17話 坑夫(17)
読み方を変える
「裸になれ」
自分は裸になった。医者は聴診器で胸と背中をちょっと視た上、いきなり自分の鼻を撮んだ。
「息をして見ろ」
息が口から出る。医者は口の所へ手をあてがった。
「今度口を塞ぐんだ」
医者は鼻の下へ手をあてた。
「どうでしょう。坑夫になれますか」
「駄目だ」
「どこか悪いですか」
「今書いてやる」
医者は四角な紙片へ、何か書いて抛り出すように自分に渡した。見ると気管支炎とある。
気管支炎と云えば肺病の下地である。肺病になれば助かりようがない。なるほどさっき薬の臭を嗅いで死ぬんだなと虫が知らせたのも無理はない。今度はいよいよ死ぬ事になりそうだ。これから先二三週間もしたら、金さんのようによっしょいよっしょいでジャンボーを見せられて、そのあげくには自分がとうとうジャンボーになって、それから思う存分囃し立てられて、敲き立てられて、――もっとも新参だから囃してくれるものも、敲いてくれるものも、ないかも知れないが――とどの詰りは、――どうなる事か自分にも分らない。それは分らなくってもよろしい。生きて動いている今ですら分らない。ただ世界がのべつ、のっぺらぽうに続いているうちに、あざやかな色が幾通りも並んでるばかりである。坑夫は世の中で、もっとも穢ないものと感じていたが、かように万物を色の変化と見ると、穢ないも穢なくないもある段じゃない。どうでも構わないから、どうとも勝手にするがいい、自分が懐手をしていたら運命が何とか始末をつけてくれるだろう。死んでもいい、生きてもいい。華厳の瀑などへ行くのは面倒になった。東京へ帰る? 何の必要があって帰る。どうせ二三度咳をせくうちの命だ。ここまで運命が吹きつけてくれたもんだから、運命に吹き払われるまでは、ここにいるのが、一番骨が折れなくって、一番便利で、一番順当な訳だ。ここにいて、ただ堕落の修業さえすれば、死ぬまでは持てるだろう。肺病患者にほかの修業はむずかしいかも知れないが、堕落の修業なら――ふと往きに眼についた蒲公英に出逢った。さっきはもったいないほど美しい色だと思ったが、今見ると何ともない。なぜこれが美しかったんだろうと、しばらく立ち留まって、見ていたが、やっぱり美しくない。それからまたあるき出した。だらだら坂を登ると、自然と顔が仰向になる。すると例の通り長屋から、坑夫が頬杖を突いて、自分を見下している。さっきまではあれほど厭に見えた顔がまるで土細工の人形の首のように思われる。醜くも、怖くも、憎らしくもない。ただの顔である。日本一の美人の顔がただの顔であるごとく、坑夫の顔もただの顔である。そう云う自分も骨と肉で出来たただの人間である。意味も何もない。
自分はこう云う状態で、無人の境を行くような心持で、親方の家までやって来た。案内を頼むと、うちから十五六の娘が、がらりと障子をあけて出た。こう云う娘がこんな所にいようはずがないんだから、平生ならはっと驚く訳だが、この時はまるで何の感じもなかった。ただ器械のように挨拶をすると、娘は片手を障子へ掛けたまま、奥を振り向いて、
「御父さん。御客」
と云った。自分はこの時、これが飯場頭の娘だなと合点したが、ただ合点したまでで、娘がまだそこに立っているのに、娘の事は忘れてしまった。ところへ親方が出て来た。
「どうしたい」
「行って来ました」
「健康診断を貰って来たかい。どれ」
自分は右の手に握っていた診断書を、つい忘れて、おやどこへやったろうかと、始めて気がついた。
「持ってるじゃないか」
と親方が云う。なるほど持っていたから、皺を伸して親方に渡した。
「気管支炎。病気じゃないか」
「ええ駄目です」
「そりゃ困ったな。どうするい」
「やっぱり置いて下さい」
「そいつあ、無理じゃないか」
「ですが、もう帰れないんだから、どうか置いて下さい。小使でも、掃除番でもいいですから。何でもしますから」
「何でもするったって、病気じゃ仕方がないじゃないか。困ったな。しかしせっかくだから、まあ考えてみよう。明日までには大概様子が分るだろうからまた来て見るがいい」
自分は石のようになって、飯場へ帰って来た。
その晩は平気で囲炉裏の側に胡坐をかいていた。坑夫共が何と云っても相手にしなかった。相手にする料簡も出なかった。いくら騒いでも、愚弄っても、よしんば踏んだり蹴たりしても、彼らは自分と共に一枚の板に彫りつけられた一団の像のように思われた。寝るときは布団は敷かなかった。やはり囲炉裏の傍に胡坐をかいていた。みんな寝着いてから、自分もその場へ仮寝をした。囲炉裏へ炭を継ぐものがないので、火の気がだんだん弱くなって、寒さがしだいに増して来たら、眼が覚めた。襟の所がぞくぞくする。それから起きて表へ出て空を見たら、星がいっぱいあった。あの星は何しに、あんなに光ってるのだろうと思って、また内へ這入った。金さんは相変らず平たくなって寝ている。金さんはいつジャンボーになるんだろう。自分と金さんとどっちが早く死ぬだろう。安さんは六年このシキに這入ってると聞いたが、この先何年鉱を敲くだろう。やっぱりしまいには金さんのように平たくなって、飯場の片隅に寝るんだろう。そうして死ぬだろう。――自分は火のない囲炉裏の傍に坐って、夜明まで考えつづけていた。その考えはあとから、あとから、仕切りなしに出て来たが、いずれも干枯びていた。涙も、情も、色も香もなかった。怖い事も、恐ろしい事も、未練も、心残りもなかった。
夜が明けてから例のごとく飯を済まして、親方の所へ行った。親方は元気のいい声をして、
「来たか、ちょうど好い口が出来た。実はあれからいろいろ探したがどうも思わしいところがないんでね、――少し困ったんだが。とうとう旨い口を見附けた。飯場の帳附だがね。こりゃ無ければ、なくっても済む。現に今までは婆さんがやってたくらいだが、せっかくの御頼みだから。どうだねそれならどうか、おれの方で周旋ができようと思うが」
「はあありがたいです。何でもやります。帳附と云うと、どんな事をするんですか」
「なあに訳はない。ただ帳面をつけるだけさ。飯場にああ多勢いる奴が、やや草鞋だ、やや豆だ、ヒジキだって、毎日いろいろなものを買うからね。そいつを一々帳面へ書き込んどいて貰やあ好いんだ。なに品物は婆さんが渡すから、ただ誰が何をいくら取ったと云う事が分るようにして置いてくれればそれで結構だ。そうするとこっちでその帳面を見て勘定日に差し引いて給金を渡すようにする。――なに力業じゃないから、誰でもできる仕事だが、知っての通りみんな無筆の寄合だからね。君がやってくれるとこっちも大変便利だが、どうだい帳附は」
「結構です、やりましょう」
「給金は少くって、まことに御気の毒だ。月に四円だが。――食料を別にして」
「それでたくさんです」
と答えた。しかし別段に嬉しいとも思わなかった。ようやく安心したとまでは固り行かなかった。自分の鉱山における地位はこれでやっときまった。
翌日から自分は台所の片隅に陣取って、かたのごとく帳附を始めた。すると今まであのくらい人を軽蔑していた坑夫の態度ががらりと変って、かえって向うから御世辞を取るようになった。自分もさっそく堕落の稽古を始めた。南京米も食った。南京虫にも食われた。町からは毎日毎日ポン引が椋鳥を引張って来る。子供も毎日連れられてくる。自分は四円の月給のうちで、菓子を買っては子供にやった。しかしその後東京へ帰ろうと思ってからは断然やめにした。自分はこの帳附を五箇月間無事に勤めた。そうして東京へ帰った。――自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。