11話 坑夫(11)
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手を入れて、背中を撫でて見ると、一面にざらざらする。最初指先が肌に触れた時は、てっきり劇烈な皮膚病に罹ったんだと思った。ところが指を肌に着けたまま、二三寸引いて見ると、何だか、ばらばらと落ちた。これはただ事でないとたちまち跳ね起きて、襯衣一枚の見苦しい姿ながら囲炉裏の傍へ行って、親指と人差指の間に押えた、米粒ほどのものを、検査して見ると、異様の虫であった。実はこの時分には、まだ南京虫を見た事がないんだから、はたしてこれがそうだとは断言出来なかったが――何だか直覚的に南京虫らしいと思った。こう云う下卑た所に直覚の二字を濫用しては済まんが、ほかに言葉がないから、やむを得ず高尚な術語を使った。さてその虫を検査しているうちに、非常に悪らしくなって来た。囲炉裏の縁へ乗せて、ぴちりと親指の爪で圧し潰したら、云うに云われぬ青臭い虫であった。この青臭い臭気を嗅ぐと、何となく好い心持になる。――自分はこんな醜い事を真面目にかかねばならぬほど狂違染みていた。実を云うと、この青臭い臭気を嗅ぐまでは、恨を霽らしたような気がしなかったのである。それだから捕っては潰し、捕っては潰し、潰すたんびに親指の爪を鼻へあてがって嗅いでいた。すると鼻の奥へ詰って来た。今にも涙が出そうになる。非常に情ない。それだのに、爪を嗅ぐと愉快である。この時二階下で大勢が一度にどっと笑う声がした。自分は急に虫を潰すのをやめた。広間を見渡すと誰もいない。金さんだけが、平たくなって静かに寝ている。頭も足も見えない。そのほかにたった一人いた。もっとも始めて気がついた時は人間とは思わなかった。向うの柱の中途から、窓の敷居へかけて、帆木綿のようなものを白く渡して、その幅のなかに包まっていたから、何だか気味が悪かった。しかしよく見ると、白い中から黒いものが斜に出ている。そうしてそれが人間の毬栗頭であった。――広い部屋には、自分とこの二人を除いて、誰もいない。ただ電気灯がかんかん点いている。大変静かだ、と思うとまた下座敷でわっと笑った。さっきの連中か、または作業を済まして帰って来たものが、大勢寄ってふざけ散らしているに違ない。自分はぼんやりして布団のある所まで帰って来た。そうして裸体になって、襯衣を振るって、枕元にある着物を着て、帯を締めて、一番しまいに敷いてある布団を叮嚀に畳んで戸棚へ入れた。それから後はどうして好いか分らない。時間は何時だか、夜はとうていまだ明けそうにしない。腕組をして立って考えていると、足の甲がまたむずむずする。自分は堪え切れずに、
「えっ畜生」
と云いながら二三度小踊をした。それから、右の足の甲で、左の上を擦って、左の足の甲で右の上を擦って、これでもかと歯軋をした。しかし表へ飛び出す訳にも行かず、寝る勇気はなし、と云って、下へ降りて、車座の中へ割り込んで見る元気は固りない。さっき毒突かれた事を思い出すと、南京虫よりよっぽど厭だ。夜が明ければいい、夜が明ければいいと思いながら、自分は表へ向いた窓の方へ歩いて行った。するとそこに柱があった。自分は立ちながら、この柱に倚っ掛った。背中をつけて腰を浮かして、足の裏で身体を持たしていると、両足がずるずる畳の目を滑ってだんだん遠くへ行っちまう。それからまた真直に立つ。またずるずる滑る。また立つ。まずこんな事をしていた。幸い南京虫は出て来なかった。下では時々どっと笑う。
いても立ってもと云うのは喩だが、そのいても立ってもを、実際に経験したのはこの時である。だから坐るとも立つとも方のつかない運動をして、中途半端に紛らかしていた。ところがその運動をいつまで根気にやったものか覚えていない。いとど疲れている上に、なお手足を疲らして、いかな南京虫でも応えないほど疲れ切ったんで、始めて寝たもんだろう。夜が明けたら、自分が摺り落ちた柱の下に、足だけ延ばして、背を丸く蹲踞っていた。
これほど苦しめられた南京虫も、二日三日と過つにつれて、だんだん痛くなくなったのは妙である。その実、一箇月ばかりしたら、いくら南京虫がいようと、まるで米粒でも、ぞろぞろ転がってるくらいに思って、夜はいつでも、ぐっすり安眠した。もっとも南京虫の方でも日数を積むに従って遠慮してくるそうである。その証拠には新来のお客には、べた一面にたかって、夜通し苛めるが、少し辛抱していると、向うから、愛想をつかして、あまり寄りつかなくなるもんだと云う。毎日食ってる人間の肉は自然鼻につくからだとも教えたものがあるし、いや肉の方にそれだけの品格が出来て、シキ臭くなるから、虫も恐れ入るんだとも説明したものがある。そうして見るとこの南京虫と坑夫とは、性質がよく似ている。おそらく坑夫ばかりじゃあるまい、一般の人類の傾向と、この南京虫とはやはり同様の心理に支配されてるんだろう。だからこの解釈は人間と虫けらを概括するところに面白味があって、哲学者の喜びそうな、美しいものであるが、自分の考えを云うと全くそうじゃないらしい。虫の方で気兼をしたり、贅沢を云ったりするんじゃなくって、食われる人間の方で習慣の結果、無神経になるんだろうと思う。虫は依然として食ってるが、食われても平気でいるに違ない、もっとも食われて感じないのも、食われなくって感じないのも、趣こそ違え、結果は同じ事であるから、これは実際上議論をしても、あまり役に立たない話である。
そんな無用の弁は、どうでもいいとして、自分が眼を開けて見たら、夜は全く明け放れていた。下ではもうがやがや云っている。嬉しかった。窓から首を出して見ると、また雨だ。もっとも判然とは降っていない。雲の濃いのが糸になり損なって、なっただけが、細く地へ落ちる気色だ。だからむやみに濛々とはしていない。しだいしだいに雨の方に片づいて、片づくに従って糸の間が透いて見える。と云っても見えるものは山ばかりである。しかも草も木も至って乏しい、潤のない山である。これが夏の日に照りつけられたら、山の奥でもさぞ暑かろうと思われるほど赤く禿げてぐるりと自分を取り捲いている。そうして残らず雨に濡れている。潤い気のないものが、濡れているんだから、土器に霧を吹いたように、いくら濡れても濡れ足りない。その癖寒い気持がする。それで自分は首を引っ込めようとしたら、ちょっと眼についた。――手拭を被って、藁を腰に当てて、筒服を着た男が二三人、向うの石垣の下にあらわれた。ちょうど昨日ジャンボーの通った路を逆に歩いて来る。遠くから見ると、いかにもしょぼしょぼして気の毒なほど憐れである。自分も今朝からああなるんだなと、ふと気がついて見ると、人事とは思われないほど、向へ行く手拭の影――雨に濡れた手拭の影が情なかった。すると雨の間からまた古帽子が出て来た。その後からまた筒袖姿があらわれた。何でも朝の番に当った坑夫がシキへ這入る時間に相違ない。自分はようやく窓から首を引き込めた。すると、下から五六人一度にどやどやと階下段を上って来る。来たなと思ったが仕方がないから懐手をして、柱にもたれていた。五六人は見る間に、同じ出立に着更えて下りて行った。後からまた上がってくる。また筒袖になって下りて行く。とうとう飯場にいる当番はことごとく出払ったようだ
こう飯場中活動して来ると、自分も安閑としちゃいられない。と云って誰も顔を御洗いなさいとも、御飯を御上がんなさいとも云いに来てくれない。いかな坊っちゃんも、あまり手持無沙汰過ぎて困っちまったから、思い切って、のこのこ下りて行った。心は無論落ついちゃいないが、態度だけはまるで宿屋へ泊って、茶代を置いた御客のようであった。いくら恐縮しても自分には、これより以外の態度が出来ないんだから全くの生息子である。下りて見ると例の婆さんが、襷がけをして、草鞋を一足ぶら下げて奥から駆けて来たところへ、ばったり出逢った。
「顔はどこで洗うんですか」
と聞くと、婆さんは、ちょっと自分を見たなりで、
「あっち」
と云い捨てて門口の方へ行った。まるで相手にしちゃいない。自分にはあっちの見当がわからなかったが、とにかく婆さんの出て来た方角だろうと思って、奥の方へ歩いて行ったら、大きな台所へ出た。真中に四斗樽を輪切にしたようなお櫃が据えてある。あの中に南京米の炊いたのがいっぱい詰ってるのかと思ったら、――何しろ自分が三度三度一箇月食っても食い切れないほどの南京米なんだから、食わない前からうんざりしちまった。――顔を洗う所も見つけた。台所を下りて長い流の前へ立って、冷たい水で、申し訳のために頬辺を撫でて置いた。こうなると叮嚀に顔なんか洗うのは馬鹿馬鹿しくなる。これが一歩進むと、顔は洗わなくっても宜いものと度胸が坐ってくるんだろう。昨日の赤毛布や小僧は全くこう云う順序を踏んで進化したものに違ない。
顔はようやく自力で洗った。飯はどうなる事かと、またのそのそ台所へ上った。ところへ幸い婆さんが表から帰って来て膳立てをしてくれた。ありがたい事に味噌汁がついていたんで、こいつを南京米の上から、ざっと掛けて、ざくざくと掻き込んだんで、今度は壁土の味を噛み分ないで済んだ。すると婆さんが、
「御飯が済んだら、初さんがシキへ連れて行くって待ってるから、早くおいでなさい」
と、箸も置かない先から急き立てる。実はもう一杯くらい食わないと身体が持つまいと思ってたところだが、こう催促されて見ると、無論御代りなんか盛う必要はない。自分は、
「はあ、そうですか」
と立ち上がった。表へ出て見ると、なるほど上り口に一人掛けている。自分の顔を見て、
「御前か、シキへ行くなあ」
と、石でもぶっ欠くような勢いで聞いた。
「ええ」
と素直に答えたら、
「じゃ、いっしょに来ねえ」
と云う。
「この服装でも好いんですか」
と叮嚀に聞き返すと、
「いけねえ、いけねえ。そんな服装で這入れるもんか。ここへ親分とこから一枚借りて来てやったから、此服を着るがいい」
と云いながら、例の筒袖を抛り出した。
「そいつが上だ。こいつが股引だ。そら」
とまた股引を抛げつけた。取りあげて見ると、じめじめする。所々に泥が着いている。地は小倉らしい。自分もとうとうこの御仕着を着る始末になったんだなと思いながら、絣を脱いで上下とも紺揃になった。ちょっと見ると内閣の小使のようだが、心持から云うと、小使を拝命した時よりも遥に不景気であった。これで支度は出来たものと思込んで土間へ下りると、
「おっと待った」
と、初さんがまた勇み肌の声を掛けた。
「これを尻の所へ当てるんだ」
初さんが出してくれたものを見ると、三斗俵坊っちのような藁布団に紐をつけた変挺なものだ。自分は初さんの云う通り、これを臀部へ縛りつけた。
「それが、アテシコだ。好しか。それから鑿だ。こいつを腰ん所へ差してと……」
初さんの出した鑿を受け取って見ると、長さ一尺四五寸もあろうと云う鉄の棒で、先が少し尖っている。これを腰へ差す。
「ついでにこれも差すんだ。少し重いぜ。大丈夫か。しっかり受け取らねえと怪我をする」
なるほど重い。こんな槌を差してよく坑の中が歩けるもんだと思う。
「どうだ重いか」
「ええ」
「それでも軽いうちだ。重いのになると五斤ある。――いいか、差せたか、そこでちょっと腰を振って見な。大丈夫か。大丈夫ならこれを提げるんだ」
とカンテラを出しかけたが、
「待ったり。カンテラの前に一つ草鞋を穿いちまいねえ」
草鞋の新しいのが、上り口にある。さっき婆さんが振ら下げてたのは、大方これだろう。自分は素足の上へ草鞋を穿いた。緒を踵へ通してぐっと引くと、
「駑癡だなあ。そんなに締める奴があるかい。もっと指の股を寛めろい」
と叱られた。叱られながら、どうにか、こうにか穿いてしまう。
「さあ、これでいよいよおしまいだ」
と初さんは饅頭笠とカンテラを渡した。饅頭笠と云うのか筍笠というのか知らないが、何でも懲役人の被るような笠であった。その笠を神妙に被る。それからカンテラを提げる。このカンテラは提げるようにできている。恰好は二合入りの石油缶とも云うべきもので、そこへ油を注す口と、心を出す孔が開いてる上に、細長い管が食っついて、その管の先がちょっと横へ曲がると、すぐ膨らんだカップになる。このカップへ親指を突っ込んで、その親指の力で提げるんだから、指五本の代りに一本で事を済ますはなはだ実用的のものである。
「こう、穿めるんだ」
と初さんが、勝栗のような親指を、カンテラの孔の中へ突込んだ。旨い具合にはまる。
「そうら」
初さんは指一本で、カンテラを柱時計の振子のように、二三度振って見せた。なかなか落ちない。そこで自分も、同じように、調子をとって揺して見たがやっぱり落ちなかった。
「そうだ。なかなか器用だ。じゃ行くぜ、いいか」
「ええ、好ござんす」
自分は初さんに連れられて表へ出た。所が降っている。一番先へ笠へあたった。仰向いて、空模様を見ようとしたら、顎と、口と、鼻へぽつぽつとあたった。それからあとは、肩へもあたる。足へもあたる。少し歩くうちには、身体中じめじめして、肌へ抜けた湿気が、皮膚の活気で蒸し返される。しかし雨の方が寒いんで、身体のほとぼりがだんだん冷めて行くような心持であったが、坂へかかると初さんがむやみに急ぎ出したんで、濡れながらも、毛穴から、雨を弾き出す勢いで、とうとうシキの入口まで来た。
入口はまず汽車の隧道の大きいものと云って宜しい。蒲鉾形の天辺は二間くらいの高さはあるだろう。中から軌道が出て来るところも汽車の隧道に似ている。これは電車が通う路なんだそうだ。自分は入口の前に立って、奥の方を透かして見た。奥は暗かった。
「どうだここが地獄の入口だ。這入れるか」
と初さんが聞いた。何だか嘲弄の語気を帯びている。さっき飯場を出て、ここまで来る途中でも、方々の長屋の窓から首を出して、
「昨日のだ」
「新来だ」
と口々に罵っていたが、その様子を見ると単に山の中に閉じ込められて物珍らしさの好奇心とは思えなかった。その言葉の奥底にはきっと愚弄の意味がある。これを布衍して云うと、一つには貴様もとうとうこんな所へ転げ込んで来た、いい気味だ、ざまあ見ろと云う事になる。もう一つは御気の毒だが来たって駄目だよ。そんな脂っこい身体で何が勤まるものかと云う事にもなる。だから「昨日のだ」「新来だ」と騒ぐうちには、自分が彼らと同様の苦痛を甞めなければならないほど堕落したのを快く感ずると共に、とうていこの苦痛には堪えがたい奴だとの軽蔑さえ加わっている。彼らは他人を彼らと同程度に引き摺り落して喝采するのみか、ひとたび引き摺り落したものを、もう一返足の下まで蹴落して、堕落は同程度だが、堕落に堪える力は彼らの方がかえって上だとの自信をほのめかして満足するらしい。自分は途上「昨日のだ」と聞くたんびに、懲役笠で顔を半分隠しながら通り抜けて、シキの入口まで来た。そこで初さんがまた愚弄したんだから、自分は少しむっとして、
「這入れますとも。電車さえ通ってるじゃありませんか」
と答えた。すると初さんが、
「なに這入れる? 豪義な事を云うない」
と云った。ここで「這入れません」と恐れ入ったら、「それ見ろ」と直こなされるにきまってる。どっちへ転んでも駄目なんだから別に後悔もしなかった。初さんは、いきなり、シキの中へ飛び込んだ。自分も続いて這入った。這入って見ると、思ったよりも急に暗くなる。何だか足元がおっかなくなり出したには降参した。雨が降っていても外は明かるいものだ。その上軌道の上はとにかく、両側はすこぶる泥っている。それだのに初さんは中っ腹でずんずん行く。自分も負けない気でずんずん行く。
「シキの中でおとなしくしねえと、すのこの中へ抛り込まれるから、用心しなくっちゃあいけねえ」
と云いながら初さんは突然暗い中で立ち留った。初さんの腰には鑿がある。五斤の槌がある。自分は暗い中で小さくなって、
「はい」
と返事をした。
「よしか、分ったか。生きて出る料簡なら生意気にシキなんかへ這入らねえ方が増しだ」
これは向うむきになって、初さんが歩き出した時に、半分は独り言のように話した言葉である。自分は少からず驚いた。坑の中は反響が強いので、初さんの言葉がわんわんわんと自分の耳へ跳ねっ返って来る。はたして初さんの言う通りなら、飛んだ所へ這入ったもんだ。実は死ぬのも同然な職業であればこそ坑夫になろうと云う気も起して見たんだが、本当に死ぬなら――こんな怖い商売なら――殺されるんなら――すのこの中へ抛げ込まれるなら――すのことは全体どんなもんだろうと思い出した。
「すのことはどんなもんですか」
「なに?」
と初さんが後を振り向いた。
「すのことはどんなもんですか」
「穴だ」
「え?」
「穴だよ。――鉱を抛り込んで、纏めて下へ降げる穴だ。鉱といっしょに抛り込まれて見ねえ……」
で言葉を切ってまたずんずん行く。
自分はちょっと立ち留った。振り返ると、入口が小さい月のように見える。這入るときは、これがシキならと思った。聞いたほどでもないと思った。ところが初さんに威嚇かされてから、いかな平凡な隧道も、大いに容子が変って来た。懲役笠をたたく冷たい雨が恋しくなった。そこで振り返ると、入口が小さい月のように見える。小さい月のように見えるほど奥へ這入ったなと、振り返って始めて気がついた。いくら曇っていてもやっぱり外が懐かしい。真黒な天井が上から抑えつけてるのは心持のわるいものだ。しかもこの天井がだんだん低くなって来るように感ぜられる。と思うと、軌道を横へ切れて、右へ曲った。だらだら坂の下りになる。もう入口は見えない。振返っても真暗だ。小さい月のような浮世の窓は遠慮なくぴしゃりと閉って、初さんと自分はだんだん下の方へ降りて行く。降りながら手を延ばして壁へ触って見ると、雨が降ったように濡れている。
「どうだ、尾いて来るか」
と、初さんが聞いた。
「ええ」
とおとなしく答えたら、
「もう少しで地獄の三丁目へ来る」
と云ったなり、また二人とも無言になった。この時行く手の方に一点の灯が見えた。暗闇の中の黒猫の片眼のように光ってる。カンテラの灯なら散らつくはずだが、ちっとも動かない。距離もよく分らない。方角も真直じゃないが、とにかく見える。もし坑の中が一本道だとすれば、この灯を目懸けて、初さんも自分も進んで行くに違ない。自分は何にも聞かなかったが、大方これが地獄の三丁目なんだろうと思って、這入って行った。すると、だらだら坂がようやく尽きた。路は平らに向うへ廻り込む。その突き当りに例の灯が点いている。さっきは鼻の下に見えたが、今では眼と擦々の所まで来た。距離も間近くなった。
「いよいよ三丁目へ着いた」
と、初さんが云う。着いて見ると、坑が四五畳ほどの大さに広がって、そこに交番くらいな小屋がある。そうしてその中に電気灯が点いている。洋服を着た役人が二人ほど、椅子の対い合せに洋卓を隔てて腰を掛けていた。表には第一見張所とあった。これは坑夫の出入だの労働の時間だのを検査する所だと後から聞いて、始めて分ったんだが、その当時には何のための設備だか知らなかったもんだから、六七人の坑夫が、どす黒い顔を揃えて無言のまま、見張所の前に立っていたのを不審に思った。これは時間を待ち合わして交替するためである。自分は腰に鑿と槌を差してカンテラさえ提げてはいるが、坑夫志願というんで、シキの様子を見に這入っただけだから、まだ見習にさえ採用されていないと云う訳で、待ち合わす必要もないものと見えて、すぐこの溜を通り越した。その時初さんが見張所の硝子窓へ首を突っ込んで、ちょいと役人に断ったが、役人は別に自分の方を見向もしなかった。その代り立っていた坑夫はみんな見た。しかし役人の前を憚ってだろう、全く一言も口を利いたものはなかった。
溜を出るや否や坑の様子が突然変った。今までは立ってあるいても、背延びをしても届きそうにもしなかった天井が急に落ちて来て、真直に歩くと時々頭へ触るような気持がする。これがものの二寸も低かろうものなら、岩へぶつかって眉間から血が出るに違ないと思うと、松原をあるくように、ありったけの背で、野風雑にゃやって行けない。おっかないから、なるべく首を肩の中へ縮め込んで、初さんに食っついて行った。もっともカンテラはさっき点けた。
すると三尺ばかり前にいる初さんが急に四ん這いになった。おや、滑って転んだ。と思って、後から突っ掛かりそうなところを、ぐっと足を踏ん張った。このくらいにして喰い留めないと、坂だから、前へのめる恐がある。心持腰から上を反らすように