地獄風景

4話 迷路の鬼

2,582字 約5分 2021年8月29日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

「大野さあん、大野さあん」

 人見折枝は、今にも絞め殺される様な悲鳴を上げて、見えぬ彼方(かなた)の恋人を呼んだ。

 無理もない。九十九折(つづらおり)の薄暗い迷路の中で、道に迷って泣き出し(そう)になっていた折も折、隙見も叶わぬ立木の壁の、つい二重三重(ふたえみえ)向側で、恐ろしい事件が起ったのだ。ゾッとする様な断末魔のうめき声、続いて現場を見に行った大野さんの「ワッ」という頓狂(とんきょう)な叫び、ただ事ではない。大野さん程の人が、あんな声を立てるのは、よもただ事ではない。

「オーイ、折枝さん大変だあ、早く外へ出て、誰か呼んで来てくれえ」

 雷蔵の(あわただ)しい声が聞えて来る。

 外へ出るとて、この迷路を急に抜け出せるものではない。

「誰なの? そこにいるのは。そして、一体どうしたって云うの?」

 折枝も一生懸命の声をはり上げて、兎も角も細い迷路を走り出した。じっとしていられなかったからだ。

「ちま子さんだ」

 雷蔵の声が走る折枝の耳に入った。

「エ、ちま子さんがどうしたって云うの?」

 彼女はグルグル迷路を折れ曲りながら、息を切らして叫んだ。

「どうしたの?」

 尋ねても、何故(なぜ)か返事がない。口に出して云えない程恐ろしい事かも知れない。

「アア、そこを走っているのは折枝さんかい」

 立木の壁のすぐ向側から雷蔵の声だ。いつの間にか、びっくりする程接近していた。

「そうよ。して、ちま子さんがどうしたの?」

 目にこそ見えね、相手がすぐ(そば)にいると分ると、折枝は声を低めて、又尋ねた。

 すると雷蔵の方でも、異様な囁き声で、初めて事の次第を告げた。

「殺されているんだよ。背中に短刀が突き刺さって、血まみれになって……」

 目の前に立ちふさがった緑の壁から、姿はなくて、不気味な囁き声ばかりが、シュウシュウと()れて来る。しかも世にも恐ろしい囁き声が。

「マア……」

 と声を呑んで、立ちすくんだまま、折枝は二の句がつげなかった。

「君、その辺に人の気配はしなかったかい。誰かに出会わなかったかい」

 雷蔵の声が一層低められた。

「イイエ、でもどうして?」

「犯人さ。ちま子さんを殺した奴が、まだこの迷路の中にウロウロしているかも知れないのだ」

 折枝はそれを聞くと、ゾーッとして身体(からだ)中の血が冷たくなる様な気がした。

「あたし誰にも……」彼女は()の様な声になって「あんたは? 誰か見て?」

「見ない。だが、足音を聞いた。僕がここへ、ちま子さんの倒れている所へ駈けつけた時、黒い風みたいなものが逃げ出して行った。バタバタと足音がした」

 ヒソヒソ声が、まるで怪談でも聞いている様に物凄く感じられた。

「怖い。あたし怖いわ。どうしましょう。あんたどうかしてこちらへ来られない? 一人ぼっちじゃ心細いわ」

 折枝が泣き声になって見えぬ姿にすがりつく様に云った。

「それよりも、早くみんなに、このことを知らせなきゃ、……君も一生懸命に出口を探し給え。僕もそうするから。ただ……」

「エ、なんておっしゃったの?」

「ただね、ちま子さんを殺した奴を用心し給え、姿は見えなくても、足音でも聞いたら、大きな声で、怒鳴(どな)るんだ。いいかい」

「あたし怖くって歩けないわ。早くこちらへ来て下さいな」

「ウン。だが、うまく行けるかどうだか」

 そして、雷蔵の惶しい足音が遠ざかって行った。

 見上げるばかりの密樹の壁にはさまれた、薄暗い細道に、たった一人取残された折枝は、もう生きた空もなかった。

 大野さんを呼び戻したかったが、恐ろしい殺人犯人がまだその辺にいると思うと、声を立てることも(はばか)られた。

 気がつくと、(わき)の下が冷たい汗でジトジトになっていた。

 足はしびれが切れた様に云うことをきかなかった。

 しかし、じっと立止っているのも恐ろしい。かなわぬまでも出口を探して、寸時も早く迷路から逃れ度い。

 彼女は力の抜けた足を踏みしめて、いきなり走り出した。

 両側をドス黒い木立の壁が、あとへあとへと飛び去るばかりで、迷路は果しもなく続いた。出よう出ようとあせればあせる程、(かえっ)て中へ入って行くのかも知れなかった。

 ふと気がつくと、ハタハタ、ハタハタ、どこからか人の足音が聞えて来た。

「アア有難い。大野さんが近くを走っていらっしゃる」

 と思うと、グッと気が強くなった。

「大野さん」

 低い声で呼んで見た。

 答えはない。ハタハタ、ハタハタ、足音ばかりだ。

「大野さーん」

 ()まり()ねて思わず大声を上げた。

 しかし、相手はやっぱり答えない。黙々として走っている。

「オヤ変だぞ。アア、ひょっとしたら……」

 ギョクンと心臓が喉の辺まで飛上った。あの足音の主こそ、若しや恐ろしい人殺しではあるまいか。そうだ。きっとそうだ。こんなに呼んでも答えぬのは、それに()まっている。

 折枝は怖さに一層足を早めた。喉がひからびて、心臓が破れ相に鼓動する。

 行手に急な曲り角があった。折枝はもう無我夢中でその角を曲った。

 と同時に、五六間向うの同じ様な曲り角を、ヒョイと飛び出した奴がある。

「アレエ……」

 我にもあらず、業々(ぎょうぎょう)しい悲鳴を上げて、折枝はその場に立ちすくんだ。

 先方も驚いたらしい。ハッと思う間に、(たちま)ち姿を隠してしまった。

 確に大野さんではなかった。大野さんが折枝の姿を見て逃出す筈はないからだ。では今のは何者であったか。残念ながら、折枝はそれを見極めるひまがなかった。咄嗟(とっさ)の場合着衣の色さえ気附かなかった。だが、女ではない。ズボンをはいていた。そして、非常に小柄な男であった。恐らく女の折枝よりも背が低かった。

 耳をすますと、ハタハタ、ハタハタ、遠ざかって行く、曲者の足音がする。

 折枝はその足音が消えるのを待って、いきなりうしろへ走り出した。滅茶滅茶(めちゃめちゃ)に走った。迷路を出ることなど、もう考えなかった。ただじっとしていられないのだ。

 グルグル、グルグル廻っている内に、パッと眼界が開けて、広い場所へ出た。だが、迷路の外ではない。その中心の広場なのだ。所謂奥の院という場所だ。

 真中に一脚のベンチが据えてあった。そのベンチの足元に、白と赤とのダンダラの(かたまり)が転がっていた。血にまみれた諸口ちま子の死骸であった。

 簡単な白い絹服の背中にニョッキリ短剣の()()けが生えていた。刄の方は全部ちま子の体内へ隠れているのだ。

 絹服は、鮮かな血のりの縞模様に染まって、(くう)を掴んだ両手と、もがいた両足とが、白っぽく根元まで現われていた。

 ちま子は無論全く絶命していた。

目次に戻る

目次