福翁自伝 02 福翁自伝

28話 福翁自伝 02 福翁自伝(28)

3,674字 約7分 2017年6月15日 公開

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品行家風

莫逆の友なし経済の事は右の如(ごと)くにして、私は私の流義を守(まもっ)て生涯このまゝ替えずに終ることであろうと思いますが、ソレから又(また)自分の一身の行状は如何(どう)であったか、家を成した後に家の有様は如何(どう)かと云(い)うことに付(つい)て、有りのまゝの次第を語りましょう。扨(さて)私の若い時は如何(どう)だと申すに、中津(なかつ)に居たとき子供の時分から成年に至るまで、何としても同藩の人と打解けて真実に交わることが出来ない、本当に朋友になって共々に心事を語る所謂(いわゆる)莫逆(ばくげき)の友と云うような人は一人もない、世間にないのみならず親類中にもない、と云(いっ)て私が偏窟(へんくつ)者で人と交際が出来ないと云うではない。ソリャ男子に接しても婦人に逢うても快く話をして、ドチラかと云えばお饒舌(しゃべ)りの方であったが、本当を云うと表面(うわむき)ばかりで、実はこの人の真似をして見たい、彼(あ)の人のように成りたいとも思わず、人に誉められて嬉しくもなく、悪く云われて怖くもなく、都(すべ)て無頓着(むとんじゃく)で、悪く評すれば人を馬鹿にして居たようなもので、仮初(かりそめ)にも争う気がないその証拠には、同年輩の子供と喧嘩をしたことがない、喧嘩をしなければ怪我もしない、友達と喧嘩をして泣(ない)て家に帰(かえっ)て阿母(おっか)さんに言告(いいつ)けると云うようなことは唯(ただ)の一度もない。口先き計(ばか)り達者で内実は無難無事な子でした。

大言壮語の中、忌むべきを忌むソレから国を去(さっ)て長崎に行き大阪に出てその修業中も、ワイ/\朋友と共に笑い共に語(かたっ)て浮々(うか/\)して居るようにあるけれども、身の行状を慎(つつし)み品行を正しくすると云(い)うことは、努(つと)めずして自然にソレが私の体に備(そなわっ)て居ると云(いっ)ても宜(よろ)しい。モウそれはさん/″\な乱暴な話をして、大言壮語、至らざる所なしと云う中にも、嫌(いや)らしい汚ない話と云うことは一寸(ちょい)とでも為(し)たことがない。同窓生の話に能(よ)くある事で、昨夜、北の新地に遊んでなんと云うような事を云出(いいだ)そうとすると、私は態(わざ)と其処(そこ)を去らずに大箕坐(あぐら)をかいてワイ/\とその話を打消し、「馬鹿野郎、余計なことを口走るな、と云うような調子で雑(ま)ぜ返して仕舞(しま)う。ソレから江戸に出て来ても相替(あいかわ)らずその通り、朋友も多い事だから相互(あいたがい)に往来するのは不断の事で、頻(しき)りに飛廻(とびまわっ)て居たけれども、扨(さて)例の吉原とか深川とか云う事になると、朋友共が私に話をすることが出来ない。その癖(くせ)私は能く事情を知(しっ)て居る。誠に事細(ことこまか)に知て居るその訳(わ)けは、小本(こほん)なんぞ読むにも及ばず、近く朋友共が馬鹿話に浮かれて饒舌(しゃべ)るのを、黙(だまっ)て聞(きい)て居れば容易に分る。六(むず)かしい事も何にもない、チャンと呑込んで知(しっ)て居るけれども、如何(いか)なこと、左様(さよう)な事を思出したこともないのみならず、吉原深川は扨(さて)置き、上野の花見に行(いっ)たこともない。

始めて上野、向島を見る私は安政三年、江戸に出て来て、只(ただ)酒が好きだから所謂(いわゆる)口腹(こうふく)の奴隷で、家にない時は飲みに行かなければならぬ、朋友相会(あいかい)すれば飲みに行くと云(い)うような事は、ソリャ為(し)て居るけれども、遂(つい)ぞ花見遊山はしない。文久三年六月、緒方先生不幸のとき、下谷(したや)の自宅出棺、駒込の寺に葬式執行(しっこう)のその時、上野山内を通行して、始めて上野と云う処を見た。即(すなわ)ち私が江戸に来てから六年目である。「成(な)る程これが上野か、花の咲く処かと、通行しながら見物しました。向島もその通りで、江戸に来てから毎度人の話には聞くが一度も見たことがない。所で明治三年酷(ひど)い腸(ちょう)窒扶斯(チフス)を煩(わずら)い、病後の運動には馬に乗るのが最も宜(よろ)しいと、医者も勧め朋友も勧めたので、その歳の冬から馬に乗(のっ)て諸方を乗廻(のりまわ)り、向島と云う処も始めて見れば、玉川辺にも遊び、市中内外、行かれる処だけは何処(どこ)でも乗廻わして、東京の方角も大抵分りました。その時に向島は景色もよし道もよし、毎度馬を試(こころ)みて、向島を廻って上野の方に帰(かえっ)て来るとき、何でも土手のような処を通りながら、アヽ彼処(あれ)が吉原かと心付(こころづい)て、ソレではこのまゝ馬に乗(のっ)て吉原見物を為(し)ようじゃないかと云出(いいだ)したら、連騎の者が場所柄に騎馬では余り風(ふう)が悪いと止(と)めて、ソレ切りになって未(いま)だに私は吉原と云(い)う処を見たことがない。

小僧に盃を差す斯(こ)う云うような次第で、一寸(ちょい)と人が考えると私は奇人偏窟(へんくつ)者のように思われましょうが、決して爾(そ)うでない。私の性質は人に附合(つきあ)いして愛憎(あいそう)のない積りで、貴賤貧富、君子も小人も平等一様、芸妓に逢うても女郎を見ても塵も埃も之(これ)を見て何とも思わぬ。何とも思わぬから困ることもない。此奴(こいつ)は穢(けが)れた動物だ、同席は出来ないなんて、妙な渋い顔色して内実プリ/\怒ると云うような事は決してない。古いむかしの事であるが、四十余年前、長崎に居るとき、光永寺と云う真宗寺(しんしゅうでら)に同藩の家老が滞留中、或(ある)日市中の芸妓(げいぎ)か女郎か五、六人も変な女を集めて酒宴の愉快、私はその時酒を禁じて居るけれども陪席御相伴(ごしょうばん)を仰(おお)せ付けられ、一座杯盤狼藉(はいばんろうぜき)の最中、家老が私に杯をさして、「この酒を飲んで、その杯を座中の誰でも宜(よろ)しい、足下(そくか)の一番好いてる者へさすが宜(よ)かろうと云うのは、実は其処(そこ)に美人が幾人(いくたり)も居る、私はその杯を美人にさしても可笑(おか)しい、態(わざ)と避けてさゝなくても可笑しい、屹(きっ)と困るであろうと嬲(なぶ)るのはチャント分(わかっ)て居る。所が私は少しも困らない。杯をグイと干して、大夫さんの命に従い一番好いた人に上げます、ソレ高(たか)さん、と云(いっ)て杯をさしたのは、六、七歳ばかりの寺の末子(ばっし)で、私が瀉蛙々々(しゃあしゃあ)として笑(わらっ)て居たから家老殿も興にならぬ。既(すで)に今年春ジャパン・タイムス社の山田季治(やまだすえじ)が長崎へ行くと聞き、不図(ふと)光永寺の事を思出して、あの時は如何(どう)なってるか、高(たか)さんと云(い)う小僧があった筈(はず)だが、如何(どう)して居るか尋ねて見たいと申したら、山田の返事に、寺は旧(もと)の通り焼けもせず、高さんも無事息災、今は五十一歳の老僧で隠居して居るとて写真など寄送(よこ)しましたが、右の一件も私の二十一歳の時だから、計(かぞ)えて見ると高さんは七歳でしたろうに、恐ろしい古い話です。

嫌疑を憚らず左様(そう)いう訳(わ)けで私は若い時から婦人に対して仮初(かりそめ)にも無礼はしない。仮令(たと)い酒に酔(よっ)ても謹(つつ)しむ所は屹(きっ)と謹しみ、女の忌(いや)がるような禁句を口外したことはない。上戸(じょうご)本性で、謹みながら女を相手に話もすれば笑いもして談笑自在、何時(いつ)も慣れ/\しくして、その極(きわみ)は世間で云う嫌疑(けんぎ)と云うような事を何とも思わぬ。血に交わりて赤くならぬこそ男子たる者の本領であると、チャンと自分に説を極(き)めてあるから、男女夜行くときは灯(ともしび)を照らすとか、物を受授するに手より手にせずとか、アンな古(ふる)めかしい教訓は、私の眼から見ると唯(ただ)可笑(おか)しいばかり。扨(さて)も/\卑怯なる哉(かな)、ソンな窮窟な事で人間世界が渡れるものか、世間の人が妙な処に用心するのはサゾ忙しいことであろう、自分は古人の教(おしえ)に縛(しばら)れる気はないと、自(みず)から自分の身を信じて颯々(さっさつ)と人の家に出入(でいり)して、其処(そこ)にお嬢さんが居ようと、若い内君(おかみさん)が独り留守して居ようと、又は杯盤狼藉(はいばんろうぜき)の常に芸妓とか何とか云(い)う者が騒いで居ようと、少しも遠慮はしない。酒を飲(のん)で大きな声をしてドン/\話をして、酔えば面白くなって戯れて居ると云うような風(ふう)であるから、或(あるい)は人が見たらば変に思うこともありましょう。

醜声外聞の評判却て名誉ソコで或(ある)時奥平藩の家老が態々(わざわざ)私を呼びによこして、扨(さて)云うよう、足下(そくか)は近来某々(それそれ)の家などに毎度出入して、例の如(ごと)く夜分晩くまで酒を飲で居るとの風聞、某家には娘もあり、某家は何時(いつ)も芸妓(げいぎ)など出入(でいり)して家風が宜(よろ)しくない、足下がそんな処に近づいて醜声外聞とは残念だ、君子は瓜田(かでん)に履(くつ)を結ばず、李下(りか)に冠を正さずと云うことがある、年若い大事な身体(からだ)である、少し注意致したら宜(よ)かろうと、真面目(まじめ)になって忠告したから、私はその時少しも謝(あやま)らない。左様(さよう)で御在ますか、コリャ面白い。私は今まで随分(ずいぶん)太平楽を云(いっ)たとか、恐ろしい声高(こわだか)に話をして居たとか云て、毎度人から嫌(いや)がられたこともありましょうが、併(しか)し艶男(いろおとこ)と云(い)われたのは今日が生れてから始めて。コリャ私の名誉で、至極(しごく)面白い話だから私は罷(や)めますまい。相替(あいかわ)らずその家に出入しましょう。此処(ここ)で御注意を蒙(こうむっ)て夫(そ)れで前非を改めて罷(や)めるなんて、ソンな弱い男ではござらぬ。但(ただ)し御親切は難有(ありがた)い、御礼は申上げましょうが、実は私は何とも思わぬ。却(かえっ)て面白いから、モッと評判を立てゝ貰(もら)いたいと云(いっ)て、冷かして帰(かえっ)た事があります。

始めて東京の芝居を観る前に申す通り、私は江戸に来て六年目に始めて上野と云う処を見て、十四年自に始めて向島を見たと云うくらいの野暮(やぼ)だから、勿論(もちろん)芝居などを見物したことはない。少年のとき旧藩中津(なかつ)で、藩主が城内の能舞台で田舎の役者共を呼出して芝居を催(もよお)し、藩士ばかりに陪観(ばいかん)させる例があって、その時に一度見物して、その後大阪修業中、今の市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)の実父海老蔵(えびぞう)が道頓堀の興行中、或(あ)る夜同窓生が今から道頓堀の芝居に行くから一緒に行こう、酒もあると云うから、私は酒と聞(きい)て応と答え、ソレから行く道で酒を一升買(かっ)て、徳利を携(たずさ)えて二、三人連れで芝居に這入(はい)り、夜分二幕か三幕見たのが生来二度自の見物。ソレから江戸に来て、江戸が東京となっても、芝居見物の事は思出しもせず、又その機会もなくして居る中に、今を去ること凡(およ)そ十五、六年前、不図(ふと)した事で始めて東京の芝居を見て、その時戯(たわぶ)れに、

誰道名優伎絶倫

先生遊戯事尤新

春風五十独醒客

却作梨園一酔人

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