24話 行人(24)
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自分は旅行に出る前のHさんに一応会っておく必要を感じた。こっちで頼んだ事を順に運んでくれた好意に対して、礼を云わなければすまない義理も控えていた。
自分は事務所の帰りがけにまた彼の玄関に立って名刺を出した。取次が奥へ這入ったかと思うと、彼は例のむくむくした丸い体躯を、自分の前に運んで来た。
「実は今あしたの講義で苦しんでいるところなんですがね。もし急用でなければ、今日は御免を蒙りたい」
学者の生活に気のつかなかった自分は、Hさんのこの言葉で、急に兄の日常を想い起した。彼らの書斎に立籠るのは、必ずしも家庭や社会に対する謀反とも限らなかった。自分はHさんに都合の好い日を聞いて、また出直す事にした。
「じゃ御気の毒だが、そうして下さい。なるべく早く講義を切り上げて、兄さんといっしょに旅行しようと云う訳なんだからね」
自分はHさんの前に丁寧な頭を下げなければならなかった。
彼の家を再度訪問れたのは、それからまた二三日経った梅雨晴の夕方であった。肥った彼は暑いと云って浴衣の胸を胃の上部まで開け放って坐っていた。
「さあどこへ行くかね。まだ海とも山ともきめていないんだが」
Hさんだけあって行く先などはとんと苦にしていないらしかった。自分もそれには無頓着であった。けれども……。
「少しそれについて御願があるんですが」
家庭の事情の一般は、この間三沢と来た時、すでにHさんの耳に入れてしまった。しかし兄と自分との間に横たわる一種特別な関係については、まだ一言も彼に告げていなかった。しかしそれはいつまで経ってもHさんの前で自分から打ち明るべき性質のものでないと自分は考えていた。親しい三沢の知識ですら、そこになるとほとんど臆測に過ぎなかった。Hさんは三沢からその臆測の知識を間接に受けているかも知れなかったけれども、こっちから露骨に切り出さない以上、その信偽も程度も、まるで確める訳に行かなかった。
自分は兄から今どう見られているか、どう思われているか、それが知りたくって仕方がなかった。それを知るために、この際Hさんの助を借りようとすれば、勢い万事を彼の前に投げ出して見せなければならなかった。自分が三沢に何事も云わずに、あたかも彼を出し抜いたような態度で、たった一人こうしてHさんを訪問するのも、実はその用事の真相をなるべく他に知らせたくないからであった。しかし三沢に対してさえ、良心に気兼をするような用事の真相なら、それをHさんの前で云われるはずがなかった。
自分はやむをえず特殊な問題を一般的に崩してしまった。
「はなはだ御迷惑かも知れませんが、兄といっしょに旅行される間、兄の挙動なり言語なり、思想なり感情なりについて、あなたの御観察になったところを、できるだけ詳しく書いて報知していただく訳には行きますまいか。その辺が明瞭になると、宅でも兄の取扱上大変便宜を得るだろうと思うんですが」
「そうさね。絶対にできない事もないが、ちっとむずかしそうですね。だいち時間がないじゃないか、君、そんな事をする。よし時間があっても、必要がないだろう。それより僕らが旅行から帰ったらゆっくり聞きに来たら好いじゃありませんか」
二十三
Hさんの云うところはもっともであった。自分は下を向いてしばらく黙っていたが、とうとう嘘を吐いた。
「実は父や母が心配して、できるなら旅行中の模様を、経過の一段落ごとに承知したいと云うんですが……」
自分は困った顔をした。Hさんは笑い出した。
「君そんなに心配する事はありませんよ。大丈夫だよ、僕が受け合うよ」
「しかし年寄ですから……」
「困るね、それじゃ。だから年寄は嫌いなんだ。宅へ行ってそう云いたまえな、大丈夫だって」
「何とか好い工夫はないもんでしょうか。あなたの御迷惑にならないで、そうして、父や母を満足させるような」
Hさんはまたにやにや笑っていた。
「そんな重宝な工夫があるものかね、君。――しかしせっかくの御依頼だからこうしよう。もし旅先で報道するに足るような事が起ったら、君の所へ手紙を上げると。もし手紙が行かなかったら、平生の通りだと思って安心していると。それでよかろう」
自分はこれより以上Hさんに望む事はできなかった。
「それで結構です。しかし出来事という意味を俗にいう不慮の出来事と取らずに、あなたが御観察になる兄の感情なり思想のうちで、これは尋常でないと御気づきになったものに応用していただけましょうか」
「なかなか面倒だね、事が。しかしまあいいや、そうしてもいい」
「それからことによると、僕の事だの母の事だの、家庭の事などが兄の口に上るかも知れませんが、それを御遠慮なく一々聞かしていただきたいと思いますが」
「うん、そりゃ差支えない限り知らせて上げましょう」
「差支えがあっても構わないから聞かしていただきたい。それでないと宅のものが困りますから」
Hさんは黙って煙草を吹かし出した。自分は弱輩の癖に多少云い過ぎた事に気がついた。手持無沙汰の感じが強く頭に上った。Hさんは庭の方を見ていた。その隅に秋田から家主が持って来て植えたという大きな蕗が五六本あった。雨上りの初夏の空がいつまでも明るい光を地の上に投げているので、その太い蕗の茎がすいすいと薄暗い中に青く描かれていた。
「あすこへ大きな蟇が出るんですよ」とHさんが云った。
しばらく世間話をした後で、自分は暗くならないうちに席を立とうとした。
「君の縁談はどうなりました。この間三沢が来て、好いのを見つけてやったって得意になっていましたよ」
「ええ三沢もずいぶん世話好ですから」
「ところが万更世話好ばかりでやってるんでもないようですよ。だから君も好い加減に貰っちまったら好いじゃありませんか。器量は悪かないって話じゃないか。君には気に入らんのかね」
「気に入らんのじゃありません」
Hさんは「はあやっぱり気に入ったのかい」と云って笑い出した。自分はHさんの門を出て、あの事も早くどうかしなければ、三沢に対して義理が悪いと考えた。しかし兄の問題が一段落でも片づいてくれない以上、とうていそっちへ向ける心の余裕は出なかった。いっそ一思いにあの女の方から惚れ込んでくれたならなどと思っても見た。
二十四
自分はまた三沢を尋ねた。けれども腹をきめてから尋ねた訳でないから、実際上どんな歩調も前に動かす気にはなれなかった。自分の態度はどこまでもぐずぐずであった。そうしてただ漫然とその女の話をした。
「どうするね」
こう聞かれると、結局要領を得た何の挨拶もできなかった。
「僕は職業の上ではふわふわして浪人のように暮しているが、家庭の人としてなら、これでも一定の方針に支配されて、着々固まって行きつつあるつもりだ。ところが君はまるで反対だね。一家の主人となるとか、他の夫になるとかいう方面には、故意に意志の働きを鈍らせる癖に、職業の問題になると、手っ取早く片づけて、ちゃんと落ちついているんだから」
「あんまり落ちついてもいないさ」
自分は大阪の岡田から受取った手紙の中に、相応な位地があちらにあるから来ないかという勧誘があったので、ことによったら今の事務所を飛び出そうかと考えていた。
「ついこの間までは洋行するってしきりに騒いでいたじゃないか」
三沢は自分の矛盾を追窮した。自分には西洋も大阪も変化としてこの際大した相違もなかった。
「そう万事的にならなくっちゃ駄目だ。僕だけ君の結婚問題を真面目に考えるのは馬鹿馬鹿しい訳だ。断っちまおう」
三沢はだいぶ癪に障ったらしく見えた。自分はまた自分が癪に障ってならなかった。
「いったい先方ではどういうんだ。君は僕ばかり責めるがね、僕には向うの意志が少しも解らないじゃないか」
「解るはずがないよ。まだ何にも話してないんだもの」
三沢は少し激していた。そうして激するのがもっともであった。彼は女の父兄にも女自身にも、自分の事をまだ一口も告げていなかった。どう間違っても彼らの体面に障りようのない事情の下に、女と自分を御互の視線の通う範囲内に置いただけであった。彼の処置には少しも人工的な痕迹を留めない、ほとんど自然そのままの利用に過ぎないというのが彼の大いなる誇りであった。
「君の考えが纏まらない以上はどうする事もできないよ」
「じゃもう少し考えて見よう」
三沢は焦慮たそうであった。自分も自分が不愉快であった。
Hさんと兄がいっしょの汽車で東京を去ったのは、自分が三沢の所へ出かけてから、一週間と経たないうちであった。自分は彼らの立つ時刻も日限も知らずにいた。三沢からもHさんからも何の通知を受取らなかった自分は、家からの電話で始めてそれを聞いた。その時電話口へは思いがけなく嫂が出て来た。
「兄さんは今朝お立ちよ。お父さんがあなたへ知らせておけとおっしゃるから、ちょっと御呼び申しました」
嫂の言葉は少し改まっていた。
「Hさんといっしょなんでしょうね」
「ええ」
「どこへ行ったんですか」
「何でも伊豆の海岸を廻るとかいう御話しでした」
「じゃ船ですか」
「いいえやっぱり新橋から……」
二十五
その日自分は下宿へ帰らずに、事務所からすぐ番町へ廻った。昨日まで恐れて近寄らなかったのに、兄の出立と聞くや否や、すぐそちらへ足を向けるのだから、自分の行為はあまりに現金過ぎた。けれども自分はそれを隠す気もなかった。隠さなければすまない人は、宅に一人もいないように思われた。
茶の間には嫂が雑誌の口絵を見ていた。
「今朝ほどは失礼」
「おや吃驚したわ、誰かと思ったら、二郎さん。今京橋から御帰り?」
「ええ、暑くなりましたね」
自分は手帛を出して顔を拭いた。それから上着を脱いで畳の上へ放り出した。嫂は団扇を取ってくれた。
「御父さんは?」
「御父さんは御留守よ。今日は築地で何かあるんですって」
「精養軒?」
「じゃないでしょう。多分ほかの御茶屋だと思うんだけれども」
「お母さんは?」
「お母さんは今御風呂」
「お重は?」
「お重さんも……」
嫂はとうとう笑いかけた。
「風呂ですか」
「いいえ、いないの」
下女が来て氷の中へ莓を入れるかレモンを入れるかと尋ねた。
「宅じゃもう氷を取るんですか」
「ええ二三日前から冷蔵庫を使っているのよ」
気のせいか嫂はこの前見た時よりも少し窶れていた。頬の肉が心持減ったらしかった。それが夕方の光線の具合で、顔を動かす時に、ちらりちらりと自分の眼を掠めた。彼女は左の頬を縁側に向けて坐っていたのである。
「兄さんはそれでもよく思い切って旅に出かけましたね。僕はことによると今度もまた延ばすかも知れないと思ってたんだが」
「延ばしゃなさらないわよ」
嫂はこういう時に下を向いた。そうしていつもよりも一層落ちついた沈んだ低い声を出した。
「そりゃ兄さんは義理堅いから、Hさんと約束した以上、それを実行するつもりだったには違ないけれども……」
「そんな意味じゃないのよ。そんな意味じゃなくって、そうして延ばさないのよ」
自分はぽかんとして彼女の顔を見た。
「じゃどんな意味で延ばさないんです」
「どんな意味って、――解ってるじゃありませんか」
自分には解らなかった。
「僕には解らない」
「兄さんは妾に愛想を尽かしているのよ」
「愛想づかしに旅行したというんですか」
「いいえ、愛想を尽かしてしまったから、それで旅行に出かけたというのよ。つまり妾を妻と思っていらっしゃらないのよ」
「だから……」
「だから妾の事なんかどうでも構わないのよ。だから旅に出かけたのよ」
嫂はこれで黙ってしまった。自分も何とも云わなかった。そこへ母が風呂から上って来た。
「おやいつ来たの」
母は二人坐っているところを見て厭な顔をした。
二十六
「もう好い加減に芳江を起さないとまた晩に寝ないで困るよ」
嫂は黙って起った。
「起きたらすぐ湯に入れておやんなさいよ」
「ええ」
彼女の後姿は廊下を曲って消えた。
「芳江は昼寝ですか、どうれで静だと思った」
「先刻何だか拗ねて泣いてたら、それっきり寝ちまったんだよ。何ぼなんでも、もう五時だから、好い加減に起してやらなくっちゃ……」
母は不平らしい顔をしていた。
自分はその日珍しく宅の食卓に向って、晩餐の箸を取った。築地の料理屋か待合へ呼ばれたという父は、無論帰らなかったけれども、お重は予定通り戻って来た。
「おい早く来て坐らないか。みんな御前の湯から上るのを待ってたんだ」
お重は縁側へぺたりと尻を着けて団扇で浴衣の胸へ風を入れていた。
「そんなに急き立てなくったってよかないの。たまに来たお客さまの癖に」
お重はつんとしてわざと鼻の先の八つ手の方を向いていた。母はまた始まったという笑の裡に自分を見た。自分はまた調戯たくなった。
「御客さまだと思うなら、そんな大きなお尻を向けないで、早くここへ来てお坐りよ」
「蒼蠅いわよ」
「いったいこの暑いのに、一人でどこをほっつき歩いてたんだい」
「どこでも余計な御世話よ。ほっつき歩くだなんて、第一言葉使からしてあなたは下品よ。――好いわ、今日坂田さんの所へ行って、兄さんの秘密をすっかり聞いて来たから」
お重は兄の事を大兄さん、自分の事をただ兄さんと呼んでいた。始めはちい兄さんと云ったのだが、そのちいを聞くたびに妙な不快を感ずるので、自分はとうとうちいだけを取らしてしまった。
「好くってみんなに話しても」
お重は湯で火照った顔をぐるりと自分の方に向けた。自分は瞬きを二つ続けざまにした。
「だって御前は今兄さんの秘密だと明言したじゃないか」
「ええ秘密よ」
「秘密なら話してよくないにきまってるじゃないか」
「それを話すから面白いのよ」
自分はお重の無鉄砲が、何を云い出すか分らないと思って腹の中では辟易した。
「お重御前は論理学でいうコントラジクション・イン・タームス、という事を知らないだろう」
「よくってよ。そんな高慢ちきな英語なんか使って、他が知らないと思って」
「もう二人とも止しにおしよ。何だね面白くもない、十五六の子供じゃあるまいし」
母はとうとう二人を窘なめた。自分もそれを好い機にすぐ舌戦を切り上げた。お重も団扇を縁側へ投げ出しておとなしく食卓に着いた。
局面が一転した後なので、秘密らしい秘密は、食事中ついにお重の口から洩れる機会がなかった。母も嫂もまるでそれには取り合う気色も見せなかった。平吉という男が裏から出て来て、庭に水を打った。「まだそう燥いていないんだから、好い加減にしておおき」と母が云っていた。
二十七
その晩番町を出たのは灯火が点いてまだ間もない宵の口であった。それでも飯を済ましてから約一時間半ほどは、そこへ坐り込んだまま、みんなを相手に喋舌っていた。
自分はその一時間半の間に、とうとうお重から例の秘密をあばかれる羽目に陥った。しかしそれが自分に取っては、秘密でも何でもない例の結婚問題だったので、自分はかえって安心した。
「御母さん、兄さんは妾達に隠れてこの間見合をなすったんですって」
「隠れて見合なんかするものか」
自分は母がまだ何とも云わないうちにお重の言葉を遮った。
「いいえたしかな筋からちゃんと聞いて来たんだから、いくら白ばっくれてももう駄目よ」
たしかな筋というような一種の言葉が、お重の口から出るのを聞いたとき、自分は思わず苦笑した。
「馬鹿だなお前は」
「馬鹿でもいいわよ」
お重は六月二日の出来事を母や嫂に向ってべらべら喋舌り出した。それがなかなか精しいので自分は少し驚いた。どこからその知識を得て来たのだろうという好奇心が強く自分の反問を促した。けれどもお重はただ意地の悪い微笑を洩らすのみで、けっして出所を告げなかった。
「兄さんが妾達に黙っているのは、きっと打ち明けて云い悪い訳があるからなのよ。ね、そうでしょう、兄さん」
お重は自分の好奇心を満足させないのみか、かえって向うからこっちを嬲りにかかった。自分は「どうでも好いや」と云った。母から真面目に事の顛末を聞かれた時、自分は簡単にありのままを答えた。
「ただそれだけの事なんです。しかも向じゃ全く知らないんだからそのつもりでいて下さい。お重見たいに好い加減な事を云い触らすと、僕はどうでも構わんにしたところで、先方が迷惑するかも知れませんから」
母は先方が迷惑がるはずがないという顔つきで、むやみに細かい質問を始めた。しかし財産がどのくらいあるんだろうとか、親類に貧乏人があるだろうかとか、あるいは悪い病気の系統を引いていやしなかろうかと云うような事になると、自分にはまるで答えられなかった。のみならずしまいには聞くのさえ面倒で厭になって来た。自分はとうとう逃げ出すようにして番町を出た。
自分がその夜母からいろいろな質問を掛けられている間、嫂は始終同じ席にいたが、この問題に関してはほとんど一言も口を開かなかった。母も彼女に向ってついぞ相談がましい言葉をかけなかった。二人のこの態度が、二人の気質をよく代表していた。しかしそれは単に気質の相違からばかり来た一種の対照とも思えなかった。嫂は全くの局外者らしい位地を守るためか何だか、始終芳江のおもりに気を取られ勝に見えた。日が暮れさえすればすぐ寝かされる習慣の芳江は、昼寝を貪り過ぎた結果として、その晩はとうとう自分が帰るまで蚊帳の中へ這入らなかった。
自分は下宿へ帰って、自分の室の暑苦しいのを意外に感じた。わざと電気灯を消して暗い所に黙って坐っていた。今朝立った兄は今日どこで泊るだろう。Hさんは今夜彼とどんな話をするだろう。鷹揚なHさんの顔が自然と眼の前に浮かんだ。それと共に瘠せた兄の頬に刻まれた久しぶりの笑が見えた。
二十八
その翌日からHさんの手紙が心待に待ち受けられた。自分は一日、二日、三日と指を折って日取を勘定し始めた。けれどもHさんからは何の音信もなかった。絵端書一枚さえ来なかった。自分は失望した。Hさんに責任を忘れるような軽薄はなかった。しかしこちらの予期通り律義にそれを果してくれないほどの大悠はあった。自分は自烈たい部に属する人間の一人として遠くから彼を眺めた。
すると二人が立ってからちょうど十一日目の晩に、重い封書が始めて自分の手に落ちた。Hさんは罫の細かい西洋紙へ、万年筆で一面に何か書いて来た。頁の数から云っても、二時間や三時間でできる仕事ではなかった。自分は机の前に縛りつけられた人形のような姿勢で、それを読み始めた。自分の眼には、この小さな黒い字の一点一劃も読み落すまいという決心が、焔のごとく輝いた。自分の心は頁の上に釘づけにされた。しかも雪を行く橇のように、その上を滑って行った。要するに自分はHさんの手紙の最初の頁の第一行から読み始めて、最後の頁の最終の文句に至るまでに、どのくらいの時間が要ったかまるで知らなかった。
手紙は下のように書いてあった。
「長野君を誘って旅へ出るとき、あなたから頼まれた事を、いったん引き受けるには引き受けたが、いざとなって見ると、とても実行はできまい、またできてもする必要があるまい、もしくは必要と不必要にかかわらず、するのは好もしい事でなかろう、――こういう考えでいました。旅行を始めてから一日二日は、この三つの事情のすべてかあるいは幾分かが常に働くので、これではせっかくの約束も反古にしなければならないという気が強く募りました。それが三日四日となった時、少し考えさせられました。五日六日と日を重ねるに従って、考えるばかりでなく、約束通りあなたに手紙を上げるのが、あるいは必要かも知れないと思うようになりました。もっともここにいう必要という意味が、あなたと私とで、だいぶ違うかも知れませんが、それはこの手紙をしまいまで御読みになれば解る事ですから、説明はしません。それから当初私の抱いた好もしくないという倫理上の感じ、これはいくら日数を経過しても取去る訳には行きませんが、片方にある必要の度が、自然それを抑えつけるほど強くなって来た事もまた確であります。おそらく手紙を書いている暇があるまい。――この故障だけは始めあなたに申上げた通りどこまでもつけ纏って離れませんでした。我々二人はいっしょの室に寝ます、いっしょの室で飯を食います、散歩に出る時もいっしょです、湯も風呂場の構造が許す限りは、いっしょに這入ります。こう数え立てて見ると、別々に行動するのは、まあ厠に上る時ぐらいなものなのですから。
無論我々二人は朝から晩までのべつに喋舌り続けている訳ではありません。御互が勝手な書物を手にしている時もあります、黙って寝転んでいる事もあります。しかし現にその人のいる前で、その人の事を知らん顔で書いて、そうしてそれをそっと他に知らせるのはちょっと私にとってはでき悪いのです。書くべき必要を認め出した私も、これには弱りました。いくら書く機会を見つけよう見つけようと思っても、そんな機会の出て来るはずがないのですから。しかし偶然はついに私の手を導いて、私に私の必要と認める仕事をさせるようにしてくれました。私はそれほど兄さんに気兼をせずに、この手紙を書き初めました。そうして同じ状態の下に、それを書き終る事を希望します。
二十九