27話 福翁自伝 02 福翁自伝(27)
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か私が潔白な男のように見えるが、中々爾うでない。この潔白な男が本藩の政庁に対しては不潔白とも卑劣とも名状すべからざる挙動をして居ました。話は少々長いが、私が金銭の事に付き数年の間に豹変したその由来を語りましょう。王政維新のその時に、幕府から幕臣一般に三ヶ条の下問を発し、第一、王臣になるか、第二、幕臣になって静岡に行くか、第三、帰農して平に民になるかと云て来たから、私は無論帰農しますと答えて、その時から大小を棄てゝ丸腰になって仕舞い、ソコで是れまで幕府の家来になって居るとは云いながら、奥平からも扶持米を貰て居たので、幕臣でありながら半ばは奥平家の藩臣である。然るに今度いよ/\帰農と云えば、勿論幕府の物を貰う訳けもないから、同時に奥平家の方から貰て居る六人扶持か八人扶持の米も、御辞退申すと云て返して仕舞いました、と申すはその時に私の生活はカツ/\出来るか出来ないかと云う位であるが、併しドウかしたなら出来ないことはないと大凡その見込が付て居ました。前にも云う通り私は一体金の要らない男で、一方では多少の著訳書を売て利益を収め、又一方では頓と無駄な金を使わないから多少の貯蓄も出来て、赤貧ではない。是れから先き無病堅固にさえあれば、他人の世話にならずに衣食して行かれると考を定めて、ソレで男らしく奥平家に対しても扶持方を辞退しました。スルと奥平の役人達は却て之を面白く思わぬ。「ソンナにしなくても宜い、是れまで通り遣ろうと云て、その押問答がなか/\喧ましい。妙なもので、此方が貰おうと云うときには容易に呉れぬものだが、要らないと云うと向うが頻りに強うる。ソレで仕舞には、ドウもお前は不親切だ、モウ一歩進めると藩主に対して薄情不忠な奴だと云うまでになって来た。夫れから此方も意地になって、「ソレなら戴きましょう。戴きましょうだが、毎月その扶持米を精げて貰いたい。モ一つ序でにその米を飯か粥に焚て貰いたい。イヤ毎月と云わずに毎日貰いたい。都ての失費は皆米の内で償いさえすれば宜いから爾うして貰いたい。ソレでドウだと申すに、御扶持を貰わなければ不親切不忠と云われる、不忠の罪を犯すまでにして御辞退申す程の考はないから慎んで戴きます。願の通りその御扶持米が飯か粥になって来れば、私は新銭座私宅近処の乞食に触を出して、毎朝来い、喰わして遣ると申して、私が殿様から戴いた物を、私宅の門前に於て難渋者共に戴かせます積りですと云うような乱暴な激論で、役人達も困たと見え、とう/\私の云う通りに奥平藩の縁も切れて仕舞いました。
本藩に対してはその卑劣朝鮮人の如し斯う云えば私が如何にも高尚廉潔の君子のように見えるが、この君子の前後を丸出しにすると実は大笑いの話だ。是れは私一人でない、同藩士も同じことだ。イヤ同藩士ばかりでない、日本国中の大名の家来は大抵皆同じことであろう。藩主から物を貰えば拝領と云て、之に返礼する気はない。馳走になれば御酒下されなんと云て、気の毒にも思わず唯難有いと御辞儀をするばかりで、その実は人間相互いの附合いと思わぬから、金銭の事に就ても亦その通りでなければならぬ。私が中津藩に対する筆法は、金の辞退どころか唯取ること計り考えて、何でも構わぬ、取れる丈け取れと云う気で、一両でも十両でも旨く取出せば、何だか猟に行て獲物のあったような心持がする。拝借と云て金を借りた以上は此方のもので、返すと云う念は万々ない。仮初にも自分の手に握れば、借りた金も貰た金も同じことで、後の事は少しも思わず、義理も廉恥もないその有様は、今の朝鮮人が金を貪ると何にも変たことはない。嘘も吐けば媚も献じ、散々なことをして、藩の物を只取ろう/\とばかり考えて居たのは可笑しい。
百五十両を掠め去るその二、三ヶ条を云えば、小幡その外の人が江戸に来て居て、私が一切引受けて世話をして居るときに、藩から勿論ソレに立行く丈けの金を呉れよう訳けはない。ドウやら斯うやら種々様々に、私が有らん限りの才覚をして金を造た。例えば当時横浜に今のような欧字新聞がある、一週に一度ずつの発行、その新聞を取寄せて、ソレを飜訳しては、佐賀藩の留守居とか仙台藩の留守居とか、その外一、二藩もありました、ソンな人に話を付けて、ドウぞ飜訳を買て貰いたいと云て多少の金にするような工風をしたり、又は私が外国から持て帰た原書の中の不用物を売たりして金策をして居ましたが、何分大勢の書生の世話だからその位の事では迚も追付く訳けのものでない。所でその時江戸の藩邸に金のあることを聞込んだから、即案に宜い加減な事を書立て、何月何日頃何の事で自分の手に金の這入る約束があると云うような嘘を拵えて、誠めかしく家老の処に行て、散々御辞儀をして、斯う/\云う訳けですから暫時百五十両丈けの御振替を願いますと極手軽に話をすると、家老は逸見志摩と云う誠に正しい気の宜い人で、暫時のことならば拝借仰付けられても宜かろうと云うような曖昧な答をしたから、その笞を聞くや否やすぐにその次の元締役の奉行の処に行て、今御家老志摩殿に斯う云う話をした所が、貸して苦しくないと御聞済になったから、今日その御金を請取りたいと云うと、奉行は不審を抱き、ソレは何時の事だか知らぬがマダその筋から御沙汰にならぬと妙な顔色して居るから、仮令い御沙汰にならぬでもモウ事は済んで居ます、唯金をさえ渡して下されば宜しい、何も六かしい事はないと段々説た、所が家老衆が爾う云えば、御金のないことはない、余り不都合でもなかろうとその答も曖昧であったが、此方はモウ済んだ事にして仕舞て、その足で又その下役の元締小吟味、是れが真実その金庫の鍵を持て居る人であるその小吟味方の処へ行て、只今金を出して貰いたい、斯う/\云う次第で決してお前さんの落度になりはしない、正当な手順で、僅か三ヶ月経てば私の手にちゃんと金が出来るからすぐに返上すると云て、何の事はない、疾雷耳を掩うに遑あらず、役人と役人と評議相談のない間に、百五十両と云う大金を掠めて持て来たその時は、恰も手に竜宮の珠を握りたるが如くにして、且つその握た珠を竜宮へ返えそうなんと云う念は毛頭ない。誠に不埒な奴さ。夫れで以て一年ばかり大に楽をしたことがあります。
原書を名にして金を貪る又或る時、家老奥平壱岐の処に原書を持参して、御買上を願うと持込んだ所が、この家老は中々黒人、その原書を見て云うに、是れは宜い原書だ、大層高価のものだろうと頻りに賞めるから、此方はチャンと向うの腹を知て居る、有益な本で実価は安いなどと威張て出掛けると、ソレじゃ外へ持て行けと云うに極て居るから、一番、その裏を掻て、「左様です、原書は誠に必要な原書ですが、之を私が奥平様にお買上げを願うと云うのは、この代金を私が請取て、その金は私が使て、爾うしてその御買上げになった原書を私が拝借しようと斯う云うので、正味を申せば私がマア金を唯貰おうと云う策略でござる。斯くの通り平たく心の実を明らさまに申上げるのだから、ドウかこの原書を名にして金を下さい。一口に申せば私は体の宜い乞食、お貰い見たようなものでござると打付けた所が、家老も仕方がない、その訳けは、家老が以前に自分の持て居る原書一冊を奥平藩に二十何両かで売付けたことがあるその事を聞込んだから私が行たので、若しも否めばお前さんはドウだと暴れて遣ろうと云う強身の伏線がある、丸で脅迫手段だから、家老も仕方なしに承知して、私も矢張りその原書を名にして先例に由り二十何両かの金を取て、その内十五両を故郷の母の方に送て一時の窮を凌ぎました。
人間は社会の虫なりと云うような次第で、ソレはソレは卑劣とも何とも実に云いようのない悪い事をして一寸とも愧じない。仮初にも是れはドウも有間敷事だなんと思たことがない。取らないのは損だとばかり、猟に行けば雀を撃たより雁を取た方がエライと云う位の了簡で、旨く大金を掠め取れば心窃に誇て居るとは、実に浅ましい事であるのみならず、本来私の性質がソレ程卑劣とも思わない、随分家風の悪くない家に生れて、幼少の時から心正しき母に育てられて、苟も人に交て貪ることはしないと説を立てゝ居る者が、何故に藩庁に対してばかり斯くまでに破廉恥なりしや、頓と訳けが分らぬ。シテ見ると人間と云う者はコリャ社会の虫に違いない。社会の時候が有りのまゝに続けば、その虫が虫を産んで際限のない所に、この蛆虫即ち習慣の奴隷が、不図面目を改めると云うには、社会全体に大なる変革激動がなければならぬと思われる。ソコで三百年の幕府が潰れたと云えば、是れは日本社会の大変革で、随分私の一身も始めて夢が醒めて、藩庁に対する挙動も改まらなければならぬ。是れまで自分が藩庁に向て愧ずべき事を犯したのは、畢竟藩の殿様など云う者を崇め奉って、その極度はその人を人間以上の人と思い、その財産を天然の公共物と思い、知らず識らず自から鄙劣に陥りしことなるが、是れからは藩主も平等の人間なりと一念こゝに発起して、この平等の主義からして物を貪るは男子の事に非ずと云う考えが浮かんだのだろうと思われる。その時には特に考えたこともない、説を付けたこともないが、私の心の変化は恐ろしい。何故に以前藩に対してあれほど卑劣な男が後に至ては折角呉れようと云う扶持方をも一酷に辞退したか、辞退しなくっても世間に笑う者もないのに、打て変た人物になって、この間まで丸で朝鮮人見たような奴が、恐ろしい権幕を以て呉れる物を刎返して、伯夷、叔斉のような高潔の士人に変化したとは、何と激変ではあるまいか。他人の話ではない、私が自分で自分を怪しむことであるが、畢竟封建制度の中央政府を倒してその倒るゝと共に個人の奴隷心を一掃したと云わなければならぬ。
支那の文明、望むべからず之を大きく論ずれば、彼の支那の事だ、支那の今日の有様を見るに、何としても満清政府をあの儘に存じて置て、支那人を文明開化に導くなんと云うことは、コリや真実無益な話だ。何は扨置き老大政府を根絶やしにして仕舞て、ソレから組立てたらば人心こゝに一変することもあろう。政府に如何なるエライ人物が出ようとも、百の李鴻章が出て来たって何にも出来はしない。その人心を新にして国を文明にしようとならば、何は兎もあれ、試みに中央政所を潰すより外に妙策はなかろう。之を潰して果して日本の王政維新のように旨く参るか参らぬか、屹と請合は難けれども、一国独立の為めとあれば試みにも政府を倒すに会釈はあるまい、国の政府か、政府の国か、このくらいの事は支那人にも分る筈と思う。
旧藩の平穏は自から原因あり私の経済話から段々枝がさいて長くなりましたが、序ながら中津藩の事に就て、モ少し云う事があります。前に申す通り私は勤王佐幕など云う天下の政治論に少しも関係しないのみならず、奥平藩の藩政にまでも至極淡泊にあったと云うその為めに、茲に随分心に快いことがある、と云うのはあの王政維新の改革が行われたときに、諸藩の事情を察するに、勤王佐幕の議論が盛で、動もすれば旧大臣等に腹を切らせるとか、大英断を以て藩政改革とか云う為めに、一藩中に争論が起り、党派が分れて血を流すと云うようなことは、何れの藩も十中八、九、皆ソレであったその時に、若し私に政治上の功名心があって、藩に行て佐幕とか勤王とか何か云出せば、必ず一騒動を起すに違いない。所が私は黙て居て一寸も発言せず、人が噂をすれば、爾う喧しく云わんでも宜い、棄てゝ置きなさいと云うように、極淡泊にして居たから、中津の藩中が誠に静で、人殺しも何もなかったのはソレが為めだろうと思います。人殺しどころか人を黜陟したと云うこともなかった。
藩の重役に因循姑息説を説くソコで私が明治三年、中津に母を迎えに行たことがある、所がその時は藩政も大いに変て居まして、福澤が東京から来たから話を聞こうではないかと云うようなことになって、家老の邸に呼ばれて行た、所が藩の役人と云う有らん限りの役人重役が皆其処に出て居る。案ずるに、私が行たらば嘸ドウも大変な事を云うだろうと待受けて居たに違いない。夫れから私が其処に出席すると、重役達の云うに、藩はドウしたら宜かろうか、方向に迷て五里霧中なんかんと、何か心配そうに話すから、私は之に答えて、イヤもう是れはドウするにも及ばぬことだ、能く諸藩では或は禄を平均すると云うような事で大分騒々しいが、私の考えでは何にもせずに今日のこの儘で、千石取て居る人は千石、百石取て居る人は百石、大平無事に悠々として居るが上策だと、その説を詳に陳べると、列座の役人は大層驚くと同時に、是れは/\穏かなことを云うもの哉と云わぬばかりの趣で、大分顔色が宜い。
武器売却を勧む夫れから段々話が進んで来た所で、私は一つ注文を出した。今云う通り禄も身分も元の通りにして置くが宜かろう、ソレは宜しいが、茲に一つ忠告したいことがある。今この中津藩には小銃もあれば大砲もあり、武を以て国を立てようと云うその趣はチャンと見えて居るが、併し今の藩士とこの藩に在る武器で以て果して戦争が出来るかドウか、私はドウも出来なかろうと思う、左れば今日只今長州の人がズッと暴れ込めば長州に従わなければならぬ、又薩州の兵が攻来れば之にも抵抗することが出来ないから薩州に従わなければならぬ、誠に心配な話である、之を私が言葉を設けて評すれば、弱藩罪なし武器災をなすと云わねばならぬ、ダカラ寧そこの鉄砲を皆売て仕舞いたい、見れば大砲は何れもクルップだ、これを売れば三千五千或は一万円になるかも知れぬから、一切売て仕舞て昔の琉球見たようになって仕舞うが宜い、爾うして置て長州から政めて来たら、ヘイ/\、又薩摩から遣て来たら、ヘイ/\、斯う為ようとか、アヽ為ようとか云えば、ドウか長州に行て直に話をして下さい、又長州ならドウか薩州に行て直談を頼むと云て、一切の面倒を他に嫁して、此方はドウでも宜いと、斯う云う仕向けが宜かろう、そうした所で殺しもしなければ捕縛して行きもしないから爾う云うようにしたい、そうして一方に於てはドウしてもこの世の中は文明開化になるに極てるから、学校を拵えて文明開化の何物たるを藩中の少年子弟に知らせると云う方針を執るが一番大事である、扨爾う云う方針を執るとして、武器を廃して仕舞えば、余り割合が宜過ぎるようだが、ソコには斯う云うことがある、今私は東京の事情を察するに、新政府は陸海軍を大に改革しようとして金がなくて困て居る、ソコで一片の願書なり届書なり認めて出して見るが宜しい、その次第はこの中津藩は武備を廃したる為めに年々何万円と云う余計な金がある、この金を納めましょうから政府の方でドウでも為すって下さいと斯う云えば、海陸軍では大に悦ぶ、政府の身になって見れば、この諸藩三百の大名が各々色変りの武器を作り色変りの兵を備えて置くその始末に堪まるものじゃない、ドウしたッて一様にしたいと云うのは、コリャ政府の政略に於て有るに極た訳けではないか、然るに此処ではクルップの鉄砲だ、隣ではアームストロングの大砲だ、イヤ彼処では仏蘭西の小銃、此方は和蘭から昔し輸入したゲベルを持て居ると云うような、日本国中千種万様の兵備では、政府に於てイザ事と云ても戦争が出来そうにもしない、ソレよりかその金を納むるが宜い、爾うすれば独り政府が悦ぶのみならずして、中津藩も誠に安楽になる、所謂一挙両全の策であるから爾う遣りなさいと云た。
武士の丸腰所がソレには大反対さ。兵事係の役人が三人も四人も居る中で、菅沼新五右衛門と云う人などは大反対、満坐一致で、ソレは出来ませぬ、何の事はない、武士に向て丸腰になれと云うような説で、ソレ計りは何としても出来ないと云うから、私は深く論じもせず、出来なければ為なさるな、ドウでも宜しい、御勝手になさい、只私は爾うしたらば便利だと思う丈けの話だからと云て、ソレ切り罷めになって仕舞いましたが、併し私はその政治論に熱しなかったと云う為めに、中津の藩士が怪我を為なかったと云うことは、是れは事実に於て間違いないことで、自から藩の為めに功徳になって居ましょう。その上に中津藩では減禄をしないのみならず、平均した所で加増した者がある。何でも大変に割合が宜かった。例えば私の妻の里などは二百五十石取て居て三千円ばかりの公債証書を貰い、今泉(秀太郎氏なり)は私の妻の姉の家で三百五十石か取て居たが四千円も貰いましたろう。けれども藩士の禄券と云うものは悪銭身に付かずと云うような訳けで、終にはなくして仕舞って何もありはしない。兎に角に中津藩の穏かであったと云うことは間違いない話です。
商売の実地を知らず話は以前に立還て復た経済を語りましょう。私は金銭の事を至極大切にするが、商売は甚だ不得手である、その不得手とは敢て商売の趣意を知らぬではない、その道理は一通り心得て居る積りだが、自分に手を着けて売買貸借は何分ウルサクて面倒臭くて遣る気がない。且つむかしの士族書生の気風として、利を貪るは君子の事に非ずなんと云うことが脳に染込んで、商売は愧かしいような心持がして、是れも自から身に着き纏うて居るでしょう。既に江戸に始めて来たとき、同藩の先輩岡見彦曹と云う人が、和蘭辞書の原書を飜刻して一冊の代価五両、その時には安いもので随分望む人もある中に、私が世話をして朋友に一冊買わせて、その代金五両を岡見に持て行くと、主人が金一分、紙に包んで呉れたから驚いた、是れは何の事か少しも分らん、本の世話をして売たその礼とは呆れた話だ、畢竟主人が少年書生と見縊て金を恵む了簡であろう、無礼な事をするもの哉と少し心に立腹して、真面目になって争う事があると云うような次第で、物の売買に手数料などゝ云うことは町人共の話として、書生の身には夢ほども知らない。
火斗を買て貨幣法の間違いを知る左れども是等は唯書生の一身に直接して然るのみ。扨経済の理窟に於ては当時町人共の知らぬ処に考の届くことがある。或るとき私が鍛冶橋外の金物屋に行て台火斗を買て、価が十二匁と云うその時、どう云う訳けだか供の者に銭を持たせて、十二匁なれば凡そ一貫二、三百文になるから、その銭を店の者に渡したときに、私が不図心付た。この銭の目方は凡そ七、八百目から一貫目もある、然るに銭の代りに請取た台火斗は二、三百目しかない、銭も火斗も同じ銅でありながら、通用の貨幣は安くて売買の品は高い、是れこそ経済法の大間違いだ、こんな事が永く続けば銭を鋳潰して台火斗を作るが利益だ、何としても日本の銭の価は騰貴するに違いないと説を定めて、一歩を進めて金貨と銀貨との目方、性合を比較して見て、西洋の金一銀十五の割合にすれば、日本の貨幣法は間違いも間違いか大間違いで、私が首唱して云うにも及ばず、外国の商人は開国その時から大判小判の輸出で利を占めて居るとの風聞。ソレから私も知て居る金持の人に頻りに勧めて金貨を買わせた事があるが、是れも唯人に話をする計りで自分には何にも為ようとも思付かぬ。唯私の覚えて居るのは安政六年の冬、米国行の前、或人に金銀の話をして、翌年夏、帰国して見れば、その人が大に利益を得た様子で、御礼に進上すると云て、一朱銀の数も計えず私の片手に山盛り一杯金を呉れたから、深く礼を云うにも及ばず、何は扨置き早速朋友を連れて築地の料理茶屋に行て、思うさま酒を飲ませたことがある。
簿記法を飜訳して簿記を見るに面倒なり先ずこの位なことで、その癖私は維新後早く帳合之法と云う簿記法の書を飜訳して、今日世の中にある簿記の書は皆私の訳例に傚うて書たものである。ダカラ私は簿記の黒人でなければならぬ、所が読書家の考と商売人の考とは別のものと見えて、私はこの簿記法を実地に活用することが出来ぬのみか、他人の記した帳簿を見ても甚だ受取が悪い。ウンと考えれば固より分らぬことはない、屹と分るけれども、唯面倒臭くてソンな事をして居る気がないから、塾の会計とか新聞社の勘定とか、何か入組んだ金の事はみんな人任せにして、自分は唯その総体の締て何々と云う数を見る計り。こんな事で商売の出来ないのは私も知て居る。例えば塾の書生などが学費金を持て来て、毎月入用だけ請取りたいから預けて置きたいと云う者がある。今の貴族院議員の滝口吉良なども、先年書生の時はその中の一人で、何百円か私の処に預けてあったが、私はその金をチャンと箪笥の袖斗に入れて置て、毎月取りに来れば十円でも十五円でも入用だけ渡して、その残りは又紙に包んで仕舞て置く。その金を銀行に預けて如何すれば便利だと云うことを知るまい事か、百も承知で心に知て居ながら、手で為ることが出来ない。銀行に預けるは扨置き、その預た紙幣の大小を一寸私に取替えて本の姿を変えることも気が済まない。如何でも是れは持て生れた藩士の根性か、然らざれば書生の机の抽斗の会計法でしょう。
借用証書があらば百万円遣ろうソコで或時例の金融家のエライ人が私方に来て、何か金の話になって、千種万様、実に目に染みるような混雑な事を云うから、扨て/\如何もウルサイ事だ、この金を彼方に向けて、彼の金は此方に返えすと云う話であるが、人に貸す金があれば借りなくても宜さそうなものだ、商売人は人の金を借りて商売すると云うことは私も能く知て居るが、苟も人に金を貸すと云うことは余た金があるから貸すのだ、仮令い商売人でも貸す金があるなら成る丈けソレを自分に運転して、他人の金をば成る丈け借用しないようにするのが本意ではないか、然るに自分に資本を持て居ながら、態々人に借用とは入らざる事をしたものだ、余計な苦労を求めるようなものだと云うと、その人が大に笑て、迂闊千万、途方もない事を云う、商売人と云うものは入組んで/\滅茶々々になったと云うその間に、又種々様々の面白いことのあるもので、そんな馬鹿な事が出来るものか、啻に商売人に眼らず、凡そ人の金を借用せずに世の中を渡ると云うことが出来るものか、ソンな人が何処に在るかと云て私を冷却するから、私はその時始めてヒョイと思付た。今御話を聞けば、世の中に借金しない者が何処に在るかと云うが、その人は今こゝに居ます。私は是れまで只の一度も人の金を借りたことがない。「そんな馬鹿な事を云いなさるな。「イヤ如何してもない。生れて五十年(是れは十四、五年前の話)人の金を一銭でも借りたことはない。ソレが嘘ならば、試に私の印形の据て居るものとは云わない、反古でも何でも宜しい、ソレを捜して持て来て御覧。私が百万円で買おう。ドウしたってありはしない。日本国中に福澤の書た借用証文と云うものはソレこそ有る気遣いはないが如何だ、と云うような訳けで、その時に私も始めて思い出したが、私は生れてこの方遂ぞ金を借りたことがない。是れはマア私の眼から見れば尋常一様の事と思うけれども、世間の人が見たらば甚だ尋常一様でないのかも知れぬ。
金を預けるも面倒なりソレで私は今でも多少の財産を持て居る、持て居たけれども私ところの会計と云うものは至極簡単で、少しも入込んだことはない。この金を誰に返えさなければならぬ、之を此方に振向けなければならぬと云うような事は絶えてない。ソレで僅かばかり二百円とか三百円とか云う金が、手元にあってもなくても構わない、ソレを銀行に預けて、必要のとき小切手で払いをすれば利息が徳になると云う、ソレは私も能く知て居て、世間一体そう云う風になりたいとは思えども、扨自分には小面倒臭い、ソンな事にドタバタするよりか、金は金で仕舞て置て、払うときにはその紙幣を計えて渡して遣ると、斯う云う趣向にして、私も家内もその通りな考えで、真実封建武士の机の抽斗の会計と云うことになって、その話になると丸で別世界のようで、文明流の金融法は私の家に這入りません。
仮初にも愚痴を云わず夫れからして、世間の人が私に対して推察する所を、私が又推察して見るに、ドウも世人の思う所は決して無理でない、と云うのは私が若い時から困たと云うことを一言でも云うたことがない、誠に家事多端で金の入用が多くて困るとか、今歳は斯う云う不時な事があって困却致すとか云うような事を、仮初にも口外したことがない、私の眼には世間が可笑しく見える、世間多数の人が動もすれば貧乏で困る、金が不自由だ、無力だ、不如意だ、なんかんと愚痴をこぼすのは、或は金を貸して貰いたいと云うような意味で言うのか、但しは洒落に言うのか、飾りに言うのか、私の眼から見れば何の事だか少しも訳けが分らない、自分の身に金があろうとなかろうと敢て他人に関係したことでない、自分一身の利害を下らなく人に語るのは独語を言うようなもので、こんな馬鹿気た事はない、私の流儀にすれば金がなければ使わない、有ても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗て人に相談しようとも思わなければ、人に喙を容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽、共に独立独歩、ドンな事があっても、一寸でも困たなんて泣言を云わずに何時も悠々として居るから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。所が私は又その測量者があろうとなかろうと、その推測が中ろうと中るまいと、少しも頓着なしに相替らず悠々として居ます。既に先年、所得税法の始めて発布せられた時などは可笑しい、区内の所得税掛りとか何とか云う人が、私の家には財産が凡そ七十万円あるその割合で税を取ると、内々云て来た者があるから、私がその者に云うに、何卒その言葉を忘れて呉れるな、見て居る前で福澤の一家残らず裸体になって出て行くから、七十万で買て貰いたい、財産は帳面のまゝ渡して、家も倉も衣服も諸道具も鍋も釜も皆遣るから、ソックリ買取て七十万円の金に易えたい、唯漠然たる評価は迷惑だ、現金で売買したい、爾うなれば生来始めての大儲けで、生涯さぞ安楽であろうと云て、大笑いしたことがあります。
他人に私事を語らず私が経済上に堅固を守て臆病で大胆な事の出来ないのは、先天の性質であるか、抑も亦身の境遇に駈られて遂に堅く凝り固まったものでしょう。本年六十五歳になりますが、二十一歳のとき家を去て以来、自から一身の謀を為し、二十三歳、家兄を喪いしより後は、老母と姪と二人の身の上を引受け、二十八歳にして妻を娶り子を生み、一家の責任を自分一身に担うて、今年に至るまで四十五年のその間、二十三歳の冬大阪緒方先生に身の貧困を訴えて大恩に浴したるのみ、その他は仮初にも身事家事の私を他人に相談したこともなければ又依頼したこともない。人の智恵を借りようとも思わず、人の差図を受けようとも思わず、人間万事天運に在りと覚悟して、勉めることは飽くまでも根気能く勉めて、種々様々の方便を運らし、交際を広くして愛憎の念を絶ち、人に勧め又人の同意を求めるなどは十人並に遣りながら、ソレでも思う事の叶わぬときは、尚おそれ以上に進んで哀願はしない、唯元に立戻て独り静に思止るのみ。詰る所、他人の熱に依らぬと云うのが私の本願で、この一義は私が何時発起したやら、自分にも是れと云う覚えはないが、少年の時からソンな心掛け、イヤ心掛けと云うよりもソンな癖があったと思われます。
按摩を学ぶ中津に居て十六、七歳のとき、白石と云う漢学先生の塾に修業中、同塾生の医者か坊主か二人、至極の貧生で、二人とも按摩をして凌いで居る者がある。その時、私は如何でもして国を飛出そうと思て居るから、之を見て大に心を動かし、コリャ面白い、一文なしに国を出て、罷り違えば按摩をしても喰うことは出来ると思て、ソレから二人の者に按摩の法を習い、頻りに稽古して随分上達しました。幸にその後按摩の芸が身を助ける程の不仕合もなしに済みましたが、習うた芸は忘れぬもので、今でも普通の田舎按摩よりかエライ。湯治などに行て家内子供を揉んで遣て笑わせる事があります。こんな事がマア私の常に云う自力自活の姿とでも云うべきものか、是れが故人の伝を書くとか何とか云えば、何々氏夙に独立の大志あり、年何歳その学塾に在るや按摩法を学んで云々なんと、鹿爪らしく文字を並べるであろうが、私などは十六、七のとき大志も何もありはせぬ、唯貧乏でその癖、学問修業はしたい、人に話しても世話をして呉れる気遣いなし、しょうことなしに自分で按摩と思付た事です。凡そ人の志はその身の成行次第に由て大きくもなり又小さくもなるもので、子供の時に何を言おうと何を行おうと、その言行が必ずしも生涯の抵当になるものではない、唯先天の遺伝、現在の教育に従て、根気能く勉めて迷わぬ者が勝を占めることでしょう。
一大投機私が商売に不案内とは申しながら、生涯の中で大きな投機のようなことを試みて、首尾能く出来た事があります。ソレは幕府時代から著書飜訳を勉めて、その製本売捌の事をば都て書林に任してある。所が江戸の書林が必ずしも不正の者ばかりでもないが、兎角人を馬鹿にする風がある。出版物の草稿が出来ると、その版下を書くにも、版木版摺の職人を雇うにも、亦その製本の紙を買入るゝにも、都て書林の引受けで、その高いも安いも云うがまゝにして、大本の著訳者は当合扶持を授けられると云うのが年来の習慣である。ソコで私の出版物を見ると中々大層なもので、之を人仕せにして不利益は分て居る。書林の奴等に何程の智恵もありはしない、高の知れた町人だ、何でも一切の権力を取揚げて此方のものにして遣ろうと説を定めた。定めたは宜いが実は望洋の歎で、少しも取付端がない。第一番の必要と云うのが職人を集めなければならぬ。今までは書林が中に挟まって居て、一切の職人と云う者は著訳者の御直参でなく、向う河岸に居るようなものだから、彼れを此方の直轄にしなければならぬと云うのが差向きの必要。ソコで私は一策を案じたその次第は、当時、明治の初年で余程金もあり、之を掻集めて千両ばかり出来たから、夫れから数寄屋町の鹿島と云う大きな紙問屋に人を遣て、紙の話をして、土佐半紙を百何十俵、代金千両余りの品を即金で一度に買うことに約束をした。その時に千両の紙と云うものは実に人の耳目を驚かす。如何なる大書林と雖も、百五十両か二百両の紙を買うのがヤットの話で、ソコへ持て来て千両現金、直ぐに渡して遣ると云うのだから、値も安くする、品物も宜い物を寄越すに極てる。高かったか安かったか知らないが、百何十俵の半紙を一時に新銭座に引取て、土蔵一杯積込んで、ソレから書林に話して版摺の職人を貸して呉れと云うことにして、何十人と云う大勢の職人を集め、旧同藩の士族二人を監督に置て仕事をさせて居る中に、職人が朝夕紙の出入れをするから、蔵に這入てその紙を見て大に驚き、大変なものだ、途方もないものだ、この家に製本を始めたが、このくらい紙があれば仕事は永続するに違いないと先ず信仰して、且つ此方では払いをキリ/\して遣ると云うような訳けで、是れが端緒になって、職人共は問わず語りに色々な事を皆白状して仕舞う。此方の監督者は利いた風をして居るが、その実は全くの素人でありながら、職人に教わるようなもので、段々巧者になって、ソレから版木師も製本仕立師も次第々々に手に附けて、是れまで書林の為すべき事は都て此方の直轄にして、書林には唯出版物の売捌を命じて手数料を取らせる計りのことにしたのは、是れは著訳社会の大変革でしたが、唯この事ばかりが私の商売を試みた一例です。