15話 行人(15)
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こんな訳で、母の一番軽く見ていたお貞さんの結婚が最初にきまったのは、彼女の思わくとはまるで反対であった。けれども早晩片づけなければならないお貞さんの運命に一段落をつけるのも、やはり父や母の義務なんだから、彼らは岡田の好意を喜びこそすれ、けっしてそれを悪く思うはずはなかった。彼女の結婚が家中の問題になったのもつまりはそのためであった。お重はこの問題についてよくお貞さんを捕まえて離さなかった。お貞さんはまたお重には赤い顔も見せずに、いろいろの相談をしたり己れの将来をも語り合ったらしい。
ある日自分が外から帰って来て、風呂から上ったところへ、お重が、「兄さん佐野さんていったいどんな人なの」と例の前後を顧慮しない調子で聞いた。これは自分が大阪から帰ってから、もう二度目もしくは三度目の質問であった。
「何だそんな藪から棒に。御前はいったい軽卒でいけないよ」
怒りやすいお重は黙って自分の顔を見ていた。自分は胡坐をかきながら、三沢へやる端書を書いていたが、この様子を見て、ちょっと筆を留めた。
「お重また怒ったな。――佐野さんはね、この間云った通り金縁眼鏡をかけたお凸額さんだよ。それで好いじゃないか。何遍聞いたって同じ事だ」
「お凸額や眼鏡は写真で充分だわ。何も兄さんから聞かないだって妾知っててよ。眼があるじゃありませんか」
彼女はまだ打ち解けそうな口の利き方をしなかった。自分は静かに端書と筆を机の上へ置いた。
「全体何を聞こうと云うのだい」
「全体あなたは何を研究していらしったんです。佐野さんについて」
お重という女は議論でもやり出すとまるで自分を同輩のように見る、癖だか、親しみだか、猛烈な気性だか、稚気だかがあった。
「佐野さんについてって……」と自分は聞いた。
「佐野さんの人となりについてです」
自分は固よりお重を馬鹿にしていたが、こういう真面目な質問になると、腹の中でどっしりした何物も貯えていなかった。自分はすまして巻煙草を吹かし出した。お重は口惜しそうな顔をした。
「だって余まりじゃありませんか、お貞さんがあんなに心配しているのに」
「だって岡田がたしかだって保証するんだから、好いじゃないか」
「兄さんは岡田さんをどのくらい信用していらっしゃるんです。岡田さんはたかが将棋の駒じゃありませんか」
「顔は将棋の駒だって何だって……」
「顔じゃありません。心が浮いてるんです」
自分は面倒と癇癪でお重を相手にするのが厭になった。
「お重御前そんなにお貞さんの事を心配するより、自分が早く嫁にでも行く工夫をした方がよっぽど利口だよ。お父さんやお母さんは、お前が片づいてくれる方をお貞さんの結婚よりどのくらい助かると思っているか解りゃしない。お貞さんの事なんかどうでもいいから、早く自分の身体の落ちつくようにして、少し親孝行でも心がけるが好い」
お重ははたして泣き出した。自分はお重と喧嘩をするたびに向うが泣いてくれないと手応がないようで、何だか物足らなかった。自分は平気で莨を吹かした。
「じゃ兄さんも早くお嫁を貰って独立したら好いでしょう。その方が妾が結婚するよりいくら親孝行になるか知れやしない。厭に嫂さんの肩ばかり持って……」
「お前は嫂さんに抵抗し過ぎるよ」
「当前ですわ。大兄さんの妹ですもの」
九
自分は三沢へ端書を書いた後で、風呂から出立の頬に髪剃をあてようと思っていた。お重を相手にぐずぐずいうのが面倒になったのを好い幸いに、「お重気の毒だが風呂場から熱い湯をうがい茶碗にいっぱい持って来てくれないか」と頼んだ。お重は嗽茶碗どころの騒ぎではないらしかった。それよりまだ十倍も厳粛な人生問題を考えているもののごとく澄まして膨れていた。自分はお重に構わず、手を鳴らして下女から必要な湯を貰った。それから机の上へ旅行用の鏡を立てて、象牙の柄のついた髪剃を並べて、熱湯で濡らした頬をわざと滑稽に膨らませた。
自分が物新しそうにシェーヴィング・ブラッシを振り廻して、石鹸の泡で顔中を真白にしていると、先刻から傍に坐ってこの様子を見ていたお重は、ワッと云う悲劇的な声をふり上げて泣き出した。自分はお重の性質として、早晩ここに来るだろうと思って、暗にこの悲鳴を予期していたのである。そこでますます頬ぺたに空気をいっぱい入れて、白い石鹸をすうすうと髪剃の刃で心持よさそうに落し始めた。お重はそれを見て業腹だか何だかますます騒々しい声を立てた。しまいに「兄さん」と鋭どく自分を呼んだ。自分はお重を馬鹿にしていたには違ないが、この鋭い声には少し驚かされた。
「何だ」
「何だって、そんなに人を馬鹿にするんです。これでも私はあなたの妹です。嫂さんはいくらあなたが贔屓にしたって、もともと他人じゃありませんか」
自分は髪剃を下へ置いて、石鹸だらけの頬をお重の方に向けた。
「お重お前は逆せているよ。お前がおれの妹で、嫂さんが他家から嫁に来た女だぐらいは、お前に教わらないでも知ってるさ」
「だから私に早く嫁に行けなんて余計な事を云わないで、あなたこそ早くあなたの好きな嫂さんみたような方をお貰いなすったら好いじゃありませんか」
自分は平手でお重の頭を一つ張りつけてやりたかった。けれども家中騒ぎ廻られるのが怖いんで、容易に手は出せなかった。
「じゃお前も早く兄さんみたような学者を探して嫁に行ったら好かろう」
お重はこの言葉を聞くや否や、急に掴みかかりかねまじき凄じい勢いを示した。そうして涙の途切れ目途切れ目に、彼女の結婚がお貞さんより後れたので、それでこんなに愚弄されるのだと言明した末、自分を兄妹に同情のない野蛮人だと評した。自分も固より彼女の相手になり得るほどの悪口家であった。けれども最後にとうとう根気負がして黙ってしまった。それでも彼女は自分の傍を去らなかった。そうして事実は無論の事、事実が生んだ飛んでもない想像まで縦横に喋舌り廻してやまなかった。その中で彼女の最も得意とする主題は、何でもかでも自分と嫂とを結びつけて当て擦るという悪い意地であった。自分はそれが何より厭であった。自分はその時心の中で、どんなお多福でも構わないから、お重より早く結婚して、この夫婦関係がどうだの、男女の愛がどうだのと囀る女を、たった一人後に取り残してやりたい気がした。それからその方がまた実際母の心配する通り、兄夫婦にも都合が好かろうと真面目に考えても見た。
自分は今でも雨に叩かれたようなお重の仏頂面を覚えている。お重はまた石鹸を溶いた金盥の中に顔を突込んだとしか思われない自分の異な顔を、どうしても忘れ得ないそうである。
十
お重は明らかに嫂を嫌っていた。これは学究的に孤独な兄に同情が強いためと誰にも肯ずかれた。
「御母さんでもいなくなったらどうなさるでしょう。本当に御気の毒ね」
すべてを隠す事を知らない彼女はかつて自分にこう云った。これは固より頬ぺたを真白にして自分が彼女と喧嘩をしない遠い前の事であった。自分はその時彼女を相手にしなかった。ただ「兄さん見たいに訳の解った人が、家庭間の関係で、御前などに心配して貰う必要が出て来るものか、黙って見ていらっしゃい。御父さんも御母さんもついていらっしゃるんだから」と訓戒でも与えるように云って聞かせた。
自分はその時分からお重と嫂とは火と水のような個性の差異から、とうてい円熟に同棲する事は困難だろうとすでに観察していた。
「御母さんお重も早く片づけてしまわないといけませんね」と自分は母に忠告がましい差出口を利いた事さえあった。その折母はなぜとも何とも聞き返さなかったが、さも自分の意味を呑み込んだらしい眼つきをして、「お前が云ってくれないでも、御父さんだって妾だって心配し抜いているところだよ。お重ばかりじゃないやね。御前のお嫁だって、蔭じゃどのくらいみんなに手数をかけて探して貰ってるか分りゃしない。けれどもこればかりは縁だからね……」と云って自分の顔をしけじけと見た。自分は母の意味も何も解らずに、ただ「はあ」と子供らしく引き下がった。
お重は何でも直むきになる代りに裏表のない正直な美質を持っていたので、母よりはむしろ父に愛されていた。兄には無論可愛がられていた。お貞さんの結婚談が出た時にも「まずお重から片づけるのが順だろう」と云うのが父の意見であった。兄も多少はそれに同意であった。けれどもせっかく名ざしで申し込まれたお貞さんのために、沢山ない機会を逃すのはつまり両損になるという母の意見が実際上にもっともなので、理に明るい兄はすぐ折れてしまった。兄の見地に多少譲歩している父も無事に納得した。
けれども黙っていたお重には、それがはなはだしい不愉快を与えたらしかった。しかし彼女が今度の結婚問題について万事快くお貞さんの相談に乗るのを見ても、彼女が機先を制せられたお貞さんに悪感情を抱いていないのはたしかな事実であった。
彼女はただ嫂の傍にいるのが厭らしく見えた。いくら父母のいる家であっても、いくら思い通りの子供らしさを精一杯に振り舞わす事ができても、この冷かな嫂からふんという顔つきで眺められるのが何より辛かったらしい。
こういう気分に神経を焦つかせている時、彼女はふと女の雑誌か何かを借りるために嫂の室へ這入った。そうしてそこで嫂がお貞さんのために縫っていた嫁入仕度の着物を見た。
「お重さんこれお貞さんのよ。好いでしょう。あなたも早く佐野さんみたような方の所へいらっしゃいよ」と嫂は縫っていた着物を裏表引繰返して見せた。その態度がお重には見せびらかしの面当のように聞えた。早く嫁に行く先をきめて、こんなものでも縫う覚悟でもしろという謎にも取れた。いつまで小姑の地位を利用して人を苛虐めるんだという諷刺とも解釈された。最後に佐野さんのような人の所へ嫁に行けと云われたのがもっとも神経に障った。
彼女は泣きながら父の室に訴えに行った。父は面倒だと思ったのだろう、嫂には一言も聞糺さずに、翌日お重を連れて三越へ出かけた。
十一
それから二三日して、父の所へ二人ほど客が来た。父は生来交際好の上に、職業上の必要から、だいぶ手広く諸方へ出入していた。公の務を退いた今日でもその惰性だか影響だかで、知合間の往来は絶える間もなかった。もっとも始終顔を出す人に、それほど有名な人も勢力家も見えなかった。その時の客は貴族院の議員が一人と、ある会社の監査役が一人とであった。
父はこの二人と謡の方の仲善と見えて、彼らが来るたびに謡をうたって楽んだ。お重は父の命令で、少しの間鼓の稽古をした覚があるので、そう云う時にはよく客の前へ呼び出されて鼓を打った。自分はその高慢ちきな顔をまだ忘れずにいる。
「お重お前の鼓は好いが、お前の顔はすこぶる不味いね。悪い事は云わないから、嫁に行った当座はけっして鼓を御打ちでないよ。いくら御亭主が謡気狂でもああ澄まされた日にゃ、愛想を尽かされるだけだから」とわざわざ罵しった事がある。すると傍に聞いていたお貞さんが眼を丸くして、「まあひどい事をおっしゃる事、ずいぶんね」と云ったので、自分も少し言い過ぎたかと思った。けれども烈しいお重は平生に似ず全く自分の言葉を気にかけないらしかった。「兄さんあれでも顔の方はまだ上等なのよ。鼓と来たらそれこそ大変なの。妾謡の御客があるほど厭な事はないわ」とわざわざ自分に説明して聞かせた。お重の顔ばかりに注意していた自分は、彼女の鼓がそれほど不味いとはそれまで気がつかなかった。
その日も客が来てから一時間半ほどすると予定の通り謡が始まった。自分はやがてまたお重が呼び出される事と思って、調戯半分茶の間の方に出て行った。お重は一生懸命に会席膳を拭いていた。
「今日はポンポン鳴らさないのか」と自分がことさらに聞くと、お重は妙にとぼけた顔をして、立っている自分を見上げた。
「だって今御膳が出るんですもの。忙しいからって、断ったのよ」
自分は台所や茶の間のごたごたした中で、ふざけ過ぎて母に叱られるのも面白くないと思って、また室へ取って返した。
夕食後ちょっと散歩に出て帰って来ると、まだ自分の室に這入らない先から母に捉まった。
「二郎ちょうど好いところへ帰って来ておくれだ。奥へ行って御父さんの謡を聞いていらっしゃい」
自分は父の謡を聞き慣れているので、一番ぐらい聴くのはさほど厭とも思わなかった。
「何をやるんです」と母に質問した。母は自分とは正反対に謡がまた大嫌いだった。「何だか知らないがね。早くいらっしゃいよ。皆さんが待っていらっしゃるんだから」と云った。
自分は委細承知して奥へ通ろうとした。すると暗い縁側の所にお重がそっと立っていた。自分は思わず「おい……」と大きな声を出しかけた。お重は急に手を振って相図のように自分の口を塞いでしまった。
「なぜそんな暗い所に一人で立っているんだい」と自分は彼女の耳へ口を付けて聞いた。彼女はすぐ「なぜでも」と答えた。しかし自分がその返事に満足しないでやはり元の所に立っているのを見て、「先刻から、何遍も出て来い出て来いって催促するのよ。だから御母さんに断って、少し加減が悪い事にしてあるのよ」
「なぜまた今日に限って、そんなに遠慮するんだい」
「だって妾鼓なんか打つのはもう厭になっちまったんですもの、馬鹿らしくって。それにこれからやるのなんかむずかしくってとてもできないんですもの」
「感心にお前みたような女でも謙遜の道は少々心得ているから偉いね」と云い放ったまま、自分は奥へ通った。
十二
奥には例の客が二人床の前に坐っていた。二人とも品の好い容貌の人で、その薄く禿げかかった頭が後にかかっている探幽の三幅対とよく調和した。
彼らは二人とも袴のまま、羽織を脱ぎ放しにしていた。三人のうちで袴を着けていなかったのは父ばかりであったが、その父でさえ羽織だけは遠慮していた。
自分は見知り合だから正面の客に挨拶かたがた、「どうか拝聴を……」と頭を下げた。客はちょっと恐縮の体を装って、「いやどうも……」と頭を掻く真似をした。父は自分にまたお重の事を尋ねたので、「先刻から少し頭痛がするそうで、御挨拶に出られないのを残念がっていました」と答えた。父は客の方を見ながら、「お重が心持が悪いなんて、まるで鬼の霍乱だな」と云って、今度は自分に、「先刻綱(母の名)の話では腹が痛いように聞いたがそうじゃない頭痛なのかい」と聞き直した。自分はしまったと思ったが「多分両方なんでしょう。胃腸の熱で頭が痛む事もあるようだから。しかし心配するほどの病気じゃないようです。じき癒るでしょう」と答えた。客は蒼蠅いほどお重に同情の言葉を注射した後、「じゃ残念だが始めましょうか」と云い出した。
聴手には、自分より前に兄夫婦が横向になって、行儀よく併んで坐っていたので、自分は鹿爪らしく嫂の次に席を取った。「何をやるんです」と坐りながら聞いたら、この道について何の素養も趣味もない嫂は、「何でも景清だそうです」と答えて、それぎり何とも云わなかった。
客のうちで赭顔の恰腹の好い男が仕手をやる事になって、その隣の貴族院議員が脇、父は主人役で「娘」と「男」を端役だと云う訳か二つ引き受けた。多少謡を聞分ける耳を持っていた自分は、最初からどんな景清ができるかと心配した。兄は何を考えているのか、はなはだ要領を得ない顔をして、凋落しかかった前世紀の肉声を夢のように聞いていた。嫂の鼓膜には肝腎の「松門」さえ人間としてよりもむしろ獣類の吠として不快に響いたらしい。自分はかねてからこの「景清」という謡に興味を持っていた。何だか勇ましいような惨ましいような一種の気分が、盲目の景清の強い言葉遣から、また遥々父を尋ねに日向まで下る娘の態度から、涙に化して自分の眼を輝かせた場合が、一二度あった。
しかしそれは歴乎とした謡手が本気に各自の役を引き受けた場合で、今聞かせられているような胡麻節を辿ってようやく出来上る景清に対してはほとんど同情が起らなかった。
やがて景清の戦物語も済んで一番の謡も滞りなく結末まで来た。自分はその成蹟を何と評して好いか解らないので、少し不安になった。嫂は平生の寡言にも似ず「勇しいものですね」と云った。自分も「そうですね」と答えておいた。すると多分一口も開くまいと思った兄が、急に赭顔の客に向って、「さすがに我も平家なり物語り申してとか、始めてとかいう句がありましたが、あのさすがに我も平家なりという言葉が大変面白うございました」と云った。
兄は元来正直な男で、かつ己れの教育上嘘を吐かないのを、品性の一部分と心得ているくらいの男だから、この批評に疑う余地は少しもなかった。けれども不幸にして彼の批評は謡の上手下手でなくって、文章の巧拙に属する話だから、相手にはほとんど手応がなかった。
こう云う場合に馴れた父は「いやあすこは非常に面白く拝聴した」と客の謡いぶりを一応賞めた後で、「実はあれについて思い出したが、大変興味のある話がある。ちょうどあの文句を世話に崩して、景清を女にしたようなものだから、謡よりはよほど艶である。しかも事実でね」と云い出した。
十三
父は交際家だけあって、こういう妙な話をたくさん頭の中にしまっていた。そうして客でもあると、献酬の間によくそれを臨機応変に運用した。多年父の傍に寝起している自分にもこの女景清の逸話は始めてであった。自分は思わず耳を傾けて父の顔を見た。
「ついこの間の事で、また実際あった事なんだから御話をするが、その発端はずっと古い。古いたって何も源平時代から説き出すんじゃないからそこは御安心だが、何しろ今から二十五六年前、ちょうど私の腰弁時代とでも云いましょうかね……」
父はこういう前置をして皆なを笑わせた後で本題に這入った。それは彼の友達と云うよりもむしろずっと後輩に当る男の艶聞見たようなものであった。もっとも彼は遠慮して名前を云わなかった。自分は家へ出入る人の数々について、たいていは名前も顔も覚えていたが、この逸話をもった男だけはいくら考えてもどんな想像も浮かばなかった。自分は心のうちで父は今表向多分この人と交際しているのではなかろうと疑ぐった。
何しろ事はその人の二十前後に起ったので、その時当人は高等学校へ這入り立てだとか、這入ってから二年目になるとか、父ははなはだ瞹眛な説明をしていたが、それはどっちにしたって、我々の気にかかるところではなかった。
「その人は好い人間だ。好い人間にもいろいろあるが、まあ好い人間だ。今でもそうだから、廿歳ぐらいの時分は定めて可愛らしい坊ちゃんだったろう」
父はその男をこう荒っぽく叙述しておいて、その男とその家の召使とがある関係に陥入った因果をごく単簡に物語った。
「元来そいつはね本当の坊ちゃんだから、情事なんて洒落た経験はまるでそれまで知らなかったのだそうだ。当人もまた婦人に慕われるなんて粋事は自分のようなものにとうてい有り得べからざる奇蹟と思っていたのだそうだ。ところがその奇蹟が突然天から降って来たので大変驚ろいたんですね」
話しかけられた客はむしろ真面目な顔をして、「なるほど」と受けていたが、自分はおかしくてたまらなかった。淋しそうな兄の頬にも笑の渦が漂よった。
「しかもそれが男の方が消極的で、女の方が積極的なんだからいよいよ妙ですよ。私がそいつに、その女が君に覚召があると悟ったのはどういう機だと聞いたらね。真面目な顔をして、いろいろ云いましたが、そのうちで一番面白いと思ったせいか、いまだに覚えているのは、そいつが瓦煎餅か何か食ってるところへ女が来て、私にもその御煎餅をちょうだいなと云うや否や、そいつの食い欠いた残りの半分を引っ手繰って口へ入れたという時なんです」
父の話方は無論滑稽を主にして、大事の真面目な方を背景に引き込ましてしまうので、聞いている客を始め我々三人もただ笑うだけ笑えばそれで後には何も残らないような気がした。その上客は笑う術をどこかで練修して来たように旨く笑った。一座のうちで比較的真面目だったのはただ兄一人であった。
「とにかくその結果はどうなりました。めでたく結婚したんですか」と冗談とも思われない調子で聞いていた。
「いやそこをこれから話そうというのだ。先刻も云った通り『景清』の趣の出てくるところはこれからさ。今言ってるところはほんの冒頭だて」と父は得意らしく答えた。
十四