福翁自伝 02 福翁自伝

22話 福翁自伝 02 福翁自伝(22)

2,621字 約5分 2017年6月15日 公開

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 塾中の生徒は長者に対するのみならず相互(あいたがい)の間にも粗暴無礼は固(もと)より禁ずる所なれども、講堂の廊下その他塾舎の内外往来頻繁(ひんぱん)の場所にては、仮令(たと)い教師先進者に行逢(ゆきあ)うとも丁寧に辞儀するは無用の沙汰(さた)なり、互(たがい)に相見て互に目礼を以(もっ)て足るべし。益(えき)もなき虚飾に時を費すは学生の本色に非(あら)ず。この段心得の為(た)めに掲示す。

と張紙(はりがみ)して、生徒のお辞儀を止(と)めた事がある。長者に対して辞儀をするなと云えば、横風(おうふう)になれ、礼儀を忘れよと云うように聞えて、奇なように思われるが、その時の事情は決して爾(そ)うでない。百千年来圧制の下に養われて官民共に一般の習慣を成したるこの国民の気風を活溌(かっぱつ)に導かんとするには、お辞儀の廃止も自(おのず)から一時の方便で、その功能は慥(たしか)に見えました。今でも塾にはコンな風が遺(のこっ)て、生徒取扱いの法は塾の規則に従い、不法の者があれば会釈なくミシ/\遣付(やりつ)けて寸毫(すんごう)も仮(か)さず、生徒に不平があれば皆出て行け、此方(こっち)は何ともないと、チャンと説を極(き)めて思う様に制御して居(お)れども、教師その他に対して入らざる事に敬礼なんかんと云うような田舎らしい事は塾の習慣に於(おい)て許さない。左(さ)ればとて本塾の生徒に限(かぎっ)て粗暴な者が多いでもなし、一方から見て幾分かその気品の高尚にして男らしいのは、虚礼虚飾を脱したその功徳(くどく)であろうと思われる。

地所払下三田(みた)の屋敷は福澤諭吉の拝借地になって、地租もなければ借地料もなし恰(あたか)も私有地のようではあるが、何分にも拝借と云(い)えば何時(いつ)立退(たちのき)を命じられるかも知れず、東京市中を見れば私同様官地を拝借して居る者は甚(はなは)だ多い、孰(いず)れも不安心に違(ちが)いないと推察が出来る。如何(どう)かして之(これ)を御払下(おはらいさげ)にして貰いたいと様々思案の折柄、当時政府に左院と称して議政局のようなものが立(たっ)て居て、その左院の議員中に懇意(こんい)の人があるからその人に面会、何か話の序(ついで)には拝借地の有名無実なるを説(と)き、等しく官地を使用せしむるならば之を私有地にして銘々(めいめい)に地所保存の謀(はかりごと)を為(な)さしむるに若(し)かずと、頻(しき)りに利害を論じてその人の建言を促したるは毎度の事で、その他政府の筋の人にさえ逢えば同様の事を語るの常なりしが、明治四年の頃、それかあらぬか、政府は市中の拝借地をその借地人又(また)は縁故ある者に払下げるとの風聞(ふうぶん)が聞える。是(こ)れは妙なりと大(おおい)に喜び、その時東京府の課長に福田と云う人が専(もっぱ)ら地所の事を取扱うと云う事を聞伝(ききつた)え、早速福田の私宅を尋ねて委細の事実を確かめ、いよ/\発令の時には知らして呉(く)れることに約束して、帰宅して日々便りを待(まっ)て居ると、数日の後に至り、今日発令したと報知が来たから、暫時(しばし)も猶予(ゆうよ)は出来ず、翌朝東京府に代理の者を差出し御払下(おはらいさげ)を願うて、代金を上納せんと金を出した処が、府庁にも昨日発令した計(ばか)りで出願者は一人もなし、マダ帳簿も出来ず、上納金請取の書式も出来ずと云(い)うから、その正式の請取は後日の事として今日は唯(ただ)金子(きんす)丈(だ)けの御収納を願うと云(いっ)て、強(し)いて金を渡して仮(か)り御払下の姿を成し、その後、地所代価収領の本証書も下(くだ)りて、いよ/\私の私有地と為(な)り、地券面(ちけんめん)本邸の外に附属の町地面を合して一万三千何百坪、本邸の方は千坪に付き価(あたい)十五円、町地(まちぢ)の方は割合に高く、両様共算して五百何十円とは、殆(ほと)んど無代価と申して宜(よろ)しい。その代価の事は兎(と)も角(かく)もとして、斯(か)く私が事を性急にしたのは、この屋敷に久しく住居(じゅうきょ)すればするほどいよ/\ます/\宜(い)い屋敷になって来て、実に東京第一、他に匹敵するものはないと自(みず)から感心して、塾員と共に満足すると同時に、之(これ)を私有地にすると云(い)えば何か故障の起りそうな事だと、俗に云う虫が知らせるような塩梅(あんばい)で、何だか気になるから無暗に急いで埓(らち)を明けた所が、果して然(しか)り、東京の諸屋敷地を払下げると云う風聞が段々世間に知れ渡(わたっ)たその時に、島原藩士何某が私方に遣(やっ)て来て、当屋敷は由緒ある拝領屋敷なるゆえ、主人島原藩主より御払下を願う、此方(こっち)へ御譲渡(ごじょうと)し下されいと捩込(ねじこ)んで来たから、私は一切(いっさい)知らず、この地所のむかしが誰(たれ)のものでありしや夫(そ)れさえ心得て居ない、兎(と)に角(かく)に私は東京府から御払の地所を買請(かいう)けたまでの事なれば、府の命に服従するのみ、何か思召(おぼしめし)もあらば府庁へ御談(おだん)じ然(しか)るべしと刎(はね)付ける。スルと先方も中々渋(しぶ)とい。再三再四遣(やっ)て来て、とう/\仕舞(しまい)には屋敷を半折して半分ずつ持とうと云(い)うから、是(こ)れも不承知。地所の事は島原(しまばら)藩と福澤と直談(じきだん)すべき性質のものでないから御返答は致さぬ、一切(いっさい)万事君夫(そ)れ之(こ)を東京府に聞けと云(い)う調子に構えて居て、六(むず)かしい談判も立消になったのは難有(ありがた)い。今日になって見れば、東京中を尋ね廻(まわっ)ても慶應義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一箇所もない。正味一万四千坪、土地は高燥(こうそう)にして平面、海に面して前に遮(さえぎ)るものなし、空気清く眺望佳(か)なり、義塾唯一の資産にして、今これを売ろうとしたらば、むかし御払下(おはらいさげ)の原価五百何十円は、百倍でない千倍になりましょう。義塾の慾張(よくば)り、時節を待(まっ)て千倍にも二千倍にもして遣(や)ろうと、若い塾員達はリキンで居ます。

教員金の多少を争う右の通り三田(みた)の新塾は万事都合能(よ)く行われて、塾の資本金こそ皆無なれ、生徒から毎月の授業料を取集めて之(これ)を教師に分配して、如何(どう)やら斯(こ)うやら立行くその中にも、教師は皆本塾の先進生であるから、この塾に居て余計な金を取ろうと云う考(かんがえ)はない。第一私が一銭でも塾の金を取らぬのみか、普請(ふしん)の時などには毎度此方(こっち)から金を出して遣(や)る。教師達もその通りで、外に出れば随分(ずいぶん)給料の取れるのを取らずに塾の事を勤めるから、是(こ)れも私金を出すと同じ事である。凡(およ)そコンナ風で無資金の塾も維持が出来たが、その時の真面目(しんめんもく)を申せば、月末などに金を分配するとき、動(やや)もすれば教師の間に議論が起るその議論は即(すなわ)ち金の多少を争う議論で、僕はコンなに多く取る訳(わ)けはない、君の方が少ないと云(い)うと、「イヤ爾(そ)うでない、僕は是(こ)れで沢山だ、イヤ多い、少ないと、喧嘩のように云(いっ)てるから、私は側(そば)から見て、「ソリゃ又始まった、大概にして置きなさい、ドウせ足りない金だから宜(い)い加減にして分けて仕舞(しま)え、争う程の事でもないと毎度笑(わらっ)て居ました。この通りで慶應義塾の成立(なりたち)は、教師の人々がこの塾を自分のものと思うて勉強したからの事です。決して私一人の力に叶う事ではない。人間万事余り世話をせずに放任主義の方が宜いかと思われます。その後時勢も次第に進歩するに従い、塾の維持金を集め、又(また)大学部の為(た)めにも募(つの)り、近来は又重ねて募集金を始めましたが、是れも私は余り深く関係せず、一切(いっさい)の事を塾出身の若い人に任せて居ます。

暗殺の心配

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