10話 福翁自伝 02 福翁自伝(10)
読み方を変える
たりして、出来上れば原書を次の人に廻す。その人が写丁ると又その次の人が写すと云うように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚か或は四、五枚より多くはない。
自身自力の研究扨その写本の物理書、医書の会読を如何するかと云うに、講釈の為人もなければ読んで聞かして呉れる人もない。内証で教えることも聞くことも書生間の恥辱として、万々一も之を犯す者はない。唯自分一人で以てそれを読砕かなければならぬ。読砕くには文典を土台にして辞書に便る外に道はない。その辞書と云うものは、此処にヅーフと云う写本の字引が塾に一部ある。是れは中々大部なもので、日本の紙で凡そ三千枚ある。之を一部拵えると云うことは中々大きな騒ぎで容易に出来たものではない。是れは昔長崎の出島に在留して居た和蘭のドクトル・ヅーフと云う人が、ハルマと云う独逸和蘭対訳の原書の字引を飜訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇められ、夫れを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もヅーフの周囲に寄合て見て居た。夫れからモウ一歩立上るとウエーランドと云う和蘭の原書の字引が一部ある。それは六冊物で和蘭の註が入れてある。ヅーフで分らなければウエーランドを見る。所が初学の間はウエーランドを見ても分る気遣はない。夫ゆえ便る所は只ヅーフのみ。会読は一六とか三八とか大抵日が極って居て、いよ/\明日が会読だと云うその晩は、如何な懶惰生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋と云う字引のある部屋に、五人も十人も群をなして無言で字引を引つゝ勉強して居る。夫れから翌朝の会読になる。会読をするにも籤で以て此処から此処までは誰と極めてする。会頭は勿論原書を持て居るので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割当てられた所を順々に講じて、若しその者が出来なければ次に廻す。又その人も出来なければその次に廻す。その中で解し得た者は白玉、解し傷うた者は黒玉、夫れから自分の読む領分を一寸でも滞りなく立派に読んで了ったと云う者は白い三角を付ける。是れは只の丸玉の三倍ぐらい優等な印で、凡そ塾中の等級は七、八級位に分けてあった。而して毎級第一番の上席を三ヶ月占て居れば登級すると云う規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞て遣り至極深切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験に逢うようなものだ。爾う云う訳けで次第々々に昇級すれば、殆んど塾中の原書を読尽して云わば手を空うするような事になる、その時には何か六かしいものはないかと云うので、実用もない原書の緒言とか序文とか云うような者を集めて、最上等の塾生だけで会読をしたり、又は先生に講義を願たこともある。私などは即ちその講義聴聞者の一人でありしが、之を聴聞する中にも様々先生の説を聞て、その緻密なることその放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互に、「今日の先生の彼の卓説は如何だい。何だか吾々は頓に無学無識になったようだなどゝ話したのは今に覚えて居ます。
市中に出て大に酒を飲むとか暴れるとか云うのは、大抵会読を仕舞たその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇があると云う時に勝手次第に出て行たので、会読の日に近くなると所謂月に六回の試験だから非常に勉強して居ました。書物を能く読むと否とは人々の才不才にも依りますけれども、兎も角も外面を胡魔化して何年居るから登級するの卒業するのと云うことは絶えてなく、正味の実力を養うと云うのが事実に行われて居たから、大概の塾生は能く原書を読むことに達して居ました。
写本の生活ヅーフの事に就て序ながら云うことがある。如何かするとその時でも諸藩の大名がそのヅーフを一部写して貰いたいと云う注文を申込で来たことがある。ソコでその写本と云うことが又書生の生活の種子になった。当時の写本代は半紙一枚十行二十字詰で何文と云う相場である。処がヅーフ一枚は横文字三十行位のもので、夫れだけの横文字を写すと一枚十六文、夫れから日本文字で入れてある註の方を写すと八文、只の写本に較べると余程割りが宜しい。一枚十六文であるから十枚写せば百六十四文になる。註の方ならばその半値八十文になる。註を写す者もあれば横文字を写す者もあった。ソレを三千枚写すと云うのであるから、合計して見ると中々大きな金高になって、自から書生の生活を助けて居ました。今日より考れば何でもない金のようだけれども、その時には決してそうでない。一例を申せば白米一石が三分二朱、酒が一升百六十四文から二百文で、書生在塾の入費は一箇月一分貳朱から朱から」]一分三朱あれば足る。一分貳朱は朱は」]その時の相場で凡そ二貫四百文であるから、一日が百文より安い。然るにヅーフを一日に十枚写せば百六十四文になるから、余る程あるので、凡そ尋常一様の写本をして塾に居られるなどゝ云うことは世の中にないことであるが、その出来るのは蘭学書生に限る特色の商売であった。ソレに就て一例を挙げれば斯う云うことがある。江戸は流石に大名の居る処で、啻にヅーフ計りでなく蘭学書生の為めに写本の注文は盛にあったもので自から価が高い。大阪と較べて見れば大変高い。加賀の金沢の鈴木儀六と云う男は、江戸から大阪に来て修業した書生であるが、この男が元来一文なしに江戸に居て、辛苦して写本で以て自分の身を立てたその上に金を貯えた。凡そ一、二年辛抱して金を二十両ばかり拵えて、大阪に出て来て到頭その二十両の金で緒方の塾で学問をして金沢に帰た。是れなどは全く蘭書写本のお蔭である。その鈴木の考では、写本をして金を取るのは江戸が宜いが、修業するには如何しても大阪でなければ本当な事が出来ないと目的を定めて、ソレでその金を持て来たのであると話して居ました。
工芸伎術に熱心夫れから又一方では今日のように都て工芸技術の種子と云うものがなかった。蒸気機関などは日本国中で見ようと云てもありはせぬ。化学の道具にせよ、何処にも揃ったものはありそうにもしない。揃うた物どころではない、不完全な物もありはせぬ。けれども爾う云う中に居ながら、器械の事にせよ化学の事にせよ大体の道理は知て居るから、如何かして実地を試みたいものだと云うので、原書を見てその図を写して似寄の物を拵えると云うことに就ては中々骨を折りました。私が長崎に居るとき塩酸亜鉛があれば鉄にも錫を附けることが出来ると云うことを聞て知て居る。夫れまで日本では松脂ばかりを用いて居たが、松脂では銅の類に錫を流して鍍金することは出来る。唐金の鍋に白みを掛けるようなもので、鋳掛屋の仕事であるが、塩酸亜鉛があれば鉄にも錫が着くと云うので、同塾生と相談してその塩酸亜鉛を作ろうとした所が、薬店に行ても塩酸のある気遣はない。自分で拵えなければならぬ。塩酸を拵える法は書物で分る。その方法に依て何うやら斯うやら塩酸を拵えて、之に亜鉛を溶かして鉄に錫を試みて、鋳掛屋の夢にも知らぬ事が立派に出来たと云うようなことが面白くて堪らぬ。或は又ヨジユムを作って見ようではないかと、色々書籍を取調べ、天満の八百屋市に行て昆布荒布のような海草類を買て来て、夫れを炮烙で煎て如何云う風にすれば出来ると云うので、真黒になって遣たけれども是れは到頭出来ない。それから今度は砂製造の野心を起して、先ず第一の必要は塩酸暗謨尼亜であるが、是れも勿論薬店にある品物でない。その暗謨尼亜を造るには如何するかと云えば、骨……骨よりもっと世話なしに出来るのは鼈甲屋などに馬爪の削屑がいくらもあって只呉れる。肥料にするかせぬか分らぬが行きさえすれば呉れるから、それをドッサリ貰て来て徳利に入れて、徳利の外面に土を塗り、又素焼の大きな瓶を買て七輪にして沢山火を起し、その瓶の中に三本も四本も徳利を入れて、徳利の口には瀬戸物の管を附けて瓶の外に出すなど色々趣向して、ドシ/″\火を扇ぎ立てると管の先きからタラ/\液が出て来る。即ち是れが暗謨尼亜である。至極旨く取れることは取れるが、爰に難渋はその臭気だ。臭いにも臭くないにも何とも云いようがない。那の馬爪、あんな骨類を徳利に入れて蒸焼にするのであるから実に鼻持もならぬ。それを緒方の塾の庭の狭い処で遣るのであるから奥で以て堪らぬ。奥で堪らぬばかりではない。流石の乱暴書生も是れには辟易して迚も居られない。夕方湯屋に行くと着物が臭くって犬が吠えると云う訳け。仮令い真裸体で遣ても身体が臭いと云て人に忌がられる。勿論製造の本人等は如何でも斯うでもして砂と云う物を拵えて見ましょうと云う熱心があるから、臭いのも何も構わぬ、頻りに試みて居るけれども、何分周辺の者が喧しい。下女下男迄も胸が悪くて御飯が給べられないと訴える。其れ是れの中でヤット妙な物が出来たは出来たが、粉のような物ばかりで結晶しない。如何しても完全な砂にならない、加うるに喧しくて/\堪らぬから一旦罷めにした。けれども気強い男はマダ罷めない。折角仕掛った物が出来ないと云ては学者の外聞が悪いとか何とか云うような訳けで、私だの久留米の松下元芳、鶴田仙庵等は思切たが、二、三の人は尚お遣た。如何したかと云うと、淀川の一番粗末な船を借りて、船頭を一人雇うて、その船に例の瓶の七輪を積込んで、船中で今の通りの臭い仕事を遣るは宜いが、矢張り煙が立て風が吹くと、その煙が陸の方へ吹付けられるので、陸の方で喧しく云う。喧しく云えば船を動かして、川を上ったり下ったり、川上の天神橋、天満橋から、ズット下の玉江橋辺まで、上下に迯げて廻て遣たことがある。その男は中村恭安と云う讃岐の金比羅の医者であった。この外にも犬猫は勿論、死刑人の解剖その他製薬の試験は毎度の事であったが、シテ見ると当時の蘭学書生は如何にも乱暴なようであるが、人の知らぬ処に読書研究、又実地の事に就ても中々勉強したものだ。
製薬の事に就ても奇談がある。或るとき硫酸を造ろうと云うので、様々大骨折て不完全ながら色の黒い硫酸が出来たから、之を精製して透明にしなければならぬと云うので、その日は先ず茶碗に入れて棚の上に上げて置た処が、鶴田仙庵が自分で之を忘れて、何かの機にその茶椀を棚から落して硫酸を頭から冠り、身体に左までの径我はなかったが、丁度旧暦四月の頃で一枚の袷をヅタ/″\にした事がある。
製薬には兎角徳利が入用だから、丁度宜しい、塾の近所の丼池筋に米藤と云う酒屋が塾の御出入、この酒屋から酒を取寄せて、酒は飲で仕舞て徳利は留置き、何本でもみんな製薬用にして返さぬと云うのだから、酒屋でも少し変に思たと見え、内々塾僕に聞合せると、この節書生さんは中実の酒よりも徳利の方に用があると云うので、酒屋は大に驚き、その後何としても酒を持て来なくなって困た事がある。
黒田公の原書を引取る又筑前の国主、黒田美濃守と云う大名は、今の華族、黒田のお祖父さんで、緒方洪庵先生は黒田家に出入して、勿論筑前に行くでもなければ江戸に行くでもない、只大阪に居ながら黒田家の御出入医と云うことであった。故に黒田の殿様が江戸出府、或は帰国の時に大阪を通行する時分には、先生は屹度中ノ嶋の筑前屋敷に伺候して御機嫌を伺うと云う常例であった。或歳、安政三年か四年と思う。筑前侯が大阪通行になると云うので、先生は例の如く中ノ嶋の屋敷に行き、帰宅早々私を呼ぶから、何事かと思て行て見ると、先生が一冊の原書を出して見せて、「今日筑前屋敷に行たら、斯う云う原書が黒田侯の手に這入ったと云て見せて呉れられたから、一寸と借りて来たと云う。之を見ればワンダーベルトと云う原書で、最新の英書を和蘭に翻訳した物理書で、書中は誠に新らしい事ばかり、就中エレキトルの事が如何にも詳に書いてあるように見える。私などが大阪で電気の事を知たと云うのは、只纔に和蘭の学校読本の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかった。所がこの新舶来の物理書は英国の大家フラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんと出来て居るから、新奇とも何とも唯驚くばかりで、一見直に魂を奪われた。夫れから私は先生に向て、「是れは誠に珍らしい原書で御在ますが、何時まで此処に拝借して居ることが出来ましょうかと云うと、「左様さ。何れ黒田侯は二晩とやら大阪に泊ると云う。御出立になるまでは、彼処に入用もあるまい。「左様でございますか、一寸と塾の者にも見せとう御在ますと云て、塾へ持て来て、「如何だ、この原書はと云ったら、塾中の書生は雲霞の如く集って一冊の本を見て居るから、私は二、三の先輩と相談して、何でもこの本を写して取ろうと云うことに一決して、「この原書を唯見たって何にも役に立たぬ。見ることは止めにして、サア写すのだ。併し千頁もある大部の書を皆写すことは迚も出来られないから、末段のエレキトルの処丈け写そう。一同筆紙墨の用意して愡掛りだと云た所で茲に一つ困る事には、大切な黒田様の蔵書を毀すことが出来ない。毀して手分て遣れば、三十人も五十人も居るから瞬く間に出来て仕舞うが、それは出来ない。けれども緒方の書生は原書の写本に慣れて妙を得て居るから、一人が原書を読むと一人は之を耳に聞て写すことが出末る。ソコデ一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍て来ると直に外の者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でも直に寝ると斯う云う仕組にして、昼夜の別なく、飯を喰う間も煙草を喫む間も休まず、一寸とも隙なしに、凡そ二夜三日の間に、エレキトルの処は申すに及ばず、図も写して読合まで出来て仕舞て、紙数は凡そ百五、六十枚もあったと思う。ソコデ出来ることなら外の処も写したいと云たが時日が許さない。マア/\是れだけでも写したのは有難いと云うばかりで、先生の話に、黒田侯はこの一冊を八十両で買取られたと聞て、貧書生等は唯驚くのみ。固より自分に買うと云う野心も起りはしない。愈よ今夕、侯の御出立と定まり、私共はその原書を撫くり廻し誠に親に暇乞をするように別を惜んで還したことがございました。夫れから後は塾中にエレキトルの説が全く面目を新にして、当時の日本国中最上の点に達して居たと申して憚りません。私などが今日でも電気の話を聞て凡そその方角の分るのは、全くこの写本の御蔭である。誠に因縁のある珍らしい原書だから、その後度々今の黒田侯の方へ、ひょっと彼の原書はなかろうかと問合せましたが、彼方でも混雑の際であったから如何なったか見当らぬと云う。可惜い事で御在ます。
大阪書生の特色只今申したような次第で、緒方の書生は学問上の事に就ては一寸とも怠ったことはない。その時の有様を申せば、江戸に居た書生が折節大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪から態々江戸に学びに行くと云うものはない。行けば則ち教えると云う方であった。左れば大阪に限て日本国中粒選のエライ書生の居よう訳けはない。又江戸に限て日本国中の鈍い書生ばかり居よう訳けもない。然るに何故ソレが違うかと云うことに就ては考えなくてはならぬ。勿論その時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をして居たけれども、夫れは人物の相違ではない。江戸と大阪と自から事情が違て居る。江戸の方では開国の初とは云いながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷と云う者があって、西洋の新技術を求むることが広く且つ急である。従て聊かでも洋書を解すことの出来る者を雇うとか、或は飜訳をさせればその返礼に金を与えるとか云うような事で、書生輩が自から生計の道に近い。極都合の宜い者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百石の侍になったと云うことも稀にはあった。夫れに引換て大阪は丸で町人の世界で、何も武家と云うものはない。従て砲術を遣ろうと云う者もなければ原書を取調べようと云う者もありはせぬ。夫れゆえ緒方の書生が幾年勉強して何程エライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。即ち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めると云うことにも思い寄らぬので、然らば何の為めに苦学するかと云えば一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、既に已に焼けに成て居る。唯昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がって居るようなもので実に訳けの分らぬ身の有様とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いて見れば、自から楽しみがある。之を一言すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間に限て斯様事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すと云う気位で、唯六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽と云う境遇であったと思われる。喩えばこの薬は何に利くか知らぬけれども、自分達より外にこんな苦い薬を能く呑む者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっと呑で遣ると云う位の血気であったに違いはない。
漢家を敵視す若しも真実その苦学の目的如何なんて問う者あるも、返答は唯漠然たる議論ばかり。医師の塾であるから政治談は余り流行せず、国の開鎖論を云えば固より開国なれども、甚だしく之を争う者もなく、唯当の敵は漢法医で、医者が憎ければ儒者までも憎くなって、何でも蚊でも支那流は一切打払いと云うことは何処となく定まって居たようだ。儒者が経史の講釈しても聴聞しようと云う者もなく、漢学書生を見れば唯可笑しく思うのみ。殊に漢医書生は之を笑うばかりでなく之を罵詈して少しも許さず、緒方塾の近傍、中ノ島に花岡と云う漢医の大家があって、その塾の書生は孰れも福生と見え服装も立派で、中々以て吾々蘭学生の類でない。毎度往来に出逢うて、固より言葉も交えず互に睨合うて行違うその跡で、「彼の様ァ如何だい。着物ばかり奇麗で何をして居るんだ。空々寂々チンプンカンの講釈を聞て、その中で古く手垢の附てる奴が塾長だ。こんな奴等が二千年来垢染みた傷寒論を土産にして、国に帰て人を殺すとは恐ろしいじゃないか。今に見ろ、彼奴等を根絶やしにして呼吸の音を止めて遣るからなんてワイ/\云たのは毎度の事であるが、是れとても此方に如斯と云う成算も何もない。唯漢法医流の無学無術を罵倒して蘭学生の気焔を吐くばかりの事である。
目的なしの勉強兎に角に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却て仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。左ればと云て只迂闊に本ばかり見て居るのは最も宜しくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の行末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したらば金が手に這入るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を喰い好い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は自から静にして居らなければならぬと云う理屈が茲に出て来ようと思う。