22話 福翁自伝 02 福翁自伝(22)
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塾中の生徒は長者に対するのみならず相互の間にも粗暴無礼は固より禁ずる所なれども、講堂の廊下その他塾舎の内外往来頻繁の場所にては、仮令い教師先進者に行逢うとも丁寧に辞儀するは無用の沙汰なり、互に相見て互に目礼を以て足るべし。益もなき虚飾に時を費すは学生の本色に非ず。この段心得の為めに掲示す。
と張紙して、生徒のお辞儀を止めた事がある。長者に対して辞儀をするなと云えば、横風になれ、礼儀を忘れよと云うように聞えて、奇なように思われるが、その時の事情は決して爾うでない。百千年来圧制の下に養われて官民共に一般の習慣を成したるこの国民の気風を活溌に導かんとするには、お辞儀の廃止も自から一時の方便で、その功能は慥に見えました。今でも塾にはコンな風が遺て、生徒取扱いの法は塾の規則に従い、不法の者があれば会釈なくミシ/\遣付けて寸毫も仮さず、生徒に不平があれば皆出て行け、此方は何ともないと、チャンと説を極めて思う様に制御して居れども、教師その他に対して入らざる事に敬礼なんかんと云うような田舎らしい事は塾の習慣に於て許さない。左ればとて本塾の生徒に限て粗暴な者が多いでもなし、一方から見て幾分かその気品の高尚にして男らしいのは、虚礼虚飾を脱したその功徳であろうと思われる。
地所払下三田の屋敷は福澤諭吉の拝借地になって、地租もなければ借地料もなし恰も私有地のようではあるが、何分にも拝借と云えば何時立退を命じられるかも知れず、東京市中を見れば私同様官地を拝借して居る者は甚だ多い、孰れも不安心に違いないと推察が出来る。如何かして之を御払下にして貰いたいと様々思案の折柄、当時政府に左院と称して議政局のようなものが立て居て、その左院の議員中に懇意の人があるからその人に面会、何か話の序には拝借地の有名無実なるを説き、等しく官地を使用せしむるならば之を私有地にして銘々に地所保存の謀を為さしむるに若かずと、頻りに利害を論じてその人の建言を促したるは毎度の事で、その他政府の筋の人にさえ逢えば同様の事を語るの常なりしが、明治四年の頃、それかあらぬか、政府は市中の拝借地をその借地人又は縁故ある者に払下げるとの風聞が聞える。是れは妙なりと大に喜び、その時東京府の課長に福田と云う人が専ら地所の事を取扱うと云う事を聞伝え、早速福田の私宅を尋ねて委細の事実を確かめ、いよ/\発令の時には知らして呉れることに約束して、帰宅して日々便りを待て居ると、数日の後に至り、今日発令したと報知が来たから、暫時も猶予は出来ず、翌朝東京府に代理の者を差出し御払下を願うて、代金を上納せんと金を出した処が、府庁にも昨日発令した計りで出願者は一人もなし、マダ帳簿も出来ず、上納金請取の書式も出来ずと云うから、その正式の請取は後日の事として今日は唯金子丈けの御収納を願うと云て、強いて金を渡して仮り御払下の姿を成し、その後、地所代価収領の本証書も下りて、いよ/\私の私有地と為り、地券面本邸の外に附属の町地面を合して一万三千何百坪、本邸の方は千坪に付き価十五円、町地の方は割合に高く、両様共算して五百何十円とは、殆んど無代価と申して宜しい。その代価の事は兎も角もとして、斯く私が事を性急にしたのは、この屋敷に久しく住居すればするほどいよ/\ます/\宜い屋敷になって来て、実に東京第一、他に匹敵するものはないと自から感心して、塾員と共に満足すると同時に、之を私有地にすると云えば何か故障の起りそうな事だと、俗に云う虫が知らせるような塩梅で、何だか気になるから無暗に急いで埓を明けた所が、果して然り、東京の諸屋敷地を払下げると云う風聞が段々世間に知れ渡たその時に、島原藩士何某が私方に遣て来て、当屋敷は由緒ある拝領屋敷なるゆえ、主人島原藩主より御払下を願う、此方へ御譲渡し下されいと捩込んで来たから、私は一切知らず、この地所のむかしが誰のものでありしや夫れさえ心得て居ない、兎に角に私は東京府から御払の地所を買請けたまでの事なれば、府の命に服従するのみ、何か思召もあらば府庁へ御談じ然るべしと刎付ける。スルと先方も中々渋とい。再三再四遣て来て、とう/\仕舞には屋敷を半折して半分ずつ持とうと云うから、是れも不承知。地所の事は島原藩と福澤と直談すべき性質のものでないから御返答は致さぬ、一切万事君夫れ之を東京府に聞けと云う調子に構えて居て、六かしい談判も立消になったのは難有い。今日になって見れば、東京中を尋ね廻ても慶應義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一箇所もない。正味一万四千坪、土地は高燥にして平面、海に面して前に遮るものなし、空気清く眺望佳なり、義塾唯一の資産にして、今これを売ろうとしたらば、むかし御払下の原価五百何十円は、百倍でない千倍になりましょう。義塾の慾張り、時節を待て千倍にも二千倍にもして遣ろうと、若い塾員達はリキンで居ます。
教員金の多少を争う右の通り三田の新塾は万事都合能く行われて、塾の資本金こそ皆無なれ、生徒から毎月の授業料を取集めて之を教師に分配して、如何やら斯うやら立行くその中にも、教師は皆本塾の先進生であるから、この塾に居て余計な金を取ろうと云う考はない。第一私が一銭でも塾の金を取らぬのみか、普請の時などには毎度此方から金を出して遣る。教師達もその通りで、外に出れば随分給料の取れるのを取らずに塾の事を勤めるから、是れも私金を出すと同じ事である。凡そコンナ風で無資金の塾も維持が出来たが、その時の真面目を申せば、月末などに金を分配するとき、動もすれば教師の間に議論が起るその議論は即ち金の多少を争う議論で、僕はコンなに多く取る訳けはない、君の方が少ないと云うと、「イヤ爾うでない、僕は是れで沢山だ、イヤ多い、少ないと、喧嘩のように云てるから、私は側から見て、「ソリゃ又始まった、大概にして置きなさい、ドウせ足りない金だから宜い加減にして分けて仕舞え、争う程の事でもないと毎度笑て居ました。この通りで慶應義塾の成立は、教師の人々がこの塾を自分のものと思うて勉強したからの事です。決して私一人の力に叶う事ではない。人間万事余り世話をせずに放任主義の方が宜いかと思われます。その後時勢も次第に進歩するに従い、塾の維持金を集め、又大学部の為めにも募り、近来は又重ねて募集金を始めましたが、是れも私は余り深く関係せず、一切の事を塾出身の若い人に任せて居ます。
暗殺の心配