11話 行人(11)
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自分は嫂と並んで電車に腰を掛けた。けれども大事の用を前に控えているという気が胸にあるので、どうしても機嫌よく話はできなかった。
「なぜそんなに黙っていらっしゃるの」と彼女が聞いた。自分は宿を出てからこう云う意味の質問を彼女からすでに二度まで受けた。それを裏から見ると、二人でもっと面白く話そうじゃありませんかと云う意味も映っていた。
「あなた兄さんにそんな事を云ったことがありますか」
自分の顔はやや真面目であった。嫂はちょっとそれを見て、すぐ窓の外を眺めた。そうして「好い景色ね」と云った。なるほどその時電車の走っていた所は、悪い景色ではなかったけれども、彼女のことさらにそれを眺めた事は明かであった。自分はわざと嫂を呼んで再び前の質問を繰返した。
「なぜそんなつまらない事を聞くのよ」と云った彼女は、ほとんど一顧に価しない風をした。
電車はまた走った。自分は次の停留所へ来る前また執拗く同じ問をかけて見た。
「うるさい方ね」と彼女がついに云った。「そんな事聞いて何になさるの。そりゃ夫婦ですもの、そのくらいな事云った覚はあるでしょうよ。それがどうしたの」
「どうもしやしません。兄さんにもそういう親しい言葉を始終かけて上げて下さいと云うだけです」
彼女は蒼白い頬へ少し血を寄せた。その量が乏しいせいか、頬の奥の方に灯を点けたのが遠くから皮膚をほてらしているようであった。しかし自分はその意味を深くも考えなかった。
和歌山へ着いた時、二人は電車を降りた。降りて始めて自分は和歌山へ始めて来た事を覚った。実はこの地を見物する口実の下に、嫂を連れて来たのだから、形式にもどこか見なければならなかった。
「あらあなたまだ和歌山を知らないの。それでいて妾を連れて来るなんて、ずいぶん呑気ね」
嫂は心細そうに四方を見廻した。自分も何分かきまりが悪かった。
「俥へでも乗って車夫に好い加減な所へ連れて行って貰いましょうか。それともぶらぶら御城の方へでも歩いて行きますか」
「そうね」
嫂は遠くの空を眺めて、近い自分には眼を注がなかった。空はここも海辺と同じように曇っていた。不規則に濃淡を乱した雲が幾重にも二人の頭の上を蔽って、日を直下に受けるよりは蒸し熱かった。その上いつ驟雨が来るか解らないほどに、空の一部分がすでに黒ずんでいた。その黒ずんだ円の四方が暈されたように輝いて、ちょうど今我々が見捨てて来た和歌の浦の見当に、凄じい空の一角を描き出していた。嫂は今その気味の悪い所を眉を寄せて眺めているらしかった。
「降るでしょうか」
自分は固より降るに違ないと思っていた。それでとにかく俥を雇って、見るだけの所を馳け抜けた方が得策だと考えた。自分は直に俥を命じて、どこでも構わないからなるべく早く見物のできるように挽いて廻れと命じた。車夫は要領を得たごとくまた得ないごとく、むやみに駆けた。狭い町へ出たり、例の蓮の咲いている濠へ出たりまた狭い町へ出たりしたが、いっこうこれぞという所はなかった。最後に自分は俥の上で、こう駆けてばかりいては肝心の話ができないと気がついて、車夫にどこかゆっくり坐って話のできる所へ連れて行けと差図した。
二十九
車夫は心得て駆け出した。今までと違って威勢があまり好過ぎると思ううちに、二人の俥は狭い横町を曲って、突然大きな門を潜った。自分があわてて、車夫を呼び留めようとした時、梶棒はすでに玄関に横付になっていた。二人はどうする事もできなかった。その上若い着飾った下女が案内に出たので、二人はついに上るべく余儀なくされた。
「こんな所へ来るはずじゃなかったんですが」と自分はつい言訳らしい事を云った。
「なぜ。だって立派な御茶屋じゃありませんか。結構だわ」と嫂が答えた。その答えぶりから推すと、彼女は最初からこういう料理屋めいた所へでも来るのを予期していたらしかった。
実際嫂のいった通りその座敷は物綺麗にかつ堅牢に出来上っていた。
「東京辺の安料理屋よりかえって好いくらいですね」と自分は柱の木口や床の軸などを見廻した。嫂は手摺の所へ出て、中庭を眺めていた。古い梅の株の下に蘭の茂りが蒼黒い影を深く見せていた。梅の幹にも硬くて細長い苔らしいものがところどころに喰ついていた。
下女が浴衣を持って風呂の案内に来た。自分は風呂に這入る時間が惜しかった。そうして日が暮れはしまいかと心配した。できるならば一刻も早く用を片づけて、約束通り明るい路を浜辺まで帰りたいと念じた。
「どうします姉さん、風呂は」と聞いて見た。
嫂も明るいうちには帰るように兄から兼ねて云いつけられていたので、そこはよく承知していた。彼女は帯の間から時計を出して見た。
「まだ早いのよ、二郎さん。お湯へ這入っても大丈夫だわ」
彼女は時間の遅く見えるのを全く天気のせいにした。もっとも濁った雲が幾重にも空を鎖しているので、時計の時間よりは世の中が暗く見えたのはたしかに違いなかった。自分はまた今にも降り出しそうな雨を恐れた。降るならひとしきりざっと来た後で、帰った方がかえって楽だろうと考えた。
「じゃちょっと汗を流して行きましょうか」
二人はとうとう風呂に入った。風呂から出ると膳が運ばれた。時間からいうと飯には早過ぎた。酒は遠慮したかった。かつ飲める口でもなかった。自分はやむをえず、吸物を吸ったり、刺身を突ついたりした。下女が邪魔になるので、用があれば呼ぶからと云って下げた。
嫂には改まって云い出したものだろうか、またはそれとなく話のついでにそこへ持って行ったものだろうかと思案した。思案し出すとどっちもいいようでまたどっちも悪いようであった。自分は吸物椀を手にしたままぼんやり庭の方を眺めていた。
「何を考えていらっしゃるの」と嫂が聞いた。
「何、降りゃしまいかと思ってね」と自分はいい加減な答をした。
「そう。そんなに御天気が怖いの。あなたにも似合わないのね」
「怖かないけど、もし強雨にでもなっちゃ大変ですからね」
自分がこう云っている内に、雨はぽつりぽつりと落ちて来た。よほど早くからの宴会でもあるのか、向うに見える二階の広間に、二三人紋付羽織の人影が見えた。その見当で芸者が三味線の調子を合わせている音が聞え出した。
宿を出るときすでにざわついていた自分の心は、この時一層落ちつきを失いかけて来た。自分は腹の中で、今日はとてもしんみりした話をする気になれないと恐れた。なぜまたその今日に限って、こんな変な事を引受けたのだろうと後悔もした。
三十
嫂はそんな事に気のつくはずがなかった。自分が雨を気にするのを見て、彼女はかえって不思議そうに詰った。
「何でそんなに雨が気になるの。降れば後が涼しくなって好いじゃありませんか」
「だっていつやむか解らないから困るんです」
「困りゃしないわ。いくら約束があったって、御天気のせいなら仕方がないんだから」
「しかし兄さんに対して僕の責任がありますよ」
「じゃすぐ帰りましょう」
嫂はこう云って、すぐ立ち上った。その様子には一種の決断があらわれていた。向の座敷では客の頭が揃ったのか、三味線の音が雨を隔てて爽かに聞え出した。電灯もすでに輝いた。自分も半ば嫂の決心に促されて、腰を立てかけたが、考えると受合って来た話はまだ一言も口へ出していなかった。後れて帰るのが母や兄にすまないごとく、少しも嫂に肝心の用談を打ち明けないのがまた自分の心にすまなかった。
「姉さんこの雨は容易にやみそうもありませんよ。それに僕は姉さんに少し用談があって来たんだから」
自分は半分空を眺めてまた嫂をふり返った。自分は固よりの事、立ち上った彼女も、まだ帰る仕度は始めなかった。彼女は立ち上ったには、立ち上ったが、自分の様子しだいでその以後の態度を一定しようと、五分の隙間なく身構えているらしく見えた。自分はまた軒端へ首を出して上の方を望んだ。室の位置が中庭を隔てて向うに大きな二階建の広間を控えているため、空はいつものように広くは限界に落ちなかった。したがって雲の往来や雨の降り按排も、一般的にはよく分らなかった。けれども凄まじさが先刻よりは一層はなはだしく庭木を痛振っているのは事実であった。自分は雨よりも空よりも、まずこの風に辟易した。
「あなたも妙な方ね。帰るというからそのつもりで仕度をすれば、また坐ってしまって」
「仕度ってほどの仕度もしないじゃありませんか。ただ立ったぎりでさあ」
自分がこう云った時、嫂はにっこりと笑った。そうして故意と己れの袖や裾のあたりをなるほどといったようなまた意外だと驚いたような眼つきで見廻した。それから微笑を含んでその様子を見ていた自分の前に再びぺたりと坐った。
「何よ用談があるって。妾にそんなむずかしい事が分りゃしないわ。それよりか向うの御座敷の三味線でも聞いてた方が増しよ」
雨は軒に響くというよりもむしろ風に乗せられて、気ままな場所へ叩きつけられて行くような音を起した。その間に三味線の音が気紛れものらしく時々二人の耳を掠め去った。
「用があるなら早くおっしゃいな」と彼女は催促した。
「催促されたってちょっと云える事じゃありません」
自分は実際彼女から促された時、何と切り出して好いか分らなかった。すると彼女はにやにやと笑った。
「あなた取っていくつなの」
「そんなに冷かしちゃいけません。本当に真面目な事なんだから」
「だから早くおっしゃいな」
自分はいよいよ改まって忠告がましい事を云うのが厭になった。そうして彼女の前へ出た今の自分が何だか彼女から一段低く見縊られているような気がしてならなかった。それだのにそこに一種の親しみを感じずにはまたいられなかった。
三十一
「姉さんはいくつでしたっけね」と自分はついに即かぬ事を聞き出した。
「これでもまだ若いのよ。あなたよりよっぽど下のつもりですわ」
自分は始めから彼女の年と自分の年を比較する気はなかった。
「兄さんとこへ来てからもう何年になりますかね」と聞いた。
嫂はただ澄まして「そうね」と云った。
「妾そんな事みんな忘れちまったわ。だいち自分の年さえ忘れるくらいですもの」
嫂のこの恍け方はいかにも嫂らしく響いた。そうして自分にはかえって嬌態とも見えるこの不自然が、真面目な兄にはなはだしい不愉快を与えるのではなかろうかと考えた。
「姉さんは自分の年にさえ冷淡なんですね」
自分はこんな皮肉を何となく云った。しかし云ったときの浮気な心にすぐ気がつくと急に兄にすまない恐ろしさに襲われた。
「自分の年なんかに、いくら冷淡でも構わないから、兄さんにだけはもう少し気をつけて親切にして上げて下さい」
「妾そんなに兄さんに不親切に見えて。これでもできるだけの事は兄さんにして上げてるつもりよ。兄さんばかりじゃないわ。あなたにだってそうでしょう。ねえ二郎さん」
自分は、自分にもっと不親切にして構わないから、兄の方には最少し優しくしてくれろと、頼むつもりで嫂の眼を見た時、また急に自分の甘いのに気がついた。嫂の前へ出て、こう差し向いに坐ったが最後、とうてい真底から誠実に兄のために計る事はできないのだとまで思った。自分は言葉には少しも窮しなかった。どんな言語でも兄のために使おうとすれば使われた。けれどもそれを使う自分の心は、兄のためでなくってかえって自分のために使うのと同じ結果になりやすかった。自分はけっしてこんな役割を引き受けべき人格でなかった。自分は今更のように後悔した。
「あなた急に黙っちまったのね」とその時嫂が云った。あたかも自分の急所を突くように。
「兄さんのために、僕が先刻からあなたに頼んでいる事を、姉さんは真面目に聞いて下さらないから」
自分は恥ずかしい心を抑えてわざとこう云った。すると嫂は変に淋しい笑い方をした。
「だってそりゃ無理よ二郎さん。妾馬鹿で気がつかないから、みんなから冷淡と思われているかも知れないけれど、これで全くできるだけの事を兄さんに対してしている気なんですもの。――妾ゃ本当に腑抜なのよ。ことに近頃は魂の抜殻になっちまったんだから」
「そう気を腐らせないで、もう少し積極的にしたらどうです」
「積極的ってどうするの。御世辞を使うの。妾御世辞は大嫌いよ。兄さんも御嫌いよ」
「御世辞なんか嬉しがるものもないでしょうけれども、もう少しどうかしたら兄さんも幸福でしょうし、姉さんも仕合せだろうから……」
「よござんす。もう伺わないでも」と云った嫂は、その言葉の終らないうちに涙をぽろぽろと落した。
「妾のような魂の抜殻はさぞ兄さんには御気に入らないでしょう。しかし私はこれで満足です。これでたくさんです。兄さんについて今まで何の不足を誰にも云った事はないつもりです。そのくらいの事は二郎さんもたいてい見ていて解りそうなもんだのに……」
泣きながら云う嫂の言葉は途切れ途切れにしか聞こえなかった。しかしその途切れ途切れの言葉が鋭い力をもって自分の頭に応えた。
三十二
自分は経験のある或る年長者から女の涙に金剛石はほとんどない、たいていは皆ギヤマン細工だとかつて教わった事がある。その時自分はなるほどそんなものかと思って感心して聞いていた。けれどもそれは単に言葉の上の智識に過ぎなかった。若輩な自分は嫂の涙を眼の前に見て、何となく可憐に堪えないような気がした。ほかの場合なら彼女の手を取って共に泣いてやりたかった。
「そりゃ兄さんの気むずかしい事は誰にでも解ってます。あなたの辛抱も並大抵じゃないでしょう。けれども兄さんはあれで潔白すぎるほど潔白で正直すぎるほど正直な高尚な男です。敬愛すべき人物です……」
「二郎さんに何もそんな事を伺わないでも兄さんの性質ぐらい妾だって承知しているつもりです。妻ですもの」
嫂はこう云ってまたしゃくり上げた。自分はますます可哀そうになった。見ると彼女の眼を拭っていた小形の手帛が、皺だらけになって濡れていた。自分は乾いている自分ので彼女の眼や頬を撫でてやるために、彼女の顔に手を出したくてたまらなかった。けれども、何とも知れない力がまたその手をぐっと抑えて動けないように締めつけている感じが強く働いた。
「正直なところ姉さんは兄さんが好きなんですか、また嫌なんですか」
自分はこう云ってしまった後で、この言葉は手を出して嫂の頬を、拭いてやれない代りに自然口の方から出たのだと気がついた。嫂は手帛と涙の間から、自分の顔を覗くように見た。
「二郎さん」
「ええ」
この簡単な答は、あたかも磁石に吸われた鉄の屑のように、自分の口から少しの抵抗もなく、何らの自覚もなく釣り出された。
「あなた何の必要があってそんな事を聞くの。兄さんが好きか嫌いかなんて。妾が兄さん以外に好いてる男でもあると思っていらっしゃるの」
「そういう訳じゃけっしてないんですが」
「だから先刻から云ってるじゃありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜のせいだって」
「そう腑抜をことさらに振り舞わされちゃ困るね。誰も宅のものでそんな悪口を云うものは一人もないんですから」
「云わなくっても腑抜よ。よく知ってるわ、自分だって。けど、これでも時々は他から親切だって賞められる事もあってよ。そう馬鹿にしたものでもないわ」
自分はかつて大きなクッションに蜻蛉だの草花だのをいろいろの糸で、嫂に縫いつけて貰った御礼に、あなたは親切だと感謝した事があった。
「あれ、まだ有るでしょう綺麗ね」と彼女が云った。
「ええ。大事にして持っています」と自分は答えた。自分は事実だからこう答えざるを得なかった。こう答える以上、彼女が自分に親切であったという事実を裏から認識しない訳に行かなかった。
ふと耳を欹てると向うの二階で弾いていた三味線はいつの間にかやんでいた。残り客らしい人の酔った声が時々風を横切って聞こえた。もうそれほど遅くなったのかと思って、時計を捜し出しにかかったところへ女中が飛石伝に縁側から首を出した。
自分らはこの女中を通じて、和歌の浦が今暴風雨に包まれているという事を知った。電話が切れて話が通じないという事を知った。往来の松が倒れて電車が通じないという事も知った。
三十三
自分はその時急に母や兄の事を思い出した。眉を焦す火のごとく思い出した。狂う風と渦巻く浪に弄ばれつつある彼らの宿が想像の眼にありありと浮んだ。
「姉さん大変な事になりましたね」と自分は嫂を顧みた。嫂はそれほど驚いた様子もなかった。けれども気のせいか、常から蒼い頬が一層蒼いように感ぜられた。その蒼い頬の一部と眼の縁に先刻泣いた痕跡がまだ残っていた。嫂はそれを下女に悟られるのが厭なんだろう、電灯に疎い不自然な方角へ顔を向けて、わざと入口の方を見なかった。
「和歌の浦へはどうしても帰られないんでしょうか」と云った。
見当違いの方から出たこの問は、自分に云うのか、または下女に聞くのか、ちょっと解らなかった。
「俥でも駄目だろうね」と自分が同じような問を下女に取次いだ。
下女は駄目という言葉こそ繰返さなかったが、危険な意味を反覆説明して、聞かせた上、是非今夜だけは和歌山へ泊れと忠告した。彼女の顔はむしろわれわれ二人の利害を標的にして物を云ってるらしく真面目に見えた。自分は下女の言葉を信ずれば信ずるほど母の事が気になった。
防波堤と母の宿との間にはかれこれ五六町の道程があった。波が高くて少し土手を越すくらいなら、容易に三階の座敷まで来る気遣いはなかろうとも考えた。しかしもし海嘯が一度に寄せて来るとすると、……
「おい海嘯であすこいらの宿屋がすっかり波に攫われる事があるかい」
自分は本当に心配の余り下女にこう聞いた。下女はそんな事はないと断言した。しかし波が防波堤を越えて土手下へ落ちてくるため、中が湖水のようにいっぱいになる事は二三度あったと告げた。
「それにしたって、水に浸った家は大変だろう」と自分はまた聞いた。
下女は、高々水の中で家がぐるぐる回るくらいなもので、海まで持って行かれる心配はまずあるまいと答えた。この呑気な答えが心配の中にも自分を失笑せしめた。
「ぐるぐる回りゃそれでたくさんだ。その上海まで持ってかれた日にゃ好い災難じゃないか」
下女は何とも云わずに笑っていた。嫂も暗い方から電灯をまともに見始めた。
「姉さんどうします」
「どうしますって、妾女だからどうして好いか解らないわ。もしあなたが帰るとおっしゃれば、どんな危険があったって、妾いっしょに行くわ」
「行くのは構わないが、――困ったな。じゃ今夜は仕方がないからここへ泊るとしますか」
「あなたが御泊りになれば妾も泊るよりほかに仕方がないわ。女一人でこの暗いのにとても和歌の浦まで行く訳には行かないから」
下女は今まで勘違をしていたと云わぬばかりの眼遣をして二人を見較べた。
「おい電話はどうしても通じないんだね」と自分はまた念のため聞いて見た。
「通じません」
自分は電話口へ出て直接に試みて見る勇気もなかった。
「じゃしようがない泊ることにきめましょう」と今度は嫂に向った。
「ええ」
彼女の返事はいつもの通り簡単でそうして落ちついていた。
「町の中なら俥が通うんだね」と自分はまた下女に向った。
三十四