春昼

8話

1,492字 約3分 2006年8月26日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

(ただ)、人と言えば、他人です、何でもない。これに名がつきましょう。名がつきますと、父となります、母となり、兄となり、姉となります。そこで、その人たちを、(ただ)、人にして扱いますか。

 偶像も同一(どういつ)です。(ただ)偶像なら何でもない、この御堂のは観世音(かんぜおん)です、信仰をするんでしょう。

 じゃ、偶像は、()(かね)乃至(ないし)、土。それを金銀、珠玉(しゅぎょく)で飾り、色彩を(よそお)ったものに過ぎないと言うんですか。人間だって、皮、血、肉、五臓(ごぞう)六腑(ろっぷ)、そんなもので(つか)ねあげて、これに()ものを着せるんです。第一貴下(あなた)、美人だって、たかがそれまでのもんだ。

 しかし、人には霊魂(れいこん)がある、偶像にはそれがない、と言うかも知れん。その、貴下(あなた)、その貴下(あなた)、霊魂が何だか分らないから、迷いもする、悟りもする、(あやぶ)みもする、安心もする、拝みもする、信心もするんですもの。

 (まと)がなくって弓の修業が出来ますか。軽業(かるわざ)手品(てじな)だって学ばねばならんのです。

 偶像は()らないと言う人に、そんなら、恋人は()だ慕う、愛する、こがるるだけで、一緒にならんでも()いのか、姿を見んでも()いのか。姿を見たばかりで、口を利かずとも、口を利いたばかりで、手に(すが)らずとも、手に縋っただけで、寝ないでも、()いのか、と聞いて御覧なさい。

 せめて夢にでも、その人に()いたいのが実情です。

 そら、幻にでも神仏(かみほとけ)を見たいでしょう。

 釈迦(しゃか)文殊(もんじゅ)普賢(ふげん)勢至(せいし)観音(かんおん)御像(おすがた)はありがたい(わけ)ではありませんか。」

 出家は活々(いきいき)とした顔になって、目の色が輝いた。心の(こも)った口のあたり、(ひげ)の穴も数えつびょう、

「申されました、おもしろい。」

 ぴたりと膝に手をついて、片手を(ひたい)に加えたが、

「――うたゝ()に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき――」

 と(ひと)俯向(うつむ)いた口の(うち)(じゅ)したのは、柱に(しる)した歌である。

 こなたも思わず彼処(かしこ)を見た、柱なる蜘蛛(ささがに)の糸、あざやかなりけり水茎(みずぐき)の跡。

「そう(うけたまわ)れば恥入(はじい)る次第で、恥を申さねば分らんでありますが、うたゝ()の、この和歌でござる、」

「その歌が、」

 とこなたも膝の進むを覚えず。

「ええ、御覧なさい。其処中(そこらじゅう)、それ巡拝札(じゅんぱいふだ)を貼り散らしたと申すわけで、中にはな、売薬や、何かの広告に使いまするそうなが、それもありきたりで構わんであります。

 また(たれ)何時(いつ)のまに貼って参るかも分りませんので。ところが、それ、其処(そこ)の柱の、その……」

「はあ、あの歌ですか。」

「御覧になったで、」

先刻(さっき)貴下(あなた)が声をおかけなすった時に、」

「お目に()まったのでありましょう、それは歌の(ぬし)が分っております。」

「婦人ですね。」

「さようで、(もっと)古歌(こか)でありますそうで、小野小町(おののこまち)の、」

「多分そうのようです。」

()まれたは御自分でありませんが、いや、(とん)とその()(ぬし)のような美人でありましてな、」

「この玉脇(たまわき)……とか言う婦人が、」

 と、口では()ましてそう言ったが、胸はそぞろに(とき)めいた。

「なるほど、今貴下(あなた)がお話しになりました、その、御像(おすがた)のことについて、恋人云々(うんぬん)のお言葉を考えて見ますると、これは、みだらな心ではのうて、()(かた)こそ違いまするが、かすかに照らせ(やま)()の月、と申したように、観世音(かんぜおん)にあこがるる心を、古歌に(なぞ)らえたものであったかも分りませぬ。――夢てふものは頼み()めてき――夢になりともお姿をと言う。

 真個(まこと)に、ああいう世に(まれ)な美人ほど、早く結縁(けちえん)いたして仏果(ぶっか)を得た(ためし)沢山(たくさん)ございますから。

 それを大掴(おおづかみ)に、恋歌(こいか)を書き散らして参った。()しからぬ事と、さ、それも人によりけり、御経(おきょう)にも、若有女人設欲求男(にゃくうにょにんせつよくぐなん)、とありまするから、一概(いちがい)(とが)め立てはいたさんけれども。あれがために一人殺したでござります。」

 聞くものは一驚(いっきょう)(きっ)した。菜の花に見た蛇のそれより。

目次に戻る

目次