14話 行人(14)
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「雨のようね」と嫂が聞いた。
「ええ」
自分は半ば風に吹き寄せられた厚い窓掛の、じとじとに湿ったのを片方へがらりと引いた。途端に母の寝返りを打つ音が聞こえた。
「二郎、ここはどこだい」
「名古屋です」
自分は吹き込む紗の窓を通して、ほとんど人影の射さない停車場の光景を、雨のうちに眺めた。名古屋名古屋と呼ぶ声がまだ遠くの方で聞こえた。それからこつりこつりという足音がたった一人で活きて来るように響いた。
「二郎ついでに妾の足の方も締めておくれな」
「御母さんの所も硝子が閉っていないんですか。先刻呼んだらよく寝ていらっしゃるようでしたから……」
自分は嫂の方を片づけて、すぐ母の方に行った。厚い窓掛を片寄せて、手探りに探って見ると、案外にも立派に硝子戸が締まっていた。
「御母さんこっちは雨なんか這入りゃしませんよ。大丈夫です、この通りだから」
自分はこう云いながら、母の足の方に当る硝子を、とんとんと手で叩いて見せた。
「おや雨は這入らないのかい」
「這入るものですか」
母は微笑した。
「いつ頃から雨が降り出したか御母さんはちっとも知らなかったよ」
母はさも愛想らしくまた弁疏らしく口を利いて、「二郎、御苦労だったね、早く御休み。もうよっぽど遅いんだろう」と云った。
時計は十二時過であった。自分はまたそっと上の寝台に登った。車室は元の通り静かになった。嫂は母が口を利き出してから、何も云わなくなった。母は自分が自分の寝台に上ってから、また何も云わなくなった。ただ兄だけは始めからしまいまで一言も物を云わなかった。彼は聖者のごとくただすやすやと眠っていた。この眠方が自分には今でも不審の一つになっている。
彼は自分で時々公言するごとく多少の神経衰弱に陥っていた。そうして時々不眠のために苦しめられた。また正直にそれを家族の誰彼に訴えた。けれども眠くて困ると云った事はいまだかつてなかった。
富士が見え出して雨上りの雲が列車に逆らって飛ぶ景色を、みんなが起きて珍らしそうに眺める時すら、彼は前後に関係なく心持よさそうに寝ていた。
食堂が開いて乗客の多数が朝飯を済ました後、自分は母を連れて昨夜以来の空腹を充たすべく細い廊下を伝わって後部の方へ行った。その時母は嫂に向って、「もう好い加減に一郎を起して、いっしょにあっちへ御出で。妾達は向へ行って待っているから」と云った。嫂はいつもの通り淋しい笑い方をして、「ええ直御後から参ります」と答えた。
自分達は室内の掃除に取りかかろうとする給仕を後にして食堂へ這入った。食堂はまだだいぶ込んでいた。出たり這入ったりするものが絶えず狭い通り路をざわつかせた。自分が母に紅茶と果物を勧めている時分に、兄と嫂の姿がようやく入口に現れた。不幸にして彼らの席は自分達の傍に見出せるほど、食卓は空いていなかった。彼らは入口の所に差し向いで座を占めた。そうして普通の夫婦のように笑いながら話したり、窓の外を眺めたりした。自分を相手に茶を啜っていた母は、時々その様子を満足らしく見た。
自分達はかくして東京へ帰ったのである。
三
繰返していうが、我々はこうして東京へ帰ったのである。
東京の宅は平生の通り別にこれと云って変った様子もなかった。お貞さんは襷を掛けて別条なく働いていた。彼女が手拭を被って洗濯をしている後姿を見て、一段落置いた昔のお貞さんを思いだしたのは、帰って二日目の朝であった。
芳江というのは兄夫婦の間にできた一人っ子であった。留守のうちはお重が引受けて万事世話をしていた。芳江は元来母や嫂に馴ついていたが、いざとなると、お重だけでも不自由を感じないほど世話の焼けない子であった。自分はそれを嫂の気性を受けて生れたためか、そうでなければお重の愛嬌のあるためだと解釈していた。
「お重お前のようなものがよくあの芳江を預かる事ができるね。さすがにやっぱり女だなあ」と父が云ったら、お重は膨れた顔をして、「御父さんもずいぶんな方ね」と母にわざわざ訴えに来た話を、汽車の中で聞いた。
自分は帰ってから一両日して、彼女に、「お重お前を御父さんがやっぱり女だなとおっしゃったって怒ってるそうだね」と聞いた。彼女は「怒ったわ」と答えたなり、父の書斎の花瓶の水を易えながら、乾いた布巾で水を切っていた。
「まだ怒ってるのかい」
「まだってもう忘れちまったわ。――綺麗ねこの花は何というんでしょう」
「お重しかし、女だなあというのは、そりゃ賞めた言葉だよ。女らしい親切な子だというんだ。怒る奴があるもんか」
「どうでもよくってよ」
お重は帯で隠した尻の辺を左右に振って、両手で花瓶を持ちながら父の居間の方へ行った。それが自分にはあたかも彼女が尻で怒を見せているようでおかしかった。
芳江は我々が帰るや否や、すぐお重の手から母と嫂に引渡された。二人は彼女を奪い合うように抱いたり下したりした。自分の平生から不思議に思っていたのは、この外見上冷静な嫂に、頑是ない芳江がよくあれほどに馴つきえたものだという眼前の事実であった。この眸の黒い髪のたくさんある、そうして母の血を受けて人並よりも蒼白い頬をした少女は、馴れやすからざる彼女の母の後を、奇蹟のごとく追って歩いた。それを嫂は日本一の誇として、宅中の誰彼に見せびらかした。ことに己の夫に対しては見せびらかすという意味を通り越して、むしろ残酷な敵打をする風にも取れた。兄は思索に遠ざかる事のできない読書家として、たいていは書斎裡の人であったので、いくら腹のうちでこの少女を鍾愛しても、鍾愛の報酬たる親しみの程度ははなはだ稀薄なものであった。感情的な兄がそれを物足らず思うのも無理はなかった。食卓の上などでそれが色に出る時さえ兄の性質としてはたまにはあった。そうなるとほかのものよりお重が承知しなかった。
「芳江さんは御母さん子ね。なぜ御父さんの側に行かないの」などと故意とらしく聞いた。
「だって……」と芳江は云った。
「だってどうしたの」とお重がまた聞いた。
「だって怖いから」と芳江はわざと小さな声で答えた。それがお重にはなおさら忌々しく聞こえるのであった。
「なに? 怖いって? 誰が怖いの?」
こんな問答がよく繰り返えされて、時には五分も十分も続いた。嫂はこう云う場合に、けっして眉目を動さなかった。いつでも蒼い頬に微笑を見せながらどこまでも尋常な応対をした。しまいには父や母が双方を宥めるために、兄から果物を貰わしたり、菓子を受け取らしたりさせて、「さあそれで好い。御父さんから旨いものをちょうだいして」とやっと御茶を濁す事もあった。お重はそれでも腹が癒えなそうに膨れた頬をみんなに見せた。兄は黙って独り書斎へ退くのが常であった。
四
父はその年始めて誰かから朝貌を作る事を教わって、しきりに変った花や葉を愛玩していた。変ったと云っても普通のものがただ縮れて見立がなくなるだけだから、宅中でそれを顧みるものは一人もなかった。ただ父の熱心と彼の早起と、いくつも並んでいる鉢と、綺麗な砂と、それから最後に、厭に拗ねた花の様や葉の形に感心するだけに過ぎなかった。
父はそれらを縁側へ並べて誰を捉まえても説明を怠らなかった。
「なるほど面白いですなあ」と正直な兄までさも感心したらしく御世辞を余儀なくされていた。
父は常に我々とはかけ隔った奥の二間を専領していた。簀垂のかかったその縁側に、朝貌はいつでも並べられた。したがって我々は「おい一郎」とか「おいお重」とか云って、わざわざそこへ呼び出されたものであった。自分は兄よりも遥に父の気に入るような賛辞を呈して引き退がった。そうして父の聞えない所で、「どうもあんな朝貌を賞めなけりゃならないなんて、実際恐れ入るね。親父の酔興にも困っちまう」などと悪口を云った。
いったい父は講釈好の説明好であった。その上時間に暇があるから、誰でも構わず、号鈴を鳴らして呼寄せてはいろいろな話をした。お重などは呼ばれるたびに、「兄さん今日は御願だから代りに行ってちょうだい」と云う事がよくあった。そのお重に父はまた解り悪い事を話すのが大好だった。
自分達が大阪から帰ったとき朝貌はまだ咲いていた。しかし父の興味はもう朝貌を離れていた。
「どうしました。例の変り種は」と自分が聞いて見ると、父は苦笑いをして「実は朝貌もあまり思わしくないから、来年からはもう止めだ」と答えた。自分はおおかた父の誇りとして我々に見せた妙な花や葉が、おそらくその道の人から鑑定すると、成っていなかったんだろうと判断して、茶の間で大きな声を立てて笑った。すると例のお重とお貞さんが父を弁護した。
「そうじゃ無いのよ。あんまり手数がかかるんで、御父さんも根気が尽きちまったのよ。それでも御父さんだからあれだけにできたんですって、皆な賞めていらしったわ」
母と嫂は自分の顔を見て、さも自分の無識を嘲けるように笑い出した。すると傍にいた小さな芳江までが嫂と同じように意味のある笑い方をした。
こんな瑣事で日を暮しているうちに兄と嫂の間柄は自然自分達の胸を離れるようになった。自分はかねて約束した通り、兄の前へ出て嫂の事を説明する必要がなくなったような気がした。母が東京へ帰ってからゆっくり話そうと云ったむずかしそうな事件も母の口から容易に出ようとも思えなかった。最後にあれほど嫂について智識を得たがっていた兄が、だんだん冷静に傾いて来た。その代り父母や自分に対しても前ほどは口を利かなくなった。暑い時でもたいていは書斎へ引籠って何か熱心にやっていた。自分は時々嫂に向って、「兄さんは勉強ですか」と聞いた。嫂は「ええおおかた来学年の講義でも作ってるんでしょう」と答えた。自分はなるほどと思って、その忙しさが永く続くため、彼の心を全然そっちの方へ転換させる事ができはしまいかと念じた。嫂は平生の通り淋しい秋草のようにそこらを動いていた。そうして時々片靨を見せて笑った。
五
そのうち夏もしだいに過ぎた。宵々に見る星の光が夜ごとに深くなって来た。梧桐の葉の朝夕風に揺ぐのが、肌に応えるように眼をひやひやと揺振った。自分は秋に入ると生れ変ったように愉快な気分を時々感じ得た。自分より詩的な兄はかつて透き通る秋の空を眺めてああ生き甲斐のある天だと云って嬉しそうに真蒼な頭の上を眺めた事があった。
「兄さんいよいよ生き甲斐のある時候が来ましたね」と自分は兄の書斎のヴェランダに立って彼を顧みた。彼はそこにある籐椅子の上に寝ていた。
「まだ本当の秋の気分にゃなれない。もう少し経たなくっちゃ駄目だね」と答えて彼は膝の上に伏せた厚い書物を取り上げた。時は食事前の夕方であった。自分はそれなり書斎を出て下へ行こうとした。すると兄が急に自分を呼び止めた。
「芳江は下にいるかい」
「いるでしょう。先刻裏庭で見たようでした」
自分は北の方の窓を開けて下を覗いて見た。下には特に彼女のために植木屋が拵えたブランコがあった。しかし先刻いた芳江の姿は見えなかった。「おやどこへか行ったかな」と自分が独言を云ってると、彼女の鋭い笑い声が風呂場の中で聞えた。
「ああ湯に這入っています」
「直といっしょかい。御母さんとかい」
芳江の笑い声の間にはたしかに、女として深さのあり過ぎる嫂の声が聞えた。
「姉さんです」と自分は答えた。
「だいぶ機嫌が好さそうじゃないか」
自分は思わずこう云った兄の顔を見た。彼は手に持っていた大きな書物で頭まで隠していたからこの言葉を発した時の表情は少しも見る事ができなかった。けれども、彼の意味はその調子で自分によく呑み込めた。自分は少し逡巡した後で、「兄さんは子供をあやす事を知らないから」と云った。兄の顔はそれでも書物の後に隠れていた。それを急に取るや否や彼は「おれの綾成す事のできないのは子供ばかりじゃないよ」と云った。自分は黙って彼の顔を打ち守った。
「おれは自分の子供を綾成す事ができないばかりじゃない。自分の父や母でさえ綾成す技巧を持っていない。それどころか肝心のわが妻さえどうしたら綾成せるかいまだに分別がつかないんだ。この年になるまで学問をした御蔭で、そんな技巧は覚える余暇がなかった。二郎、ある技巧は、人生を幸福にするために、どうしても必要と見えるね」
「でも立派な講義さえできりゃ、それですべてを償って余あるから好いでさあ」
自分はこう云って、様子次第、退却しようとした。ところが兄は中止する気色を見せなかった。
「おれは講義を作るためばかりに生れた人間じゃない。しかし講義を作ったり書物を読んだりする必要があるために肝心の人間らしい心持を人間らしく満足させる事ができなくなってしまったのだ。でなければ先方で満足させてくれる事ができなくなったのだ」
自分は兄の言葉の裏に、彼の周囲を呪うように苦々しいある物を発見した。自分は何とか答えなければならなかった。しかし何と答えて好いか見当がつかなかった。ただ問題が例の嫂事件を再発させては大変だと考えた。それで卑怯のようではあるが、問答がそこへ流れ入る事を故意に防いだ。
「兄さんが考え過ぎるから、自分でそう思うんですよ。それよりかこの好天気を利用して、今度の日曜ぐらいに、どこかへ遠足でもしようじゃありませんか」
兄はかすかに「うん」と云って慵げに承諾の意を示した。
六
兄の顔には孤独の淋しみが広い額を伝わって瘠けた頬に漲っていた。
「二郎おれは昔から自然が好きだが、つまり人間と合わないので、やむをえず自然の方に心を移す訳になるんだろうかな」
自分は兄が気の毒になった。「そんな事はないでしょう」と一口に打ち消して見た。けれどもそれで兄の満足を買う訳には行かなかった。自分はすかさずまたこう云った。
「やっぱり家の血統にそう云う傾きがあるんですよ。御父さんは無論、僕でも兄さんの知っていらっしゃる通りですし、それにね、あのお重がまた不思議と、花や木が好きで、今じゃ山水画などを見ると感に堪えたような顔をして時々眺めている事がありますよ」
自分はなるべく兄を慰めようとして、いろいろな話をしていた。そこへお貞さんが下から夕食の報知に来た。自分は彼女に、「お貞さんは近頃嬉しいと見えて妙ににこにこしていますね」と云った。自分が大阪から帰るや否や、お貞さんは暑い下女室の隅に引込んで容易に顔を出さなかった。それが大阪から出したみんなの合併絵葉書の中へ、自分がお貞さん宛に「おめでとう」と書いた五字から起ったのだと知れて家内中大笑いをした。そのためか一つ家にいながらお貞さんは変に自分を回避した。したがって顔を合わせると自分はことさらに何か云いたくなった。
「お貞さん何が嬉しいんですか」と自分は面白半分追窮するように聞いた。お貞さんは手を突いたなり耳まで赤くなった。兄は籐椅子の上からお貞さんを見て、「お貞さん、結婚の話で顔を赤くするうちが女の花だよ。行って見るとね、結婚は顔を赤くするほど嬉しいものでもなければ、恥ずかしいものでもないよ。それどころか、結婚をして一人の人間が二人になると、一人でいた時よりも人間の品格が堕落する場合が多い。恐ろしい目に会う事さえある。まあ用心が肝心だ」と云った。
お貞さんには兄の意味が全く通じなかったらしい。何と答えて好いか解らないので、むしろ途方に暮れた顔をしながら涙を眼にいっぱい溜めていた。兄はそれを見て、「お貞さん余計な事を話して御気の毒だったね。今のは冗談だよ。二郎のような向う見ずに云って聞かせる事を、ついお貞さん見たいな優しい娘さんに云っちまったんだ。全くの間違だ。勘弁してくれたまえ。今夜は御馳走があるかね。二郎それじゃ御膳を食べに行こう」と云った。
お貞さんは兄が籐椅子から立ち上るのを見るや否や、すぐ腰を立てて一足先へ階子段をとんとんと下りて行った。自分は兄と肩を比べて室を出にかかった。その時兄は自分を顧みて「二郎、この間の問題もそれぎりになっていたね。つい書物や講義の事が忙しいものだから、聞こう聞こうと思いながら、ついそのままにしておいてすまない。そのうちゆっくり聴くつもりだから、どうか話してくれ」と云った。自分は「この間の問題とは何ですか」と空惚けたかった。けれどもそんな勇気はこの際出る余裕がなかったから、まず体裁の好い挨拶だけをしておいた。
「こう時間が経つと、何だか気の抜けた麦酒見たようで、僕には話し悪くなってしまいましたよ。しかしせっかくのお約束だから聴くとおっしゃればやらん事もありませんがね。しかし兄さんのいわゆる生き甲斐のある秋にもなったものだから、そんなつまらない事より、まず第一に遠足でもしようじゃありませんか」
「うん遠足も好かろうが……」
二人はこんな話を交換しながら、食卓の据えてある下の室に入った。そうしてそこに芳江を傍に引きつけている嫂を見出した。
七
食卓の上で父と母は偶然またお貞さんの結婚問題を話頭に上せた。母は兼て白縮緬を織屋から買っておいたから、それを紋付に染めようと思っているなどと云った。お貞さんはその時みんなの後に坐って給仕をしていたが、急に黒塗の盆をおはちの上へ置いたなり席を立ってしまった。
自分は彼女の後姿を見て笑い出した。兄は反対に苦い顔をした。
「二郎お前がむやみに調戯うからいけない。ああ云う乙女にはもう少しデリカシーの籠った言葉を使ってやらなくっては」
「二郎はまるで堂摺連と同じ事だ」と父が笑うようなまた窘なめるような句調で云った。母だけは一人不思議な顔をしていた。
「なに二郎がね。お貞さんの顔さえ見ればおめでとうだの嬉しい事がありそうだのって、いろいろの事を云うから、向うでも恥かしがるんです。今も二階で顔を赤くさせたばかりのところだもんだから、すぐ逃げ出したんです。お貞さんは生れつきからして直とはまるで違ってるんだから、こっちでもそのつもりで注意して取り扱ってやらないといけません……」
兄の説明を聞いた母は始めてなるほどと云ったように苦笑した。もう食事を済ましていた嫂は、わざと自分の顔を見て変な眼遣をした。それが自分には一種の相図のごとく見えた。自分は父から評された通りだいぶ堂摺連の傾きを持っていたが、この時は父や母に憚って、嫂の相図を返す気は毫も起らなかった。
嫂は無言のまますっと立った、室の出口でちょっと振り返って芳江を手招きした。芳江もすぐ立った。
「おや今日はお菓子を頂かないで行くの」とお重が聞いた。芳江はそこに立ったまま、どうしたものだろうかと思案する様子に見えた。嫂は「おや芳江さん来ないの」とさもおとなしやかに云って廊下の外へ出た。今まで躊躇していた芳江は、嫂の姿が見えなくなるや否や急に意を決したもののごとく、ばたばたとその後を追駈けた。
お重は彼女の後姿をさも忌々しそうに見送った。父と母は厳格な顔をして己れの皿の中を見つめていた。お重は兄を筋違いに見た。けれども兄は遠くの方をぼんやり眺めていた。もっとも彼の眉根には薄く八の字が描かれていた。
「兄さん、そのプッジングを妾にちょうだい。ね、好いでしょう」とお重が兄に云った。兄は無言のまま皿をお重の方に押やった。お重も無言のままそれを匙で突ついたが、自分から見ると、食べたくない物を業腹で食べているとしか思われなかった。
兄が席を立って書斎に入ったのはそれからしてしばらく後の事であった。自分は耳を峙てて彼の上靴が静に階段を上って行く音を聞いた。やがて上の方で書斎の戸がどたんと閉まる声がして、後は静になった。
東京へ帰ってから自分はこんな光景をしばしば目撃した。父もそこには気がついているらしかった。けれども一番心配そうなのは母であった。彼女は嫂の態度を見破って、かつ容赦の色を見せないお重を、一日も早く片づけて若い女同士の葛藤を避けたい気色を色にも顔にも挙動にも現した。次にはなるべく早く嫁を持たして、兄夫婦の間から自分という厄介ものを抜き去りたかった。けれども複雑な世の中は、そう母の思うように旨く回転してくれなかった。自分は相変らず、のらくらしていた。お重はますます嫂を敵のように振舞った。不思議に彼女は芳江を愛した。けれどもそれは嫂のいない留守に限られていた。芳江も嫂のいない時ばかりお重に縋りついた。兄の額には学者らしい皺がだんだん深く刻まれて来た。彼はますます書物と思索の中に沈んで行った。
八