3話 第一の殺人
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それから一時間程後、パノラマ館の入口で、大野雷蔵とその恋人の人見折枝の二人が、地上に引いた線を踏んで、両手を前につき、お尻をもったて、何とも奇妙千万な格好で、じっと前方を見つめていた。
「いいかい。用意! 一、二、三」
雷蔵のかけ声で、二人は勇ましくスタートを切った。森の向に見える迷路の二つの入口から、別々に入って、早く中心の「奥の院」へ着いたものが勝ち、という障害物競走だ。
ただの駈っこなら、折枝は到底雷蔵の敵ではない。現に出発間もなく、雷蔵は数メートルも先に走っている。だが、折枝は迷路の中での智恵比べで、先着になる自信があった。迷路については大ざっぱな男よりも、案内を知っている積りであった。
彼女は、雷蔵よりは遙かにおくれながら、でも失望することなく、約束に従って東の入口から、迷路にかけ込んだ。
半間程の、曲りくねった細い通路の両側には、陽をさえぎって、見上げるばかりの丈余の生垣だ。生垣と云っては当らぬ。向側を透して見ることも出来ぬ、ビッシリと枝を交え、葉を重ねた大木の行列だ。それに茨が細い網を張り、蔦がからみ、分けて出ることは勿論、昇りついて越すことも、全く不可能になっている。そんな風にして逃げ出せるのだったら、迷路の意味を為さぬからだ。
一歩迷路に踏み込むと、樹木の高塀の陰影のせいか、夕方の様に薄暗く、寒々として、その上何とも云えぬ、押えつける様な静けさだ。園内の花火場で、誰のいたずらか、時々、ドカーンと花火を上げる音の外には音もない。案内は知っているつもりでも、歩いている内に、いつしか道に迷ってしまった。一度や二度で覚え込める程なら、迷路とは云えぬ。迷えばこそ迷路なのだ。高い生垣で区切られた狭い空を見上げると、太陽も見える。風船や観覧車の一部も見える。空に開いた花火の、黄色い煙が竜の様に下って来るのも眺められる。だが、いくらその様な目印があったとて、平地を歩くのではないのだから、何にもならぬ。空ばかり見て中心へと向っていても、いつしか袋小路に行当って、動きがとれなくなってしまうのだ。
曲り曲った果しも知らぬ夢の細道、行っても行っても永劫に尽きることなき狂気の細道、折枝はふと怖くなった。一度おじけづくと、もう際限がない、襟足の生毛がゾーッと音を立てて逆立ち、開いた毛穴から、水の様に冷い風がしみ込むのだ。
足なみは、心臓の鼓動と共に早くなる。ヒタヒタ、ヒタヒタ、我が足音を不気味に聞きながら、急ぎに急ぐ。
と、その足音とは調子の違うもう一つの足音が、入混って耳をうち始めた。谺かしら、それとも気のせいかしら、イヤ、そうではない。確に人の足音、力強い男の足音だ。アア分った、大野さんだわ。あの人が木の葉の壁一重向うを歩いているのだ。二人の通路が偶然隣り合わせになったのだ。
「大野さんじゃなくって?」
声をかけると、先方の足音がピッタリ止った。覗いたとて見えぬけれど、木の葉の層の事故、声はよく聞えるのだ。
「折ちゃんかい」やっぱり大野雷蔵だ。
「エエ、そうよ。あたし道に迷っちゃって」
「ウン、僕もさっきから、何だか同じ所をグルグル廻っている様な鹽梅だよ。……君こちらへ来られない?」
「駄目よ、行こうと思えば、却って離れてしまうばかりだわ」
事実、声する方へ曲って行くつもりでも、道は気違いの様に、突拍子もない方向にそれているのだ。
「でも、行って見るわ。あなたも、こちらへ来られなくって?」
そこで、二人はてんでんに、現に一尺とは離れず話し合っている、相手のありかを探す為に出発した。そして、案の定、お互に近づこうとあせればあせる程、いつしか、声も聞き取れぬ程遠ざかって行った。
折枝はもどかしさ、不気味さに、汗びっしょりになって、当てどもなく、同じ細道をテクテク、テクテク歩いていた。まだ上げている花火の音が、忘れた頃に、ドカーン、ドカーンと、彼女の心臓を飛上らせた。
暫くすると、彼女はハッと息を飲んで立止った。妙な音を聞いたのだ。耳鳴りではない。確に人の声だ。しかも断末魔の苦悶を現わす、何とも云えぬ物凄い唸り声だ。
「ウム……」という、悲痛なうめき。一二秒間を置いて、「ク、ク、ク……」と、歯ぎしりをする様な、或は泣きじゃくりをしている様な、一種名状し難い、低い物音が聞えて来た。
折枝はゾッとして、暫くは口も利けなかったが、やっと喉の自由を取返すと、思わず、
「大野さーん」と、突拍子もない叫び声を立てた。
「オーイ」
ずっとずっと遠くの方から、男の声が答えた。アア、やっぱりさっきの唸り声は大野さんではなかったのだ。だが、すると、彼女と大野さんとの中間に、何者かがいるのかしら、しかも、あのうめき声は決してただ事でない。急病でも起したのだろうか。イヤイヤ、どうもそうではないらしい。若しやその人は、何か恐ろしい目に合っているのではあるまいか。
「折枝さん、どこだい」
今度はやや近い所で、大野さんの声がした。
「ここよ」
「今の、聞いたかい!」
アア、ではやっぱり本当なのだ。大野さんもあれを聞いたのだ。
「エエ」
「どうも変だぜ。あれはただの唸り声ではなかったぜ」
「そうよ。あたしも、そう思うのよ」
「オーイ、そこにいるのは誰だ」
大野さんが、見えぬ相手に呼びかけた。併し、何の返事もない。
「変だな。あんな恐ろしい唸り声を立てた奴が、どこかへ行ってしまう筈はないが……ひょっとしたら、死んだんじゃないかしら」
あの調子は、どう考えても断末魔の唸り声に相違なかった。
「あたし、怖いわ」
折枝は、もう真青になって、姿は見えぬ大野さんの声に、すがりつき度い程に思った。
「待ってい給え、僕が探して見るから」
大野さんはそう云って、暫くその辺を歩き廻っている様子であったが、やがて、思いもかけぬ方角から、
「ワッ」
という恐ろしい叫び声が聞えて来た。