福翁自伝 02 福翁自伝

21話 福翁自伝 02 福翁自伝(21)

1.3万字 約27分 2017年6月15日 公開

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》されて、ソレを又(また)上から鎗(やり)で突(つい)たと云うような大(おお)騒動。所で私の倅(せがれ)はお祖母さんの処に居る、奥平の屋敷も焼かれて仕舞(しま)うだろう、あの子とお祖母さんはドウなろうかと大変な心配で、迎いに遣(や)ろうと云(いっ)ても遣ることも出来ない。夫(そ)れ是(こ)れする中に夕方になった所で事は鎮(しず)まって仕舞(しまっ)たが、その時でも大変に優しくて、ジッとして居ればドウもしない、何もこの内に居る者に怪我をさせようともしなければ乱暴もしない、チャンと軍令と云うものがあって締(しま)りが付(つい)て居るから安心しなさいと頻(しき)りに和(なだ)めて一寸(ちょい)とも手を触れないと云う一例でも、官軍の存外優しかったことが分る。前に思(おもっ)たとは大違い、何ともない。

義塾次第に繁昌扨(さて)四月になった所で普請も出来上り、塾生は丁度慶応三年と四年の境が一番諸方に散じて仕舞(しまっ)て、残(のこっ)た者は僅(わずか)に十八人、夫れから四月になった所が段々帰(かえっ)て来て、追々塾の姿を成して次第に盛(さかん)になる。又盛になる訳(わ)けもある、と云(い)うのは今度私が亜米利加(アメリカ)に行た時には、其(それ)以前、亜米利加に行た時よりも多く金を貰(もら)いました。所(ところ)で旅行中の費用は都(すべ)て官費であるから、政府から請取(うけとっ)た金は皆手元に残る故(ゆえ)、その金を以(もっ)て今度こそは有らん限りの原書を買(かっ)て来ました。大中小の辞書、地理書、歴史等は勿論、その外(ほか)法律書、経済書、数学書などもその時殆めて日本に輸入して、塾の何十人と云(い)う生徒に銘々(めいめい)その版本を持たして立派に修業の出来るようにしたのは、実に無上の便利でした。ソコデその当分十年余も亜米利加(アメリカ)出版の学校読本が日本国中に行われて居たのも、畢竟(ひっきょう)私が始めて持(もっ)て帰(かえっ)たのが因縁(いんえん)になったことです。その次第は生徒が始めて塾で学ぶ、その学んで卒業した者が方々(ほうぼう)に出て教師になる、教師になれば自分が今まで学んだものをその学校に用るのも自然の順序であるから、日本国中に慶應義塾に用いた原書が流布(るふ)して広く行われたと云うのも、事の順序はよく分(わかっ)て居ます。

官賊の間に偏せず党せずそれで先(ま)ず官軍は存外柔かなものであって、何も心配はない。併(しか)し政治上の事は極めて鋭敏なもので、嫌疑(けんぎ)と云うことがあっては是(こ)れは容易ならぬ訳(わ)けであるから、ソレを明(あきらか)にする為(た)めに、私は一切(いっさい)万事何も斯(か)も打明けて、一口に云(い)えば塾も住居(すまい)も殻明(からあ)きにして仕舞(しま)い、何処(どこ)を捜した所で鉄砲は勿論(もちろん)一挺(いっちょう)もなし、刃物(はもの)もなければ飛道具(とびどうぐ)もない、一目明白、直(すぐ)に分るようにしました。始終(しじゅう)爾(そ)う云(い)う身構えにして居るから、私の処には官軍方の人も颯々(さっさ)と来れば、賊軍の人も颯々と出入りして居て、私は官でも賊でも一切(いっさい)構わぬ、何方(どちら)に向ても依怙贔屓(えこひいき)なしに扱(あつかっ)て居るから、双方共に朋友でした。その時に斯(こ)う云う面白い事がありました。官軍が江戸に乗込んでマダ賊軍が上野に籠(こも)らぬ前に、市川辺に小競合(こぜりあい)がありました。爾うすると賊軍方の者が夜は其処(そこ)に行(いっ)て戦(たたかっ)て、昼は睡(ねむ)いからと云(いっ)て塾に来て寝て居た者があったが、根(ねっ)から構わない。私はその人の話を聞て、「君はソンナ事をして居るのか、危ない事だ、マア止(よし)にした方が宜(よ)かろうと云たくらいのことである。

古川節蔵脱走夫(そ)れから古川節蔵(ふるかわせつぞう)は長崎丸と云う船の艦長であったが、榎本釜次郎(えのもとかまじろう)よりも先駈けして脱走すると云うので、私にその事を話した。所が節蔵は先年私が大阪から連れて来た男で、弟のようにして居たから、私はその話を聞て親切に止(と)めました。「ソリャ止(よ)すが宜(い)い、迚(とて)も叶わない、戦争すれば必ず負けるに違いない。東西ドチラが正しいとか正しくないとか云うような理非曲直は云わないが、何しろ斯う云う勢(いきおい)になったからは、モウ船に乗(のっ)て脱走したからとて勝てそうにもしないから、ソレは思い止(と)まるが宜(い)いと云た所が、節蔵はマダなか/\強気(つよき)で、「ナアに屹度(きっと)勝つ、是(こ)れから出掛けて行(いっ)て、諸方に出没して居る同志者をこの船に乗せて便利の地に挙(あ)げて、官軍が江戸の方に遣(やっ)て来るその裏を衡(つい)て、夫(そ)れから大阪湾に行(いっ)て掻廻(かきまわ)せば官軍が狼狽すると云(い)うような事になって、屹度(きっと)勝算はありますと云(いっ)て、中々私の云うことを聞かないから、「爾(そ)うか、ソレならば勝手にするが宜(い)い、乃公(おれ)はモウ負けても勝(かっ)ても知らないぞ。だが乃公(おれ)は足下(そくか)を助けようとは思わぬ。唯(ただ)可哀(かあい)そうなのはお政(まさ)さんだ(節蔵(せつぞう)氏の内君)、ソレ丈(だ)けは生きて居られるように世話をして遣(や)る、足下は何としても云(い)う事を聞かないから仕方がない、ドウでもしなさいと云て別れたことがあります。

発狂病人一条米国より帰来もう一ヶ条。この時に仙台の書生で、以前この塾に居て夫(そ)れから亜米利加(アメリカ)に留学して居た一条(いちじょう)某と云うものがあって、ソレが亜米利加から帰(かえっ)て来た。所がこの男が発狂して居ると云う。ソレを船中で親切に看病して呉(く)れたと云うのは、矢張り一条と同時に塾に居た柳本直太郎(やぎもとなおたろう)、是(こ)れはこの間まで愛知県の書記官をして居たが、今では市長か何かになって居るそうだ。この柳本直太郎(やぎもとなおたろう)が親切に看病して、横浜に着船した。その時は丁度(ちょうど)仙台藩がいよ/\朝敵になったときで、江戸中で仙台人と見れば見付(みつけ)次第捕縛(ほばく)と云(い)うことになって居る。ソコで横浜に来た所が、正(まさ)しく仙台人だ、捕縛しようかと云うに、紛(まが)う方なき発狂人だ、ドウにも手の着けようがない。その時に寺島(宗則)が横浜の奉行をして居て、発狂人は仕方がないから打遣(うちやっ)て置けと云うような事でその儘(まま)にしてあるその中に、病人は人を疑う病症を発して、飲食物に毒があると云(いっ)て一切(いっさい)受付けず、凡(およ)そ一週間余り何も飲食しない。飲食しないからその儘(まま)棄(す)てゝ置けば餓死する。ソコでいろ/\と和(なだ)めて勧めたけれども何としても喰わない。爾(そ)うすると、不意としたことで、その病人が福澤先生に遇(あ)いたいと云うことを云(いい)出した。福澤は江戸に居ましょう、ソコで横浜に置くなら宜いが江戸に連れて行くのはドウかと思て、御奉行(寺島)に伺た所が、御奉行様も福澤に行くと云うなら颯々(さっさ)と連れて行けと云うので、ソレから新銭座(しんせんざ)に連れて来た。ソレが面白い、来た所で先(ま)ず取敢(とりあ)えず久振りと云(いっ)て茶を出して、茶も飲め、序(ついで)に飯も喰えと勧めて、夫(そ)れから握飯を出して、私も喫(た)べるから君も一つ喫べなさい、ソレが喫べられなければ私の喫べ掛けを半分喫べなさい、毒はないじゃないかと云うようなことで試(こころ)みた所が、ソコで喰(くい)出した。喰(くっ)て見れば気狂いの事だから、今まで思(おもっ)て居たことは忘れて仕舞(しま)い、新銭座に来て安心したと見え、食気は回復して、ソレは宜いが、マダ/″\病人が何を遣(や)り出すか知れない、昼夜番が要(い)る。所が可笑(おか)しい。その時に薩州の者も居れば土州の者も居る、その官軍一味の者が居て、朝敵だから捕縛しようと云(い)う位な病人を扶(たす)けて看柄して居る。爾(そ)うすると仙台の者が忍んで来る。大槻(おおつき)の倅(せがれ)なども内々見舞に来て、官軍と賊軍と塾の中で混り合(あっ)て、朝敵藩の病人を看病して居ながら、何も風波(ふうは)もなければ苦味(にがみ)もない。ソンナ事が塾の安全であった訳(わ)けでしょう。真実平等区別なし、疑わんとするも疑うべき種(たね)がない。一方には脱走して賊軍に投ずるがあるかと思えば、一方にはチャンと塾に這入(はいっ)て居る官軍もあると云うような不思議な次第柄で、斯(こ)う云う事は造(つくっ)たのじゃ出来ぬ、装うても出来ぬ、私は腹の底から偏頗(へんぱ)な考がない、少しも幕府の事を感服しなければ、官軍の事をも感服しない、戦争するなら銘々(めいめい)勝手にしろと、裏も表もなくその趣意(しゅい)で貫いて居たから、私の身も塾も危(あやう)い所を無難(ぶなん)に過したことゝ思う。

新政府の御用召夫(そ)れからいよ/\王政維新と定(き)まって、大阪に明治政府の仮政府が出来て、その仮政府から命令が下(くだっ)た。御用があるから出て来いと一番始めに沙汰(さた)のあったのが、神田孝平(かんだたかひら)と柳川春三(やながわしゅんさん)と私と三人。所が柳川春三はドウも大阪に行くのは嫌(いや)だ、だから命は奉ずるけれども御用があればドウゾ江戸に居て勤めたいと云(い)う注文。神田孝平は命に応じて行くと云う。私は一も二もなく病気で出られませぬと断り。その後大阪の仮政府は江戸に遷(うつっ)て来て、江戸の新政府から又御用召(ごようめし)で度々(たびたび)呼びに来ましたけれども、始終(しじゅう)断る計(ばか)り。或時(あるとき)神田孝平が私の処へ是非(ぜひ)出ろと云(いっ)て勧めに来たから、私は之(これ)に答えて、「一体君は何(ど)う思うか、男子の出処進退は銘々(めいめい)の好む通りにするが宜(い)いではないか、世間一般そうありたいものではないか、之に異論はなかろう。ソコデ僕の目から見ると、君が新政府に出たのは君の平生(へいぜい)好む所を実行して居るのだから僕は甚(はなは)だ賛成するけれども、僕の身には夫れが嫌いだ、嫌いであるから出ないと云うものも是亦(これまた)自分の好む所を実行するのだから、君の出て居るのと同じ趣意(しゅい)ではないか。左(さ)れば今僕は君の進退を賛成して居るから、君も亦(また)僕の進退を賛成して、福澤は能(よ)く引込(ひっこ)んで居る、旨(うま)いと云(いっ)て誉めてこそ呉(く)れそうなものだ。夫れを誉めもせずに呼出しに来るとは友達甲斐(がい)がないじゃないかと大(おおい)に論じて、親友の間であるから遠慮会釈もなく刎付(はねつ)けたことがある。

学者を誉めるなら豆腐屋も誉めろ夫れから幾ら呼びに来ても政府へはモウ一切(いっさい)出ないと説を極(き)めて居た所が、或日(あるひ)細川潤次郎(ほそかわじゅんじろう)が私の処へ来たことがある。その時はマダ文部省と云(い)うものゝない時で、何でもこの政府の学校の世話をしろと云う。イヤそれは往(い)けない、自分は何もそんな事はしないと答え、夫(そ)れからいろ/\の話もあったが、細川の云うに、ドウしても政府に於(おい)て只(ただ)棄(す)てゝ置くと云う理屈はないのだから、政府から君が国家に尽(つく)した功労を誉めるようにしなければならぬと云うから、私は自分の説を主張して、誉めるの誉められぬのと全体ソリャ何の事だ、人間が人間当前(あたりまえ)の仕事をして居るに何も不思議はない、車屋は車を挽(ひ)き豆腐屋は豆腐を拵(こしら)えて書生は書を読むと云うのは人間当前(あたりまえ)の仕事として居るのだ、その仕事をして居るのを政府が誉めると云うなら、先(ま)ず隣の豆腐屋から誉めて貰(もら)わなければならぬ、ソンな事は一切(いっさい)止(よ)しなさいと云(いっ)て断(ことわっ)たことがある。是(こ)れも随分(ずいぶん)暴論である。

 マア斯(こ)う云(い)うような調子で、私は酷(ひど)く政府を嫌うようにあるけれども、その真実の大本(たいほん)を云(い)えば、前に申した通りドウしても今度の明治政府は古風一天張りの攘夷政府と思込(おもいこ)んで仕舞(しまっ)たからである。攘夷は私の何より嫌いな事で、コンな始末では仮令(たと)い政府は替(かわっ)ても迚(とて)も国は持てない、大切な日本国を滅茶苦茶にして仕舞(しま)うだろう本当に爾(そ)う思(おもっ)た所が、後に至(いたっ)てその政府が段々文明開化の道に進んで今日に及んだと云うのは、実に難有(ありがた)い目出(めで)たい次第であるが、その目出たかろうと云うことが私には始めから測量が出来ずに、唯(ただ)その時に現れた実の有様に値(ね)を付けて、コンな古臭い攘夷政府を造(つくっ)て馬鹿な事を働いて居る諸藩の分らず屋は、国を亡ぼし兼(か)ねぬ奴等(やつら)じゃと思(おもっ)て、身は政府に近づかずに、唯(ただ)日本に居て何か勉(つと)めて見ようと安心決定(けつじょう)したことである。

英国王子に潔身の祓私が明治政府を攘夷政府と思たのは、決して空(くう)に信じたのではない、自(おのず)から憂(うれ)うべき証拠がある。先(ま)ず爰(ここ)に一(いっ)奇談を申せば、王政維新となって明治元年であったか二年であったか歳(とし)は覚えませぬが、英吉利(イギリス)の王子が日本に来遊、東京城に参内(さんだい)することになり、表面は外国の貴賓を接待することであるから固(もと)より故障はなけれども、何分にも穢(けが)れた外国人を皇城に入れると云うのはドウも不本意だと云うような説が政府部内に行われたものと見えて、王子入城の時に二重橋の上で潔身(みそぎ)の祓(はらい)をして内に入れたことがある、と云うのは夷狄(いてき)の奴は不浄の者であるからお祓(はらい)をして体(たい)を清めて入れると云(い)う意味でしょう。所がソレが宜(い)い物笑いの種サ。その時に亜米利加(アメリカ)の代理公使にポルトメンと云う人が居まして、毎度ワシントン政府に自分の任所(にんしょ)の模様を報知して遣(や)る、けれども余り必要でない事は大統領がその報告書を見ない、此方(こっち)では又ソレを見て貰(もら)うのが公使の名誉としてある。ソコで公使が今度英の王子入城に付き潔身(みそぎ)の祓云々(うんぬん)の事を探り出して大(おおい)に悦(よろこ)び、是(こ)れは締(し)めた、この大奇談を報告すれば大統領が見て呉(く)れるに違(ちが)いないと云うので、その表書(うわがき)に即(すなわ)ちエッヂンボルフ王子の清(きよ)めと云う可笑しな不思議な文字を書(かい)て、中の文句はドウかと云うに、この日本は真実、自尊自大の一小鎖国にして、外国人をば畜生同様に取扱うの常なり、既(すで)にこの程英吉利(イギリス)の王子入城謁見のとき、城門外に於(おい)て潔身の祓を王子の身辺に施したり、抑(そ)も潔身の祓とは上古穢(けが)れたる者を清めるに灌水法を行いしが、中世、紙の発明以来紙を以(もっ)て御幣なるものを作り、その御幣を以て人の身体を撫(な)で、水の代用として一切(いっさい)の不浄不潔を払うの故実あり、故に今度英の王子に施したるはその例に由(よ)ることにして、日本人の眼(まなこ)を以て見れば王子も亦(また)唯(ただ)不浄の畜生たるに過ぎず云々(うんぬん)とて、筆を巧(たくみ)に事細かに書(かい)て遣(やっ)たことがある。ソレは私が尺振八(せきしんぱち)から詳(つまびらか)に聞きました。この尺振八と云(い)う人はその時、亜米利加(アメリカ)公使館の通弁をして居たので、尺が私の処に来てこの間(あいだ)是(こ)れ/\の話、大笑いではないかと云(いっ)て、その事実もその書面の文句も私に親しく話して聞かせましたが、実に苦々しい事で、私は之(これ)を聞(きい)て笑い所ではない泣きたく思いました。

米国前の国務卿又日本を評す又その頃、亜米利加の前国務卿シーワルトと云う人が、令嬢と同伴して日本に来遊したことがある。この人は米国有名の政治家で、彼(か)の南北戦争のとき専(もっぱ)ら事に当(あたっ)て、リンコルンの遭難と同時に兇徒に傷(きずつ)けられたこともある。元来(がんらい)英国人とは反りが合わずに、云(い)わば日本贔屓(びいき)の人でありながら、今度来遊、その日本の実際を見て何分にも贔屓が出来ぬ、こんな根性の人民では気の毒ながら自立は六(むず)かしいと断言したこともある。ソコデ私の見る所で、新政府人の挙動は都(すべ)て儒教の糟粕(そうはく)を嘗(な)め、古学の固陋(ころう)主義より割出して空威張(からいば)りするのみ。顧(かえり)みて外国人の評論を聞けば右の通り。迚(とて)も是(こ)れは仕方がないと真実落胆したれども、左(さ)りとて自分は日本人なり、無為にしては居られず、政治は兎(と)も角(かく)も之(これ)を成行に任せて、自分は自分にて聊(いささ)か身に覚えたる洋学を後進生に教え、又根気のあらん限り著書飜訳(ほんやく)の事を勉(つと)めて、万が一にも斯(この)民(たみ)を文明に導くの僥倖(ぎょうこう)もあらんかと、便り少なくも独り身構えした事である。

子供の行末を思うその時の私の心事は実に淋しい有様(ありさま)で、人に話したことはないが今打明けて懺悔(ざんげ)しましょう。維新前後、無茶苦茶の形勢を見て、迚(とて)もこの有様では国の独立は六(むず)かしい、他年一日外国人から如何(いか)なる侮辱(ぶじょく)を被(こうむ)るかも知れぬ、左ればとて今日全国中の東西南北何(いず)れを見ても共に語るべき人はない、自分一人では勿論(もちろん)何事も出来ず亦(また)その勇気もない、実に情ない事であるが、いよ/\外人が手を出して跋扈(ばっこ)乱暴と云うときには、自分は何とかしてその禍(わざわい)を避けるとするも、行(ゆ)く先(さ)きの永い子供は可愛(かあい)そうだ、一命に掛けても外国人の奴隷にはしたくない、或(あるい)は耶蘇宗(やそしゅう)の坊主にして政事人事の外に独立させては如何(いかん)、自力自食して他人の厄介にならず、その身は宗教の坊主と云えば自(おのず)から辱(はずか)しめを免(まぬ)かるゝこともあらんかと、自分に宗教の信心(しんじん)はなくして、子を思うの心より坊主にしようなどゝ種々(しゅじゅ)無量に考えたことがあるが、三十年の今日より回想すれば恍として夢の如(ごと)し、唯(ただ)今日は世運の文明開化を難有(ありがた)く拝するばかりです。

授業料の濫觴扨(さて)鉄砲洲(てっぽうず)の塾を芝(しば)の新銭座(しんせんざ)に移したのは明治元年即(すなわ)ち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取(とっ)て慶應義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第に盛(さかん)になる。塾が盛になって生徒が多くなれば塾舎の取締も必要になるからして、塾則のようなものを書(かい)て、是(こ)れも写本は手間が取れると云(い)うので版本にして、一冊ずつ生徒に渡し、ソレには色々箇条のある中に、生徒から毎月金を取ると云うことも慶應義塾が創(はじ)めた新案である。従前、日本の私塾では支那風を真似たのか、生徒入学の時には束脩(そくしゅう)を納めて、教授する人を先生と仰(あお)ぎ奉(たてまつ)り、入学の後も盆暮(ぼんくれ)両度ぐらいに生徒銘々(めいめい)の分に応じて金子(きんす)なり品物なり熨斗(のし)を附けて先生家(か)に進上する習わしでありしが、私共の考えに、迚(とて)もこんな事では活溌(かっぱつ)に働く者はない、教授も矢張(やは)り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構うことはないから公然価(あたい)を極(き)めて取るが宜(よ)いと云うので、授業料と云う名を作(つくっ)て、生徒一人から毎月金(きん)二分(にぶ)ずつ取立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。その時塾に眠食する先進長者は、月に金四両あれば喰うことが出来たので、ソコで毎月生徒の持(もっ)て来た授業料を掻(か)き集めて、教師の頭に四両ずつ行(いき)渡れば死(しに)はせぬと大本(だいほん)を定(さだ)めて、その上に尚(な)お余りがあれば塾舎の入用にすることにして居ました。今では授業料なんぞは普通当然(とうぜん)のようにあるが、ソレを始めて行うた時は実に天下の耳目を驚かしました。生徒に向(むかっ)て金二分持て来い、水引(みずひき)も要らなければ熨斗(のし)も要らない、一両持(もっ)て来れば釣(つり)を遣(や)るぞと云(い)うように触込(ふれこ)んでも、ソレでもちゃんと水引を掛けて持て来るものもある。スルとこんな物があると札(さつ)を検(あらた)める邪魔になると云(いっ)て、態(わざ)と上包を還(かえ)して遣るなどは随分(ずいぶん)殺風景なことで、世間の人の驚いたのも無理はないが、今日それが日本国中の風俗習慣になって、何ともなくなったのは面白い。何事に由(よ)らず新工風(しんくふう)を運(めぐ)らして之(これ)を実地に行うと云うのは、その事の大小を問わず余程の無鉄砲でなければ出来たことではない。左(さ)る代りに夫(そ)れが首尾能(よ)く参(まいっ)て、何時(いつ)の間にか世間一般の風(ふう)になれば、私の為(た)めには恰(あたか)も心願成就で、こんな愉快なことはありません。

上野の戦争新銭座(しんせんざ)の塾は幸に兵火の為(た)めに焼けもせず、教場もどうやらこうやら整理したが、世間は中々喧(やかま)しい。明治元年の五月、上野に大(おお)戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席(よせ)も見世物も料理茶屋も皆休んで仕舞(しまっ)て、八百八町は真の闇、何が何やら分らない程の混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業を罷(や)めない。上野ではどん/″\鉄砲を打(うっ)て居る、けれども上野と新銭座とは二里も離れて居て、鉄砲玉の飛(とん)で来る気遣(きづかい)はないと云うので、丁度あの時私は英書で経済(エコノミー)の講釈をして居ました。大分騒々敷(そうぞうし)い容子(ようす)だが烟(けぶり)でも見えるかと云うので、生徒等(ら)は面白がって梯子(はしご)に登(のぼっ)て屋根の上から見物する。何でも昼から暮(くれ)過ぎまでの戦争でしたが、此方(こちら)に関係がなければ怖い事もない。

日本国中唯慶應義塾のみ此方(こっち)がこの通りに落付払(おちつきはらっ)て居れば、世の中は広いもので又妙なもので、兵馬騒乱の中にも西洋の事を知りたいと云(い)う気風は何処(どこ)かに流行して、上野の騒動が済(す)むと奥州の戦争と為(な)り、その最中にも生徒は続々入学して来て、塾はます/\盛(さかん)になりました。顧(かえり)みて世間を見れば、徳川の学校は勿論潰れて仕舞い、その教師さえも行衛(ゆくえ)が分らぬ位、況(ま)して維新政府は学校どころの場合でない、日本国中苟(いやしく)も書を読(よん)で居る処は唯(ただ)慶應義塾ばかりと云う有様(ありさま)で、その時に私が塾の者に語(かたっ)たことがある。昔し/\拿破翁(ナポレオン)の乱に和蘭(オランダ)国の運命は断絶して、本国は申すに及ばず印度(インド)地方まで悉(ことごと)く取られて仕舞(しまっ)て、国旗を挙(あ)げる場所がなくなった。所が、世界中纔(わずか)に一箇処を遺(のこ)した。ソレは即(すなわ)ち日本長崎の出島である。出島は年来和蘭人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に飜々(へんぺん)して和蘭王国は曾(かつ)て滅亡したることなしと、今でも和蘭人が誇(ほこっ)て居る。シテ見るとこの慶應義塾は日本の洋学の為(た)めには和蘭の出島と同様、世の中に如何(いか)なる騒動があっても変乱があっても未(いま)だ曾(かつ)て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶應義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着(とんじゃく)するなと申して、大勢の少年を励ましたことがあります。

塾の始末に困る、楽書無用夫(そ)れはそれとして又(また)一方から見れば、塾生の始末には誠に骨が折れました。戦争後意外に人の数は増したが、その人はどんな種類の者かと云(い)うに、去年から出陣してさん/″\奥州地方で戦(たたかっ)て漸(ようや)く除隊になって、国には帰らずに鉄砲を棄(す)てゝその儘(まま)塾に来たと云(い)うような少年生が中々多い。中にも土佐の若武者などは長い朱鞘(しゅざや)の大小を挟(さ)して、鉄砲こそ持たないが今にも斬(きっ)て掛(かか)ろうと云うような恐ろしい顔色(がんしょく)をして居る。爾(そ)うかと思うとその若武者が紅(あか)い女の着物を着て居る。是(こ)れはドウしたのかと云うと、会津(あいづ)で分捕りした着物だと云(いっ)て威張(いばっ)て居る。実に血腥(ちなまぐさ)い怖い人物で、一見先(ま)ず手の着けようがない。ソコデ私は前申す通り新銭座の塾を立てると同時に極(きわ)めて簡単な塾則を拵(こしら)えて、塾中金の貸借(かしかり)は一切(いっさい)相成らぬ、寝るときは寝て、起るときは起き、喰(く)うときには定(さだ)めの時間に食堂に出る、夫(そ)れから楽書(らくがき)一切(いっさい)相成らぬ、壁や障子に楽書を禁ずるは勿論(もちろん)、自分所有の行灯(あんどう)にも机にも一切の品物に楽書は相成(あいな)らぬと云(い)うくらいの箇条で、既(すで)に規則を極(き)めた以上はソレを実行しなくてはならぬ。ソコで障子に楽書してあれば私は小刀を以(もっ)て其処(そこ)だけ切破(きりやぶっ)て、この部屋に居る者が元の通りに張れと申付(もうしつ)ける。夫れから行灯に書(かい)てあれば、誰の行灯でも構わぬ、その持主を咎(とが)めると、時としてはその者が、「是(こ)れは自分でない、人の書(かい)たのですと云(いっ)ても私は許さぬ。人が書たと云うのは云訳(いいわ)けにならぬ、自分の行灯に楽書されてソレを見て居ると云うのは馬鹿だ、馬鹿の罰に早々張替えるが宜(よろ)しい、楽書した行灯は塾に置かぬ、破るからアトを張(はっ)て置きなさいと云うようにして、寸毫(すんごう)も仮(か)さない。如何(いか)に血腥(ちなまぐさ)い若武者が何と云(い)おうとも、そんな事を恐れて居られない。ミシ/\遣付(やっつ)けて遣(や)る。名は忘れたが、不図(ふと)見た所が桐の枕に如何(いかが)な楽書がしてある。「コリャ何だ。銘々(めいめい)の私有品でも楽書は一切相成らぬと云(いっ)たではないか、ドウ云う訳けだ、一句の返答も出来なかろう。この枕は私は削りたいけれども削ることが出来ない、打毀(ぶちこ)わすから代りを取(とっ)て来なさいと云て、その枕を取上げて足で踏潰(ふみつぶ)して、サアどうでもしろ、攫(つか)み掛(かかっ)て来るなら相手になろうと云(い)わぬばかりの思惑を示した所で、決して掛らぬ。全体私は骨格(からだ)は少し大きいが、本当は柔術も何も知らない、生れてから人を打(うっ)たこともない男だけれども、その権幕はドウも撃ちそうな攫(つか)み掛りそうな気色(けしき)で、口の法螺(ほら)でなくして身体(からだ)の法螺で吹(ふき)倒した。所が皆小さくなって言うことを聞くようになって来て、ソレでマア戦争帰りの血腥(なまぐさ)い奴も自(おのず)から静になって塾の治まりが付き、その中には真成(ほんとう)な大人(おとな)しい学者風の少年も多く、至極(しごく)勉強してます/\塾風を高尚にして、明治四年まで新銭座(しんせんざ)に居ました。

始めて文部省維新の騒乱も程なく治まって天下太平に向(むい)て来たが、新政府はマダマダ跡の片付(かたづけ)が容易な事でなくして、明治五、六年までは教育に手を着けることが出来ないで、専(もっぱ)ら洋学を教えるは矢張り慶應義塾ばかりであった。何でも廃藩置県の後に至るまでは、慶應義塾ばかりが洋学を専らにして、ソレから文部省と云(い)うものが出来て、政府も大層(たいそう)教育に力を用うることになって来た。義塾は相変らず元の通りに生徒を教えて居て、生徒の数も段々殖(ふ)えて、塾生の数は常に二百から三百ばかり、教うる所の事は一切(いっさい)英学と定(さだ)め、英書を読み英語を解するようにとばかり教導して、古来日本に行われる漢学には重きを置かぬと云う風(ふう)にしたから、その時の生徒の中には漢書を読むことの出来ぬ者が随分(ずいぶん)あります。漢書を読まずに英語ばかりを勉強するから、英書は何でも読めるが日本の手紙が読めないと云うような少年が出来て来た。物事がアベコベになって、世間では漢書を読(よん)でから英書を学ぶと云(い)うのを、此方(こちら)には英書を学んでから漢書を学ぶと云う者もあった。波多野承五郎(はたのしょうごろう)などは小供の時から英書ばかり勉強して居たので、日本の手紙が読めなかったが、生れ付き文才があり気力のある少年だから、英学の跡(あと)で漢書を学べば造作もなく漢学が出来て、今では彼(あ)の通り何でも不自由なく立派な学者に成(なっ)て居ます。

教育の方針は数理と独立畢竟(ひっきょう)私がこの日本に洋学を盛(さかん)にして、如何(どう)でもして西洋流の文明富強国にしたいと云う熱心で、その趣は慶應義塾を西洋文明の案内者にして、恰(あたか)も東道の主人と為(な)り、西洋流の一手販売、特別エゼントとでも云うような役を勤めて、外国人に頼まれもせぬ事を遣(やっ)て居たから、古風な頑固な日本人に嫌われたのも無理はない。元来(がんらい)私の教育主義は自然の原則に重きを置(おい)て、数と理とこの二つのものを本(もと)にして、人間万事有形の経営は都(すべ)てソレから割出して行きたい。又一方の道徳論に於(おい)ては、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊自重(じちょう)苟(いやしく)も卑劣な事は出来ない、不品行な事は出来ない、不仁不義、不忠不孝ソンな浅ましい事は誰(たれ)に頼まれても、何事に切迫しても出来ないと、一身を高尚至極(しごく)にし所謂(いわゆる)独立の点に安心するようにしたいものだと、先(ま)ず土台を定めて、一心不乱に唯(ただ)この主義にのみ心を用いたと云うその訳(わ)けは、古来東洋西洋相対(あいたい)してその進歩の前後遅速を見れば、実に大造(たいそう)な相違である。双方共々に道徳の教(おしえ)もあり、経済の議論もあり、文に武におの/\長所短所ありながら、扨(さて)国勢の大体より見れば富国強兵、最大多数、最大幸福の一段(いつだん)に至れば、東洋国は西洋国の下に居らればならぬ。国勢の如何(いかん)は果して国民の教育より来(く)るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコで東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形に於(おい)て数理学と、無形に於て独立心と、この二点である。彼(か)の政治家が国事を料理するも、実業家が商売工業を働くも、国民が報国の念に富み、家族が団欒(だんらん)の情に濃(こまやか)なるも、その大本(たいほん)を尋(たずね)れば自(おのず)から由来する所が分る。近く論ずれば今の所謂(いわゆる)立国の有らん限り、遠く思えば人類のあらん限り、人間万事、数理の外(ほか)に逸(いっ)することは叶わず、独立の外に依(よ)る所なしと云(い)うべきこの大切なる一義を、我日本国に於ては軽(かろ)く視(み)て居る。是(こ)れでは差向き国を開(ひらい)て西洋諸強国と肩を並べることは出来そうにもしない。全く漢学教育の罪であると深く自(みず)から信じて、資本もない不完全な私塾に専門科を設けるなどは迚(とて)も及ばぬ事ながら、出来る限りは数理を本(もと)にして教育の方針を定め、一方には独立論の主義を唱えて、朝夕(ちょうせき)一寸(ちょっと)した話の端(はし)にもその必要を語り、或(あるい)は演説に説(と)き或(あるい)は筆記に記しなどしてその方針に導き、又自分にも様々工風(くふう)して躬行実践(きゅうこうじっせん)を勉(つと)め、ます/\漢学が不信仰になりました。今日にても本塾の旧生徒が社会の実地に乗出して、その身分職業の如何(いかん)に拘(かかわ)らず物の数理に迂闊(うかつ)ならず、気品高尚にして能(よ)く独立の趣意(しゅい)を全うする者ありと聞けば、是(こ)れが老余の一大楽事です。

 右の通り私は唯(ただ)漢学が不信仰で、漢学に重きを置かぬ計(ばか)りでない、一歩を進めて所謂(いわゆる)腐儒の腐説を一掃して遣(や)ろうと若い時から心掛けました。ソコで尋常一様の洋学者や通詞(つうじ)など云(い)うような者が漢学者の事を悪く云うのは普通の話で、余り毒にもならぬ。所が私は随分(ずいぶん)漢書を読(よん)で居る。読で居ながら知らない風(ふう)をして毒々敷(し)い事を言うから憎まれずには居られない。他人に対しては真実素人のような風をして居るけれども、漢学者の使う故事などは大抵知(しっ)て居る、と云うのは前にも申した通り、少年の時から六(むず)かしい経史をやかましい先生に授けられて本当に勉強しました。左国史漢は勿論(もちろん)、詩経、書経のような経義(けいぎ)でも、又は老子荘子のような妙な面白いものでも、先生の講義を聞き又自分に研究しました。是れは豊前(ぶぜん)中津(なかつ)の大儒白石(しらいし)先生の賜(たまもの)である。どの経史の義を知(しっ)て、知らぬ風(ふう)をして折々漢学の急処のような所を押えて、話にも書(かい)たものにも無遠慮に攻撃するから、是(こ)れぞ所謂(いわゆる)獅子身中(しんちゅう)の虫で、漢学の為(た)めには私は実に悪い外道(げどう)である。斯(か)くまでに私が漢学を敵にしたのは、今の開国の時節に、陳(ふる)く腐れた漢説が後進少年生の脳中に蟠(わだか)まっては、迚(とて)も西洋の文明は国に入ることが出来ないと飽(あ)くまでも信じて疑わず、如何(いか)にもして彼等を救出(すくいだ)して我が信ずる所に導かんと、有らん限りの力を尽(つく)し、私の真面目(しんめんもく)を申せば、日本国中の漢学者は皆来い、乃公(おれ)が一人で相手になろうと云うような決心であった。ソコで政府を始め世間一般の有様を見れば、文明の教育稍々(やや)普(あま)ねしと雖(いえど)も、中年以上の重(おも)なる人は迚も洋学の佳境に這入(はい)ることは出来ず、何(なん)か事を謀(はか)り事を断ずる時には余儀(よぎ)なく漢書を便(たより)にして、万事ソレから割出すと云う風潮の中に居て、その大切な霊妙不思議な漢学の大主義を頭から見下して敵にして居るから、私の身の為めには随分(ずいぶん)危ない事である。

著書飜訳一切独立又(また)維新前後は私が著書飜訳(ほんやく)を勉(つと)めた時代で、その著訳書の由来は福澤全集の緒言(ちょげん)に記してあるから之(これ)を略しますが、元来(がんらい)私の著訳は真実私一人の発意(ほつい)で、他人の差図も受けねば他人に相談もせず、自分の思う通りに執筆して、時の漢学者は無論、朋友たる洋学者へ草稿を見せたこともなければ、況(ま)して序文題字など頼んだこともない。是(こ)れも余り殺風景で、実は当時の故老先生とか云(い)う人に序文でも書かせた方が宜(よ)かったか知れないが、私は夫(そ)れが嫌いだ。ソンな事かた/″\で、私の著訳書は事実の如何(いかん)に拘(かか)わらず古風な人の気に入る筈(はず)はない。ソレでもその書が殊更(ことさ)らに大(おおい)に流行したのは、文明開国の勢(いきおい)に乗じたことでありましょう。

義塾三田に移る慶應義塾が芝(しば)の新銭座(しんせんざ)を去て三田の只(ただ)今の処に移(うつっ)たのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月私が酷(ひど)い熱病に罹(かか)り、病後神経が過敏になった所為(せい)か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。又(また)事実湿地でもあるから何処(どこ)かに引移りたいと思い、飯倉(いいくら)の方に相当の売家(うりや)を捜出(さがしだ)して略(ほぼ)相談を極(き)めようとするときに、塾の人の申すに、福澤が塾を棄(す)てゝ他に移るなら塾も一緒に移ろうと云う説が起(おこっ)て、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように方々(ほうぼう)の明屋敷(あきやしき)を捜して廻(ま)わり、彼処(そこ)でもない此処(ここ)でもないと勝手次第に宜(よ)さそうな地所(じしょ)を見立てゝ、いよ/\芝の三田(みた)にある島原(しまばら)藩の中屋敷が高燥(こうそう)の地で海浜(かいひん)の眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、此方(こっち)の説が決した計(ばか)りで、その屋敷は他人の屋敷であるから、之(これ)を手に入れるには東京府に頼み、政府から島原(しまばら)藩に上地(じょうち)を命じて、改めて福澤に貸渡すと云(い)う趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るように拵(こしら)えねばならぬと云うので、時の東京府知事に頼込(たのみこ)むは勿論(もちろん)、私の平生(へいぜい)知(しっ)て居る佐野常民(さのつねたみ)その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生掛(そうがか)りにて運動する中に、或日(あるひ)私は岩倉(いわくら)公の家に参り、初めて推参なれども御目(おめ)に掛りたいと申込んで公に面会、色々塾の事情を話して、詰(つま)り島原藩の屋敷を拝借したいと云(い)う事を内願して、是(こ)れも快く引受けて呉(く)れる。何処(どこ)も此処(ここ)も至極(しごく)都合の好(よ)い折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たと云うは、当時東京の取締には邏卒(らそつ)とか何とか云う名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲を担(かつ)いで市中を巡廻(じゅんかい)して居るその有様(ありさま)の殺風景とも何とも、丸で戦地のように見える。政府も之(これ)を宜(よ)くないことゝ思い、西洋風にポリスの仕組(しくみ)に改革しようと心付きはしたが、扨(さて)そのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でも宜(よろ)しい、取調べて呉(く)れぬかと、役人が私方に来て懇々内談するその様子は、この取調(とりしらべ)さえ出来れば何か礼をすると云(い)うように見えるから、此方(こっち)は得たり賢し、お易(やす)い御用で御座(ござ)る、早速(さっそく)取調べて上げましょうが、私の方からも願(ねがい)の筋(すじ)がある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田(みた)の島原(しまばら)の屋敷地を拝借いたしたい、是(こ)れ丈(だ)けは厚く御含(おふくみ)を願うと云うは、巡査法の取調と屋敷地の拝借と交易にしようと云うような塩梅(あんばい)に持掛(もちか)けて、役人も否(いな)と云わずに黙諾(もくだく)して帰る。ソレから私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を飜訳(ほんやく)し、綴(つづ)り合せて一冊に認(したた)め早々清書して差出した所が、東京府ではこの飜訳を種(たね)にして尚(な)お市中の実際を斟酌(しんしゃく)し様々に工風(くふう)して、断然彼(か)の兵士の巡廻(じゅんかい)を廃し、改めて巡邏(じゅんら)と云(い)うものを組織し、後に之(これ)を巡査と改名して東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。ソコで東京府も私に対して自(おのず)から義理が出来たような訳(わ)けで、屋敷地の一条もスラ/\行われて、島原の屋敷を上地させて福澤に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にて所謂(いわゆる)大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよ/\塾を移したのが明治四年の春でした。

敬礼を止める引越(ひきこ)して見れば誠に広々とした屋敷で申分(もうしぶん)なし。御殿を教場にし、長局(ながつぼね)を書生部屋にして、尚(な)お足らぬ処は諸方諸屋敷の古長屋を安く買取(かいとっ)て寄宿舎を作りなどして、俄(にわか)に大きな学塾に為ると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙を以(もっ)て慶應義塾の面目を新(あらた)にしました。序(ついで)ながら一(いっ)奇談を語りましょう。新銭座(しんせんざ)入塾から三田(みた)に引越(ひっこ)し、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大な事も新旧較(くら)べものにならぬ。新塾の教場即(すなわ)ち御殿の廊下などは九尺巾(きゅうしゃくはば)もある。私は毎日塾中を見廻り、日曜は殊(こと)に掃除日と定めて書生部屋の隅まで一々検(あらた)め、大小便所の内まで私が自分で戸を明(あ)けて細(こまか)に見ると云(い)うようにして居たから、一日に幾度(いくた)び廊下を通(とおっ)て幾人の書生に逢うか知れない。所がその行逢(ゆきあ)う毎(ごと)に、新入生などは勝手を知らずに、私の顔を見ると丁寧に辞儀(じぎ)をする。先方(さき)から丁寧に遣(や)れば、此方(こっち)も之(これ)に応じて辞儀をしなければならぬ。忙しい中にウルサクて堪(た)まらぬ。ソレから先進の教師連に尋ねて、「廊下で書生のお辞儀(じぎ)に困りはせぬか、双方の手間潰(てまつぶし)だがと云(い)うと、何(いず)れも同様、塾が広くなって家の内の御辞儀には閉口と云うから、「よし来た、乃公(おれ)が広告を掲示して遣(や)ると云(いっ)て、

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