12話 行人(12)
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二人はこれから料理屋で周旋してくれた宿屋まで行かなければならなかった。仕度をして玄関を下りた時、そこに輝く電灯と、車夫の提灯とが、雨の音と風の叫びに冴えて、あたかも闇に狂う物凄さを照らす道具のように思われた。嫂はまず色の眼につくあでやかな姿を黒い幌の中へ隠した。自分もつづいて窮屈な深い桐油の中に身体を入れた。
幌の中に包まれた自分はほとんど往来の凄じさを見る遑がなかった。自分の頭はまだ経験した事のない海嘯というものに絶えず支配された。でなければ、意地の悪い天候のお蔭で、自分が兄の前で一徹に退けた事を、どうしても実行しなければならなくなった運命をつらく観じた。自分の頭は落ちついて想像したり観じたりするほどの余裕を無論もたなかった。ただ乱雑な火事場のように取留めもなくくるくる廻転した。
そのうち俥の梶棒が一軒の宿屋のような構の門口へ横づけになった。自分は何だか暖簾を潜って土間へ這入ったような気がしたがたしかには覚えていない。土間は幅の割に竪からいってだいぶ長かった。帳場も見えず番頭もいず、ただ一人の下女が取次に出ただけで、宵の口としては至って淋しい光景であった。
自分達は黙ってそこに突立っていた。自分はなぜだか嫂に話したくなかった。彼女も澄まして絹張の傘の先を斜に土間に突いたなりで立っていた。
下女の案内で二人の通された部屋は、縁側を前に御簾のような簀垂を軒に懸けた古めかしい座敷であった。柱は時代で黒く光っていた。天井にも煤の色が一面に見えた。嫂は例の傘を次の間の衣桁に懸けて、「ここは向うが高い棟で、こっちが厚い練塀らしいから風の音がそんなに聞えないけれど、先刻俥へ乗った時は大変ね。幌の上でひゅひゅいうのが気味が悪かったぐらいよ。あなた風の重みが俥の幌に乗しかかって来るのが乗ってて分ったでしょう。妾もう少しで俥が引っ繰返るかも知れないと思ったわ」と云った。
自分は少し逆上していたので、そんな事はよく注意していられなかった。けれどもその通りを真直に答えるほどの勇気もなかった。
「ええずいぶんな風でしたね」とごまかした。
「ここでこのくらいじゃ、和歌の浦はさぞ大変でしょうね」と嫂が始めて和歌の浦の事を云い出した。
自分は胸がまたわくわくし出した。「姐さんここの電話も切れてるのかね」と云って、答えも待たずに風呂場に近い電話口まで行った。そこで帳面を引っ繰返しながら、号鈴をしきりに鳴らして、母と兄の泊っている和歌の浦の宿へかけて見た。すると不思議に向うで二言三言何か云ったような気がするので、これはありがたいと思いつつなお暴風雨の模様を聞こうとすると、またさっぱり通じなくなった。それから何遍もしもしと呼んでもいくら号鈴を鳴らしても、呼び甲斐も鳴らし甲斐も全く無くなったので、ついに我を折ってわが部屋へ引き戻して来た。嫂は蒲団の上に坐って茶を啜っていたが、自分の足音を聴きつつふり返って、「電話はどうして? 通じて?」と聞いた。自分は電話について今の一部始終を説明した。
「おおかたそんな事だろうと思った。とても駄目よ今夜は。いくらかけたって、風で電話線を吹き切っちまったんだから。あの音を聞いたって解るじゃありませんか」
風はどこからか二筋に綯れて来たのが、急に擦違になって唸るような怪しい音を立てて、また虚空遥に騰るごとくに見えた。
三十五
二人が風に耳を峙だてていると、下女が風呂の案内に来た。それから晩食を食うかと聞いた。自分は晩食などを欲しいと思う気になれなかった。
「どうします」と嫂に相談して見た。
「そうね。どうでもいいけども。せっかく泊ったもんだから、御膳だけでも見た方がいいでしょう」と彼女は答えた。
下女が心得て立って行ったかと思うと、宅中の電灯がぱたりと消えた。黒い柱と煤けた天井でたださえ陰気な部屋が、今度は真暗になった。自分は鼻の先に坐っている嫂を嗅げば嗅がれるような気がした。
「姉さん怖かありませんか」
「怖いわ」という声が想像した通りの見当で聞こえた。けれどもその声のうちには怖らしい何物をも含んでいなかった。またわざと怖がって見せる若々しい蓮葉の態度もなかった。
二人は暗黒のうちに坐っていた。動かずにまた物を云わずに、黙って坐っていた。眼に色を見ないせいか、外の暴風雨は今までよりは余計耳についた。雨は風に散らされるのでそれほど恐ろしい音も伝えなかったが、風は屋根も塀も電柱も、見境なく吹き捲って悲鳴を上げさせた。自分達の室は地面の上の穴倉みたような所で、四方共頑丈な建物だの厚い塗壁だのに包まれて、縁の前の小さい中庭さえ比較的安全に見えたけれども、周囲一面から出る一種凄じい音響は、暗闇に伴って起る人間の抵抗しがたい不可思議な威嚇であった。
「姉さんもう少しだから我慢なさい。今に女中が灯を持って来るでしょうから」
自分はこう云って、例の見当から嫂の声が自分の鼓膜に響いてくるのを暗に予期していた。すると彼女は何事をも答えなかった。それが漆に似た暗闇の威力で、細い女の声さえ通らないように思われるのが、自分には多少無気味であった。しまいに自分の傍にたしかに坐っているべきはずの嫂の存在が気にかかり出した。
「姉さん」
嫂はまだ黙っていた。自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りにまた「姉さん」と呼んだ。
「何よ」
彼女の答は何だか蒼蠅そうであった。
「いるんですか」
「いるわあなた。人間ですもの。嘘だと思うならここへ来て手で障って御覧なさい」
自分は手捜りに捜り寄って見たい気がした。けれどもそれほどの度胸がなかった。そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦れる音がした。
「姉さん何かしているんですか」と聞いた。
「ええ」
「何をしているんですか」と再び聞いた。
「先刻下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いているところです」と嫂が答えた。
自分が暗闇で帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭を点けて縁側伝いに持って来た。そうしてそれを座敷の床の横にある机の上に立てた。蝋燭の焔がちらちら右左へ揺れるので、黒い柱や煤けた天井はもちろん、灯の勢の及ぶ限りは、穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋しく焦立たせた。ことさら床に掛けた軸と、その前に活けてある花とが、気味の悪いほど目立って蝋燭の灯の影響を受けた。自分は手拭を持って、また汗を流しに風呂へ行った。風呂は怪しげなカンテラで照らされていた。
三十六
自分は佗びしい光でやっと見分のつく小桶を使ってざあざあ背中を流した。出がけにまた念のためだから電話をちりんちりん鳴らして見たがさらに通じる気色がないのでやめた。
嫂は自分と入れ代りに風呂へ入ったかと思うとすぐ出て来た。「何だか暗くって気味が悪いのね。それに桶や湯槽が古いんでゆっくり洗う気にもなれないわ」
その時自分は畏まった下女を前に置いて蝋燭の灯を便に宿帳をつけべく余儀なくされていた。
「姉さん宿帳はどうつけたら好いでしょう」
「どうでも。好い加減に願います」
嫂はこう云って小さい袋から櫛やなにか這入っている更紗の畳紙を出し始めた。彼女は後向になって蝋燭を一つ占領して鏡台に向いつつ何かやっていた。自分は仕方なしに東京の番地と嫂の名を書いて、わざと傍に一郎妻と認めた。同様の意味で自分の側にも一郎弟とわざわざ断った。
飯の出る前に、何の拍子か、先に暗くなった電灯がまた一時に明るくなった。その時台所の方でわあと喜びの鬨の声を挙げたものがあった。暴風雨で魚がないと下女が言訳を云ったにかかわらず、われわれの膳の上は明かであった。
「まるで生返ったようね」と嫂が云った。
すると電灯がまたぱっと消えた。自分は急に箸を消えたところに留めたぎり、しばらく動かさなかった。
「おやおや」
下女は大きな声をして朋輩の名を呼びながら灯火を求めた。自分は電気灯がぱっと明るくなった瞬間に嫂が、いつの間にか薄く化粧を施したという艶かしい事実を見て取った。電灯の消えた今、その顔だけが真闇なうちにもとの通り残っているような気がしてならなかった。
「姉さんいつ御粧したんです」
「あら厭だ真闇になってから、そんな事を云いだして。あなたいつ見たの」
下女は暗闇で笑い出した。そうして自分の眼ざとい事を賞めた。
「こんな時に白粉まで持って来るのは実に細かいですね、姉さんは」と自分はまた暗闇の中で嫂に云った。
「白粉なんか持って来やしないわ。持って来たのはクリームよ、あなた」と彼女はまた暗闇の中で弁解した。
自分は暗がりの中で、しかも下女のいる前で、こんな冗談を云うのが常よりは面白かった。そこへ彼女の朋輩がまた別の蝋燭を二本ばかり点けて来た。
室の中は裸蝋燭の灯で渦を巻くように動揺した。自分も嫂も眉を顰めて燃える焔の先を見つめていた。そうして落ちつきのない淋しさとでも形容すべき心持を味わった。
ほどなく自分達は寝た。便所に立った時、自分は窓の間から空を仰ぐように覗いて見た。今まで多少静まっていた暴風雨が、この時は夜更と共に募ったものか、真黒な空が真黒いなりに活動して、瞬間も休まないように感ぜられた。自分は恐ろしい空の中で、黒い電光が擦れ合って、互に黒い針に似たものを隙間なく出しながら、この暗さを大きな音の中に維持しているのだと想像し、かつその想像の前に畏縮した。
蚊帳の外には蝋燭の代りに下女が床を延べた時、行灯を置いて行った。その行灯がまた古風な陰気なもので、いっそ吹き消して闇がりにした方が、微かな光に照らされる無気味さよりはかえって心持が好いくらいだった。自分は燐寸を擦って、薄暗い所で煙草を呑み始めた。
三十七
自分は先刻から少しも寝なかった。小用に立って、一本の紙巻を吹かす間にもいろいろな事を考えた。それが取りとめもなく雑然と一度に来るので、自分にも何が主要の問題だか捕えられなかった。自分は燐寸を擦って煙草を呑んでいる事さえ時々忘れた。しかもそこに気がついて、再び吸口を唇に銜える時の煙の無味さはまた特別であった。
自分の頭の中には、今見て来た正体の解らない黒い空が、凄まじく一様に動いていた。それから母や兄のいる三階の宿が波を幾度となく被って、くるりくるりと廻り出していた。それが片づかないうちに、この部屋の中に寝ている嫂の事がまた気になり出した。天災とは云え二人でここへ泊った言訳をどうしたものだろうと考えた。弁解してから後、兄の機嫌をどうして取り直したものだろうとも考えた。同時に今日嫂といっしょに出て、滅多にないこんな冒険を共にした嬉しさがどこからか湧いて出た。その嬉しさが出た時、自分は風も雨も海嘯も母も兄もことごとく忘れた。するとその嬉しさがまた俄然として一種の恐ろしさに変化した。恐ろしさと云うよりも、むしろ恐ろしさの前触であった。どこかに潜伏しているように思われる不安の徴候であった。そうしてその時は外面を狂い廻る暴風雨が、木を根こぎにしたり、塀を倒したり、屋根瓦を捲くったりするのみならず、今薄暗い行灯の下で味のない煙草を吸っているこの自分を、粉微塵に破壊する予告のごとく思われた。
自分がこんな事をぐるぐる考えているうちに、蚊帳の中に死人のごとくおとなしくしていた嫂が、急に寝返をした。そうして自分に聞えるように長い欠伸をした。
「姉さんまだ寝ないんですか」と自分は煙草の煙の間から嫂に聞いた。
「ええ、だってこの吹き降りじゃ寝ようにも寝られないじゃありませんか」
「僕もあの風の音が耳についてどうする事もできない。電灯の消えたのは、何でもここいら近所にある柱が一本とか二本とか倒れたためだってね」
「そうよ、そんな事を先刻下女が云ったわね」
「御母さんと兄さんはどうしたでしょう」
「妾も先刻からその事ばかり考えているの。しかしまさか浪は這入らないでしょう。這入ったって、あの土手の松の近所にある怪しい藁屋ぐらいなものよ。持ってかれるのは。もし本当の海嘯が来てあすこ界隈をすっかり攫って行くんなら、妾本当に惜しい事をしたと思うわ」
「なぜ」
「なぜって、妾そんな物凄いところが見たいんですもの」
「冗談じゃない」と自分は嫂の言葉をぶった切るつもりで云った。すると嫂は真面目に答えた。
「あら本当よ二郎さん。妾死ぬなら首を縊ったり咽喉を突いたり、そんな小刀細工をするのは嫌よ。大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」
自分は小説などをそれほど愛読しない嫂から、始めてこんなロマンチックな言葉を聞いた。そうして心のうちでこれは全く神経の昂奮から来たに違いないと判じた。
「何かの本にでも出て来そうな死方ですね」
「本に出るか芝居でやるか知らないが、妾ゃ真剣にそう考えてるのよ。嘘だと思うならこれから二人で和歌の浦へ行って浪でも海嘯でも構わない、いっしょに飛び込んで御目にかけましょうか」
「あなた今夜は昂奮している」と自分は慰撫めるごとく云った。
「妾の方があなたよりどのくらい落ちついているか知れやしない。たいていの男は意気地なしね、いざとなると」と彼女は床の中で答えた。
三十八
自分はこの時始めて女というものをまだ研究していない事に気がついた。嫂はどこからどう押しても押しようのない女であった。こっちが積極的に進むとまるで暖簾のように抵抗がなかった。仕方なしにこっちが引き込むと、突然変なところへ強い力を見せた。その力の中にはとても寄りつけそうにない恐ろしいものもあった。またはこれなら相手にできるから進もうかと思って、まだ進みかねている中に、ふっと消えてしまうのもあった。自分は彼女と話している間始終彼女から翻弄されつつあるような心持がした。不思議な事に、その翻弄される心持が、自分に取って不愉快であるべきはずだのに、かえって愉快でならなかった。
彼女は最後に物凄い決心を語った。海嘯に攫われて行きたいとか、雷火に打たれて死にたいとか、何しろ平凡以上に壮烈な最後を望んでいた。自分は平生から(ことに二人でこの和歌山に来てから)体力や筋力において遥に優勢な位地に立ちつつも、嫂に対してはどことなく無気味な感じがあった。そうしてその無気味さがはなはだ狎れやすい感じと妙に相伴っていた。
自分は詩や小説にそれほど親しみのない嫂のくせに、何に昂奮して海嘯に攫われて死にたいなどと云うのか、そこをもっと突きとめて見たかった。
「姉さんが死ぬなんて事を云い出したのは今夜始めてですね」
「ええ口へ出したのは今夜が始めてかも知れなくってよ。けれども死ぬ事は、死ぬ事だけはどうしたって心の中で忘れた日はありゃしないわ。だから嘘だと思うなら、和歌の浦まで伴れて行ってちょうだい。きっと浪の中へ飛込んで死んで見せるから」
薄暗い行灯の下で、暴風雨の音の間にこの言葉を聞いた自分は、実際物凄かった。彼女は平生から落ちついた女であった。歇私的里風なところはほとんどなかった。けれども寡言な彼女の頬は常に蒼かった。そうしてどこかの調子で眼の中に意味の強い解すべからざる光が出た。
「姉さんは今夜よっぽどどうかしている。何か昂奮している事でもあるんですか」
自分は彼女の涙を見る事はできなかった。また彼女の泣き声を聞く事もできなかった。けれども今にもそこに至りそうな気がするので、暗い行灯の光を便りに、蚊帳の中を覗いて見た。彼女は赤い蒲団を二枚重ねてその上に縁を取った白麻の掛蒲団を胸の所まで行儀よく掛けていた。自分が暗い灯でその姿を覗き込んだ時、彼女は枕を動かして自分の方を見た。
「あなた昂奮昂奮って、よくおっしゃるけれども妾ゃあなたよりいくら落ちついてるか解りゃしないわ。いつでも覚悟ができてるんですもの」
自分は何と答うべき言葉も持たなかった。黙って二本目の敷島を暗い灯影で吸い出した。自分はわが鼻と口から濛々と出る煙ばかりを眺めていた。自分はその間に気味のわるい眼を転じて、時々蚊帳の中を窺った。嫂の姿は死んだように静であった。あるいはすでに寝ついたのではないかとも思われた。すると突然仰向けになった顔の中から、「二郎さん」と云う声が聞こえた。
「何ですか」と自分は答えた。
「あなたそこで何をしていらっしゃるの」
「煙草を呑んでるんです。寝られないから」
「早く御休みなさいよ。寝られないと毒だから」
「ええ」
自分は蚊帳の裾を捲くって、自分の床の中に這入った。
三十九
翌日は昨日と打って変って美しい空を朝まだきから仰ぐ事を得た。
「好い天気になりましたね」と自分は嫂に向って云った。
「本当ね」と彼女も答えた。
二人はよく寝なかったから、夢から覚めたという心持はしなかった。ただ床を離れるや否や魔から覚めたという感じがしたほど、空は蒼く染められていた。
自分は朝飯の膳に向いながら、廂を洩れる明らかな光を見て、急に気分の変化に心づいた。したがって向い合っている嫂の姿が昨夕の嫂とは全く異なるような心持もした。今朝見ると彼女の眼にどこといって浪漫的な光は射していなかった。ただ寝の足りない《まぶち》が急に爽かな光に照らされて、それに抵抗するのがいかにも慵いと云ったような一種の倦怠るさが見えた。頬の蒼白いのも常に変らなかった。
我々はできるだけ早く朝飯を済まして宿を立った。電車はまだ通じないだろうという宿のものの注意を信用して俥を雇った。車夫は土間から表に出た我々を一目見て、すぐ夫婦ものと鑑定したらしかった。俥に乗るや否や自分の梶棒を先へ上げた。自分はそれをとめるように、「後から後から」と云った。車夫は心得て「奥さんの方が先だ」と相図した。嫂の俥が自分の傍を擦り抜ける時、彼女は例の片靨を見せて「御先へ」と挨拶した。自分は「さあどうぞ」と云ったようなものの、腹の中では車夫の口にした奥さんという言葉が大いに気になった。嫂はそんな景色もなく、自分を乗り越すや否や、琥珀に刺繍のある日傘を翳した。彼女の後姿はいかにも涼しそうに見えた。奥さんと云われても云われないでも全く無関係の態度で、俥の上に澄まして乗っているとしか思われなかった。
自分は嫂の後姿を見つめながら、また彼女の人となりに思い及んだ。自分は平生こそ嫂の性質を幾分かしっかり手に握っているつもりであったが、いざ本式に彼女の口から本当のところを聞いて見ようとすると、まるで八幡の藪知らずへ這入ったように、すべてが解らなくなった。
すべての女は、男から観察しようとすると、みんな正体の知れない嫂のごときものに帰着するのではあるまいか。経験に乏しい自分はこうも考えて見た。またその正体の知れないところがすなわち他の婦人に見出しがたい嫂だけの特色であるようにも考えて見た。とにかく嫂の正体は全く解らないうちに、空が蒼々と晴れてしまった。自分は気の抜けた麦酒のような心持を抱いて、先へ行く彼女の後姿を絶えず眺めていた。
突然自分は宿へ帰ってから嫂について兄に報告をする義務がまだ残っている事に気がついた。自分は何と報告して好いかよく解らなかった。云うべき言葉はたくさんあったけれども、それを一々兄の前に並べるのはとうてい自分の勇気ではできなかった。よし並べたって最後の一句は正体が知れないという簡単な事実に帰するだけであった。あるいは兄自身も自分と同じく、この正体を見届ようと煩悶し抜いた結果、こんな事になったのではなかろうか。自分は自分がもし兄と同じ運命に遭遇したら、あるいは兄以上に神経を悩ましはしまいかと思って、始めて恐ろしい心持がした。
俥が宿へ着いたとき、三階の縁側には母の影も兄の姿も見えなかった。
四十