福翁自伝 02 福翁自伝

10話 福翁自伝 02 福翁自伝(10)

7,916字 約16分 2017年6月15日 公開

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たりして、出来上れば原書を次の人に廻す。その人が写丁(うつしおわ)ると又その次の人が写すと云(い)うように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚か或(あるい)は四、五枚より多くはない。

自身自力の研究扨(さて)その写本の物理書、医書の会読(かいどく)を如何(どう)するかと云うに、講釈の為人(して)もなければ読んで聞かして呉(く)れる人もない。内証(ないしょ)で教えることも聞くことも書生間の恥辱(ちじょく)として、万々一も之(これ)を犯す者はない。唯(ただ)自分一人(ひとり)で以(もっ)てそれを読砕(よみくだ)かなければならぬ。読砕くには文典を土台にして辞書に便(たよ)る外(ほか)に道はない。その辞書と云うものは、此処(ここ)にヅーフと云う写本の字引(じびき)が塾に一部ある。是(こ)れは中々大部なもので、日本の紙で凡(およ)そ三千枚ある。之を一部拵(こしら)えると云うことは中々大きな騒ぎで容易に出来たものではない。是れは昔長崎の出島に在留して居た和蘭(オランダ)のドクトル・ヅーフと云う人が、ハルマと云う独逸(ドイツ)和蘭対訳の原書の字引を飜訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇(あが)められ、夫(そ)れを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もヅーフの周囲(まわり)に寄合(よりあっ)て見て居た。夫れからモウ一歩立上(のぼ)るとウエーランドと云(い)う和蘭(オランダ)の原書の字引が一部ある。それは六冊物で和蘭の註が入れてある。ヅーフで分(わか)らなければウエーランドを見る。所(ところ)が初学の間(あいだ)はウエーランドを見ても分る気遣(きづかい)はない。夫(それ)ゆえ便(たよ)る所は只(ただ)ヅーフのみ。会読(かいどく)は一六とか三八とか大抵(たいてい)日が極(きま)って居て、いよ/\明日(あす)が会読だと云うその晩は、如何(いか)な懶惰(らいだ)生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋と云う字引のある部屋に、五人も十人も群(ぐん)をなして無言で字引を引(ひき)つゝ勉強して居る。夫れから翌朝(よくあさ)の会読になる。会読をするにも籤(くじ)で以(もっ)て此処(ここ)から此処までは誰と極(き)めてする。会頭(かいとう)は勿論(もちろん)原書を持て居るので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割当てられた所を順々に講じて、若(も)しその者が出来なければ次に廻す。又その人も出来なければその次に廻す。その中で解(げ)し得た者は白玉(しろたま)、解(げ)し傷(そこな)うた者は黒玉(くろだま)、夫れから自分の読む領分を一寸(ちょっと)でも滞(とどこお)りなく立派に読んで了(しま)ったと云う者は白い三角を付ける。是(こ)れは只の丸玉(まるだま)の三倍ぐらい優等な印(しるし)で、凡(およ)そ塾中の等級は七、八級位(ぐらい)に分けてあった。而(そう)して毎級第一番の上席を三ヶ月占(しめ)て居れば登級(とうきゅう)すると云う規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞(きい)て遣(や)り至極(しごく)深切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力(じりき)に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験に逢(あ)うようなものだ。爾(そ)う云(い)う訳(わ)けで次第々々に昇級すれば、殆(ほと)んど塾中の原書を読尽(よみつく)して云わば手を空(むなし)うするような事になる、その時には何か六(むず)かしいものはないかと云うので、実用もない原書の緒言(ちょげん)とか序文とか云うような者を集めて、最上等の塾生だけで会読(かいどく)をしたり、又は先生に講義を願(ねがっ)たこともある。私などは即(すなわ)ちその講義聴聞者の一人でありしが、之(これ)を聴聞する中にも様々先生の説を聞て、その緻密(ちみつ)なることその放胆(ほうたん)なること実に蘭学界の一大家(いちだいか)、名実共に違(たが)わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰(かえっ)て朋友相互(あいたがい)に、「今日の先生の彼(あ)の卓説は如何(どう)だい。何だか吾々(われわれ)は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話したのは今に覚えて居ます。

 市中に出て大(おおい)に酒を飲むとか暴れるとか云うのは、大抵(たいてい)会読を仕舞(しまっ)たその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇(ひま)があると云う時に勝手次第に出て行(いっ)たので、会読の日に近くなると所謂(いわゆる)月に六回の試験だから非常に勉強して居ました。書物を能(よ)く読むと否(いな)とは人々の才不才(さいふさい)にも依(よ)りますけれども、兎(と)も角(かく)も外面を胡魔化(ごまか)して何年居るから登級(とうきゅう)するの卒業するのと云(い)うことは絶えてなく、正味(しょうみ)の実力を養うと云うのが事実に行われて居たから、大概の塾生は能(よ)く原書を読むことに達して居ました。

写本の生活ヅーフの事に就(つい)て序(ついで)ながら云うことがある。如何(どう)かするとその時でも諸藩の大名がそのヅーフを一部写して貰(もら)いたいと云う注文を申込(もうしこん)で来たことがある。ソコでその写本と云うことが又書生の生活の種子(たね)になった。当時の写本代は半紙一枚十行二十字詰で何文(なんもん)と云う相場である。処(ところ)がヅーフ一枚は横文字三十行位(くらい)のもので、夫(そ)れだけの横文字を写すと一枚十六文(もん)、夫れから日本文字で入れてある註の方を写すと八文、只(ただ)の写本に較(くら)べると余程(よほど)割りが宜(よろ)しい。一枚十六文であるから十枚写せば百六十四文になる。註の方ならばその半値(はんね)八十文になる。註を写す者もあれば横文字を写す者もあった。ソレを三千枚写すと云うのであるから、合計して見ると中々大きな金高(きんだか)になって、自(おのず)から書生の生活を助けて居ました。今日(こんにち)より考(かんがう)れば何でもない金のようだけれども、その時には決してそうでない。一例を申せば白米(はくまい)一石(いっこく)が三分二朱(さんぶにしゅ)、酒が一升(いっしょう)百六十四文から二百文で、書生在塾の入費(にゅうひ)は一箇月一分貳朱(しゅ)から朱から」]一分三朱あれば足る。一分貳朱は朱は」]その時の相場で凡(およ)そ二貫(にかん)四百文であるから、一日が百文より安い。然(しか)るにヅーフを一日に十枚写せば百六十四文になるから、余る程あるので、凡そ尋常一様の写本をして塾に居られるなどゝ云(い)うことは世の中にないことであるが、その出来るのは蘭学書生に限る特色の商売であった。ソレに就(つい)て一例を挙(あ)げれば斯(こ)う云(い)うことがある。江戸は流石(さすが)に大名の居る処で、啻(ただ)にヅーフ計(ばか)りでなく蘭学書生の為(た)めに写本の注文は盛(さかん)にあったもので自(おのず)から価(あたい)が高い。大阪と較(くら)べて見れば大変高い。加賀の金沢の鈴木儀六(すずきぎろく)と云う男は、江戸から大阪に来て修業した書生であるが、この男が元来一文なしに江戸に居て、辛苦(しんく)して写本で以(もっ)て自分の身を立てたその上に金を貯えた。凡(およ)そ一、二年辛抱して金を二十両ばかり拵(こしら)えて、大阪に出て来て到頭(とうとう)その二十両の金で緒方の塾で学問をして金沢に帰(かえっ)た。是(こ)れなどは全く蘭書写本のお蔭である。その鈴木の考(かんがえ)では、写本をして金を取るのは江戸が宜(い)いが、修業するには如何(どう)しても大阪でなければ本当な事が出来ないと目的を定めて、ソレでその金を持(もっ)て来たのであると話して居ました。

工芸伎術に熱心夫(そ)れから又一方では今日のように都(すべ)て工芸技術の種子(たね)と云うものがなかった。蒸気機関などは日本国中で見ようと云(いっ)てもありはせぬ。化学(ケミスト)の道具にせよ、何処(どこ)にも揃(そろ)ったものはありそうにもしない。揃うた物どころではない、不完全な物もありはせぬ。けれども爾(そ)う云(い)う中に居ながら、器械の事にせよ化学の事にせよ大体の道理は知(しっ)て居るから、如何(どう)かして実地を試みたいものだと云うので、原書を見てその図を写して似寄(により)の物を拵(こしら)えると云うことに就(つい)ては中々骨を折りました。私が長崎に居るとき塩酸亜鉛(あえん)があれば鉄にも錫(すず)を附けることが出来ると云うことを聞(きい)て知(しっ)て居る。夫(そ)れまで日本では松脂(まつやに)ばかりを用いて居たが、松脂では銅(あかがね)の類(るい)に錫を流して鍍金(めっき)することは出来る。唐金(からかね)の鍋(なべ)に白(しろ)みを掛けるようなもので、鋳掛屋(いかけや)の仕事であるが、塩酸亜鉛があれば鉄にも錫が着くと云うので、同塾生と相談してその塩酸亜鉛を作ろうとした所が、薬店(くすりや)に行ても塩酸のある気遣(きづかい)はない。自分で拵えなければならぬ。塩酸を拵える法は書物で分る。その方法に依(よっ)て何(ど)うやら斯(こ)うやら塩酸を拵えて、之(これ)に亜鉛を溶かして鉄に錫を試みて、鋳掛屋の夢にも知らぬ事が立派に出来たと云うようなことが面白くて堪(たま)らぬ。或(あるい)は又ヨジユムを作って見ようではないかと、色々書籍(しょじゃく)を取調(とりしら)べ、天満(てんま)の八百屋市(やおやいち)に行て昆布荒布(あらめ)のような海草類を買(かっ)て来て、夫(そ)れを炮烙(ほうろく)で煎(いっ)て如何(どう)云う風(ふう)にすれば出来ると云うので、真黒(まっくろ)になって遣(やっ)たけれども是(こ)れは到頭(とうとう)出来ない。それから今度は砂(どうしゃ)製造の野心を起して、先(ま)ず第一の必要は塩酸暗謨尼亜(アンモニア)であるが、是れも勿論(もちろん)薬店(くすりや)にある品物でない。その暗謨尼亜を造るには如何(どう)するかと云えば、骨(こつ)……骨よりもっと世話なしに出来るのは鼈甲屋(べっこうや)などに馬爪(ばづ)の削屑(けずりくず)がいくらもあって只呉(ただく)れる。肥料にするかせぬか分(わか)らぬが行きさえすれば呉れるから、それをドッサリ貰(もらっ)て来て徳利(とくり)に入れて、徳利の外面(そと)に土を塗り、又素焼の大きな瓶(かめ)を買て七輪にして沢山(たくさん)火を起し、その瓶(かめ)の中に三本も四本も徳利を入れて、徳利の口には瀬戸物の管(くだ)を附けて瓶の外に出すなど色々趣向して、ドシ/″\火を扇(あう)ぎ立てると管の先(さ)きからタラ/\液が出て来る。即(すなわ)ち是(こ)れが暗謨尼亜(アンモニア)である。至極(しごく)旨く取れることは取れるが、爰(ここ)に難渋はその臭気だ。臭いにも臭くないにも何とも云(い)いようがない。那(あ)の馬爪(ばづ)、あんな骨類(こつるい)を徳利に入れて蒸焼(むしやき)にするのであるから実に鼻持(はなもち)もならぬ。それを緒方の塾の庭の狭い処で遣(や)るのであるから奥で以(もっ)て堪(たま)らぬ。奥で堪らぬばかりではない。流石(さすが)の乱暴書生も是(こ)れには辟易(へきえき)して迚(とて)も居られない。夕方湯屋(ゆや)に行くと着物が臭くって犬が吠えると云う訳(わ)け。仮令(たと)い真裸体(まっぱだか)で遣(やっ)ても身体(からだ)が臭いと云(いっ)て人に忌(いや)がられる。勿論(もちろん)製造の本人等(ら)は如何(どう)でも斯(こ)うでもして砂(どうしゃ)と云う物を拵(こしら)えて見ましょうと云う熱心があるから、臭いのも何も構わぬ、頻(しき)りに試みて居るけれども、何分(なにぶん)周辺(まわり)の者が喧(やかま)しい。下女下男迄(まで)も胸が悪くて御飯(ごはん)が給(た)べられないと訴える。其(そ)れ是(こ)れの中でヤット妙な物が出来たは出来たが、粉(こ)のような物ばかりで結晶しない。如何(どう)しても完全な砂(どうしゃ)にならない、加(くわ)うるに喧(やかま)しくて/\堪(たま)らぬから一旦罷(や)めにした。けれども気強(きづよ)い男はマダ罷めない。折角(せっかく)仕掛(しかか)った物が出来ないと云(いっ)ては学者の外聞(がいぶん)が悪いとか何とか云(い)うような訳(わ)けで、私だの久留米の松下元芳(まつしたげんぽう)、鶴田仙庵(つるたせんあん)等は思切(おもいきっ)たが、二、三の人は尚(な)お遣(やっ)た。如何(どう)したかと云うと、淀川(よどがわ)の一番粗末な船を借りて、船頭を一人(ひとり)雇うて、その船に例の瓶(かめ)の七輪(しちりん)を積込(つみこ)んで、船中で今の通りの臭い仕事を遣(や)るは宜(い)いが、矢張(やっぱ)り煙が立(たっ)て風が吹くと、その煙が陸(おか)の方へ吹付(ふきつ)けられるので、陸の方で喧しく云う。喧しく云えば船を動かして、川を上(のぼ)ったり下(くだ)ったり、川上(かわかみ)の天神橋、天満橋(てんまばし)から、ズット下(しも)の玉江橋(たまえばし)辺まで、上下(かみしも)に迯(に)げて廻(まわっ)て遣(やっ)たことがある。その男は中村恭安(なかむらきょうあん)と云う讃岐の金比羅(こんぴら)の医者であった。この外(ほか)にも犬猫は勿論(もちろん)、死刑人の解剖その他製薬の試験は毎度の事であったが、シテ見ると当時の蘭学書生は如何(いか)にも乱暴なようであるが、人の知らぬ処に読書研究、又実地の事に就(つい)ても中々勉強したものだ。

 製薬の事に就(つい)ても奇談がある。或(あ)るとき硫酸(りゅうさん)を造ろうと云うので、様々大骨(おおぼね)折(おっ)て不完全ながら色の黒い硫酸が出来たから、之(これ)を精製して透明にしなければならぬと云うので、その日は先(ま)ず茶碗に入れて棚の上に上げて置(おい)た処が、鶴田仙庵が自分で之を忘れて、何かの機(はずみ)にその茶椀を棚から落して硫酸を頭から冠(かぶ)り、身体(からだ)に左(さ)までの径我(けが)はなかったが、丁度(ちょうど)旧暦四月の頃で一枚の袷(あわせ)をヅタ/″\にした事がある。

 製薬には兎角(とかく)徳利(とくり)が入用(にゅうよう)だから、丁度宜(よろ)しい、塾の近所(きんじょ)の丼池筋(どぶいけすじ)に米藤(こめとう)と云う酒屋が塾の御出入(おでいり)、この酒屋から酒を取寄せて、酒は飲(のん)で仕舞(しまっ)て徳利は留置(とめお)き、何本でもみんな製薬用にして返さぬと云うのだから、酒屋でも少し変に思(おもっ)たと見え、内々(ないない)塾僕に聞合(ききあわ)せると、この節(せつ)書生さんは中実(なかみ)の酒よりも徳利の方に用があると云うので、酒屋は大に驚き、その後何としても酒を持(もっ)て来なくなって困(こまっ)た事がある。

黒田公の原書を引取る又筑前(ちくぜん)の国主、黒田美濃守(くろだみののかみ)と云(い)う大名は、今の華族、黒田のお祖父(じい)さんで、緒方洪庵先生は黒田家に出入(しゅつにゅう)して、勿論(もちろん)筑前に行(ゆ)くでもなければ江戸に行くでもない、只(ただ)大阪に居ながら黒田家の御出入医(おでいりい)と云うことであった。故に黒田の殿様が江戸出府(しゅっぷ)、或(あるい)は帰国の時に大阪を通行する時分には、先生は屹度(きっと)中ノ嶋(なかのしま)の筑前屋敷に伺候(しこう)して御機嫌(ごきげん)を伺うと云う常例であった。或歳(あるとし)、安政三年か四年と思う。筑前侯が大阪通行になると云うので、先生は例の如(ごと)く中ノ嶋の屋敷に行き、帰宅早々(そうそう)私を呼ぶから、何事かと思て行(いっ)て見ると、先生が一冊の原書を出して見せて、「今日筑前屋敷に行たら、斯(こ)う云う原書が黒田侯の手に這入(はい)ったと云(いっ)て見せて呉(く)れられたから、一寸(ちょい)と借りて来たと云(い)う。之(これ)を見ればワンダーベルトと云う原書で、最新の英書を和蘭(オランダ)に翻訳した物理書で、書中は誠に新らしい事ばかり、就中(なかんずく)エレキトルの事が如何(いか)にも詳(つまびらか)に書いてあるように見える。私などが大阪で電気の事を知(しっ)たと云うのは、只(ただ)纔(わずか)に和蘭の学校読本(どくほん)の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかった。所(ところ)がこの新舶来の物理書は英国の大家フラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんと出来て居るから、新奇とも何とも唯(ただ)驚くばかりで、一見直(ただち)に魂(たましい)を奪われた。夫(そ)れから私は先生に向(むかっ)て、「是(こ)れは誠に珍らしい原書で御在(ござい)ますが、何時(いつ)まで此処(ここ)に拝借して居ることが出来ましょうかと云うと、「左様(さよう)さ。何(いず)れ黒田侯は二晩(ふたばん)とやら大阪に泊ると云う。御出立(ごしゅったつ)になるまでは、彼処(あちら)に入用(にゅうよう)もあるまい。「左様でございますか、一寸と塾の者にも見せとう御在ますと云て、塾へ持(もっ)て来て、「如何(どう)だ、この原書はと云ったら、塾中の書生は雲霞(うんか)の如(ごと)く集って一冊の本を見て居るから、私は二、三の先輩と相談して、何でもこの本を写して取ろうと云うことに一決して、「この原書を唯(ただ)見たって何にも役に立たぬ。見ることは止(や)めにして、サア写すのだ。併(しか)し千頁もある大部の書を皆写すことは迚(とて)も出来(でき)られないから、末段のエレキトルの処丈(だ)け写そう。一同(みんな)筆(ふで)紙(かみ)墨(すみ)の用意して愡掛(そうがか)りだと云た所で茲(ここ)に一つ困る事には、大切な黒田様の蔵書を毀(こわ)すことが出来ない。毀して手分(てわけ)て遣(や)れば、三十人も五十人も居るから瞬(またた)く間(ま)に出来て仕舞(しまう)うが、それは出来ない。けれども緒方の書生は原書の写本に慣れて妙(みょう)を得て居るから、一人(ひとり)が原書を読むと一人は之(これ)を耳に聞(きい)て写すことが出末る。ソコデ一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍(にぶっ)て来ると直(すぐ)に外(ほか)の者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でも直(すぐ)に寝ると斯(こ)う云(い)う仕組(しくみ)にして、昼夜の別なく、飯(めし)を喰(く)う間(ま)も煙草(タバコ)を喫(の)む間(ま)も休まず、一寸(ちょい)とも隙(ひま)なしに、凡(およ)そ二夜三日(にやさんにち)の間(あいだ)に、エレキトルの処は申すに及ばず、図も写して読合(よみあわせ)まで出来て仕舞(しまっ)て、紙数(かみかず)は凡そ百五、六十枚もあったと思う。ソコデ出来ることなら外(ほか)の処も写したいと云(いっ)たが時日(じじつ)が許さない。マア/\是(こ)れだけでも写したのは有難いと云(い)うばかりで、先生の話に、黒田侯はこの一冊を八十両で買取られたと聞て、貧書生等は唯(ただ)驚くのみ。固(もと)より自分に買うと云う野心も起りはしない。愈(いよい)よ今夕(こんせき)、侯の御出立(ごしゅったつ)と定(き)まり、私共はその原書を撫(なで)くり廻(まわ)し誠に親に暇乞(いとまごい)をするように別(わかれ)を惜(おし)んで還(かえ)したことがございました。夫(そ)れから後(のち)は塾中にエレキトルの説が全く面目(めんもく)を新(あらた)にして、当時の日本国中最上の点に達して居たと申して憚(はばか)りません。私などが今日でも電気の話を聞(きい)て凡(およ)そその方角の分るのは、全くこの写本の御蔭(おかげ)である。誠に因縁のある珍らしい原書だから、その後度々(たびたび)今の黒田侯の方へ、ひょっと彼(あ)の原書はなかろうかと問合せましたが、彼方(あっち)でも混雑の際であったから如何(どう)なったか見当らぬと云(い)う。可惜(おし)い事で御在(ござい)ます。

大阪書生の特色只今(ただいま)申したような次第で、緒方の書生は学問上の事に就(つい)ては一寸(ちょい)とも怠(おこた)ったことはない。その時の有様(ありさま)を申せば、江戸に居た書生が折節(おりふし)大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪から態々(わざわざ)江戸に学びに行くと云うものはない。行けば則(すなわ)ち教えると云う方であった。左(さ)れば大阪に限(かぎっ)て日本国中粒選(つぶえり)のエライ書生の居よう訳(わ)けはない。又江戸に限て日本国中の鈍い書生ばかり居よう訳けもない。然(しか)るに何故(なぜ)ソレが違うかと云うことに就ては考えなくてはならぬ。勿論(もちろん)その時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をして居たけれども、夫(そ)れは人物の相違ではない。江戸と大阪と自(おのず)から事情が違(ちがっ)て居る。江戸の方では開国の初(はじめ)とは云いながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷と云う者があって、西洋の新技術を求むることが広く且(か)つ急(きゅう)である。従て聊(いささ)かでも洋書を解(げ)すことの出来る者を雇うとか、或(あるい)は飜訳をさせればその返礼に金を与えるとか云うような事で、書生輩が自(おのず)から生計の道に近い。極(ごく)都合の宜(い)い者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百石(こく)の侍(さぶらい)になったと云(い)うことも稀(まれ)にはあった。夫(そ)れに引換(ひきかえ)て大阪は丸で町人の世界で、何も武家と云うものはない。従て砲術を遣(や)ろうと云う者もなければ原書を取調べようと云う者もありはせぬ。夫(そ)れゆえ緒方の書生が幾年勉強して何程(なにほど)エライ学者になっても、頓(とん)と実際の仕事に縁がない。即(すなわ)ち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めると云うことにも思い寄らぬので、然(しか)らば何の為(た)めに苦学するかと云えば一寸(ちょい)と説明はない。前途自分の身体(からだ)は如何(どう)なるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、既(すで)に已(すで)に焼けに成(なっ)て居る。唯(ただ)昼夜苦しんで六(むず)かしい原書を読んで面白がって居るようなもので実に訳(わ)けの分らぬ身の有様(ありさま)とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩(たた)いて見れば、自(おのず)から楽しみがある。之(これ)を一言(いちげん)すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間に限(かぎっ)て斯様(こんな)事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看(み)る影(かげ)もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯貴人(きにん)も眼下(がんか)に見下(みくだ)すと云う気位(きぐらい)で、唯(ただ)六かしければ面白い、苦中有楽(くちゅううらく)、苦即楽(くそくらく)と云(い)う境遇であったと思われる。喩(たと)えばこの薬は何に利(き)くか知らぬけれども、自分達より外(ほか)にこんな苦(にが)い薬を能(よ)く呑(の)む者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっと呑(のん)で遣(や)ると云う位(くらい)の血気であったに違いはない。

漢家を敵視す若(も)しも真実その苦学の目的如何(いかん)なんて問う者あるも、返答は唯(ただ)漠然(ばくぜん)たる議論ばかり。医師の塾であるから政治談は余り流行せず、国の開鎖(かいさ)論を云えば固(もと)より開国なれども、甚(はなは)だしく之(これ)を争う者もなく、唯当(とう)の敵は漢法医で、医者が憎ければ儒者までも憎くなって、何でも蚊(か)でも支那流は一切打払(うちはら)いと云(い)うことは何処(どこ)となく定(き)まって居たようだ。儒者が経史(けいし)の講釈しても聴聞しようと云う者もなく、漢学書生を見れば唯可笑(おか)しく思うのみ。殊(こと)に漢医書生は之を笑うばかりでなく之を罵詈(ばり)して少しも許さず、緒方塾の近傍、中ノ島(なかのしま)に花岡(はなおか)と云う漢医の大家があって、その塾の書生は孰(いず)れも福生(ふくせい)と見え服装(みなり)も立派で、中々以(もっ)て吾々(われわれ)蘭学生の類(たぐい)でない。毎度往来に出逢(であ)うて、固(もと)より言葉も交えず互に睨合(にらみあ)うて行違(ゆきちが)うその跡で、「彼(あ)の様(ざま)ァ如何(どう)だい。着物ばかり奇麗で何をして居るんだ。空々寂々(くうくうじゃくじゃく)チンプンカンの講釈を聞(きい)て、その中で古く手垢(てあか)の附(つい)てる奴(やつ)が塾長だ。こんな奴等が二千年来垢染(あかじ)みた傷寒(しょうかん)論を土産にして、国に帰(かえっ)て人を殺すとは恐ろしいじゃないか。今に見ろ、彼奴等(あいつら)を根絶やしにして呼吸(いき)の音(ね)を止(と)めて遣(や)るからなんてワイ/\云(いっ)たのは毎度の事であるが、是(こ)れとても此方(こっち)に如斯(こう)と云う成算(せいさん)も何もない。唯(ただ)漢法医流の無学無術を罵倒して蘭学生の気焔(きえん)を吐くばかりの事である。

目的なしの勉強兎(と)に角(かく)に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却(かえっ)て仕合(しあわせ)で、江戸の書生よりも能(よ)く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先(ゆくさき)ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。左(さ)ればと云(いっ)て只(ただ)迂闊(うかつ)に本ばかり見て居るのは最も宜(よろ)しくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の行末(ゆくすえ)のみ考えて、如何(どう)したらば立身が出来るだろうか、如何(どう)したらば金が手に這入(はい)るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何(どう)すれば旨い物を喰(く)い好(い)い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は自(みず)から静(しずか)にして居らなければならぬと云う理屈が茲(ここ)に出て来ようと思う。

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