9話 福翁自伝 02 福翁自伝(9)
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れから取次が本人の処に持て行て、「鉄川と云う人は塾中にない、多分手塚君のことゝ思うから持て来たと云て渡した。手紙偽造の共謀者はその前から見え隠れに様子を窺うて居た所が、本人の手塚は一人で頻りにその手紙を見て居る。麝香の無心があった事か如何か分らないが、手塚の二字を大阪なまりにテツカと云うそのテツカを鉄川と書いたのは、高橋順益の思付で余ほど善く出来てる。そんな事で如何やら斯うやら遂に本人をしゃくり出して仕舞たのは罪の深い事だ。二、三日は止まって居たが果して行たから、ソリャ締めたと共謀者は待て居る。翌朝帰て平気で居るから、此方も平気で、私が鋏を持て行てひょいと引捕えた所が、手塚が驚いて「どうすると云うから、「どうするも何もない、坊主にするだけだ。坊主にされて今のような立派な男になるには二年ばかり手間が掛るだろう。往生しろと云て、髻を捕えて鋏をガチャ/\云わせると、当人は真面目になって手を合せて拝む。そうすると共謀者中から仲裁人が出て来て、「福澤、余り酷いじゃないか。「何も文句なしじゃないか、坊主になるのは約束だと問答の中に、馴合の中人が段々取持つような風をして、果ては坊主の代りに酒や鶏を買わして、一処に飲みながら又冷かして、「お願いだ、もう一度行て呉れんか、又飲めるからとワイワイ云たのは随分乱暴だけれども、それが自から切諫になって居たこともあろう。
御幣担ぎを冷かす同窓生の間には色々な事のあるもので、肥後から来て居た山田謙輔と云う書生は極々の御幣担で、しの字を言わぬ。その時、今の市川団十郎の親の海老蔵が道頓堀の芝居に出て居るときで、芝居の話をすると、山田は海老蔵のよばいを見るなんて云う位な御幣担だから、性質は至極立派な人物だけれとも、如何も蘭学書生の気に入らぬ筈だ。何か話の端には之を愚弄して居ると、山田の云うに「福澤々々、君のように無法な事ばかり云うが、マア能く考えて見給え。正月元日の朝、年礼に出掛けた時に、葬礼に逢うと鶴を台に戴せて担で来るのを見ると何方が宜いかと云うから、私は、「夫れは知れた事だ。死人は喰われんから鶴の方が宜い。けれども鶴だって乃公に喰わせなければ死人も同じ事だと答えたような塩梅式で、何時も冷かして面白がって居る中に、或るとき長与専斎か誰れかと相談して、彼奴を一番大に遣てやろうじゃないかと一工風して、当人の不在の間にその硯に紙を巻いて位牌を拵えて、長与の書が旨いから立派に何々院何々居士と云う山田の法名を書いて机の上に置て、当人の飯を喰う茶碗に灰を入れて線香を立てゝ位牌の前にチャント供えて置た所が、帰て来て之を見て忌な顔をしたとも何とも、真青になって腹を立てゝ居たが、私共は如何も怖かった。若しも短気な男なら切付けて来たかも知れないから。
欺て河豚を喰わせる夫れから又一度遣た後で怖いと思たのは人をだまして河豚を喰わせた事だ。私は大阪に居るとき颯々と河豚も喰えば河豚の肝も喰て居た。或る時、芸州仁方から来て居た書生、三刀元寛と云う男に、鯛の味噌漬を貰て来たが喰わぬかと云うと、「有難い、成程宜い味がすると、悦んで喰て仕舞て二時間ばかり経てから、「イヤ可愛そうに、今喰たのは鯛でも何でもない、中津屋敷で貰た河豚の味噌漬だ。食物の消化時間は大抵知てるだろう、今吐剤を飲でも無益だ。河豚の毒が嘔かれるなら嘔て見ろと云たら、三刀も医者の事だから能く分て居る。サア気を揉で私に武者振付くように腹を立てたが、私も後になって余り洒落に念が入過ぎたと思て心配した。随分間違の生じ易い話だから。
料理茶屋の物を盗む前に云う通り御霊の植木見世で万引と疑われたが、疑われる筈だ、緒方の書生は本当に万引をして居たその万引と云うは、呉服店で反物なんど云う念の入た事ではない、料理茶屋で飲だ帰りに猪口だの小皿だの色々手ごろな品を窃と盗んで来るような万引である。同窓生互に夫れを手柄のようにして居るから、送別会などゝ云う大会のときには穫物も多い。中には昨夜の会で団扇の大きなのを背中に入れて帰る者もあれば、平たい大皿を懐中し吸物椀の蓋を袂にする者もある。又或る奴は、君達がそんな半端物を挙げて来るのはまだ拙ない。乃公の獲物を拝見し給えと云て、小皿を十人前揃えて手拭に包んで来たこともある。今思えば是れは茶屋でもトックに知て居ながら黙って通して、実はその盗品の勘定も払の内に這入て居るに相違ない、毎度の事でお極りの盗坊だから。
難波橋から小皿を投ずその小皿に縁のある一奇談は、或る夏の事である、夜十時過ぎになって酒が飲みたくなって、嗚呼飲みたいと一人が云うと、僕も爾うだと云う者が直に四、五人出来た。所がチャント門限があって出ることが出来ぬから、当直の門番を脅迫して無理に開けさして、鍋島の浜と云う納涼の葭簀張で、不味いけれども芋蛸汁か何かで安い酒を飲で、帰りに例の通りに小皿を五、六枚挙げて来た。夜十二時過でもあったか、難波橋の上に来たら、下流の方で茶船に乗てジャラ/\三味線を鳴らして騒いで居る奴がある。「あんな事をして居やがる。此方は百五十か其処辺の金を見付出して漸く一盃飲で帰る所だ。忌々敷い奴等だ。あんな奴があるから此方等が貧乏するのだと云いさま、私の持てる小皿を二、三枚投付けたら、一番仕舞の一枚で三味線の音がプッツリ止んだ。その時は急いで逃げたから人が怪我をしたかどうか分らなかった。所が不思議にも一箇月ばかり経て其れが能く分った。塾の一書生が北の新地に行て何処かの席で芸者に逢うたとき、その芸者の話に、「世の中には酷い奴もある。一箇月ばかり前の夜に私がお客さんと舟で難波橋の下で涼んで居たら、橋の上からお皿を投げて、丁度私の三味線に中って裏表の皮を打抜きましたが、本当に危ない事で、先ず/\怪我をせんのが仕合でした。何処の奴か四、五人連れでその皿を投げて置て南の方にドン/″\逃げて行きました。実に憎らしい奴もあればあるものと、斯う/\芸者が話して居たと云うのを、私共は夫れを聞て下手人にはチャント覚えがあるけれども、云えば面倒だからその同窓の書生にもその時には隠して置いた。
禁酒から煙草又私は酒の為めに生涯の大損をして、その損害は今日までも身に附て居ると云うその次第は、緒方の塾に学問修業しながら兎角酒を飲で宜いことは少しもない。是れは済まぬ事だと思い、恰も一念こゝに発起したように断然酒を止めた。スルト塾中の大評判ではない大笑で、「ヤア福澤が昨日から禁酒した。コリャ面白い、コリャ可笑しい。何時まで続くだろう。迚も十日は持てまい。三日禁酒で明日は飲むに違いないなんて冷かす者ばかりであるが、私も中々剛情に辛抱して十日も十五日も飲まずに居ると、親友の高橋順益が、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げて遣るぞ。所が凡そ人間の習慣は、仮令い悪い事でも頓に禁ずることは宜しくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに烟草を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶わぬと親切らしく云う。所が私は烟草が大嫌いで、是れまでも同塾生の烟草を喫むのを散々に悪く云うて、「こんな無益な不養生な訳の分らぬ物を喫む奴の気が知れない。何は扨置き臭くて穢なくて堪らん。乃公の側では喫んで呉れるななんて、愛想づかしの悪口を云て居たから、今になって自分が烟草を始めるのは如何もきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けば亦無理でもない。「そんなら遣て見ようかと云てそろ/\試ると、塾中の者が烟草を呉れたり、烟管を貸したり、中には是れは極く軽い烟草だと云て態々買て来て呉れる者もあると云うような騒ぎは、何も本当な深切でも何でもない。実は私が不断烟草の事を悪くばかり云て居たものだから、今度は彼奴を喫烟者にして遣ろうと、寄って掛って私を愚弄するのは分って居るけれども、此方は一生懸命禁酒の熱心だから、忌な烟を無理に吹かして、十日も十五日もそろ/\慣らして居る中に、臭い辛いものが自然に臭くも辛くもなく、段々風味が善くなって来た。凡そ一箇月ばかり経て本当の喫烟客になった。処が例の酒だ。何としても忘れられない。卑怯とは知りながら一寸と一盃遣て見ると堪らない。モウ一盃、これでお仕舞と力んでも、徳利を振て見て音がすれば我慢が出来ない。とう/\三合の酒を皆飲で仕舞て、又翌日は五合飲む。五合、三合、従前の通りになって、去らば烟草の方は喫まぬむかしの通りにしようとしても是れも出来ず、馬鹿々々しいとも何とも訳けが分らない。迚も叶わぬ禁酒の発心、一箇月の大馬鹿をして酒と烟草と両刀遣いに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども烟草は止みそうにもせず、衛生の為め自から作せる損害と申して一言の弁解はありません。
桃山から帰て火事場に働く塾中兎角貧生が多いので料理茶屋に行て旨い魚を喰うことは先ず六かしい。夜になると天神橋か天満橋の橋詰に魚市が立つ。マア云わば魚の残物のようなもので直が安い。夫れを買て来て洗水盥で洗て、机の毀れたのか何かを俎にして、小柄を以て拵えると云うような事は毎度遣て居たが、私は兼て手の先きが利いてるから何時でも魚洗の役目に廻って居た。頃は三月、桃の花の時節で、大阪の城の東に桃山と云う処があって、盛りだと云うから花見に行こうと相談が出来た。迚も彼方に行て茶屋で飲食いしようと云うことは叶わぬから、例の通り前の晩に魚の残物を買て来て、その外、氷豆腐だの野葉物だの買調えて、朝早くから起きて怱々に拵えて、それを折か何かに詰めて、それから酒を買て、凡そ十四、五人も同伴があったろう、弁当を順持にして桃山に行て、さん/″\飲食いして宜い機嫌になって居るその時に、不図西の方を見ると大阪の南に当て大火事だ。日は余程落ちて昔の七ツ過。サア大変だ。丁度その日に長与専斎が道頓堀の芝居を見に行て居る。吾々花見連中は何も大阪の火事に利害を感ずることはないから、焼けても焼けぬでも構わないけれども、長与が行て居る。若しや長与が焼死はせぬか。何でも長与を枚い出さなければならぬと云うので、桃山から大阪迄、二、三里の道をどん/″\駈けて、道頓堀に駈付けて見た所が、疾うに焼けて仕舞い、三芝居あったが三芝居とも焼けて、段々北の方に焼延びて居る。長与は如何したろうかと心配したものゝ、迚も捜す訳けに行かぬ。間もなく日が暮れて夜になった。もう夜になっては長与の事は仕方がない。「火事を見物しようじゃないかと云て、その火事の中へどん/\這入て行た。所が荷物を片付けるので大騒ぎ。それからその荷物を運んで遣ろうと云うので、夜具包か何の包か、風呂敷包を担いだり箪笥を担いだり中々働いて、段々進で行くと、その時大阪では焼ける家の柱に綱を付けて家を引倒すと云うことがあるその網を引張って呉れと云う。「よし来たとその綱を引張る。所が握飯を喰せる、酒を飲ませる。如何も堪えられぬ面白い話だ。散々酒を飲み握飯を喰て八時頃にもなりましたろう。夫れから一同塾に帰た。所がマダ焼けて居る。「もう一度行こうではないかと又出掛けた。その時の大阪の火事と云うものは誠に楽なもので、火の周囲だけは大変騒々しいが、火の中へ這入ると誠に静なもので、一人も人が居らぬ位。どうもない。只その周囲の処に人がドヤ/″\群集して居るだけである。夫れゆえ大きな声を出して蹴破って中へ飛込みさえすれば誠に楽な話だ。中には火消の黒人と緒方の書生だけで大に働いた事があると云うような訳けで、随分活溌な事をやったことがありました。
一体塾生の乱暴と云うものは是れまで申した通りであるが、その塾生同士相互の間柄と云うものは至て仲の宜いもので、決して争などをしたことはない。勿論議論はする、いろ/\の事に就て互に論じ合うと云うことはあっても、決して喧嘩をするような事は絶てない事で、殊に私は性質として朋友と本気になって争うたことはない。仮令い議論をすればとて面白い議論のみをして、例えば赤穂義士の問題が出て、義士は果して義士なるか不義士なるかと議論が始まる。スルト私はどちらでも宜しい、義不義、口の先きで自由自在、君が義士と云えば僕は不義士にする、君が不義士と云えば僕は義士にして見せよう、サア来い、幾度来ても苦くないと云て、敵に為り味方に為り、散々論じて勝たり負けたりするのが面白いと云う位な、毒のない議論は毎度大声で遣て居たが、本当に顔を赧らめて如何あっても是非を分って了わなければならぬと云う実の入た議論をしたことは決してない。
塾生の勉強凡そ斯う云う風で、外に出ても亦内に居ても、乱暴もすれば議論もする。ソレ故一寸と一目見た所では――今までの話だけを開た所では、如何にも学問どころの事ではなく唯ワイ/\して居たのかと人が思うでありましょうが、其処の一段に至ては決して爾うでない。学問勉強と云うことになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政三年の三月、熱病を煩うて幸に全快に及んだが、病中は括枕で坐蒲団か何かを括って枕にして居たが、追々元の体に恢復して来た所で、只の枕をして見たいと思い、その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居して居たので、兄の家来が一人あるその家来に、只の枕をして見たいから持て来いと云たが、枕がない、どんなに捜してもないと云うので、不図思付いた。是れまで倉屋敷に一年ばかり居たが遂ぞ枕をしたことがない、と云うのは時は何時でも構わぬ、殆んど昼夜の区別はない、日が暮れたからと云て寝ようとも思わず頻りに書を読んで居る。読書に草臥れ眠くなって来れば、机の上に突臥して眠るか、或は床の間の床側を枕にして眠るか、遂ぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどゝ云うことは只の一度もしたことがない。その時に始めて自分で気が付て、「成程枕はない筈だ、是れまで枕をして寝たことがなかったからと始めて気が付きました。是れでも大抵趣が分りましょう。是れは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵皆そんなもので、凡そ勉強と云うことに就ては実にこの上に為ようはないと云う程に勉強して居ました。
それから緒方の塾に這入てからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分に若し酒があれば酒を飲で初更に寝る。一寝して目が覚ると云うのが今で云えば十時か十時過、それからヒョイと起きて書を読む。夜明まで書を読んで居て、台所の方で塾の飯炊がコト/\飯を焚く仕度をする音が聞えると、それを相図に又寝る。寝て丁度飯の出来上った頃起きて、その儘湯屋に行て朝湯に這入て、それから塾に帰て朝飯を給べて又書を読むと云うのが、大抵緒方の塾に居る間殆んど常極りであった。勿論衛生などゝ云うことは頓と構わない。全体は医者の塾であるから衛生論も喧しく言いそうなものであるけれども、誰も気が付かなかったのか或は思出さなかったのか、一寸でも喧しく云たことはない。それで平気で居られたと云うのは、考えて見れば身体が丈夫であったのか、或は又衛生々々と云うようなことを無闇に喧しく云えば却て身体が弱くなると思て居たのではないかと思われる。
原本写本会読の法それから塾で修行するその時の仕方は如何云う塩梅であったかと申すと、先ず始めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何して教えるかと云うと、その時江戸で飜刻になって居る和蘭の文典が二冊ある。一をガランマチカと云い、一をセインタキスと云う。初学の者には先ずそのガランマチカを教え、素読を授る傍に講釈をもして聞かせる。之を一冊読了るとセインタキスを又その通にして教える。如何やら斯うやら二冊の文典が解せるようになった所で会読をさせる。会読と云うことは生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭が一人あって、その会読するのを聞て居て、出来不出来に依て白玉を附けたり黒玉を付けたりすると云う趣向で、ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、夫れから以上は専ら自身自力の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、又質問を試みるような卑劣な者もない。緒方の塾の蔵書と云うものは物理書と医書とこの二種類の外に何もない。ソレモ取集めて僅か十部に足らず、固より和蘭から舶来の原書であるが、一種類唯一部に限ってあるから、文典以上の生徒になれば如何してもその原書を写さなくてはならぬ。銘々に写して、その写本を以て毎月六才位会読をするのであるが、之を写すに十人なら十人一緒に写す訳けに行かないから、誰が先に写すかと云うことは籤で定めるので、扨その写しようは如何すると云うに、その時には勿論洋紙と云うものはない、皆日本紙で、紙を能く磨て真書で写す。それはどうも埓が明かないから、その紙に礬水をして、夫れから筆は鵞筆で以て写すのが先ず一般の風であった。その鵞筆と云うのは如何云うものであるかと云うと、その時大阪の薬種屋か何かに、鶴か雁かは知らぬが、三寸ばかりに切た鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。是れは鰹の釣道具にするものとやら聞て居た。価は至極安い物で、それを買て、磨澄ました小刀で以てその軸をペンのように削って使えば役に立つ。夫れから墨も西洋インキのあられよう訳けはない。日本の墨壺と云うのは、磨た墨汁を綿か毛氈の切布に浸して使うのであるが、私などが原書の写本に用うるのは、只墨を磨たまゝ墨壺の中に入れて今日のインキのようにして貯えて置きます。斯う云う次第で、塾中誰でも是非写さなければならぬから写本は中々上達して上手である。一例を挙ぐれば、一人の人が原書を読むその傍で、その読む声がちゃんと耳に這入て、颯々と写してスペルを誤ることがない。斯う云う塩梅に読むと写すと二人掛りで写したり、又一人で原書を見て写し