福翁自伝 02 福翁自伝

9話 福翁自伝 02 福翁自伝(9)

7,231字 約14分 2017年6月15日 公開

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れから取次が本人の処に持て行(いっ)て、「鉄川と云う人は塾中にない、多分手塚君のことゝ思うから持て来たと云て渡した。手紙偽造の共謀者はその前から見え隠(がく)れに様子を窺(うかが)うて居た所が、本人の手塚は一人(ひとり)で頻(しき)りにその手紙を見て居る。麝香(じゃこう)の無心があった事か如何(どう)か分らないが、手塚の二字を大阪なまりにテツカと云うそのテツカを鉄川と書いたのは、高橋順益(じゅんえき)の思付(おもいつき)で余(よ)ほど善(よ)く出来てる。そんな事で如何(どう)やら斯(こ)うやら遂(つい)に本人をしゃくり出して仕舞(しまっ)たのは罪の深い事だ。二、三日は止(と)まって居たが果して行(いっ)たから、ソリャ締(し)めたと共謀者は待(まっ)て居る。翌朝(よくちょう)帰(かえっ)て平気で居るから、此方(こっち)も平気で、私が鋏(はさみ)を持て行(いっ)てひょいと引捕(ひっつかま)えた所が、手塚が驚いて「どうすると云うから、「どうするも何もない、坊主にするだけだ。坊主にされて今のような立派な男になるには二年ばかり手間が掛るだろう。往生しろと云(いっ)て、髻(もとどり)を捕(つかま)えて鋏をガチャ/\云わせると、当人は真面目(まじめ)になって手を合せて拝む。そうすると共謀者中(ちゅう)から仲裁人が出て来て、「福澤、余り酷(ひど)いじゃないか。「何も文句なしじゃないか、坊主になるのは約束だと問答の中に、馴合(なれあい)の中人(ちゅうにん)が段々取持(とりも)つような風をして、果ては坊主の代りに酒や鶏(にわとり)を買わして、一処に飲みながら又冷(ひや)かして、「お願いだ、もう一度行て呉(く)れんか、又飲めるからとワイワイ云たのは随分乱暴だけれども、それが自(おのず)から切諫(いけん)になって居たこともあろう。

御幣担ぎを冷かす同窓生の間(あいだ)には色々な事のあるもので、肥後から来て居た山田謙輔(やまだけんすけ)と云う書生は極々(ごくごく)の御幣担(ごへいかつぎ)で、しの字を言わぬ。その時、今の市川団十郎の親の海老蔵(えびぞう)が道頓堀の芝居に出て居るときで、芝居の話をすると、山田は海老蔵のよばいを見るなんて云う位(くらい)な御幣担だから、性質は至極(しごく)立派な人物だけれとも、如何(どう)も蘭学書生の気に入らぬ筈(はず)だ。何か話の端(はし)には之(これ)を愚弄(ぐろう)して居ると、山田の云うに「福澤々々、君のように無法な事ばかり云(い)うが、マア能(よ)く考えて見給(みたま)え。正月元日の朝、年礼に出掛けた時に、葬礼に逢うと鶴を台に戴せて担(かつい)で来るのを見ると何方(どっち)が宜(よ)いかと云うから、私は、「夫(そ)れは知れた事だ。死人(しびと)は喰(く)われんから鶴の方が宜(い)い。けれども鶴だって乃公(おれ)に喰わせなければ死人(しにん)も同じ事だと答えたような塩梅式(あんばいしき)で、何時(いつ)も冷(ひや)かして面白がって居る中に、或(あ)るとき長与専斎(ながよせんさい)か誰(だ)れかと相談して、彼奴(あいつ)を一番大に遣(やっ)てやろうじゃないかと一工風(ひとくふう)して、当人の不在の間(あいだ)にその硯(すずり)に紙を巻いて位牌(いはい)を拵(こしら)えて、長与の書が旨(うま)いから立派に何々院何々居士(こじ)と云う山田の法名(ほうみょう)を書いて机の上に置て、当人の飯(めし)を喰う茶碗に灰を入れて線香を立てゝ位牌の前にチャント供えて置た所が、帰(かえっ)て来て之を見て忌(いや)な顔をしたとも何とも、真青(まっさお)になって腹を立てゝ居たが、私共は如何(どう)も怖かった。若(も)しも短気な男なら切付(きりつ)けて来たかも知れないから。

欺て河豚を喰わせる夫(そ)れから又一度遣(やっ)た後(あと)で怖いと思(おもっ)たのは人をだまして河豚(ふぐ)を喰(く)わせた事だ。私は大阪に居るとき颯々(さっさ)と河豚も喰えば河豚の肝(きも)も喰(くっ)て居た。或(あ)る時、芸州(げいしゅう)仁方(にがた)から来て居た書生、三刀元寛(みとうげんかん)と云(い)う男に、鯛(たい)の味噌漬(みそづけ)を貰(もらっ)て来たが喰わぬかと云(い)うと、「有難(ありがた)い、成程宜(い)い味がすると、悦(よろこ)んで喰て仕舞(しまっ)て二時間ばかり経(たっ)てから、「イヤ可愛(かあい)そうに、今喰たのは鯛でも何でもない、中津屋敷で貰た河豚の味噌漬だ。食物(しょくもつ)の消化時間は大抵(たいてい)知(しっ)てるだろう、今吐剤(とざい)を飲(のん)でも無益だ。河豚の毒が嘔(は)かれるなら嘔(はい)て見ろと云(いっ)たら、三刀も医者の事だから能(よ)く分(わかっ)て居る。サア気を揉(もん)で私に武者振付(むしゃぶりつ)くように腹を立てたが、私も後(あと)になって余り洒落(しゃれ)に念が入過(いりす)ぎたと思て心配した。随分間違(まちがい)の生じ易(やす)い話だから。

料理茶屋の物を盗む前に云(い)う通り御霊(ごりょう)の植木見世(みせ)で万引と疑われたが、疑われる筈(はず)だ、緒方の書生は本当に万引をして居たその万引と云うは、呉服店(ごふくや)で反物(たんもの)なんど云う念の入(いっ)た事ではない、料理茶屋で飲(のん)だ帰りに猪口(ちょこ)だの小皿だの色々手ごろな品を窃(そっ)と盗んで来るような万引である。同窓生互に夫(そ)れを手柄のようにして居るから、送別会などゝ云う大会のときには穫物(えもの)も多い。中には昨夜(ゆうべ)の会で団扇(うちわ)の大きなのを背中に入れて帰る者もあれば、平たい大皿を懐中し吸物椀(すいものわん)の蓋(ふた)を袂(たもと)にする者もある。又或(あ)る奴は、君達がそんな半端物(はんぱもの)を挙げて来るのはまだ拙(つた)ない。乃公(おれ)の獲物を拝見し給えと云(いっ)て、小皿を十人前揃(そろ)えて手拭(てぬぐい)に包んで来たこともある。今思えば是(こ)れは茶屋でもトックに知(しっ)て居ながら黙って通して、実はその盗品の勘定も払(はらい)の内に這入(はいっ)て居るに相違ない、毎度の事でお極(きま)りの盗坊(どろぼう)だから。

難波橋から小皿を投ずその小皿に縁のある一奇談は、或(あ)る夏の事である、夜十時過ぎになって酒が飲みたくなって、嗚呼(ああ)飲みたいと一人が云(い)うと、僕も爾(そ)うだと云う者が直(すぐ)に四、五人出来た。所(ところ)がチャント門限があって出ることが出来ぬから、当直の門番を脅迫して無理に開(あ)けさして、鍋島(なべしま)の浜と云う納涼(すずみ)の葭簀張(よしずばり)で、不味(まず)いけれども芋蛸汁(いもだこじる)か何かで安い酒を飲(のん)で、帰りに例の通りに小皿を五、六枚挙げて来た。夜十二時過(すぎ)でもあったか、難波橋(なにわばし)の上に来たら、下流(かわしも)の方で茶船(ちゃぶね)に乗(のっ)てジャラ/\三味線を鳴らして騒いで居る奴がある。「あんな事をして居やがる。此方(こっち)は百五十か其処辺(そこら)の金を見付出(みつけだ)して漸(ようや)く一盃(いっぱい)飲で帰る所だ。忌々敷(いまいまし)い奴等だ。あんな奴があるから此方等(こちら)が貧乏するのだと云いさま、私の持(もっ)てる小皿を二、三枚投付(なげつ)けたら、一番仕舞(しまい)の一枚で三味線の音(ね)がプッツリ止(や)んだ。その時は急いで逃げたから人が怪我(けが)をしたかどうか分(わか)らなかった。所(ところ)が不思議にも一箇月ばかり経(たっ)て其(そ)れが能(よ)く分(わか)った。塾の一書生が北の新地に行(いっ)て何処(どこ)かの席で芸者に逢うたとき、その芸者の話に、「世の中には酷(ひど)い奴もある。一箇月ばかり前の夜(ばん)に私がお客さんと舟で難波橋(なにわばし)の下で涼んで居たら、橋の上からお皿を投げて、丁度(ちょうど)私の三味線に中(あた)って裏表(うらおもて)の皮を打抜(うちぬ)きましたが、本当に危ない事で、先(ま)ず/\怪我をせんのが仕合(しあわせ)でした。何処(どこ)の奴(やつ)か四、五人連れでその皿を投げて置(おい)て南の方にドン/″\逃げて行きました。実に憎らしい奴もあればあるものと、斯(こ)う/\芸者が話して居たと云(い)うのを、私共は夫(そ)れを聞(きい)て下手人(げしゅにん)にはチャント覚えがあるけれども、云えば面倒だからその同窓の書生にもその時には隠して置いた。

禁酒から煙草又私は酒の為(た)めに生涯の大損(おおぞん)をして、その損害は今日までも身に附(つい)て居ると云うその次第は、緒方(おがた)の塾に学問修業しながら兎角(とかく)酒を飲(のん)で宜(よ)いことは少しもない。是(こ)れは済(す)まぬ事だと思い、恰(あだか)も一念こゝに発起(ほっき)したように断然酒を止(や)めた。スルト塾中の大(おお)評判ではない大笑(おおわらい)で、「ヤア福澤が昨日から禁酒した。コリャ面白い、コリャ可笑(おか)しい。何時(いつ)まで続くだろう。迚(とて)も十日は持てまい。三日禁酒で明日は飲むに違いないなんて冷(ひや)かす者ばかりであるが、私も中々剛情に辛抱(しんぼう)して十日も十五日も飲まずに居ると、親友の高橋順益(じゅんえき)が、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げて遣(や)るぞ。所が凡(およ)そ人間の習慣は、仮令(たと)い悪い事でも頓(とん)に禁ずることは宜(よろ)しくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに烟草(タバコ)を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶(かな)わぬと親切らしく云(い)う。所(ところ)が私は烟草が大嫌いで、是(こ)れまでも同塾生の烟草を喫(の)むのを散々に悪く云うて、「こんな無益な不養生な訳(わけ)の分らぬ物を喫(の)む奴(やつ)の気が知れない。何は扨置(さてお)き臭くて穢(きた)なくて堪(たま)らん。乃公(おれ)の側(そば)では喫んで呉(く)れるななんて、愛想(あいそ)づかしの悪口(わるくち)を云(いっ)て居たから、今になって自分が烟草を始めるのは如何(どう)もきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けば亦(また)無理でもない。「そんなら遣(やっ)て見ようかと云(いっ)てそろ/\試(こころみ)ると、塾中の者が烟草を呉れたり、烟管(キセル)を貸したり、中には是(こ)れは極(ご)く軽い烟草だと云て態々(わざわざ)買(かっ)て来て呉れる者もあると云うような騒ぎは、何も本当な深切でも何でもない。実は私が不断烟草の事を悪くばかり云て居たものだから、今度は彼奴(あいつ)を喫烟者(タバコのみ)にして遣(や)ろうと、寄って掛(かか)って私を愚弄(ぐろう)するのは分って居るけれども、此方(こっち)は一生懸命禁酒の熱心だから、忌(いや)な烟(けむり)を無理に吹かして、十日も十五日もそろ/\慣らして居る中に、臭い辛(から)いものが自然に臭くも辛くもなく、段々風味が善(よ)くなって来た。凡(およ)そ一箇月ばかり経(たっ)て本当の喫烟客になった。処が例の酒だ。何としても忘れられない。卑怯(ひきょう)とは知りながら一寸(ちょい)と一盃(いっぱい)遣(やっ)て見ると堪(たま)らない。モウ一盃、これでお仕舞(しまい)と力(りき)んでも、徳利(とくり)を振(ふっ)て見て音がすれば我慢が出来ない。とう/\三合(さんごう)の酒を皆飲(のん)で仕舞(しまっ)て、又翌日は五合飲む。五合、三合、従前(もと)の通りになって、去(さ)らば烟草の方は喫(の)まぬむかしの通りにしようとしても是(こ)れも出来ず、馬鹿々々しいとも何とも訳(わ)けが分(わか)らない。迚(とて)も叶(かな)わぬ禁酒の発心(ほっしん)、一箇月の大馬鹿をして酒と烟草(タバコ)と両刀遣(づか)いに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども烟草は止(や)みそうにもせず、衛生の為(た)め自(みず)から作(な)せる損害と申して一言(いちごん)の弁解はありません。

桃山から帰て火事場に働く塾中兎角(とかく)貧生(ひんせい)が多いので料理茶屋に行(いっ)て旨い魚を喰(く)うことは先(ま)ず六(むず)かしい。夜になると天神橋か天満橋の橋詰(はしづめ)に魚市(さかないち)が立つ。マア云(い)わば魚の残物(ひけもの)のようなもので直(ね)が安い。夫(そ)れを買(かっ)て来て洗水盥(ちょうずだらい)で洗(あらっ)て、机の毀(こわ)れたのか何かを俎(まないた)にして、小柄(こづか)を以(もっ)て拵(こしら)えると云(い)うような事は毎度遣(やっ)て居たが、私は兼て手の先(さ)きが利(き)いてるから何時(いつ)でも魚洗(さかなあらい)の役目に廻って居た。頃は三月、桃の花の時節で、大阪の城の東に桃山(ももやま)と云う処があって、盛(さか)りだと云うから花見に行こうと相談が出来た。迚(とて)も彼方(あっち)に行(いっ)て茶屋で飲食(のみく)いしようと云うことは叶わぬから、例の通り前の晩に魚の残物(ひけもの)を買て来て、その外(ほか)、氷豆腐だの野葉物(やさいもの)だの買調(かいととの)えて、朝早くから起きて怱々(そうそう)に拵えて、それを折か何かに詰めて、それから酒を買て、凡(およ)そ十四、五人も同伴(つれ)があったろう、弁当を順持(じゅんもち)にして桃山に行て、さん/″\飲食いして宜(い)い機嫌になって居るその時に、不図(ふと)西の方を見ると大阪の南に当(あたっ)て大火事だ。日は余程(よほど)落ちて昔の七ツ過(すぎ)。サア大変だ。丁度(ちょうど)その日に長与専斎(ながよせんさい)が道頓堀の芝居を見に行て居る。吾々(われわれ)花見連中(れんじゅう)は何も大阪の火事に利害を感ずることはないから、焼けても焼けぬでも構わないけれども、長与(ながよ)が行(いっ)て居る。若(も)しや長与が焼死(やけじに)はせぬか。何でも長与を枚い出さなければならぬと云(い)うので、桃山(ももやま)から大阪迄(まで)、二、三里の道をどん/″\駈(か)けて、道頓堀に駈付(かけつ)けて見た所が、疾(と)うに焼けて仕舞(しま)い、三芝居あったが三芝居とも焼けて、段々北の方に焼延(やけの)びて居る。長与は如何(どう)したろうかと心配したものゝ、迚(とて)も捜(さが)す訳(わ)けに行かぬ。間もなく日が暮れて夜になった。もう夜になっては長与の事は仕方(しかた)がない。「火事を見物しようじゃないかと云(いっ)て、その火事の中へどん/\這入(はいっ)て行た。所が荷物(にもつ)を片付けるので大騒ぎ。それからその荷物を運んで遣(や)ろうと云うので、夜具包(やぐづつみ)か何の包か、風呂敷包を担(かつ)いだり箪笥(たんす)を担いだり中々働いて、段々進(すすん)で行くと、その時大阪では焼ける家の柱に綱(つな)を付けて家を引倒(ひきたう)すと云うことがあるその網を引張(ひっぱ)って呉(く)れと云う。「よし来たとその綱を引張る。所が握飯(にぎりめし)を喰(くわ)せる、酒を飲ませる。如何(どう)も堪(こた)えられぬ面白い話だ。散々酒を飲み握飯を喰(くっ)て八時頃にもなりましたろう。夫(そ)れから一同塾に帰(かえっ)た。所がマダ焼けて居る。「もう一度行こうではないかと又出掛けた。その時の大阪の火事と云うものは誠に楽なもので、火の周囲(まわり)だけは大変騒々しいが、火の中へ這入(はい)ると誠に静(しずか)なもので、一人(ひとり)も人が居らぬ位(くらい)。どうもない。只(ただ)その周囲の処に人がドヤ/″\群集(ぐんしゅう)して居るだけである。夫(そ)れゆえ大きな声を出して蹴破(けやぶ)って中へ飛込(とびこ)みさえすれば誠に楽な話だ。中には火消(ひけし)の黒人(くろうと)と緒方の書生だけで大(おおい)に働いた事があると云(い)うような訳(わ)けで、随分活溌な事をやったことがありました。

 一体塾生の乱暴と云うものは是(こ)れまで申した通りであるが、その塾生同士相互(あいたがい)の間柄(あいだがら)と云うものは至(いたっ)て仲の宜(よ)いもので、決して争(あらそい)などをしたことはない。勿論(もちろん)議論はする、いろ/\の事に就(つい)て互に論じ合うと云うことはあっても、決して喧嘩をするような事は絶(たえ)てない事で、殊(こと)に私は性質として朋友と本気になって争うたことはない。仮令(たと)い議論をすればとて面白い議論のみをして、例えば赤穂(あこう)義士の問題が出て、義士は果して義士なるか不義士なるかと議論が始まる。スルト私はどちらでも宜(よろ)しい、義不義、口の先(さ)きで自由自在、君が義士と云えば僕は不義士にする、君が不義士と云えば僕は義士にして見せよう、サア来い、幾度来ても苦(くるし)くないと云(いっ)て、敵に為(な)り味方に為り、散々論じて勝(かっ)たり負けたりするのが面白いと云う位(くらい)な、毒のない議論は毎度大声で遣(やっ)て居たが、本当に顔を赧(あか)らめて如何(どう)あっても是非を分(わか)って了(しま)わなければならぬと云う実(み)の入(いっ)た議論をしたことは決してない。

塾生の勉強凡(およ)そ斯(こ)う云う風(ふう)で、外に出ても亦(また)内に居ても、乱暴もすれば議論もする。ソレ故一寸(ちょい)と一目(いちもく)見た所では――今までの話だけを開(きい)た所では、如何(いか)にも学問どころの事ではなく唯(ただ)ワイ/\して居たのかと人が思うでありましょうが、其処(そこ)の一段に至ては決して爾(そ)うでない。学問勉強と云(い)うことになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政三年の三月、熱病を煩(わずろ)うて幸(さいわい)に全快に及んだが、病中は括枕(くくりまくら)で坐蒲団(ざぶとん)か何かを括(くく)って枕にして居たが、追々(おいおい)元の体に恢復(かいふく)して来た所で、只(ただ)の枕をして見たいと思い、その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居して居たので、兄の家来が一人(ひとり)あるその家来に、只の枕をして見たいから持(もっ)て来いと云(いっ)たが、枕がない、どんなに捜(さが)してもないと云うので、不図(ふと)思付(おもいつ)いた。是(こ)れまで倉屋敷に一年ばかり居たが遂(つい)ぞ枕をしたことがない、と云うのは時は何時(なんどき)でも構わぬ、殆(ほと)んど昼夜の区別はない、日が暮れたからと云て寝ようとも思わず頻(しき)りに書を読んで居る。読書に草臥(くたび)れ眠くなって来れば、机の上に突臥(つっぷ)して眠るか、或(あるい)は床の間の床側(とこふち)を枕にして眠るか、遂ぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどゝ云うことは只の一度(いちど)もしたことがない。その時に始めて自分で気が付(つい)て、「成程(なるほど)枕はない筈(はず)だ、是(こ)れまで枕をして寝たことがなかったからと始めて気が付きました。是れでも大抵(たいてい)趣(おもむき)が分りましょう。是れは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵皆そんなもので、凡(およ)そ勉強と云(い)うことに就(つい)ては実にこの上に為(し)ようはないと云う程に勉強して居ました。

 それから緒方の塾に這入(はいっ)てからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分に若(も)し酒があれば酒を飲(のん)で初更(よい)に寝る。一寝(ひとね)して目が覚(さめ)ると云うのが今で云えば十時か十時過、それからヒョイと起きて書を読む。夜明(よあけ)まで書を読んで居て、台所の方で塾の飯炊(めしたき)がコト/\飯を焚(た)く仕度(したく)をする音が聞えると、それを相図(あいず)に又寝る。寝て丁度(ちょうど)飯の出来上った頃起きて、その儘(まま)湯屋に行(いっ)て朝湯(あさゆ)に這入て、それから塾に帰(かえっ)て朝飯(あさめし)を給(た)べて又書を読むと云うのが、大抵緒方の塾に居る間殆(ほと)んど常極(じょうきま)りであった。勿論(もちろん)衛生などゝ云うことは頓(とん)と構わない。全体は医者の塾であるから衛生論も喧(やかま)しく言いそうなものであるけれども、誰も気が付かなかったのか或(あるい)は思出(おもいだ)さなかったのか、一寸(ちょいと)でも喧(やかま)しく云(いっ)たことはない。それで平気で居られたと云うのは、考えて見れば身体(からだ)が丈夫であったのか、或は又衛生々々と云うようなことを無闇(むやみ)に喧しく云えば却(かえっ)て身体(からだ)が弱くなると思(おもっ)て居たのではないかと思われる。

原本写本会読の法それから塾で修行するその時の仕方(しかた)は如何(どう)云(い)う塩梅(あんばい)であったかと申すと、先(ま)ず始めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何(どう)して教えるかと云うと、その時江戸で飜刻(ほんこく)になって居る和蘭(オランダ)の文典が二冊ある。一をガランマチカと云い、一をセインタキスと云う。初学の者には先(ま)ずそのガランマチカを教え、素読(そどく)を授(さずけ)る傍(かたわら)に講釈をもして聞かせる。之(これ)を一冊読了(よみおわ)るとセインタキスを又その通(とおり)にして教える。如何(どう)やら斯(こ)うやら二冊の文典が解(げ)せるようになった所で会読(かいどく)をさせる。会読と云うことは生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭(かいとう)が一人(ひとり)あって、その会読するのを聞(きい)て居て、出来不出来に依(よっ)て白玉(しろだま)を附けたり黒玉(くろだま)を付けたりすると云う趣向で、ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、夫(そ)れから以上は専(もっぱ)ら自身自力(じりき)の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、又質問を試(こころ)みるような卑劣な者もない。緒方の塾の蔵書と云うものは物理書と医書とこの二種類の外(ほか)に何もない。ソレモ取集(とりあつ)めて僅(わず)か十部に足らず、固(もと)より和蘭から舶来の原書であるが、一種類唯(ただ)一部に限ってあるから、文典以上の生徒になれば如何(どう)してもその原書を写さなくてはならぬ。銘々に写して、その写本を以(もっ)て毎月六才位(ぐらい)会読をするのであるが、之(これ)を写すに十人なら十人一緒に写す訳(わ)けに行かないから、誰が先に写すかと云(い)うことは籤(くじ)で定(き)めるので、扨(さて)その写しようは如何(どう)すると云うに、その時には勿論(もちろん)洋紙と云うものはない、皆日本紙で、紙を能(よ)く磨(すっ)て真書(しんかき)で写す。それはどうも埓(らち)が明かないから、その紙に礬水(どうさ)をして、夫(そ)れから筆は鵞筆(がぺん)で以て写すのが先(ま)ず一般の風であった。その鵞筆(がぺん)と云うのは如何(どう)云うものであるかと云うと、その時大阪の薬種屋(やくしゅや)か何かに、鶴か雁(がん)かは知らぬが、三寸ばかりに切(きっ)た鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。是(こ)れは鰹(かつお)の釣道具(つりどうぐ)にするものとやら聞て居た。価(あたい)は至極(しごく)安い物で、それを買(かっ)て、磨澄(とぎす)ました小刀(こがたな)で以てその軸をペンのように削って使えば役に立つ。夫れから墨も西洋インキのあられよう訳(わ)けはない。日本の墨壺(すみつぼ)と云うのは、磨た墨汁(すみ)を綿(わた)か毛氈(もうせん)の切布(きれ)に浸(した)して使うのであるが、私などが原書の写本に用うるのは、只(ただ)墨を磨たまゝ墨壺の中に入れて今日のインキのようにして貯えて置きます。斯(こ)う云う次第で、塾中誰でも是非(ぜひ)写さなければならぬから写本は中々上達して上手(じょうず)である。一例を挙(あ)ぐれば、一人(ひとり)の人が原書を読むその傍(そば)で、その読む声がちゃんと耳に這入(はいっ)て、颯々(さっさ)と写してスペルを誤ることがない。斯う云う塩梅(あんばい)に読むと写すと二人掛(ふたりがか)りで写したり、又一人で原書を見て写し

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