い付(つい)て、清水の処に尋ねに来た。所が清水はドウも怖くて云(い)われない、不意(ふい)と捕まえられて首を斬(き)られるのではなかろうかと思(おもっ)て真実が吐(は)かれない。一応は唯(ただ)知らぬと答えたれども、薩摩の方では中々疑(うたがっ)て居る様子。爾(そ)うかと思うと時としては幕府の方からも清水の家に尋ねに来る。ソコで清水も当惑して、如何(どう)しようとも考えが付かない。殺さないなら早く出して遣(や)りたいが、殺すような事なら今まで助けて置(おい)たものだから出したくないと、自分の思案に余(あまっ)て、夫(そ)れから江戸の洋学の大家川本幸民(かわもとこうみん)先生は松木の恩師であるから、この大先生の意見に任せようと思て相談に行(いっ)た所が、先生の説に、「ソリャ出すが宜(よ)かろう、薩藩人が爾う云うなら有(あり)のまゝに明(あか)して渡して遣(や)るが宜かろう、マサカ殺しもしなかろうと云うので、ソコで始めて決断して清水の方から薩人に通知して、実は初めから何も斯(か)も自分が世話をした事で一切(いっさい)知て居る、早速御引渡し申すが、只(ただ)約束は決して本人を殺さぬようにと念を押して、ソコデ松木(まつき)が始めて薩人に面会して、この時から松木弘安(こうあん)を改めて寺島陶蔵(てらしまとうぞう)と化けたのです。右の一条は薩州の方でも甚(はなは)だ秘密にして、事実を知(しっ)て居る者は藩中に唯(ただ)七人しかないと清水が聞(きい)たそうだが、その七人とは多分大久保(おおくぼ)、岩下(いわした)なぞでしょう。

始めて松木に逢うその時は既(すで)に文久四年となり、四年の何月かドウモ覚えない、寒い時ではなかった、夏か秋だと思いますが、或日肥後七左衛門(ひごしちざえもん)が不意(ふい)と私方に来て、松木が居るが、お前の処に来ても差支(さしつかえ)はないかと云(い)う。私は実に驚いた。去年からモウ気になって居て、箕作(みつくり)と遇(あ)いさえすればその噂(うわさ)をして居たが、生きて居たか。「確かに生きて居る。「何処(どこ)に居るか。「江戸に居る、兎(と)に角(かく)に此処(ここ)に来て宜いか。「宜いとも、大宜(おおよ)しだ。何も憚(はばか)ることはない、少しも構わない、直(す)ぐに逢いたいと云うと、その翌日松木が出て来た。誠に冥土(めいど)の人に遭(あっ)たような気がして、ソレカラいろ/\な話を聞(きい)て、清水と一緒になったと云うことも分れば何も箇(か)も分(わかっ)て仕舞(しまっ)た。その時、私は新銭座に居ましたが、マア久振(ひさしぶ)りで飲食を共にして、何処(どこ)に居るかと聞けば、白銀台町(しろかねだいまち)に曹(そう)某(なにがし)と云(い)う医者がある、その家は寺島の内君の里なので、その縁で曹の家に潜(ひそ)んで居ると云う。その日は先(ま)ずその儘(まま)分れて、夫(そ)れから私は直(す)ぐに箕作(みつくり)の処に事の次第を云(いっ)て遣(やっ)て、箕作も直(す)ぐその翌日出て来て両人同道して白銀の曹の家に行き、三友団座昼から晩までいろ/\な事を話すその中に、例の麑島(かごしま)戦争の話などもあって、その戦争の事に就(つい)てはマダ/″\いろ/\面白い事があるけれども、長くなるから此処(ここ)で之(これ)を略し、扨(さて)寺島(てらしま)の身の上は如何(どう)だと云うに、薩摩の方は大抵是(こ)れで宜(よろ)しいがマダ幕府の意向が分らない、けれども是れとても別段に幕府の罪人でもないから爾(そ)う恐れる事もない訳(わ)け。ソコで寺島は何をして喰(くっ)て居るかと聞けば、今は本藩の飜訳(ほんやく)などして居ると云う。それこれの話の中に寺島が云うには、モウ/\鉄砲は嫌だ/\、今でも乃公(おれ)は鉄砲の音がドーンと鳴ると頭の中がズーンとして来る、モウ嫌だぜ/\、乃公は思い出しても身がブル/\ッとする、夫れから又その船の火薬庫に導火(みちび)を点(つ)けるときは随分気味の悪い話だった、だが命拾いをしたその時、懐中に金が二十五両あったからその金を持(もっ)て上陸したと云う。いろ/\の話の中に英人が薩摩湾に碇泊(ていはく)中菓物(くだもの)が欲しいと云うと、薩摩人が之を進上する風をしてその機に乗(じょう)じて斬込(きりこ)もうとして出来なかったと云うような種々(しゅじゅ)様々な話がありますが、それはマア止めにして錨(いかり)の話。

夢中で錨を還すその錨(いかり)を切(きっ)たと云うことは清水卯三郎(しみずうさぶろう)が船に乗(のっ)て見て居たばかりで薩摩の人は多分知らない。ソレカラ清水が薩摩の人に遇(あっ)て、那(あ)の時に英艦の方では錨を切(きっ)たのだから拾い挙(あ)げて置(おい)たら宜(よ)かろうと云(いっ)た所が、薩摩でも余り気に留(と)めなかったと見えて、その錨は何でも漁夫が挙げたと云う話だ。ソレで錨は薩摩の手に這入(はいっ)たが、二万五千磅(ポンド)の金を渡して和睦(わぼく)をしたその時に、英人が手軽に錨を還(かえ)して貰いたいと云うと、易(やす)い事だと云(いっ)て何とも思わずに古鉄(ふるがね)でも渡す積りで返して仕舞(しまっ)た様子だが、前にも云う通り戦争の負勝(まけかち)は分らなかったのでしょう、何方(どっち)が勝(かっ)たでもない、錨を切て将官が二人死んで水兵は上陸も出来ずに帰たと云えばマア負師(まけいくさ)、夫(そ)れから又薩摩の方も陸を荒されて居ながら帰(かえっ)て行く船を追蒐(おっか)けて行くこともせず打遣(うちや)って置(おい)たのみならず、戦争の翌朝英艦から陸に向(むかっ)て発砲しても陸から応砲もせぬと云えばこりゃ薩摩の負師のように当る、勝たと云えば何方(どちら)も勝た、負けたと云えば何方(どちら)も負けた、詰(つま)り勝負なしとした所で、何でも錨と云うものは大事な物である、ソレを浮か/\と還して仕舞(しまっ)たと云うのは誠に馬鹿げた話だけれども、当時の日本人が国際法と云うことを知らないのはマアこの位なもので、加之(しかのみ)ならず本来今度の生麦事件で英国が一私人殺害の為(た)めに大層な事を日本政府に云掛(いいか)けて、到頭(とうとう)十二万五千磅(ポンド)取(とっ)たと云(い)うのは理か非か、甚(はなは)だ疑わしい。三十余年前の時節柄とは云え、吾々(われわれ)日本人は今日に至るまでも不平である。夫(そ)れから薩摩から戦の日延べを云出(いいだ)したその時に、英公使の云振(いいぶ)りが威嚇(おど)したにも威嚇(おど)さぬにもマア大変な剣幕で、悪く云(い)えば日本人はその威嚇(おどし)を喰たようなもので、必竟何も知らずに夢中でこの事が終(おわっ)て仕舞(しまっ)た。今ならばこんな馬鹿げた事は勿論(もちろん)なかろうが、既(すで)にその時にも亜米利加(アメリカ)人などは日本政府で払わなければ宜(い)いがと云(いっ)て居たことがある。英公使は威嚇(おど)し抜(ぬい)て、その上に仏蘭西(フランス)のミニストルなどが横合から出て威張るなんと云うのは、丸で狂気の沙汰で訳(わ)けが分らない。ソレで事が済んだのは今更(いまさ)ら何とも評論のしようがない。

緒方先生の急病村田蔵六の変態所で京都の方では愈(いよい)よ五月十日(文久三年)が攘夷の期限だと云う。ソレで和蘭(オランダ)の商船が下ノ関を通ると、下ノ関から鉄砲を打掛(うちか)けた。けれども幸に和蘭(オランダ)船は沈みもせずに通(とおっ)たが、ソレがなか/\大騒ぎになって、世の中は益々(ますます)恐ろしい事になって来た。所でその歳(とし)の六月十日に緒方洪庵先生の不幸。その前から江戸に出て来て下谷(したや)に居た緒方先生が、急病で大層吐血(とけつ)したと云う急使(きゅうつかい)に、私は実に胆(きも)を潰(つぶ)した。その二、三日前に先生の処へ行てチャント様子を知(しっ)て居るのに、急病とは何事であろうと、取るものも取敢(とりあ)えず即刻(そっこく)宅(うち)を駈出して、その時分には人力車も何もありはしないから、新銭座から下谷(したや)まで駈詰(かけづめ)で緒方の内に飛込んだ所が、もう縡切(ことき)れて仕舞(しまっ)た跡。是(こ)れはマア如何(どう)したら宜(よ)かろうかと丸で夢を見たような訳(わ)け。道の近い門人共は疾(と)く先に来て、後から来る者も多い。三十人も五十人も詰掛けて、外(ほか)に用事もなし、今夜は先(ま)ずお通夜として皆起きて居る。所が狭い家だから大勢坐(すわ)る処もないような次第で、その時は恐ろしい暑い時節で、坐敷から玄関から台所まで一杯人が詰て、私は夜半玄関の敷台(しきだい)の処に腰を掛けて居たら、その時に村田蔵六(むらたぞうろく)(後に大村益次郎(おおむらますじろう))が私の隣に来て居たから、「オイ村田君――君は何時(いつ)長州から帰(かえっ)て来たか。「この間帰(かえっ)た。「ドウダエ馬関(ばかん)では大変な事を遣(やっ)たじゃないか。何をするのか気狂(きぐるい)共が、呆返(あきれかえっ)た話じゃないかと云うと、村田が眼に角(かど)を立て、「何だと、遣たら如何(どう)だ。「如何だッて、この世の中に攘夷なんて丸で気狂いの沙汰じゃないか。「気狂いとは何だ、怪(け)しからん事を云うな。長州ではチャント国是(こくぜ)が極まってある。あんな奴原(やつばら)に我儘(わがまま)をされて堪(たま)るものか。殊(こと)に和蘭(オランダ)の奴が何だ、小さい癖に横風な面(つら)して居る。之(これ)を打攘(うちはら)うのは当然(あたりまえ)だ。モウ防長の士民は悉(ことごと)く死尽(しにつく)しても許しはせぬ、何処(どこ)までも遣(や)るのだと云うその剣幕は以前の村田ではない。実に思掛けもない事で、是れは変なことだ、妙なことだと思うたから、私は宜加減(いいかげん)に話を結んで、夫(そ)れから箕作の処に来て、大変だ/\、村田の剣幕は是(こ)れ/\の話だ、実に驚いた、と云(い)うのはその前から村田が長州に行(いっ)たと云うことを聞(きい)て、朋友は皆心配して、あの攘夷の真盛(まっさか)りに村田がその中に呼込(よびこ)まれては身が危(あやう)い、どうか径我のないようにしたいものだと、寄ると触ると噂(うわさ)をして居る其処(そこ)に、本人の村田の話を聞て見れば今の次第、実に訳(わ)けが分らぬ。一体村田は長州に行て如何(いか)にも怖いと云うことを知て、そうして攘夷の仮面(めん)を冠(かぶっ)て態(わざ)とりきんで居るのだろうか、本心からあんな馬鹿を云(い)う気遣(きづかい)はあるまい、どうも彼(あれ)の気が知れない。「そうだ、実に分らない事だ。兎(と)にも角(かく)にも一切彼(あ)の男の相手になるな。下手な事を云うとどんな間違いになるか知れぬから、暫(しばら)く別ものにして置くが宜(い)いと、箕作(みつくり)と私と二人云合(いいあわ)して、夫(そ)れから外(ほか)の朋友にも、村田は変だ、滅多な事を云うな、何をするか知れないからと気を付けた。是(こ)れがその時の実事談で、今でも不審が晴れぬ。当時村田は自身防禦(ぼうぎょ)の為(た)めに攘夷の仮面(めん)を冠て居たのか、又は長州に行て、どうせ毒を舐(な)めれば皿までと云うような訳けで、本当に攘夷主義になったのか分りませぬが、何しろ私を始め箕作秋坪その外(ほか)の者は、一時(いちじ)彼に驚かされてその儘(まま)ソーッと棄置(すておい)たことがあります。

外交機密を写取る文久三年癸亥(みずのとい)の歳(とし)は一番喧(やかま)しい歳で、日本では攘夷をすると云(い)い、又英の軍艦は生麦一件に就(つい)て大造(たいそう)な償金を申出(もうしだ)して幕府に迫ると云(い)う、外交の難局と云うたらば、恐ろしい怖い事であった。その時に私は幕府の外務省の飜訳局(ほんやくきょく)に居たから、その外国との往復書翰(しょかん)は皆見て悉(ことごと)く知(しっ)て居る。即(すなわ)ち英仏その他の国々から斯(こ)う云う書翰が来た、ソレに対して幕府から斯う返辞(へんじ)を遣(やっ)た。又此方(こっち)から斯う云う事を諸外国の公使に掛合(かけあい)付けると、彼方(あっち)から斯う返答して来たと云う次第、即(すなわ)ち外交秘密が明(あきらか)に分(わかっ)て居なければならぬ筈(はず)。勿論(もちろん)その外交秘密の書翰を宅に持(もっ)て帰ることは出来ない、けれども役所に出て飜訳するか或(あるい)は又外国奉行の宅に行(いっ)て飜訳するときに、私はちゃんとソレを諳記(あんき)して置(おい)て、宅に帰(かえっ)てからその大意を書(かい)て置く。例えば生麦の一件に就(つい)て英の公使から来たその書翰の大意は斯様(かよう)々々、ソレに向(むかっ)て此方(こっち)から斯う返辞を遣(つか)わしたと云うその大意、一切(いっさい)外交上往復した書翰の大意を、宅に帰ては薄葉(うすよう)の罫紙(けいし)に書記(かきしる)して置(おい)た。ソレは勿論ザラに人に見せられるものでない。唯(ただ)親友間の話の種にする位の事にして置たが、随分(ずいぶん)面白いものである。所が私はその書付(かきつけ)を一日(あるひ)不意と焼(やい)て仕舞(しまっ)た。

脇屋卯三郎の切腹焼て仕舞たと云うことに就て話がある。その時に何とも云われぬ恐ろしい事が起(おこっ)た、と云うのは神奈川奉行組頭、今で云えば次官と云うような役で、脇屋卯三郎(わきやうさぶろう)と云う人があった。その人は次官であるから随分身分のある人で、その人の親類が長州に在(あっ)て、之(これ)に手紙を遣(やっ)た所が、その手紙を不意(ふい)と探偵に取られた。その手紙は普通の親類に遣(や)る手紙であるから何でもない事で、その文句の中に、誠に穏(おだや)かならぬ御時節柄(ごじせつがら)で心配の事だ、どうか明君(めいくん)賢相(けんしょう)が出て来て何とか始末をしなければならぬ云々(うんぬん)と書(かい)てあった。ソコで幕府の役人がこの手紙を見て、何々、天下が騒々敷(そうぞうし)い、ドウカ明君が出て始末を付けて貰うようにしたいと云(い)えば、是(こ)れは公方様(くぼうさま)を蔑(ないがし)ろにしたものだ、即(すなわ)ち公方様を無きものにして明君を欲すると云(い)う所謂(いわゆる)謀反人(むほんにん)だと云う説になって、直(す)ぐに脇屋(わきや)を幕府の城中で捕縛して仕舞(しまっ)た。丁度私が城中の外務省に出て居た日で、大変だ、今脇屋が捕縛(ほばく)されたと云う中に、縛られては居ないが同心を見たような者が付(つい)て脇屋が廊下を通(とおっ)て行(いっ)た。何(いず)れも皆驚いて、神奈川の組頭が捕まえられたと云うは何事だと云(いい)て、その翌日になって聞(きい)た所が、今の手紙の一件で斯(こ)う/\云う嫌疑(けんぎ)だそうだと云う。夫(そ)れから脇屋を捕まえると同時に家捜(やさが)しをして、そうしてその儘(まま)当人は伝馬町に入牢(にゅうろう)を申付(もうしつ)けられ、何かタワイもない吟味(ぎんみ)の末、牢中で切腹を申付られた。その時に検視に行(いっ)た高松彦三郎(たかまつひこさぶろう)と云う人は御小人目付(おこびとめつけ)で私の知人だ。伝馬町へ検視には行たが誠に気の毒であったと、後で彦三郎が私に話しました。ソコで私も脇屋卯三郎(うさぶろう)がいよ/\殺されたと云うことを聞て酷(ひど)く恐れた、その恐れたと云うのは外(ほか)ではない、明君云々(うんぬん)と云(いっ)た丈(だ)けの話で彼(かれ)が伝馬町の牢に入れられて殺されて仕舞た、爾(そ)うすると私の書記(かきしる)して置(おい)たものは外交の機密に係(かか)る恐ろしいものである、若(も)しこれが分りでもすれば直(す)ぐに牢(ろう)に打込(ぶちこ)まれて首を斬(き)られて仕舞(しま)うに違(ちが)いないと斯(こ)う思(おもっ)たから、その時は私は鉄砲洲に居たが、早々(そうそう)その書付(かきつけ)を焼(やい)て仕舞(しまっ)たけれども、何分気になって堪(たま)らぬと云(い)うのは、私がその書付の写しか何かを親類の者に遣(やっ)たことがある、夫(そ)れから又肥後(ひご)の細川藩の人にソレを貸したことがある、貸したその時にアレを写しはしなかったろうかと如何(どう)も気になって堪(たま)らない、と云(いっ)て今頃からソレを荒立てゝ聞きに遣(や)れば又その手紙が邪魔になる、既(すで)に原本は焼て仕舞たがその写しなどが出て呉(く)れなければ宜(よ)いが、出て来られた日には大変な事になると思(おもっ)て誠に気懸(きがか)りであった。所が幸に何事もなく王政維新になったので、大きに安堵(あんど)して、今では颯々(さっさつ)とそんな事を人に話したりこの通りに速記することも出来るようになったけれども、幕府の末年には決して爾(そ)うでない、自分から作(つくっ)た災(わざわい)で、文久三年亥歳(いどし)から明治元年まで五、六年の間(あいだ)と云うものは、時の政府に対して恰(あたか)も首の負債を背負(しょい)ながら、他人に言われず家内にも語らず、自分で自分の身を窘(くるし)めて居たのは随分(ずいぶん)悪い心持でした。脇屋(わきや)の罪に較(くら)べて五十歩百歩でない、外交機密を漏(もら)した奴の方が余程の重罪なるに、その罪の重い方は旨(うま)く免(まぬ)かれて、何でもない親類に文通した者は首を取られたこそ気の毒ではないか、無惨(むざん)ではないか。人間の幸不幸は何処(どこ)に在(あ)るか分らない、所謂(いわゆる)因縁(いんねん)でしょう。この一事でも王政維新は私の身の為(た)めに難有(ありがた)い。夫(そ)れは扨(さて)置き、今日でも彼(あ)の書(かい)たものを見れば、文久三年の事情はよく分(わかっ)て、外交歴史の材料にもなり、頗(すこぶ)る面白いものであるが、何分にも首には易(か)えられず焼(やい)て仕舞(しまっ)たが、若(も)しも今の世の中に誰か持(もっ)て居る人があるなら見たいものと思います。

下ノ関の攘夷夫れから世の中はもう引続いて攘夷論ばかり、長州の下ノ関では只(ただ)和蘭(オランダ)船を撃つばかりでなく、その後(のち)亜米利加(アメリカ)の軍艦にも発砲すれば、英吉利(イギリス)の軍艦にも発砲すると云(い)うような訳(わ)けで、到頭(とうとう)その尻と云うものは英仏蘭米四ヶ国から幕府に捩込(ねじこ)んで、三百万円の償金を出せと云うことになって、捫着(もんちゃく)の末、遂(つい)にその償金を払うことになった。けれども国内の攘夷論はなか/\収まりが付かないで、到頭仕舞(しまい)には鎖国攘夷と云うことを云わずに新(あらた)に鎖港と云(い)う名を案じ出して、ソレで幕府から態々(わざわざ)池田播磨守(いけだはりまのかみ)と云う外国奉行を使節として仏蘭西(フランス)まで鎖港の談判に遣(つか)わすと云うような騒ぎで、一切(いっさい)滅茶苦茶(めちゃくちゃ)、暗殺は殆(ほと)んど毎日の如(ごと)く、実に恐ろしい世の中になって仕舞(しまっ)た。爾(そ)う云う時勢であるから、私は唯(ただ)一身を慎(つつし)んでドウでもして災(わざわい)を《のが》れさえすれば宜(よ)いと云うことに心掛けて居ました。

剣術の全盛兎(と)に角(かく)に癸亥(みづのとい)の前後と云うものは、世の中は唯無闇に武張(ぶば)るばかり。その武張ると云うのも自(おのず)から由来がある。徳川政府は行政外交の局に当(あたっ)て居るから拠(よんどこ)ろなく開港説――開国論を云わなければならぬ、又行わなければならぬ、けれどもその幕臣全体の有様はドウだと云(い)うと、ソリャ鎖国家の巣窟(そうくつ)と云(いっ)ても宜(よ)い有様(ありさま)で、四面八方ドッチを見ても洋学者などの頭を擡(もた)げる時代でない。当時少しく世間に向くような人間は悉(ことごと)く長大小(ながだいしょう)を横(よこた)える。夫(そ)れから江戸市中の剣術家は幕府に召出(めしだ)されて巾(はば)を利(き)かせて、剣術大(おお)流行の世の中になると、その風は八方に伝染して坊主までも体度(たいど)を改めて来た。元来(がんらい)その坊主と云うものは城内に出仕して大名旗本(はたもと)の給仕役を勤める所謂(いわゆる)茶道坊主であるから、平生(へいぜい)は短い脇差(わきざし)を挟(さ)して大名に貰(もらっ)た縮緬(ちりめん)の羽織を着てチョコ/\歩くと云うのが是(こ)れが坊主の本分であるのに、世間が武張(ぶば)るとこの茶道坊主までが妙な風になって、長い脇差を挟して坊主頭を振り立てゝ居る奴がある。又当時流行の羽織はどうだと云うと、御家人(ごけにん)旗本の間(あいだ)には黄平(きびら)の羽織に漆紋(うるしもん)、それは昔し/\家康公が関ヶ原合戦の時に着て夫れから水戸の老公が始終(しじゅう)ソレを召(め)して居たとかと云うような云伝(いいつた)えで、ソレが武家社会一面の大(おお)流行。ソレカラ江戸市中七夕(たなばた)の飾りには、笹に短冊を付けて西瓜(すいか)の切(きれ)とか瓜(うり)の張子(はりこ)とか団扇(うちわ)とか云うものを吊すのが江戸の風である。所が武道一偏、攘夷の世の中であるから、張子の太刀(たち)とか兜(かぶと)とか云(い)うようなものを吊すようになって、全体の人気(にんき)がすっかり昔の武士風になって仕舞(しまっ)た。迚(とて)も是(こ)れでは寄付(よりつ)きようがない。

刀剣を売払うソコで私は只(ただ)独りの身を慎(つつし)むと同時に、是れはドウしたって刀は要(い)らない、馬鹿々々(ばかばか)しい、刀は売(うっ)て仕舞(しま)えと決断して、私の処にはそんなに大小などは大層もありはしないが、ソレでも五本や十本はあったと思う、神明前(しんめいまえ)の田中重兵衛(たなかじゅうべえ)と云う刀屋を呼(よん)で、悉(ことごと)く売払(うりはらっ)て仕舞(しまっ)た。けれどもその時分はマダ双刀(だいしょう)を挟(さ)さなければならぬ時であるから、私の父の挟して居た小刀(ちいさがたな)、即(すなわ)ち《かみしも》を着るとき挟す脇差の鞘(さや)を少し長くして刀に仕立て、夫(そ)れから神明前の金物屋で小刀(こがたな)を買(かっ)て短刀作りに拵(こしら)えて、唯(ただ)印(しる)し丈(だ)けの脇差に挟すことにして、アトは残らず売払て、その代金は何でも二度に六、七十両請取(うけとっ)たことは今でも覚えて居る。即ち家に伝わる長い脇差の刀に化けたのが一本、小刀で拵えた短い脇差が一本、それ切(ぎり)で外(ほか)には何もない。そうして小さくなって居るばかり。私は少年の時から大阪の緒方の塾に居るときも、戯(たわむれ)に居合を抜(ぬい)て、随分(ずいぶん)好きであったけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合刀(がたな)はすっかり奥に仕舞(しま)い込んで、刀なんぞは生れてから挟すばかりで抜たこともなければ抜く法も知らぬと云うような風(ふう)をして、唯用心に用心して夜分は決して外に出ず、凡(およ)そ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間(あいだ)と云うものは、夜分外出したことはない。その間の仕事は何だと云(い)うと、唯(ただ)著書飜訳(ほんやく)にのみ屈託(くったく)して歳月を送(おくっ)て居ました。

目次に戻る

目次