21話 福翁自伝 02 福翁自伝(21)
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》されて、ソレを又上から鎗で突たと云うような大騒動。所で私の倅はお祖母さんの処に居る、奥平の屋敷も焼かれて仕舞うだろう、あの子とお祖母さんはドウなろうかと大変な心配で、迎いに遣ろうと云ても遣ることも出来ない。夫れ是れする中に夕方になった所で事は鎮まって仕舞たが、その時でも大変に優しくて、ジッとして居ればドウもしない、何もこの内に居る者に怪我をさせようともしなければ乱暴もしない、チャンと軍令と云うものがあって締りが付て居るから安心しなさいと頻りに和めて一寸とも手を触れないと云う一例でも、官軍の存外優しかったことが分る。前に思たとは大違い、何ともない。
義塾次第に繁昌扨四月になった所で普請も出来上り、塾生は丁度慶応三年と四年の境が一番諸方に散じて仕舞て、残た者は僅に十八人、夫れから四月になった所が段々帰て来て、追々塾の姿を成して次第に盛になる。又盛になる訳けもある、と云うのは今度私が亜米利加に行た時には、其以前、亜米利加に行た時よりも多く金を貰いました。所で旅行中の費用は都て官費であるから、政府から請取た金は皆手元に残る故、その金を以て今度こそは有らん限りの原書を買て来ました。大中小の辞書、地理書、歴史等は勿論、その外法律書、経済書、数学書などもその時殆めて日本に輸入して、塾の何十人と云う生徒に銘々その版本を持たして立派に修業の出来るようにしたのは、実に無上の便利でした。ソコデその当分十年余も亜米利加出版の学校読本が日本国中に行われて居たのも、畢竟私が始めて持て帰たのが因縁になったことです。その次第は生徒が始めて塾で学ぶ、その学んで卒業した者が方々に出て教師になる、教師になれば自分が今まで学んだものをその学校に用るのも自然の順序であるから、日本国中に慶應義塾に用いた原書が流布して広く行われたと云うのも、事の順序はよく分て居ます。
官賊の間に偏せず党せずそれで先ず官軍は存外柔かなものであって、何も心配はない。併し政治上の事は極めて鋭敏なもので、嫌疑と云うことがあっては是れは容易ならぬ訳けであるから、ソレを明にする為めに、私は一切万事何も斯も打明けて、一口に云えば塾も住居も殻明きにして仕舞い、何処を捜した所で鉄砲は勿論一挺もなし、刃物もなければ飛道具もない、一目明白、直に分るようにしました。始終爾う云う身構えにして居るから、私の処には官軍方の人も颯々と来れば、賊軍の人も颯々と出入りして居て、私は官でも賊でも一切構わぬ、何方に向ても依怙贔屓なしに扱て居るから、双方共に朋友でした。その時に斯う云う面白い事がありました。官軍が江戸に乗込んでマダ賊軍が上野に籠らぬ前に、市川辺に小競合がありました。爾うすると賊軍方の者が夜は其処に行て戦て、昼は睡いからと云て塾に来て寝て居た者があったが、根から構わない。私はその人の話を聞て、「君はソンナ事をして居るのか、危ない事だ、マア止にした方が宜かろうと云たくらいのことである。
古川節蔵脱走夫れから古川節蔵は長崎丸と云う船の艦長であったが、榎本釜次郎よりも先駈けして脱走すると云うので、私にその事を話した。所が節蔵は先年私が大阪から連れて来た男で、弟のようにして居たから、私はその話を聞て親切に止めました。「ソリャ止すが宜い、迚も叶わない、戦争すれば必ず負けるに違いない。東西ドチラが正しいとか正しくないとか云うような理非曲直は云わないが、何しろ斯う云う勢になったからは、モウ船に乗て脱走したからとて勝てそうにもしないから、ソレは思い止まるが宜いと云た所が、節蔵はマダなか/\強気で、「ナアに屹度勝つ、是れから出掛けて行て、諸方に出没して居る同志者をこの船に乗せて便利の地に挙げて、官軍が江戸の方に遣て来るその裏を衡て、夫れから大阪湾に行て掻廻せば官軍が狼狽すると云うような事になって、屹度勝算はありますと云て、中々私の云うことを聞かないから、「爾うか、ソレならば勝手にするが宜い、乃公はモウ負けても勝ても知らないぞ。だが乃公は足下を助けようとは思わぬ。唯可哀そうなのはお政さんだ(節蔵氏の内君)、ソレ丈けは生きて居られるように世話をして遣る、足下は何としても云う事を聞かないから仕方がない、ドウでもしなさいと云て別れたことがあります。
発狂病人一条米国より帰来もう一ヶ条。この時に仙台の書生で、以前この塾に居て夫れから亜米利加に留学して居た一条某と云うものがあって、ソレが亜米利加から帰て来た。所がこの男が発狂して居ると云う。ソレを船中で親切に看病して呉れたと云うのは、矢張り一条と同時に塾に居た柳本直太郎、是れはこの間まで愛知県の書記官をして居たが、今では市長か何かになって居るそうだ。この柳本直太郎が親切に看病して、横浜に着船した。その時は丁度仙台藩がいよ/\朝敵になったときで、江戸中で仙台人と見れば見付次第捕縛と云うことになって居る。ソコで横浜に来た所が、正しく仙台人だ、捕縛しようかと云うに、紛う方なき発狂人だ、ドウにも手の着けようがない。その時に寺島(宗則)が横浜の奉行をして居て、発狂人は仕方がないから打遣て置けと云うような事でその儘にしてあるその中に、病人は人を疑う病症を発して、飲食物に毒があると云て一切受付けず、凡そ一週間余り何も飲食しない。飲食しないからその儘棄てゝ置けば餓死する。ソコでいろ/\と和めて勧めたけれども何としても喰わない。爾うすると、不意としたことで、その病人が福澤先生に遇いたいと云うことを云出した。福澤は江戸に居ましょう、ソコで横浜に置くなら宜いが江戸に連れて行くのはドウかと思て、御奉行(寺島)に伺た所が、御奉行様も福澤に行くと云うなら颯々と連れて行けと云うので、ソレから新銭座に連れて来た。ソレが面白い、来た所で先ず取敢えず久振りと云て茶を出して、茶も飲め、序に飯も喰えと勧めて、夫れから握飯を出して、私も喫べるから君も一つ喫べなさい、ソレが喫べられなければ私の喫べ掛けを半分喫べなさい、毒はないじゃないかと云うようなことで試みた所が、ソコで喰出した。喰て見れば気狂いの事だから、今まで思て居たことは忘れて仕舞い、新銭座に来て安心したと見え、食気は回復して、ソレは宜いが、マダ/″\病人が何を遣り出すか知れない、昼夜番が要る。所が可笑しい。その時に薩州の者も居れば土州の者も居る、その官軍一味の者が居て、朝敵だから捕縛しようと云う位な病人を扶けて看柄して居る。爾うすると仙台の者が忍んで来る。大槻の倅なども内々見舞に来て、官軍と賊軍と塾の中で混り合て、朝敵藩の病人を看病して居ながら、何も風波もなければ苦味もない。ソンナ事が塾の安全であった訳けでしょう。真実平等区別なし、疑わんとするも疑うべき種がない。一方には脱走して賊軍に投ずるがあるかと思えば、一方にはチャンと塾に這入て居る官軍もあると云うような不思議な次第柄で、斯う云う事は造たのじゃ出来ぬ、装うても出来ぬ、私は腹の底から偏頗な考がない、少しも幕府の事を感服しなければ、官軍の事をも感服しない、戦争するなら銘々勝手にしろと、裏も表もなくその趣意で貫いて居たから、私の身も塾も危い所を無難に過したことゝ思う。
新政府の御用召夫れからいよ/\王政維新と定まって、大阪に明治政府の仮政府が出来て、その仮政府から命令が下た。御用があるから出て来いと一番始めに沙汰のあったのが、神田孝平と柳川春三と私と三人。所が柳川春三はドウも大阪に行くのは嫌だ、だから命は奉ずるけれども御用があればドウゾ江戸に居て勤めたいと云う注文。神田孝平は命に応じて行くと云う。私は一も二もなく病気で出られませぬと断り。その後大阪の仮政府は江戸に遷て来て、江戸の新政府から又御用召で度々呼びに来ましたけれども、始終断る計り。或時神田孝平が私の処へ是非出ろと云て勧めに来たから、私は之に答えて、「一体君は何う思うか、男子の出処進退は銘々の好む通りにするが宜いではないか、世間一般そうありたいものではないか、之に異論はなかろう。ソコデ僕の目から見ると、君が新政府に出たのは君の平生好む所を実行して居るのだから僕は甚だ賛成するけれども、僕の身には夫れが嫌いだ、嫌いであるから出ないと云うものも是亦自分の好む所を実行するのだから、君の出て居るのと同じ趣意ではないか。左れば今僕は君の進退を賛成して居るから、君も亦僕の進退を賛成して、福澤は能く引込んで居る、旨いと云て誉めてこそ呉れそうなものだ。夫れを誉めもせずに呼出しに来るとは友達甲斐がないじゃないかと大に論じて、親友の間であるから遠慮会釈もなく刎付けたことがある。
学者を誉めるなら豆腐屋も誉めろ夫れから幾ら呼びに来ても政府へはモウ一切出ないと説を極めて居た所が、或日細川潤次郎が私の処へ来たことがある。その時はマダ文部省と云うものゝない時で、何でもこの政府の学校の世話をしろと云う。イヤそれは往けない、自分は何もそんな事はしないと答え、夫れからいろ/\の話もあったが、細川の云うに、ドウしても政府に於て只棄てゝ置くと云う理屈はないのだから、政府から君が国家に尽した功労を誉めるようにしなければならぬと云うから、私は自分の説を主張して、誉めるの誉められぬのと全体ソリャ何の事だ、人間が人間当前の仕事をして居るに何も不思議はない、車屋は車を挽き豆腐屋は豆腐を拵えて書生は書を読むと云うのは人間当前の仕事として居るのだ、その仕事をして居るのを政府が誉めると云うなら、先ず隣の豆腐屋から誉めて貰わなければならぬ、ソンな事は一切止しなさいと云て断たことがある。是れも随分暴論である。
マア斯う云うような調子で、私は酷く政府を嫌うようにあるけれども、その真実の大本を云えば、前に申した通りドウしても今度の明治政府は古風一天張りの攘夷政府と思込んで仕舞たからである。攘夷は私の何より嫌いな事で、コンな始末では仮令い政府は替ても迚も国は持てない、大切な日本国を滅茶苦茶にして仕舞うだろう本当に爾う思た所が、後に至てその政府が段々文明開化の道に進んで今日に及んだと云うのは、実に難有い目出たい次第であるが、その目出たかろうと云うことが私には始めから測量が出来ずに、唯その時に現れた実の有様に値を付けて、コンな古臭い攘夷政府を造て馬鹿な事を働いて居る諸藩の分らず屋は、国を亡ぼし兼ねぬ奴等じゃと思て、身は政府に近づかずに、唯日本に居て何か勉めて見ようと安心決定したことである。
英国王子に潔身の祓私が明治政府を攘夷政府と思たのは、決して空に信じたのではない、自から憂うべき証拠がある。先ず爰に一奇談を申せば、王政維新となって明治元年であったか二年であったか歳は覚えませぬが、英吉利の王子が日本に来遊、東京城に参内することになり、表面は外国の貴賓を接待することであるから固より故障はなけれども、何分にも穢れた外国人を皇城に入れると云うのはドウも不本意だと云うような説が政府部内に行われたものと見えて、王子入城の時に二重橋の上で潔身の祓をして内に入れたことがある、と云うのは夷狄の奴は不浄の者であるからお祓をして体を清めて入れると云う意味でしょう。所がソレが宜い物笑いの種サ。その時に亜米利加の代理公使にポルトメンと云う人が居まして、毎度ワシントン政府に自分の任所の模様を報知して遣る、けれども余り必要でない事は大統領がその報告書を見ない、此方では又ソレを見て貰うのが公使の名誉としてある。ソコで公使が今度英の王子入城に付き潔身の祓云々の事を探り出して大に悦び、是れは締めた、この大奇談を報告すれば大統領が見て呉れるに違いないと云うので、その表書に即ちエッヂンボルフ王子の清めと云う可笑しな不思議な文字を書て、中の文句はドウかと云うに、この日本は真実、自尊自大の一小鎖国にして、外国人をば畜生同様に取扱うの常なり、既にこの程英吉利の王子入城謁見のとき、城門外に於て潔身の祓を王子の身辺に施したり、抑も潔身の祓とは上古穢れたる者を清めるに灌水法を行いしが、中世、紙の発明以来紙を以て御幣なるものを作り、その御幣を以て人の身体を撫で、水の代用として一切の不浄不潔を払うの故実あり、故に今度英の王子に施したるはその例に由ることにして、日本人の眼を以て見れば王子も亦唯不浄の畜生たるに過ぎず云々とて、筆を巧に事細かに書て遣たことがある。ソレは私が尺振八から詳に聞きました。この尺振八と云う人はその時、亜米利加公使館の通弁をして居たので、尺が私の処に来てこの間是れ/\の話、大笑いではないかと云て、その事実もその書面の文句も私に親しく話して聞かせましたが、実に苦々しい事で、私は之を聞て笑い所ではない泣きたく思いました。
米国前の国務卿又日本を評す又その頃、亜米利加の前国務卿シーワルトと云う人が、令嬢と同伴して日本に来遊したことがある。この人は米国有名の政治家で、彼の南北戦争のとき専ら事に当て、リンコルンの遭難と同時に兇徒に傷けられたこともある。元来英国人とは反りが合わずに、云わば日本贔屓の人でありながら、今度来遊、その日本の実際を見て何分にも贔屓が出来ぬ、こんな根性の人民では気の毒ながら自立は六かしいと断言したこともある。ソコデ私の見る所で、新政府人の挙動は都て儒教の糟粕を嘗め、古学の固陋主義より割出して空威張りするのみ。顧みて外国人の評論を聞けば右の通り。迚も是れは仕方がないと真実落胆したれども、左りとて自分は日本人なり、無為にしては居られず、政治は兎も角も之を成行に任せて、自分は自分にて聊か身に覚えたる洋学を後進生に教え、又根気のあらん限り著書飜訳の事を勉めて、万が一にも斯民を文明に導くの僥倖もあらんかと、便り少なくも独り身構えした事である。
子供の行末を思うその時の私の心事は実に淋しい有様で、人に話したことはないが今打明けて懺悔しましょう。維新前後、無茶苦茶の形勢を見て、迚もこの有様では国の独立は六かしい、他年一日外国人から如何なる侮辱を被るかも知れぬ、左ればとて今日全国中の東西南北何れを見ても共に語るべき人はない、自分一人では勿論何事も出来ず亦その勇気もない、実に情ない事であるが、いよ/\外人が手を出して跋扈乱暴と云うときには、自分は何とかしてその禍を避けるとするも、行く先きの永い子供は可愛そうだ、一命に掛けても外国人の奴隷にはしたくない、或は耶蘇宗の坊主にして政事人事の外に独立させては如何、自力自食して他人の厄介にならず、その身は宗教の坊主と云えば自から辱しめを免かるゝこともあらんかと、自分に宗教の信心はなくして、子を思うの心より坊主にしようなどゝ種々無量に考えたことがあるが、三十年の今日より回想すれば恍として夢の如し、唯今日は世運の文明開化を難有く拝するばかりです。
授業料の濫觴扨鉄砲洲の塾を芝の新銭座に移したのは明治元年即ち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取て慶應義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第に盛になる。塾が盛になって生徒が多くなれば塾舎の取締も必要になるからして、塾則のようなものを書て、是れも写本は手間が取れると云うので版本にして、一冊ずつ生徒に渡し、ソレには色々箇条のある中に、生徒から毎月金を取ると云うことも慶應義塾が創めた新案である。従前、日本の私塾では支那風を真似たのか、生徒入学の時には束脩を納めて、教授する人を先生と仰ぎ奉り、入学の後も盆暮両度ぐらいに生徒銘々の分に応じて金子なり品物なり熨斗を附けて先生家に進上する習わしでありしが、私共の考えに、迚もこんな事では活溌に働く者はない、教授も矢張り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構うことはないから公然価を極めて取るが宜いと云うので、授業料と云う名を作て、生徒一人から毎月金二分ずつ取立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。その時塾に眠食する先進長者は、月に金四両あれば喰うことが出来たので、ソコで毎月生徒の持て来た授業料を掻き集めて、教師の頭に四両ずつ行渡れば死はせぬと大本を定めて、その上に尚お余りがあれば塾舎の入用にすることにして居ました。今では授業料なんぞは普通当然のようにあるが、ソレを始めて行うた時は実に天下の耳目を驚かしました。生徒に向て金二分持て来い、水引も要らなければ熨斗も要らない、一両持て来れば釣を遣るぞと云うように触込んでも、ソレでもちゃんと水引を掛けて持て来るものもある。スルとこんな物があると札を検める邪魔になると云て、態と上包を還して遣るなどは随分殺風景なことで、世間の人の驚いたのも無理はないが、今日それが日本国中の風俗習慣になって、何ともなくなったのは面白い。何事に由らず新工風を運らして之を実地に行うと云うのは、その事の大小を問わず余程の無鉄砲でなければ出来たことではない。左る代りに夫れが首尾能く参て、何時の間にか世間一般の風になれば、私の為めには恰も心願成就で、こんな愉快なことはありません。
上野の戦争新銭座の塾は幸に兵火の為めに焼けもせず、教場もどうやらこうやら整理したが、世間は中々喧しい。明治元年の五月、上野に大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理茶屋も皆休んで仕舞て、八百八町は真の闇、何が何やら分らない程の混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業を罷めない。上野ではどん/″\鉄砲を打て居る、けれども上野と新銭座とは二里も離れて居て、鉄砲玉の飛で来る気遣はないと云うので、丁度あの時私は英書で経済の講釈をして居ました。大分騒々敷い容子だが烟でも見えるかと云うので、生徒等は面白がって梯子に登て屋根の上から見物する。何でも昼から暮過ぎまでの戦争でしたが、此方に関係がなければ怖い事もない。
日本国中唯慶應義塾のみ此方がこの通りに落付払て居れば、世の中は広いもので又妙なもので、兵馬騒乱の中にも西洋の事を知りたいと云う気風は何処かに流行して、上野の騒動が済むと奥州の戦争と為り、その最中にも生徒は続々入学して来て、塾はます/\盛になりました。顧みて世間を見れば、徳川の学校は勿論潰れて仕舞い、その教師さえも行衛が分らぬ位、況して維新政府は学校どころの場合でない、日本国中苟も書を読で居る処は唯慶應義塾ばかりと云う有様で、その時に私が塾の者に語たことがある。昔し/\拿破翁の乱に和蘭国の運命は断絶して、本国は申すに及ばず印度地方まで悉く取られて仕舞て、国旗を挙げる場所がなくなった。所が、世界中纔に一箇処を遺した。ソレは即ち日本長崎の出島である。出島は年来和蘭人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭に飜々して和蘭王国は曾て滅亡したることなしと、今でも和蘭人が誇て居る。シテ見るとこの慶應義塾は日本の洋学の為めには和蘭の出島と同様、世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だ曾て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶應義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するなと申して、大勢の少年を励ましたことがあります。
塾の始末に困る、楽書無用夫れはそれとして又一方から見れば、塾生の始末には誠に骨が折れました。戦争後意外に人の数は増したが、その人はどんな種類の者かと云うに、去年から出陣してさん/″\奥州地方で戦て漸く除隊になって、国には帰らずに鉄砲を棄てゝその儘塾に来たと云うような少年生が中々多い。中にも土佐の若武者などは長い朱鞘の大小を挟して、鉄砲こそ持たないが今にも斬て掛ろうと云うような恐ろしい顔色をして居る。爾うかと思うとその若武者が紅い女の着物を着て居る。是れはドウしたのかと云うと、会津で分捕りした着物だと云て威張て居る。実に血腥い怖い人物で、一見先ず手の着けようがない。ソコデ私は前申す通り新銭座の塾を立てると同時に極めて簡単な塾則を拵えて、塾中金の貸借は一切相成らぬ、寝るときは寝て、起るときは起き、喰うときには定めの時間に食堂に出る、夫れから楽書一切相成らぬ、壁や障子に楽書を禁ずるは勿論、自分所有の行灯にも机にも一切の品物に楽書は相成らぬと云うくらいの箇条で、既に規則を極めた以上はソレを実行しなくてはならぬ。ソコで障子に楽書してあれば私は小刀を以て其処だけ切破て、この部屋に居る者が元の通りに張れと申付ける。夫れから行灯に書てあれば、誰の行灯でも構わぬ、その持主を咎めると、時としてはその者が、「是れは自分でない、人の書たのですと云ても私は許さぬ。人が書たと云うのは云訳けにならぬ、自分の行灯に楽書されてソレを見て居ると云うのは馬鹿だ、馬鹿の罰に早々張替えるが宜しい、楽書した行灯は塾に置かぬ、破るからアトを張て置きなさいと云うようにして、寸毫も仮さない。如何に血腥い若武者が何と云おうとも、そんな事を恐れて居られない。ミシ/\遣付けて遣る。名は忘れたが、不図見た所が桐の枕に如何な楽書がしてある。「コリャ何だ。銘々の私有品でも楽書は一切相成らぬと云たではないか、ドウ云う訳けだ、一句の返答も出来なかろう。この枕は私は削りたいけれども削ることが出来ない、打毀わすから代りを取て来なさいと云て、その枕を取上げて足で踏潰して、サアどうでもしろ、攫み掛て来るなら相手になろうと云わぬばかりの思惑を示した所で、決して掛らぬ。全体私は骨格は少し大きいが、本当は柔術も何も知らない、生れてから人を打たこともない男だけれども、その権幕はドウも撃ちそうな攫み掛りそうな気色で、口の法螺でなくして身体の法螺で吹倒した。所が皆小さくなって言うことを聞くようになって来て、ソレでマア戦争帰りの血腥い奴も自から静になって塾の治まりが付き、その中には真成な大人しい学者風の少年も多く、至極勉強してます/\塾風を高尚にして、明治四年まで新銭座に居ました。
始めて文部省維新の騒乱も程なく治まって天下太平に向て来たが、新政府はマダマダ跡の片付が容易な事でなくして、明治五、六年までは教育に手を着けることが出来ないで、専ら洋学を教えるは矢張り慶應義塾ばかりであった。何でも廃藩置県の後に至るまでは、慶應義塾ばかりが洋学を専らにして、ソレから文部省と云うものが出来て、政府も大層教育に力を用うることになって来た。義塾は相変らず元の通りに生徒を教えて居て、生徒の数も段々殖えて、塾生の数は常に二百から三百ばかり、教うる所の事は一切英学と定め、英書を読み英語を解するようにとばかり教導して、古来日本に行われる漢学には重きを置かぬと云う風にしたから、その時の生徒の中には漢書を読むことの出来ぬ者が随分あります。漢書を読まずに英語ばかりを勉強するから、英書は何でも読めるが日本の手紙が読めないと云うような少年が出来て来た。物事がアベコベになって、世間では漢書を読でから英書を学ぶと云うのを、此方には英書を学んでから漢書を学ぶと云う者もあった。波多野承五郎などは小供の時から英書ばかり勉強して居たので、日本の手紙が読めなかったが、生れ付き文才があり気力のある少年だから、英学の跡で漢書を学べば造作もなく漢学が出来て、今では彼の通り何でも不自由なく立派な学者に成て居ます。
教育の方針は数理と独立畢竟私がこの日本に洋学を盛にして、如何でもして西洋流の文明富強国にしたいと云う熱心で、その趣は慶應義塾を西洋文明の案内者にして、恰も東道の主人と為り、西洋流の一手販売、特別エゼントとでも云うような役を勤めて、外国人に頼まれもせぬ事を遣て居たから、古風な頑固な日本人に嫌われたのも無理はない。元来私の教育主義は自然の原則に重きを置て、数と理とこの二つのものを本にして、人間万事有形の経営は都てソレから割出して行きたい。又一方の道徳論に於ては、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊自重苟も卑劣な事は出来ない、不品行な事は出来ない、不仁不義、不忠不孝ソンな浅ましい事は誰に頼まれても、何事に切迫しても出来ないと、一身を高尚至極にし所謂独立の点に安心するようにしたいものだと、先ず土台を定めて、一心不乱に唯この主義にのみ心を用いたと云うその訳けは、古来東洋西洋相対してその進歩の前後遅速を見れば、実に大造な相違である。双方共々に道徳の教もあり、経済の議論もあり、文に武におの/\長所短所ありながら、扨国勢の大体より見れば富国強兵、最大多数、最大幸福の一段に至れば、東洋国は西洋国の下に居らればならぬ。国勢の如何は果して国民の教育より来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコで東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形に於て数理学と、無形に於て独立心と、この二点である。彼の政治家が国事を料理するも、実業家が商売工業を働くも、国民が報国の念に富み、家族が団欒の情に濃なるも、その大本を尋れば自から由来する所が分る。近く論ずれば今の所謂立国の有らん限り、遠く思えば人類のあらん限り、人間万事、数理の外に逸することは叶わず、独立の外に依る所なしと云うべきこの大切なる一義を、我日本国に於ては軽く視て居る。是れでは差向き国を開て西洋諸強国と肩を並べることは出来そうにもしない。全く漢学教育の罪であると深く自から信じて、資本もない不完全な私塾に専門科を設けるなどは迚も及ばぬ事ながら、出来る限りは数理を本にして教育の方針を定め、一方には独立論の主義を唱えて、朝夕一寸した話の端にもその必要を語り、或は演説に説き或は筆記に記しなどしてその方針に導き、又自分にも様々工風して躬行実践を勉め、ます/\漢学が不信仰になりました。今日にても本塾の旧生徒が社会の実地に乗出して、その身分職業の如何に拘らず物の数理に迂闊ならず、気品高尚にして能く独立の趣意を全うする者ありと聞けば、是れが老余の一大楽事です。
右の通り私は唯漢学が不信仰で、漢学に重きを置かぬ計りでない、一歩を進めて所謂腐儒の腐説を一掃して遣ろうと若い時から心掛けました。ソコで尋常一様の洋学者や通詞など云うような者が漢学者の事を悪く云うのは普通の話で、余り毒にもならぬ。所が私は随分漢書を読で居る。読で居ながら知らない風をして毒々敷い事を言うから憎まれずには居られない。他人に対しては真実素人のような風をして居るけれども、漢学者の使う故事などは大抵知て居る、と云うのは前にも申した通り、少年の時から六かしい経史をやかましい先生に授けられて本当に勉強しました。左国史漢は勿論、詩経、書経のような経義でも、又は老子荘子のような妙な面白いものでも、先生の講義を聞き又自分に研究しました。是れは豊前中津の大儒白石先生の賜である。どの経史の義を知て、知らぬ風をして折々漢学の急処のような所を押えて、話にも書たものにも無遠慮に攻撃するから、是れぞ所謂獅子身中の虫で、漢学の為めには私は実に悪い外道である。斯くまでに私が漢学を敵にしたのは、今の開国の時節に、陳く腐れた漢説が後進少年生の脳中に蟠まっては、迚も西洋の文明は国に入ることが出来ないと飽くまでも信じて疑わず、如何にもして彼等を救出して我が信ずる所に導かんと、有らん限りの力を尽し、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者は皆来い、乃公が一人で相手になろうと云うような決心であった。ソコで政府を始め世間一般の有様を見れば、文明の教育稍々普ねしと雖も、中年以上の重なる人は迚も洋学の佳境に這入ることは出来ず、何か事を謀り事を断ずる時には余儀なく漢書を便にして、万事ソレから割出すと云う風潮の中に居て、その大切な霊妙不思議な漢学の大主義を頭から見下して敵にして居るから、私の身の為めには随分危ない事である。
著書飜訳一切独立又維新前後は私が著書飜訳を勉めた時代で、その著訳書の由来は福澤全集の緒言に記してあるから之を略しますが、元来私の著訳は真実私一人の発意で、他人の差図も受けねば他人に相談もせず、自分の思う通りに執筆して、時の漢学者は無論、朋友たる洋学者へ草稿を見せたこともなければ、況して序文題字など頼んだこともない。是れも余り殺風景で、実は当時の故老先生とか云う人に序文でも書かせた方が宜かったか知れないが、私は夫れが嫌いだ。ソンな事かた/″\で、私の著訳書は事実の如何に拘わらず古風な人の気に入る筈はない。ソレでもその書が殊更らに大に流行したのは、文明開国の勢に乗じたことでありましょう。
義塾三田に移る慶應義塾が芝の新銭座を去て三田の只今の処に移たのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月私が酷い熱病に罹り、病後神経が過敏になった所為か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。又事実湿地でもあるから何処かに引移りたいと思い、飯倉の方に相当の売家を捜出して略相談を極めようとするときに、塾の人の申すに、福澤が塾を棄てゝ他に移るなら塾も一緒に移ろうと云う説が起て、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように方々の明屋敷を捜して廻わり、彼処でもない此処でもないと勝手次第に宜さそうな地所を見立てゝ、いよ/\芝の三田にある島原藩の中屋敷が高燥の地で海浜の眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、此方の説が決した計りで、その屋敷は他人の屋敷であるから、之を手に入れるには東京府に頼み、政府から島原藩に上地を命じて、改めて福澤に貸渡すと云う趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るように拵えねばならぬと云うので、時の東京府知事に頼込むは勿論、私の平生知て居る佐野常民その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生掛りにて運動する中に、或日私は岩倉公の家に参り、初めて推参なれども御目に掛りたいと申込んで公に面会、色々塾の事情を話して、詰り島原藩の屋敷を拝借したいと云う事を内願して、是れも快く引受けて呉れる。何処も此処も至極都合の好い折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たと云うは、当時東京の取締には邏卒とか何とか云う名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲を担いで市中を巡廻して居るその有様の殺風景とも何とも、丸で戦地のように見える。政府も之を宜くないことゝ思い、西洋風にポリスの仕組に改革しようと心付きはしたが、扨そのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でも宜しい、取調べて呉れぬかと、役人が私方に来て懇々内談するその様子は、この取調さえ出来れば何か礼をすると云うように見えるから、此方は得たり賢し、お易い御用で御座る、早速取調べて上げましょうが、私の方からも願の筋がある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田の島原の屋敷地を拝借いたしたい、是れ丈けは厚く御含を願うと云うは、巡査法の取調と屋敷地の拝借と交易にしようと云うような塩梅に持掛けて、役人も否と云わずに黙諾して帰る。ソレから私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を飜訳し、綴り合せて一冊に認め早々清書して差出した所が、東京府ではこの飜訳を種にして尚お市中の実際を斟酌し様々に工風して、断然彼の兵士の巡廻を廃し、改めて巡邏と云うものを組織し、後に之を巡査と改名して東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。ソコで東京府も私に対して自から義理が出来たような訳けで、屋敷地の一条もスラ/\行われて、島原の屋敷を上地させて福澤に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にて所謂大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよ/\塾を移したのが明治四年の春でした。
敬礼を止める引越して見れば誠に広々とした屋敷で申分なし。御殿を教場にし、長局を書生部屋にして、尚お足らぬ処は諸方諸屋敷の古長屋を安く買取て寄宿舎を作りなどして、俄に大きな学塾に為ると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙を以て慶應義塾の面目を新にしました。序ながら一奇談を語りましょう。新銭座入塾から三田に引越し、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大な事も新旧較べものにならぬ。新塾の教場即ち御殿の廊下などは九尺巾もある。私は毎日塾中を見廻り、日曜は殊に掃除日と定めて書生部屋の隅まで一々検め、大小便所の内まで私が自分で戸を明けて細に見ると云うようにして居たから、一日に幾度び廊下を通て幾人の書生に逢うか知れない。所がその行逢う毎に、新入生などは勝手を知らずに、私の顔を見ると丁寧に辞儀をする。先方から丁寧に遣れば、此方も之に応じて辞儀をしなければならぬ。忙しい中にウルサクて堪まらぬ。ソレから先進の教師連に尋ねて、「廊下で書生のお辞儀に困りはせぬか、双方の手間潰だがと云うと、何れも同様、塾が広くなって家の内の御辞儀には閉口と云うから、「よし来た、乃公が広告を掲示して遣ると云て、