坑夫

10話 坑夫(10)

8,265字 約17分 1999年4月13日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

必ずこの南京米に対(むか)わなくっちゃならない身分となったんで、さすがの壁土も慣(な)れるに連(つ)れて、いわゆる銀米と同じく、人類の食い得べきもの、否食ってしかるべき滋味と心得るようになってからは、剥膳(はげぜん)に向って逡巡(しりごみ)した当時がかえって恥ずかしい気持になった。坑夫共の冷かしたのも万更(まんざら)無理ではない。今となると、こんな無経験な貴族的の坑夫が一杯の南京米を苦に病(や)むところに廻(めぐ)り合わせて、現状を目撃したら、ことに因(よ)ると、自分でさえ、笑うかも知れない。冷かさないまでも、善意に笑うだけの価値(ねうち)は十分あると思う。人はいろいろに変化するもんだ。

 南京米の事ばかり書いて済まないから、もうやめにするが、この時自分の失敗(しくじり)に対する冷評は、自然のままにして抛(ほう)って置いたなら、どこまで続いたか分らない。ところへ急に金盥(かなだらい)を叩(たた)き合せるような音がした。一度ではない。二度三度と聞いているうちに、じゃじゃん、じゃららんと時を句切(くぎ)って、拍子(ひょうし)を取りながら叩き立てて来る。すると今度は木唄(きやり)の声が聞え出した。純粋の木唄では無論ないが、自分の知ってる限りでは、まあ木唄と云うのが一番近いように思われる。この時冷評は一時にやんだ。ひっそりと静まり返る山の空気に、じゃじゃん、じゃららんが鳴り渡る間を、一種異様に唄(うた)い囃(はや)して何物か近づいて来た。

「ジャンボーだ」

と一人が膝頭(ひざがしら)を打たないばかりに、大きな声を出すと、

「ジャンボーだ。ジャンボーだ」

と大勢口々に云いながら、黒い塊(かたまり)がばらばらになって、窓の方へ立って行った。自分は何がジャンボーなんだか分らないが、みんなの注意が、自分を離れると同時に、気分が急に暢達(のんびり)したせいか、自分もジャンボーを見たいと云う余裕ができて、余裕につれて元気も出来た。つくづく考えるに、人間の心は水のようなもので、押されると引き、引くと押して行く。始終手を出さない相撲(すもう)をとって暮らしていると云っても差支(さしつかえ)なかろう。それで、みんなが立ち尽したあとから、自分も立った。そうしてやっぱり窓の方へ歩いて行った。黒い頭で下は塞(ふさ)がっている上から背伸(せえのび)をして見下(みおろ)すと、斜(はす)に曲ってる向(むこう)の石垣の角から、紺(こん)の筒袖(つつそで)を着た男が二人(ふたあり)出た。あとからまた二人出た。これはいずれも金盥を圧(お)しつぶして薄(うす)っ片(ぺら)にしたようなものを両手に一枚ずつ持っている。ははあ、あれを叩くんだと思う拍子に、二人は両手をじゃじゃんと打ち合わした。その不調和な音が切っ立った石垣に突き当って、後(うしろ)の禿山(はげやま)に響いて、まだやまないうちに、じゃららんとまた一組が後(あと)から鳴らし立てて現れた。たと思うとまた現れる。今度は金盥を持っていない。その代り木唄――さっきは木唄と云った。しかしこの時、彼らの揚げた声は、木唄と云わんよりはむしろ浪花節(なにわぶし)で咄喊(とっかん)するような稀代(きたい)な調子であった。

「おい金公(きんこう)はいねえか」

と、黒い頭の一つが怒鳴(どな)った。後向(うしろむき)だから顔は見えない。すると、

「うん金公に見せてやれ」

とすぐ応じた者がある。この言葉が終るか、終らない間(ま)に、五つ六つの黒い頭がずらりとこっちを向いた。自分はまた何か云われる事と覚悟して仕方なしに、今までの態度で立っていると、不思議にも振り返った眼は自分の方に着いていない。広い部屋の片隅に遠く走った様子だから、何物がいる事かと、自分も後を追っ懸(か)けて、首を捻(ね)じ向けると、――寝ている。薄い布団(ふとん)をかけて一人寝ている。

「おい金州(きんしゅう)」

と一人が大きな声を出したが、寝ているものは返事をしない。

「おい金しゅう起きろやい」

と怒鳴(どなり)つけるように呼んだが、まだ何とも返事がないので、三人ばかり窓を離れてとうとう迎(むかえ)に出掛けた。被(かぶ)ってる布団(ふとん)を手荒にめくると、細帯をした人間が見えた。同時に、

「起きろってば、起きろやい。好いものを見せてやるから」

と云う声も聞えた。やがて横になってた男が、二人の肩に支えられて立ち上った。そうしてこっちを向いた。その時、その刹那(せつな)、その顔を一目見たばかりで自分は思わず慄(ぞっ)とした。これはただ保養に寝ていた人ではない。全くの病人である。しかも自分だけで起居(たちい)のできないような重体の病人である。年は五十に近い。髯(ひげ)は幾日も剃(そ)らないと見えてぼうぼうと延びたままである。いかな獰猛(どうもう)も、こう憔悴(やつれ)ると憐(あわ)れになる。憐れになり過ぎて、逆にまた怖(こわ)くなる。自分がこの顔を一目見た時の感じは憐れの極(きょく)全く怖(こわ)かった。

 病人は二人に支えられながら、釣られるように、利(き)かない足を運ばして、窓の方へ近寄ってくる。この有様を見ていた、窓際の多人数(たにんず)は、さも面白そうに囃(はや)し立てる。

「よう、金(きん)しゅう早く来いよ。今ジャンボーが通るところだ。早く来て見ろよ」

「己(おら)あジャンボーなんか見たかねえよ」

と病人は、無体(むたい)に引き摺(ず)られながら、気のない声で返事をするうちに、見たいも、見たくないもありゃしない。たちまち窓の障子(しょうじ)の角(かど)まで圧(お)しつけられてしまった。

 じゃじゃん、じゃららんとジャンボーは知らん顔で石垣の所へ現れてくる。行列はまだ尽きないのかと、また背延(せいの)びをして見下(みおろ)した時、自分は再び慄とした。金盥(かなだらい)と金盥の間に、四角な早桶(はやおけ)が挟(はさ)まって、山道を宙に釣られて行く。上は白金巾(しろかなきん)で包んで、細い杉丸太を通した両端(りょうたん)を、水でも一荷(いっか)頼まれたように、容赦なく担(かつ)いでいる。その担いでいるものまでも、こっちから見ると、例の唄(うた)を陽気にうたってるように思われる。――自分はこの時始めてジャンボーの意味を理解した。生涯(しょうがい)いかなる事があっても、けっして忘れられないほど痛切に理解した。ジャンボーは葬式である。坑夫、シチュウ、掘子(ほりこ)、山市(やまいち)に限って執行される、また執行されなければならない一種の葬式である。御経の文句を浪花節(なにわぶし)に唄(うた)って、金盥の潰(つぶ)れるほどに音楽を入れて、一荷(いっか)の水と同じように棺桶(かんおけ)をぶらつかせて――最後に、半死半生の病人を、無理矢理に引き摺り起して、否(いや)と云うのを抑えつけるばかりにしてまで見せてやる葬式である。まことに無邪気の極(きょく)で、また冷刻の極である。

「金しゅう、どうだ、見えたか、面白いだろう」

と云ってる。病人は、

「うん、見えたから、床(とこ)ん所まで連れてって、寝かしてくれよ。後生(ごしょう)だから」

と頼んでいる。さっきの二人は再び病人を中へ挟んで、

「よっしょいよっしょい」

と云いながら、刻(きざ)み足に、布団(ふとん)の敷いてある所まで連れて行った。

 この時曇った空が、粉になって落ちて来たかと思われるような雨が降り出した。ジャンボーはこの雨の中を敲(たた)き立てて町の方へ下(くだ)って行く。大勢は

「また雨だ」

と云いながら、窓を立て切って、各々(めいめい)囲炉裏(いろり)の傍(はた)へ帰る。この混雑紛(どさくさまぎれ)に自分もいつの間(ま)にか獰猛(どうもう)の仲間入りをして、火の近所まで寄る事が出来た。これは偶然の結果でもあり、また故意の所作(しょさ)でもあった。と云うものは火の気がなくってははなはだ寒い。袷(あわせ)一枚ではとても凌(しの)ぎ兼ねるほどの山の中だ。それに雨さえ降り出した。雨と云えば雨、霧と云えば霧と云われるくらいな微(かす)かな粒であるが、四方の禿山(はげやま)を罩(こ)め尽した上に、筒抜(つつぬ)けの空を塗り潰(つぶ)して、しとどと落ちて来るんだから、家(うち)の中に坐っていてさえ、糠(ぬか)よりも小さい湿(しめ)り気(け)が、毛穴から腹の底へ沁(し)み込むような心持である。火の気がなくってはとうていやり切れるものじゃない。

 自分が好い加減な所へ席を占めて、いささかながら囲炉裏のほとぼりを顔に受けていると、今度は存外にも度外視されて、思ったよりも調戯(からか)われずに済んだ。これはこっちから進んで獰猛の仲間入りをしたため、向うでも普通の獰猛として取扱うべき奴だと勘弁してくれたのか、それとも先刻(さっき)のジャンボーで不意に気が変った成行(なりゆき)として、自分の事をしばらく忘れてくれたのか、または冷笑(ひやかし)の種が尽きたか、あるいは毒突(どくづ)くのに飽きたんだか、――何しろ自分が席を改めてから、自分の気は比較的楽になった。そうして囲炉裏の傍の話はやっぱりジャンボーで持ち切っていた。いろいろな声がこんな事を云う。――

「あのジャンボーはどこから出たんだろう」

「どこから出たって御(お)ジャンボーだ」

「ことによると黒市組(くろいちぐみ)かも知れねえ。見当(けんとう)がそうだ」

「全体(ぜんてえ)ジャンボーになったらどこへ行くもんだろう」

「御寺よ。きまってらあ」

「馬鹿にするねえ。御寺の先を聞いてるんだあな」

「そうよ、そりゃ寺限(てらぎり)で留(とま)りっこねえ訳だ。どっかへ行くに違(ちげ)えねえ」

「だからよ。その行く先はどんな所(とこ)だろうてえんだ。やっぱしこんな所(ところ)かしら」

「そりゃ、人間の魂の行く所だもの、大抵は似た所に違えねえ」

「己(おれ)もそう思ってる。行くとなりゃ、どうもほかへ行く訳がねえからな」

「いくら地獄だって極楽(ごくらく)だって、やっぱり飯は食うんだろう」

「女もいるだろうか」

「女のいねえ国が世界にあるもんか」

 ざっと、こんな談話だから、聞いているとめちゃめちゃである。それで始めのうちは冗談(じょうだん)だと思った。笑っても差支(さしつかえ)ないものと心得て、口の端(はた)をむずつかせながら、ちょっと様子を見渡したくらいであった。ところが笑いたいのは自分だけで、囲炉裏を取り捲(ま)いている顔はいずれも、彫りつけたように堅くなっている。彼らは真剣の真面目で未来と云う大問題を論じていたんである。実に嘘(うそ)としか受け取れないほどの熱心が、各々の眉(まゆ)の間に見えた。自分はこの時、この有様を一瞥(いちべつ)して、さっきの笑いたかった念慮をたちまちのうちに一変した。こんな向う見ずの無鉄砲な人間が――カンテラを提(さ)げて、シキの中へ下りれば、もう二度と日の目を見ない料簡(りょうけん)でいる人間が――人間の器械で、器械の獣(けだもの)とも云うべきこの獰猛組(どうもうぐみ)が、かほどに未来の事を気にしていようとは、まことに予想外であった。して見ると、世間には、未来の保証をしてくれる宗教というものが入用(いりよう)のはずだ。実際自分が眼を上げて、囲炉裏(いろり)のぐるりに胡坐(あぐら)をかいて並んだ連中を見渡した時には、遠慮に畏縮(いしゅく)が手伝って、七分方(しちぶがた)でき上った笑いを急に崩(くず)したと云う自覚は無論なかった。ただ寄席(よせ)を聞いてるつもりで眼を開けて見たら鼻の先に毘沙門様(びしゃもんさま)が大勢いて、これはと威儀を正さなければならない気持であった。一口に云うと、自分はこの時始めて、真面目な宗教心の種を見て、半獣半人の前にも厳格の念を起したんだろう。その癖自分はいまだに宗教心と云うものを持っていない。

 この時さっきの病人が、向うの隅でううんと唸(うな)り出した。その唸り声には無論特別の意味はない。単に普通の病人の唸り声に過ぎんのだが、ジャンボーの未来に屈託している連中には、一種のあやしい響のように思われたんだろう。みんな眼と眼を見合した。

「金公(きんこう)苦しいのか」

と一人が大きな声で聞いた。病人は、ただ、

「ううん」

と云う。唸ってるのか、返事をしているのか判然しない。するとまた一人の坑夫が、

「そんなに嚊(かかあ)の事ばかり気にするなよ。どうせ取られちまったんだ。今更(いまさら)唸ったってどうなるもんか。質に入れた嚊だ。受出さなけりゃ流れるなあ当り前だ」

と、やっぱり囲炉裏の傍(そば)へ坐ったまま、大きな声で慰(なぐさ)めている。慰めてるんだか、悪口(あくたい)を吐(つ)いているんだか疑わしいくらいである。坑夫から云うと、どっちも同じ事なんだろう。病人はただううんと挨拶(あいさつ)――挨拶にもならない声を微(かす)かに出すばかりであった。そこで大勢は懸合(かけあい)にならない慰藉(いしゃ)をやめて、囲炉裏の周囲(まわり)だけで舌(した)の用を弁じていた。しかし話題はまだ金さんを離れない。

「なあに、病気せえしなけりゃ、金公だって嚊を取られずに済むんだあな。元を云やあ、やっぱり自分が悪いからよ」

と一人が、金さんの病気をさも罪悪のように評するや否や、

「全くだ。自分が病気をして金を借りて、その金が返せねえから、嚊を抵当に取られちまったんだから、正直のところ文句(もんく)の附けようがねえ」

と賛成したものがある。

「若干(いくら)で抵当に入れたんだ」

と聞くと、向側(むこうがわ)から、

「五両だ」

と誰だか、簡潔に教えた。

「それで市(いち)の野郎が長屋へ下がって、金しゅうと入れ代った訳か。ハハハハ」

 自分は囲炉裏の側(そば)に坐ってるのが苦痛であった。背中の方がぞくぞくするほど寒いのに、腋(わき)の下から汗が出る。

「金しゅうも早く癒(なお)って、嚊(かかあ)を受け出したら好かろう」

「また、市(いち)と入れ代りか。世話あねえ」

「それよりか、うんと稼(かせ)いで、もっと価(ね)に踏める抵当でも取った方が、気が利(き)いてらあ」

「違(ちげえ)ねえ」

と一人が云い出すのを相図に、みんなどっと笑った。自分はこの笑の中に包まれながら、どうしても笑い切れずに下を向いてしまった。見ると膝(ひざ)を並べて畏(かしこ)まっていた。馬鹿らしいと気がついて、胡坐(あぐら)に組み直して見た。しかし腹の中はけっして胡坐をかくほど悠長(ゆうちょう)ではなかった。

 その内だんだん日暮に近くなって来る。時間が移るばかりじゃない、天気の具合と、山が囲んでるせいで早く暗くなる。黙って聞いていると、雨垂(あまだれ)の音もしないようだから、ことによると、雨はもう歇(や)んだのかも知れない。しかしこの暗さでは、やっぱり降ってると云う方が当るだろう。窓は固(もとよ)り締め切ってある。戸外(そと)の模様は分りようがない。しかし暗くって湿(しめ)ッぽい空気が障子(しょうじ)の紙を透(こ)して、一面に囲炉裏(いろり)の周囲(まわり)を襲(おそ)って来た。並んでいる十四五人の顔がしだいしだいに漠然(ぼんやり)する。同時に囲炉裏の真中(まんなか)に山のようにくべた炭の色が、ほてり返って、少しずつ赤く浮き出すように思われた。まるで、自分は坑(あな)の底へ滅入込(めいりこ)んで行く、火はこれに反して坑からだんだん競(せ)り上がって来る、――ざっと、そんな気分がした。時にぱっと部屋中が明るくなった。見ると電気灯が点(つ)いた。

「飯でも食うべえ」

と一人が云うと、みんな忘れものを思い出したように、

「飯を食って、また交替か」

「今日は少し寒いぞ」

「雨はまだ降ってるのか」

「どうだか、表へ出て仰向(あおむ)いて見な」

などと、口々に罵(ののし)りながら、立って、階下段(はしごだん)を下りて行った。自分は広い部屋にたった一人残された。自分のほかにいるものは病人の金(きん)さんばかりである。この金さんがやっぱり微(かすか)な声を出して唸(うな)ってるようだ。自分は囲炉裏の前に手を翳(かざ)して胡坐を組みながら、横を向いて、金さんの方を見た。頭は出ていない。足も引っ込ましている。金さんの身体(からだ)は一枚の布団(ふとん)の中で、小さく平ったくなっている。気の毒なほど小さく平ったく見えた。その内(うち)唸(うな)り声(ごえ)も、どうにか、こうにかやんだようだから、また顔の向(むき)を易(か)えて、囲炉裏の中を見詰めた。ところがなんだか金さんが気に掛かってたまらないから、また横を向いた。すると金さんはやっぱり一枚の布団の中で、小さく平ったくなっている。そうして、森(しん)としている。生きてるのか、死んでるのか、ただ森としている。唸られるのも、あんまり気味の好いもんじゃないが、こう静かにしていられるとなお心配になる。心配の極(きょく)は怖(こわ)くなって、ちょっと立ち懸けたが、まあ大丈夫だろう、人間はそう急に死ぬもんじゃないと、度胸を据(す)えてまた尻を落ちつけた。

 ところへ二三人、下からどやどやと階下段(はしごだん)を上がって来た。もう飯を済ましたんだろうか、それにしては非常に早いがと、心持上がり段の方を眺(なが)めていると、思も寄らないものが、現れた。――黒か紺(こん)か色の判然(はっきり)しない筒服(つつっぽう)を着ている。足は職人の穿(は)くような細い股引(ももひき)で、色はやはり同じ紺である。それでカンテラを提(さ)げている。のみならず二人(ふたあり)が二人とも泥だらけになって、濡(ぬ)れてる。そうして、口を利(き)かない。突っ立ったまま自分の方をぎろりと見た。まるで強盗としきゃあ思えない。やがて、カンテラを抛(ほう)り出すと、釦(ボタン)を外(はず)して、筒袖(つつっぽう)を脱いだ。股引も脱いだ。壁に掛けてある広袖(ひろそで)を、めりやすの上から着て、尻の先に三尺帯をぐるりと回しながら、やっぱり無言のまま、二人してずしりずしりと降りて行った。するとまた上がって来た。今度(こんだ)のも濡れている。泥だらけである。カンテラを抛り出す。着物を着換える。ずしんずしんと降りて行く。とまた上がって来る。こう云う風に入代り、入代りして、何でもよほど来た。いずれも底の方から眼球(めだま)を光らして、一遍だけはきっと自分を見た。中には、

「手前(てめえ)は新前(しんめえ)だな」

と云ったものもある。自分はただ、

「ええ」

と答えて置いた。幸(さいわ)い今度はさっきのようにむやみには冷やかされずに、まあ無難(ぶなん)に済んだ。上がって来るものも、来るものも、みんな急いで降りて行くんで、調戯(からか)う暇がなかったんだろう。その代り一人に一度ずつは必ず睨(にら)まれた。そうこうしている内に、上がって来るものがようやく絶えたから、自分はようやく寛容(くつろ)いだ思いをして、囲炉裏(いろり)の炭の赤くなったのを見詰めて、いろいろ考え出した。もちろん纏(まと)まりようのない、かつ考えれば考えるほど馬鹿になる考えだが、火を見詰ていると、炭の中にそう云う妄想(もうぞう)がちらちらちらちら燃えてくるんだから仕方がない。とうとう自分の魂が赤い炭の中へ抜出して、火気(かっき)に煽(あお)られながら、むやみに踊をおどってるような変な心持になった時に、突然、

「草臥(くたび)れたろうから、もう御休みなさい」

と云われた。

 見ると、さっきの婆さんが、立っている。やっぱり襷掛(たすきがけ)のままである。いつの間(ま)に上がって来たものか、ちっとも気がつかなかった。自分の魂が遠慮なく火の中を馳(か)け廻って、艶子(つやこ)さんになったり、澄江(すみえ)さんになったり、親爺(おやじ)になったり、金さんになったり、――被布(ひふ)やら、廂髪(ひさしがみ)やら、赤毛布(あかげっと)やら、唸(うな)り声(ごえ)やら、揚饅頭(あげまんじゅう)やら、華厳(けごん)の滝やら――幾多無数の幻影(まぼろし)が、囲炉裏の中に躍(おど)り狂って、立ち騰(のぼ)る火の気の裏(うち)に追いつ追われつ、日向(ひなた)に浮かぶ塵(ちり)と思われるまで夥(おびただ)しく出て来た最中に、はっと気がついたんだから、眼の前にいる婆さんが、不思議なくらい変であった。しかし寝ろと云う注意だけは明かに耳に聞えたに違ないから、自分はただ、

「ええ」

と答えた。すると婆さんは後(うし)ろの戸棚を指(さ)して、

「布団(ふとん)は、あすこに這入(はい)ってるから、独(ひとり)で出して御掛けなさい。一枚三銭ずつだ。寒いから二枚はいるでしょう」

と聞くから、また

「ええ」

と答えたら、婆さんは、それ限(ぎり)何にも云わずに、降りて行った。これで、自分は寝てもいいと云う許可を得たから、正式に横になっても剣突(けんつく)を食う恐れはあるまいと思って、婆さんの指図通(さしずどお)り戸棚を明けて見ると、あった。布団がたくさんあった。しかしいずれも薄汚いものばかりである。自宅(うち)で敷いていたのとはまるで比較にならない。自分は一番上に乗ってるのを二枚、そっとおろした。そうして、電気灯の光で見た。地(じ)は浅黄(あさぎ)である。模様は白である。その上に垢(あか)が一面に塗りつけてあるから、六分方(ろくぶがた)色変りがして、白い所などは、通例なら我慢のできにくいほどどろんと、化けている。その上すこぶる堅い。搗(つ)き立ての伸(の)し餅(もち)を、金巾(かなきん)に包んだように、綿は綿でかたまって、表布(かわ)とはまるで縁故がないほどの、こちこちしたものである。

 自分はこの布団を畳の上へ平(ひらた)く敷いた。それから残る一枚を平く掛けた。そうして、襯衣(シャツ)だけになって、その間に潜(もぐ)り込んだ。湿(しめ)っぽい中を割り込んで、両足をうんと伸ばしたら踵(かかと)が畳の上へ出たから、また心持引っ込ました。延ばす時も曲げる時も、不断のように軽くしなやかには行かない。みしりと音がするほど、関節が窮屈に硬張(こわば)って、動きたがらない。じっとして、布団の中に膝頭(ひざがしら)を横たえていると、倦怠(だるい)のを通り越して重い。腿(もも)から下を切り取って、その代りに筋金入(すじがねい)りの義足をつけられたように重い。まるで感覚のある二本の棒である。自分は冷たくって重たい足を苦(く)に病(や)んで、頭を布団の中に突っ込んだ。せめて頭だけでも暖(あったか)にしたら、足の方でも折れ合ってくれるだろうとの、はかない望みから出た窮策であった。

 しかしさすがに疲れている。寒さよりも、足よりも、布団の臭(にお)いよりも、煩悶(はんもん)よりも、厭世(えんせ)よりも――疲れている。実に死ぬ方が楽(らく)なほど疲れ切っていた。それで、横になるとすぐ――畳から足を引っ込まして、頭を布団に入れるだけの所作(しょさ)を仕遂(しと)げたと思うが早いか、眠(ね)てしまった。ぐうぐう正体なく眠てしまった。これから先きは自分の事ながらとうてい書けない。……

 すると、突然針で背中を刺された。夢に刺されたのか、起きていて、刺されたのか、感じはすこぶる曖昧(あいまい)であった。だからそれだけの事ならば、針だろうが刺(とげ)だろうが、頓着(とんじゃく)はなかったろう。正気の針を夢の中に引摺(ひきず)り込んで、夢の中の刺を前後不覚の床(とこ)の下に埋(うず)めてしまう分の事である。ところがそうは行かなかった。と云うものは、刺されたなと思いながらも、針の事を忘れるほどにうっとりとなると、また一つ、ちくりとやられた。

 今度は大きな眼を開(あ)いた。ところへまたちくりと来た。おやと驚く途端(とたん)にまたちくりと刺した。これは大変だとようやく気がつきがけに、飛び上るほど劇(はげ)しく股(もも)の辺(あたり)をやられた。自分はこの時始めて、普通の人間に帰った。そうして身体中(からだじゅう)至る所がちくちくしているのを発見した。そこでそっと襯衣(シャツ)の間から

目次に戻る

目次